カラー図版を多く取り入れた新潮社の「とんぼの本」の一冊、「佐伯祐三のパリ」を、図書館から借りて読んだ。
朝日晃、野見山暁治の共著ということになっているが、洋画壇の長老にして名随筆家の野見山さんは巻末にエッセーを寄せているだけで、文章と写真の大半は朝日さんのものである。
http://www.shinchosha.co.jp/book/602066/
佐伯祐三については、以前、道立近代美術館で回顧展が開かれたこともあり、ご存じの方も多いだろう。
30歳の若さでパリに客死した近代の洋画家である。
悲劇の天才画家ということで、今なお人気は高い。
この本は、美術評論家で、北海学園大で教壇に立ったこともある朝日晃さんが、パリを10回以上も訪れて、佐伯祐三の足跡を徹底的に調査したもの。
絵の図版や、略年譜、さらに、佐伯に多い贋作の話題についての文章もあり、「佐伯祐三入門」としてもうってつけの一冊だ。
パリだけでなく、若いころや、2度のパリ滞在のはざまに当たる東京・下落合時代にもちゃんとふれている。
朝日さんの調査ぶりはものすごく、佐伯の絵に描かれたパリの街かどの写真があちこちに登場する(それだけ古い建物が残っているということでもあるが)。
それだけでも驚きだが、佐伯の絵に出てくるカフェが、じつはパリ滞在時のヘミングウエイが通った店だとか、佐伯の住んでいたのと同じ建物の中でロマン=ロランが「ジャン・クリストフ」を執筆していたとか、「へえ~」という話題も豊富だ。
また、執筆当時に存命だった荻須高徳らに話を聞いているので、貴重な資料ともなっている。
ただし、井上巍や福沢一郎、川口軌外といった画家の名がなんの註釈もなしに登場するので、日本の近代美術史の知識がまったくない人にはおすすめできない。
ところで、佐伯祐三の生涯で、有名な逸話といえば、フォービスムの画家として著名なヴラマンクに
「このアカデミック!」
と一喝されたことだろう。
もちろん「佐伯祐三のパリ」にもその場面が登場する。
しかし、そこまで読んできて、筆者ははたと考え込んでしまった。
なぜ、アカデミックだといけないのだろう。
いうまでもなく、絵画について考える際、もっとも根本になるのは
「何を描くか」
「どう描くか」
のふたつである。
抽象画の場合も
「何を描いているのかはわからない絵を描く」
という問題意識があるので、事情は変わらない。
日本の近代絵画史をみると、「何を」についてはあまり問題視されず、「どう」ばかりが考えられ、試され、語られてきたような気がする。
もちろん、プロレタリア美術などの例外はあるし、日本のみならず、世界がそうだったという感もあるが。
「どう描くか」の手本は、西洋(とくにパリ)に厳然として存在し、日本の画家は、そのテクニックを学ぶという図式が、所与としてあるように見える。
その際、誰に私淑するのか、ゴッホ、セザンヌ、ヴラマンク、ルノアールなど誰の画風を採るのかについては、日本の画家に、内的な必然性があまり感じられない。
佐伯の場合は、まだなんとなく、フォービスムを選んで正解だったという気はするが、じゃあなぜアカデミスムと罵倒されたらだめだったのかは、つきつめて考えると、よくわからないのだ。
内的な必然性が稀薄だから、多くの前衛画家たちが、第2次世界大戦の開始とともに、あっさり写実主義に転向していったのではないのだろうか。
札幌時計台ギャラリーのオーナーである荒巻義雄さんが最近、書いていた。
若い人は、テクニックはあっても、描きたいものがないのだそうだ、と。
現代美術は、もちろん「どう作るか」も大事ではあるが、「何を言いたいか」が無いと成り立たない場合が多い。ヨーゼフ・ボイスしかり、オノ・ヨーコしかり。
身近な例で言えば、岡部昌生さんなんて、まさにそうである。手法自体は、誰にもできる。しかし、世界中でフロッタージュを実際にやる人は、ほかにいない。
佐伯祐三の時代は、「どう描くか」に神経を集中させていれば済んだが、今はそういうわけにはいかない。
しかし、平和で豊かな日本社会で育ってきた若い人は、とりたてて「言いたいこと」や「言わなきゃ腹の虫がおさまらないこと」が無いのかもしれない。
あるいは、これからはひどい時代が待っていて、若者たちも「描きたいこと」を見つけるのかもしれないが。
朝日晃、野見山暁治の共著ということになっているが、洋画壇の長老にして名随筆家の野見山さんは巻末にエッセーを寄せているだけで、文章と写真の大半は朝日さんのものである。
http://www.shinchosha.co.jp/book/602066/
佐伯祐三については、以前、道立近代美術館で回顧展が開かれたこともあり、ご存じの方も多いだろう。
30歳の若さでパリに客死した近代の洋画家である。
悲劇の天才画家ということで、今なお人気は高い。
この本は、美術評論家で、北海学園大で教壇に立ったこともある朝日晃さんが、パリを10回以上も訪れて、佐伯祐三の足跡を徹底的に調査したもの。
絵の図版や、略年譜、さらに、佐伯に多い贋作の話題についての文章もあり、「佐伯祐三入門」としてもうってつけの一冊だ。
パリだけでなく、若いころや、2度のパリ滞在のはざまに当たる東京・下落合時代にもちゃんとふれている。
朝日さんの調査ぶりはものすごく、佐伯の絵に描かれたパリの街かどの写真があちこちに登場する(それだけ古い建物が残っているということでもあるが)。
それだけでも驚きだが、佐伯の絵に出てくるカフェが、じつはパリ滞在時のヘミングウエイが通った店だとか、佐伯の住んでいたのと同じ建物の中でロマン=ロランが「ジャン・クリストフ」を執筆していたとか、「へえ~」という話題も豊富だ。
また、執筆当時に存命だった荻須高徳らに話を聞いているので、貴重な資料ともなっている。
ただし、井上巍や福沢一郎、川口軌外といった画家の名がなんの註釈もなしに登場するので、日本の近代美術史の知識がまったくない人にはおすすめできない。
ところで、佐伯祐三の生涯で、有名な逸話といえば、フォービスムの画家として著名なヴラマンクに
「このアカデミック!」
と一喝されたことだろう。
もちろん「佐伯祐三のパリ」にもその場面が登場する。
しかし、そこまで読んできて、筆者ははたと考え込んでしまった。
なぜ、アカデミックだといけないのだろう。
いうまでもなく、絵画について考える際、もっとも根本になるのは
「何を描くか」
「どう描くか」
のふたつである。
抽象画の場合も
「何を描いているのかはわからない絵を描く」
という問題意識があるので、事情は変わらない。
日本の近代絵画史をみると、「何を」についてはあまり問題視されず、「どう」ばかりが考えられ、試され、語られてきたような気がする。
もちろん、プロレタリア美術などの例外はあるし、日本のみならず、世界がそうだったという感もあるが。
「どう描くか」の手本は、西洋(とくにパリ)に厳然として存在し、日本の画家は、そのテクニックを学ぶという図式が、所与としてあるように見える。
その際、誰に私淑するのか、ゴッホ、セザンヌ、ヴラマンク、ルノアールなど誰の画風を採るのかについては、日本の画家に、内的な必然性があまり感じられない。
佐伯の場合は、まだなんとなく、フォービスムを選んで正解だったという気はするが、じゃあなぜアカデミスムと罵倒されたらだめだったのかは、つきつめて考えると、よくわからないのだ。
内的な必然性が稀薄だから、多くの前衛画家たちが、第2次世界大戦の開始とともに、あっさり写実主義に転向していったのではないのだろうか。
札幌時計台ギャラリーのオーナーである荒巻義雄さんが最近、書いていた。
若い人は、テクニックはあっても、描きたいものがないのだそうだ、と。
現代美術は、もちろん「どう作るか」も大事ではあるが、「何を言いたいか」が無いと成り立たない場合が多い。ヨーゼフ・ボイスしかり、オノ・ヨーコしかり。
身近な例で言えば、岡部昌生さんなんて、まさにそうである。手法自体は、誰にもできる。しかし、世界中でフロッタージュを実際にやる人は、ほかにいない。
佐伯祐三の時代は、「どう描くか」に神経を集中させていれば済んだが、今はそういうわけにはいかない。
しかし、平和で豊かな日本社会で育ってきた若い人は、とりたてて「言いたいこと」や「言わなきゃ腹の虫がおさまらないこと」が無いのかもしれない。
あるいは、これからはひどい時代が待っていて、若者たちも「描きたいこと」を見つけるのかもしれないが。