(承前)
白糠駅に近いハミングロード沿いの広場にある、もう一つの國松明日香さんの彫刻です。
前項で紹介した「若草と馬」が典型的な國松明日香作品のスタイルだとしたら、こちらは、蒸気機関車の動輪やレールの断面をモチーフにした、具体的な意匠に基づいたやや珍しい作風だといえます。
作品はレリーフといっていい薄さです。
動輪といってもかなりデフォルメされており、蒸気機関車を写したものというよりも、機関車や鉄道から受ける印象をかたちにしたものといってよいでしょう。
手前は白いベンチになっています。
ちなみに、画像奥に電線や電柱が見えますが、これは国道に沿って立っているものです。
ところで、なぜ白糠駅の近くにこのような野外彫刻の大作があるのでしょうか。
これは筆者の推測ですが、1983年に国鉄白糠線(白糠―北進)が廃止になったことを記憶にとどめるためのモニュメントのようなものではないでしょうか。
白糠線は1925年(大正14年)にてん菜作付け促進の理由で請願書が提出されたのが敷設運動の始まりでした。
戦後の50年、白糠、足寄の両村長から請願が行われたのをきっかけに誘致運動が活発になり、53年に、沿線の石炭と森林開発を目的とする予定線として鉄道敷設法別表に記されました。ちなみに足寄村は、現在の十勝管内足寄町の東半分にあたり、55年に西足寄町(現在の足寄町役場がある)と合併して足寄町になっています。
58年に白糠―上茶路間25.3キロの工事が始まり、64年10月に営業を始めました。
さらに上茶路―北進間7.9キロの工事に66年に着手し、68年竣工。72年9月に延伸開業しています。
上茶路には64年、雄別炭砿株式会社が上茶路炭鉱を開きます。
白糠線は石炭運搬に活躍しますが、わずか6年後の70年に閉山となっています。
「北進」という駅名や、敷設請願に足寄も加わっていたことからも推察できるように、白糠線は白糠と足寄を結ぶ計画でした。
さらに、足寄ー上士幌―士幌―鹿追―新得をつなぐ国鉄北十勝線の計画も進んでおり(士幌―上士幌間は国鉄士幌線と重複)、実現すれば、新得から白糠まで、根室線のバイパスとして長大な鉄路が通っていたのです。
しかし、炭鉱の閉山や、農産物・森林輸送のトラックへの全国的なシフトといった事情が重なり、1979年度の営業係数(100円の収入を得るのに必要な経費)は2340と苦戦が続きました。
白糠線は廃止対象路線に挙げられ、1983年10月にサヨナラ列車が走りました。
意外と多くの人の記憶に残っているのは、同線が、この時期に続く赤字ローカル線廃止の第1号だったためと思われます。
この後、実に20もの路線が道内で廃止になったのでした。
「鉄路の響」が設置された1989年は国鉄が民営化され、JRが発足した年です。
民営化は、多くの職員の首切りと線路の切り捨ての末になされたものでした。
※鉄道関連の記述は『北海道の鉄道』(田中和夫著、北海道新聞社、2001年)に拠りました。上茶路炭鉱のくだりは、釧路市立博物館のサイト( https://www.city.kushiro.lg.jp/museum/tenji/kikaku/1002368/1002371.html )を参考にしました。
※國松明日香さんの過去の関連記事へのリンクは前項を参照してください
白糠駅に近いハミングロード沿いの広場にある、もう一つの國松明日香さんの彫刻です。
前項で紹介した「若草と馬」が典型的な國松明日香作品のスタイルだとしたら、こちらは、蒸気機関車の動輪やレールの断面をモチーフにした、具体的な意匠に基づいたやや珍しい作風だといえます。
作品はレリーフといっていい薄さです。
動輪といってもかなりデフォルメされており、蒸気機関車を写したものというよりも、機関車や鉄道から受ける印象をかたちにしたものといってよいでしょう。
手前は白いベンチになっています。
ちなみに、画像奥に電線や電柱が見えますが、これは国道に沿って立っているものです。
ところで、なぜ白糠駅の近くにこのような野外彫刻の大作があるのでしょうか。
これは筆者の推測ですが、1983年に国鉄白糠線(白糠―北進)が廃止になったことを記憶にとどめるためのモニュメントのようなものではないでしょうか。
白糠線は1925年(大正14年)にてん菜作付け促進の理由で請願書が提出されたのが敷設運動の始まりでした。
戦後の50年、白糠、足寄の両村長から請願が行われたのをきっかけに誘致運動が活発になり、53年に、沿線の石炭と森林開発を目的とする予定線として鉄道敷設法別表に記されました。ちなみに足寄村は、現在の十勝管内足寄町の東半分にあたり、55年に西足寄町(現在の足寄町役場がある)と合併して足寄町になっています。
58年に白糠―上茶路間25.3キロの工事が始まり、64年10月に営業を始めました。
さらに上茶路―北進間7.9キロの工事に66年に着手し、68年竣工。72年9月に延伸開業しています。
上茶路には64年、雄別炭砿株式会社が上茶路炭鉱を開きます。
白糠線は石炭運搬に活躍しますが、わずか6年後の70年に閉山となっています。
「北進」という駅名や、敷設請願に足寄も加わっていたことからも推察できるように、白糠線は白糠と足寄を結ぶ計画でした。
さらに、足寄ー上士幌―士幌―鹿追―新得をつなぐ国鉄北十勝線の計画も進んでおり(士幌―上士幌間は国鉄士幌線と重複)、実現すれば、新得から白糠まで、根室線のバイパスとして長大な鉄路が通っていたのです。
しかし、炭鉱の閉山や、農産物・森林輸送のトラックへの全国的なシフトといった事情が重なり、1979年度の営業係数(100円の収入を得るのに必要な経費)は2340と苦戦が続きました。
白糠線は廃止対象路線に挙げられ、1983年10月にサヨナラ列車が走りました。
意外と多くの人の記憶に残っているのは、同線が、この時期に続く赤字ローカル線廃止の第1号だったためと思われます。
この後、実に20もの路線が道内で廃止になったのでした。
「鉄路の響」が設置された1989年は国鉄が民営化され、JRが発足した年です。
民営化は、多くの職員の首切りと線路の切り捨ての末になされたものでした。
※鉄道関連の記述は『北海道の鉄道』(田中和夫著、北海道新聞社、2001年)に拠りました。上茶路炭鉱のくだりは、釧路市立博物館のサイト( https://www.city.kushiro.lg.jp/museum/tenji/kikaku/1002368/1002371.html )を参考にしました。
※國松明日香さんの過去の関連記事へのリンクは前項を参照してください
(この項続く)