小樽は札幌の隣町で、鉄道の距離は30キロ余りと近いこともあり、ちょくちょく出かけています。
しかし、このブログの以前からの読者ならご存じでしょうが、小樽に行くたびに筆者は
「時間がない」
「もうちょっとゆっくりしたかった」
などとこぼしながら、急ぎ足で札幌へと戻っているのが通例です。
1月8日、ようやく余裕をもって小樽に滞在することができました。
これは、冬の水曜日の小樽は、休んでいる施設や店が多いことも背景にあったと思います。
冒険といってもたいした話ではありませんが…。
朝8時55分発の都市間高速バス「高速おたる号」の北大経由に乗りました。
地下鉄南北線をさっぽろ駅で降り、セコマでホットコーヒー(まだ税込み100円。うれしい)を買って、赤プラの南側にある停留所から乗り込みます。
道庁赤れんが庁舎を覆っていた、絵を描いた布が、いつのまにやら外れていました。
バスは大通東1の中央バスターミナルに立ち寄ります。
東2丁目通を北上した後、北3条から創成川沿いに入り、北8西1を通過して、北9条小学校の南側から西5丁目通に出て、あとはひたすら北へと向かいます。
北大正門前などで少しずつ乗車する人がおり、高速道路に入る頃には、窓際の席がちょうど埋まるぐらいの込み具合になりました。
「市役所通」で降りて、坂を上り、森ヒロコ・スタシス記念小樽バザールヴィタ美術館へ向かいます。
かつて道立三岸好太郎美術館で学芸員を務め、その後宮城学院女子大学で教壇に立って現在は名誉教授の井上研一郎さんが
「新春トーク 森ヒロコ・スタシス美術館の思い出ー図録(カタログ)を託す思いとともにー」
と話すのを聴きに行きました。
これまでは市民会館の横を通るアップダウンの多い道を通っていました。
この日は、図書館でお手洗いを借りた後、右に折れて、於古発川に近い、住宅地の中の道を進みます。
トークは定員8人と聞いていたのですが、会場には15人ほどが詰めかける盛況でした。
詩人・美術評論家のSさんも来ていました。
この美術館を始めたのは、森ヒロコさんの夫の長谷川洋行さんです。
長谷川洋行さんは札幌の道特会館で版画を扱うNDA画廊を運営し、後年は小樽に移って森さんの実家(質屋なので石倉があります)に、妻や、東欧の版画などを扱うこの美術館を開きました。
2017年にお二人が相次いで亡くなり、この美術館も閉館していましたが、2021年に復活しています。
そのいきさつについては、下のリンク先を参照してください。
井上さんは新米学芸員だったころ札幌で休日にギャラリー回りをしていて(もっとも、当時は学芸員が外の人と付き合うのはあまり歓迎されない雰囲気だったそうです)、NDA画廊にもたびたび訪れて、長谷川さんの迫力ある弁舌に圧倒されていたという思い出話をしておられました。
長谷川さんは、北海道の版画は国際水準にあるというのが持論だったそうで、「(道立美術館は)そうやって辺鄙なところで頑張っている人をぜんぜん評価しないじゃないか」と、井上さんに話していたのだそうです。
井上さんが大学に転じたのちも、学芸員資格取得の講義で森ヒロコ・スタシス美術館などを学生とともに実習で毎年訪れていたとのことでした。
トークの後半は、1980年に道立近代美術館で開かれた東大寺展の回想となりました。
国宝を多数展示する初めての展覧会だったそうで、わずか3週間余りの会期で9万人が入場したとのこと。美術館のまわりにできた長蛇の列の写真も、投影していました。
話は正午に終わりました。
筆者がギャラリーをまわりはじめたころには、すでに道特会館には、もともといくつかあったギャラリーは「たぴお」だけになっており、長谷川さんも森さんも一度もお会いしたことがありません。筆者の知らない時代の、興味深いお話でした。
筆者は会場で販売していたコーヒー豆を買い、せっかくなので美術館の展示室に立ち寄り
「森ヒロコ、一原有徳、スタシス・エイドリゲヴィチウス三人展『孤高の交差展』」
を見ました。
(聴講者は2人しか流れてきませんでした)
これは4月までの予定なので、別項で。
冒頭画像の、正面玄関は閉まっており、中庭のほうに入り口が移っていました。
美術館を出て、駅のほうまで歩いて行くつもりでいたら、すぐ近くの停留所にバスがやって来たので乗ることにしました。
しかし、このブログの以前からの読者ならご存じでしょうが、小樽に行くたびに筆者は
「時間がない」
「もうちょっとゆっくりしたかった」
などとこぼしながら、急ぎ足で札幌へと戻っているのが通例です。
1月8日、ようやく余裕をもって小樽に滞在することができました。
これは、冬の水曜日の小樽は、休んでいる施設や店が多いことも背景にあったと思います。
冒険といってもたいした話ではありませんが…。
朝8時55分発の都市間高速バス「高速おたる号」の北大経由に乗りました。
地下鉄南北線をさっぽろ駅で降り、セコマでホットコーヒー(まだ税込み100円。うれしい)を買って、赤プラの南側にある停留所から乗り込みます。
道庁赤れんが庁舎を覆っていた、絵を描いた布が、いつのまにやら外れていました。
バスは大通東1の中央バスターミナルに立ち寄ります。
東2丁目通を北上した後、北3条から創成川沿いに入り、北8西1を通過して、北9条小学校の南側から西5丁目通に出て、あとはひたすら北へと向かいます。
北大正門前などで少しずつ乗車する人がおり、高速道路に入る頃には、窓際の席がちょうど埋まるぐらいの込み具合になりました。
「市役所通」で降りて、坂を上り、森ヒロコ・スタシス記念小樽バザールヴィタ美術館へ向かいます。
かつて道立三岸好太郎美術館で学芸員を務め、その後宮城学院女子大学で教壇に立って現在は名誉教授の井上研一郎さんが
「新春トーク 森ヒロコ・スタシス美術館の思い出ー図録(カタログ)を託す思いとともにー」
と話すのを聴きに行きました。
これまでは市民会館の横を通るアップダウンの多い道を通っていました。
この日は、図書館でお手洗いを借りた後、右に折れて、於古発川に近い、住宅地の中の道を進みます。
トークは定員8人と聞いていたのですが、会場には15人ほどが詰めかける盛況でした。
詩人・美術評論家のSさんも来ていました。
この美術館を始めたのは、森ヒロコさんの夫の長谷川洋行さんです。
長谷川洋行さんは札幌の道特会館で版画を扱うNDA画廊を運営し、後年は小樽に移って森さんの実家(質屋なので石倉があります)に、妻や、東欧の版画などを扱うこの美術館を開きました。
2017年にお二人が相次いで亡くなり、この美術館も閉館していましたが、2021年に復活しています。
そのいきさつについては、下のリンク先を参照してください。
井上さんは新米学芸員だったころ札幌で休日にギャラリー回りをしていて(もっとも、当時は学芸員が外の人と付き合うのはあまり歓迎されない雰囲気だったそうです)、NDA画廊にもたびたび訪れて、長谷川さんの迫力ある弁舌に圧倒されていたという思い出話をしておられました。
長谷川さんは、北海道の版画は国際水準にあるというのが持論だったそうで、「(道立美術館は)そうやって辺鄙なところで頑張っている人をぜんぜん評価しないじゃないか」と、井上さんに話していたのだそうです。
井上さんが大学に転じたのちも、学芸員資格取得の講義で森ヒロコ・スタシス美術館などを学生とともに実習で毎年訪れていたとのことでした。
トークの後半は、1980年に道立近代美術館で開かれた東大寺展の回想となりました。
国宝を多数展示する初めての展覧会だったそうで、わずか3週間余りの会期で9万人が入場したとのこと。美術館のまわりにできた長蛇の列の写真も、投影していました。
話は正午に終わりました。
筆者がギャラリーをまわりはじめたころには、すでに道特会館には、もともといくつかあったギャラリーは「たぴお」だけになっており、長谷川さんも森さんも一度もお会いしたことがありません。筆者の知らない時代の、興味深いお話でした。
筆者は会場で販売していたコーヒー豆を買い、せっかくなので美術館の展示室に立ち寄り
「森ヒロコ、一原有徳、スタシス・エイドリゲヴィチウス三人展『孤高の交差展』」
を見ました。
(聴講者は2人しか流れてきませんでした)
これは4月までの予定なので、別項で。
冒頭画像の、正面玄関は閉まっており、中庭のほうに入り口が移っていました。
美術館を出て、駅のほうまで歩いて行くつもりでいたら、すぐ近くの停留所にバスがやって来たので乗ることにしました。
(この項続く)