(承前)
この堂々たる建物は、現在「梅津会館」といわれ、常陸太田市郷土資料館として使われている。
ふだんの様子や、建物の詳しいいわれについては、こちらをご覧ください。
地図を見ると、この建物の前は、国道になっている。
この国道と、すぐ右側(東側)を走る県道とがつくる、縦に細長い地域が「鯨ケ丘」と呼ばれる昔ながらの商店街である。
国道で、路線バスも走っているが、道幅はこんな感じ。
国道も県道も一方通行になっている。
いまは、車も歩行者も通行量はそれほど多くなく、いかにも
「郊外店に車で行く買い物客に客足が流れてしまった古い商店街」
という、昭和っぽい雰囲気が流れている。
個人的にはこういう感じは大好きなのだが…。
ちょうど向かい側の空き地が駐車場になっている。
商店街を巡るのは後にして、会館に近づいてみる。
おお、なんと、北海道に縁の深い建物だったとは!
常陸太田市出身で、函館に渡って海産物問屋を営み、度重なる大火にも負けず成功した梅津福次郎という商人が、郷里にぽんと3万5千円を寄附して1936年(昭和11年)に建てられた建物なのだ。
太田町役場、常陸太田市役所として78年まで使われ、その後、国の登録有形文化財になった。近年、建設当初の姿に近づける復元工事が行われ、2014年にリニューアルオープンしたとのこと。
いやあ、昔はえらい人がいたもんですなあ。
そういえば同じころ建てられていまも現役の小樽市役所も、商人の寄附で造られたものだった。
このころの公共建築は重厚なものが多い。
会館の玄関には「常陸佐竹市役所」という看板が掛かっている。
これは、札幌在住で、県北芸術祭に参加している深澤孝史さんが発足させた仮想の自治体。
深澤さんは2014年の札幌国際芸術祭で「とくいの銀行」を展開して、けっきょく札幌に移り住んできたアーティストなので、ご存知の方も多いと思う。
常陸太田市教委のサイトにわかりやすい説明があったので、引用させてもらいます。
歴史の流れを概説したパネルは、佐竹氏から見た視線の解説のものに、差し替えられている。
もっとも、筆者は道産子なので、どうもこのあたりの感覚がよくわからない。
いまも本州や九州の人に聞くと
「ここの藩のだれそれは偉い殿様だったが何氏になってからすっかり駄目になった」
みたいなことを言う人がけっこういるが、北海道の場合は、150年前まではアイヌ民族が住んでいて、オレたちの祖先のことはよく知らね~という、大雑把なメンタリティーの人が多いのだ。
(2018年4月追記。アイヌ民族は今ももちろん北海道に住んでいます。誤解を招きかねない書きぶりですみません)
郷土資料館の個々の展示物の説明が「常陸太田市」から「常陸佐竹市」になっているのがおもしろい。
まあ、わからないなりに、筆者なりに解釈したところを書くと、日本の歴史を振り返ったときにはどうしても信長・秀吉とか、真田十勇士とか、派手なところに目が行きがちだが、堅実にその土地を治め、いくさよりも政略結婚を軸に勢力を固め、秋田に転封後も断絶せずに続いていまは子孫が県知事になっている、そんな地味な家柄の殿様にも目を向けてはいかがでしょうか? という深澤さんの提案なんだろう。
残念ながら筆者が訪れたときは深澤さんはおらず、常陸佐竹市民への登録もしてこなかったのであった。
ちょうどお昼時だったからかもしれない。
ところで、会館の窓が派手なピンク色に覆われていたことに気づいた人もいるだろう。
これは、原高史さんの「サインズオブメモリー2016:鯨ヶ丘のピンク窓」という作品。
会館だけではなく、鯨ケ丘一帯の商店の窓がピンクになっている。
ふたたび、教委のサイトから引用すると…。
「ピンクのパネルには,建物の所有者やそこに住む人,1人1人にインタビューを行い,各人や地域の歴史から抽出された言葉とそこから発想されたイラストが描かれています。」
ということであるようだ。
□ https://kenpoku-art.jp/
この堂々たる建物は、現在「梅津会館」といわれ、常陸太田市郷土資料館として使われている。
ふだんの様子や、建物の詳しいいわれについては、こちらをご覧ください。
地図を見ると、この建物の前は、国道になっている。
この国道と、すぐ右側(東側)を走る県道とがつくる、縦に細長い地域が「鯨ケ丘」と呼ばれる昔ながらの商店街である。
国道で、路線バスも走っているが、道幅はこんな感じ。
国道も県道も一方通行になっている。
いまは、車も歩行者も通行量はそれほど多くなく、いかにも
「郊外店に車で行く買い物客に客足が流れてしまった古い商店街」
という、昭和っぽい雰囲気が流れている。
個人的にはこういう感じは大好きなのだが…。
ちょうど向かい側の空き地が駐車場になっている。
商店街を巡るのは後にして、会館に近づいてみる。
おお、なんと、北海道に縁の深い建物だったとは!
常陸太田市出身で、函館に渡って海産物問屋を営み、度重なる大火にも負けず成功した梅津福次郎という商人が、郷里にぽんと3万5千円を寄附して1936年(昭和11年)に建てられた建物なのだ。
太田町役場、常陸太田市役所として78年まで使われ、その後、国の登録有形文化財になった。近年、建設当初の姿に近づける復元工事が行われ、2014年にリニューアルオープンしたとのこと。
いやあ、昔はえらい人がいたもんですなあ。
そういえば同じころ建てられていまも現役の小樽市役所も、商人の寄附で造られたものだった。
このころの公共建築は重厚なものが多い。
会館の玄関には「常陸佐竹市役所」という看板が掛かっている。
これは、札幌在住で、県北芸術祭に参加している深澤孝史さんが発足させた仮想の自治体。
深澤さんは2014年の札幌国際芸術祭で「とくいの銀行」を展開して、けっきょく札幌に移り住んできたアーティストなので、ご存知の方も多いと思う。
常陸太田市教委のサイトにわかりやすい説明があったので、引用させてもらいます。
茨城県北地域を約470年間にわたり支配した常陸佐竹氏に着目し,関ヶ原の戦い後,秋田へ国替えとなり茨城県での歴史が断絶されたようにみえる歴史の縦軸を結びつけていくため,「常陸佐竹市役所」を立ち上げ,土地の特性と向き合いながら生きる人々の精神性を復権していく理念のもと,様々な人と対話しながら活動し,本来のまちづくりとは何なのかを問いかけていきます。
歴史の流れを概説したパネルは、佐竹氏から見た視線の解説のものに、差し替えられている。
もっとも、筆者は道産子なので、どうもこのあたりの感覚がよくわからない。
いまも本州や九州の人に聞くと
「ここの藩のだれそれは偉い殿様だったが何氏になってからすっかり駄目になった」
みたいなことを言う人がけっこういるが、北海道の場合は、150年前まではアイヌ民族が住んでいて、オレたちの祖先のことはよく知らね~という、大雑把なメンタリティーの人が多いのだ。
(2018年4月追記。アイヌ民族は今ももちろん北海道に住んでいます。誤解を招きかねない書きぶりですみません)
郷土資料館の個々の展示物の説明が「常陸太田市」から「常陸佐竹市」になっているのがおもしろい。
まあ、わからないなりに、筆者なりに解釈したところを書くと、日本の歴史を振り返ったときにはどうしても信長・秀吉とか、真田十勇士とか、派手なところに目が行きがちだが、堅実にその土地を治め、いくさよりも政略結婚を軸に勢力を固め、秋田に転封後も断絶せずに続いていまは子孫が県知事になっている、そんな地味な家柄の殿様にも目を向けてはいかがでしょうか? という深澤さんの提案なんだろう。
残念ながら筆者が訪れたときは深澤さんはおらず、常陸佐竹市民への登録もしてこなかったのであった。
ちょうどお昼時だったからかもしれない。
ところで、会館の窓が派手なピンク色に覆われていたことに気づいた人もいるだろう。
これは、原高史さんの「サインズオブメモリー2016:鯨ヶ丘のピンク窓」という作品。
会館だけではなく、鯨ケ丘一帯の商店の窓がピンクになっている。
ふたたび、教委のサイトから引用すると…。
「ピンクのパネルには,建物の所有者やそこに住む人,1人1人にインタビューを行い,各人や地域の歴史から抽出された言葉とそこから発想されたイラストが描かれています。」
ということであるようだ。
□ https://kenpoku-art.jp/
(この項続く)