(承前)
「戦記」
といっても、べつに戦っているわけではない。
これからちゃんと戦うかどうかもわからない。
非常につまらない文章なので、わたしの個人的な性格に強い興味があるという方以外は、読まないほうが賢明です。
さて。
前回は、Facebookは怖いという話だった。
自分の属性をほとんど明らかにしていないにもかかわらず、札幌の美術関係者が次々
「知り合いではありませんか?」
と、登場するのはなぜだろうという疑問だ。
会社の同僚や上司、昔の同窓生が
「知り合いではありませんか?」
に出てくるという話は、よく耳にしていたので、自分の出身学校や勤務先は、あえて空欄にしておいた。
この次の休日にでも、知り合いに片っぱしから
「友だちになる」
の申請を送ろうかなと、ぼんやり考えている。
道内の美術関係者には知り合いがたくさんいるので、一仕事になりそうな気がする。
その一方で、そんなことをほんとうにしていいのかどうか、決めかねてもいる。
「友だちになる」申請を出す、というのは、すなわち、自分が、友だちになるだけの価値のある人物だということを、自認しているということだと思う。
わたしには、とてもそんな自信はない。
相手は、知り合い程度であればいいと思っているかもしれないが、べつに「友だち」にはなりたくないかもしれないし、内心ではいやがっているのかもしれない。
他人の心の中までは、のぞきこむことはできない。
ツイッターの「フォロー」の場合は、ハードルがずっと低い。
相手の承認が不要だからだ。
フォローを返してもらえないことがあっても、まあしかたないと思う。
だから、道内外の美術関係者や、おもしろそうな人は、気軽にフォローしている。
フォローされて、相手の言っていることがおもしろければ、こちらからもフォローする。
フォローを外されれば、こちらもフォローを外す。
それだけの話だ。
それに、ツイッターでは、フォローしてくれる人が順調に増えていったので、こちらからフォローする人について悩んでいるひまがなかったというのも、事実だ。
(これは、あるいはいやらしく聞こえるかもしれない。ごめんなさい)
しかし「友だち」というのは、心理的にもうすこし重たい感じがする。
自分は、能力も性格も容姿も、やってきたことも、やっていることも、たいがいのことに自信がない。
したがって、自分の方から他人に、友だちになってくださいとは、非常に言いづらい。
それは、リアルでもフェイスブックでも、おなじことだ。
以前も書いたと思うが、たとえば、ギャラリーをまわっていても、自分から作家に話しかけるのは苦手なのだ。
じぶんのためにわざわざ時間や労力を割かせるということが、心苦しく感じられ、申し訳なくてしかたがない。
自分の誕生日を公表していないのも、おなじ理由による。
自分が誕生日を祝ってもらうに足る人物とは考えられない。
出身学校を書き込まないのもやはりおなじ理由であって
「同窓生がわたしと連絡をとりたがっている」
ということが前提になっているということじたいが、よくわからない。
フェイスブックって、自分に高い価値があるということが所与になっているという、いかにも米国人が考えつきそうなシステムだと思うが、これって偏見だろうか。
でもなあ。
だからといって、人から友だち申請を待っているだけでは、なんだか傲慢というか、お高くとまっている印象を持たれそうだし。
いや、まあ、誰からなんと思われようと、いいんだけど。
わたしが冷淡な人間に見えるとしたら、たぶん、自分自身に冷淡だからだと思う。
「戦記」
といっても、べつに戦っているわけではない。
これからちゃんと戦うかどうかもわからない。
非常につまらない文章なので、わたしの個人的な性格に強い興味があるという方以外は、読まないほうが賢明です。
さて。
前回は、Facebookは怖いという話だった。
自分の属性をほとんど明らかにしていないにもかかわらず、札幌の美術関係者が次々
「知り合いではありませんか?」
と、登場するのはなぜだろうという疑問だ。
会社の同僚や上司、昔の同窓生が
「知り合いではありませんか?」
に出てくるという話は、よく耳にしていたので、自分の出身学校や勤務先は、あえて空欄にしておいた。
この次の休日にでも、知り合いに片っぱしから
「友だちになる」
の申請を送ろうかなと、ぼんやり考えている。
道内の美術関係者には知り合いがたくさんいるので、一仕事になりそうな気がする。
その一方で、そんなことをほんとうにしていいのかどうか、決めかねてもいる。
「友だちになる」申請を出す、というのは、すなわち、自分が、友だちになるだけの価値のある人物だということを、自認しているということだと思う。
わたしには、とてもそんな自信はない。
相手は、知り合い程度であればいいと思っているかもしれないが、べつに「友だち」にはなりたくないかもしれないし、内心ではいやがっているのかもしれない。
他人の心の中までは、のぞきこむことはできない。
ツイッターの「フォロー」の場合は、ハードルがずっと低い。
相手の承認が不要だからだ。
フォローを返してもらえないことがあっても、まあしかたないと思う。
だから、道内外の美術関係者や、おもしろそうな人は、気軽にフォローしている。
フォローされて、相手の言っていることがおもしろければ、こちらからもフォローする。
フォローを外されれば、こちらもフォローを外す。
それだけの話だ。
それに、ツイッターでは、フォローしてくれる人が順調に増えていったので、こちらからフォローする人について悩んでいるひまがなかったというのも、事実だ。
(これは、あるいはいやらしく聞こえるかもしれない。ごめんなさい)
しかし「友だち」というのは、心理的にもうすこし重たい感じがする。
自分は、能力も性格も容姿も、やってきたことも、やっていることも、たいがいのことに自信がない。
したがって、自分の方から他人に、友だちになってくださいとは、非常に言いづらい。
それは、リアルでもフェイスブックでも、おなじことだ。
以前も書いたと思うが、たとえば、ギャラリーをまわっていても、自分から作家に話しかけるのは苦手なのだ。
じぶんのためにわざわざ時間や労力を割かせるということが、心苦しく感じられ、申し訳なくてしかたがない。
自分の誕生日を公表していないのも、おなじ理由による。
自分が誕生日を祝ってもらうに足る人物とは考えられない。
出身学校を書き込まないのもやはりおなじ理由であって
「同窓生がわたしと連絡をとりたがっている」
ということが前提になっているということじたいが、よくわからない。
フェイスブックって、自分に高い価値があるということが所与になっているという、いかにも米国人が考えつきそうなシステムだと思うが、これって偏見だろうか。
でもなあ。
だからといって、人から友だち申請を待っているだけでは、なんだか傲慢というか、お高くとまっている印象を持たれそうだし。
いや、まあ、誰からなんと思われようと、いいんだけど。
わたしが冷淡な人間に見えるとしたら、たぶん、自分自身に冷淡だからだと思う。