2013年4月末の十勝経由札幌行きの大旅行? の際に見た野外彫刻のうち、新得駅(十勝管内新得町)の前にあった二つの像を紹介したい。
この「火夫の像」は、新得駅の真ん前という立地条件もあり、ネット検索をかけると、膨大な数のサイトやブログがヒットするが、制作者などにまで踏み込んで紹介しているサイトは非常に少ない。
その少ないサイトの一つである、十勝毎日新聞社の「十勝めーる」によると、作者は、元新得中校長の横田裕美さん。
像には、作者名が明記されていないのだ。
なお、横田さんは美術教師を務め、1965年の道展では、北海タイムス賞を受けている。
台座には、蒸気機関車(SL)の前部扉の複製があしらわれている。
この5けたの数字について鉄道ファンでない人のために説明すると、この機関車は「9600」系で、1台目は「9600」、2台目は「9601」…と番号を振っていくのであるが、100台目の「9699」の次を「9700」とすると、すでに存在していた「9700」系との重複を避けるため、101台目は「19600」、201台目は「29600」…というふうに番号をつけていったのである。
これは、9600系が、評価が高く、数多く製造されたために起きた事態といえる。
しかし、番号の付け方がややこしくなったことや、この後に5けたに突入することもあり、後の「C11 ●」「D51 ●」というすっきりしたナンバリングに変わっていったのであった。
新得駅と金山駅の間にある狩勝トンネルは、鉄道にとっては大変な難所であった。
「十勝大百科事典」(北海道新聞社)によると、このトンネルは1907年(明治40年)開通したが、延長954メートルの大部分が1000分の25という急勾配で、登りは補助機関車をつけなければならず、トンネル内では高温で、やけどを負う乗務員もいたという。
そこで、国労は1947年、トンネルの改築や手当増額を要求。満足できる回答が得られなかったため、48年5月から3割減車、5割減車の実力行使に入った。
北海道主要部と道東を結ぶ幹線だけに、新得駅には多くの貨車が滞留する大きな影響が出た。争議は大量の処分者を出して終わったという。
その後、現在の狩勝トンネルが開通し、旧トンネルは役割を終えた。
この闘争に着想を得て、灼熱の機関室で奮闘する機関士と助士の姿を描いたのが、小樽出身の画家富樫正雄の代表作「狩勝のたたかい」である。
ちなみに、この機関助手のモデルを務めたのは、新得在住の大崎和男さんといわれている。
大崎さんは抽象画家で、道展会員であると同時に、写真道展の会員でもある。
美術の道内三大公募展と写真道展の会員を兼ねているのは、道内に美術家・写真家多しといえど、大崎さんだけであろう。
1989年12月6日の北海道新聞に登場し「横田裕美さんは、道立清水高の一期先輩。自宅で投炭のポーズをしてみせたんですよ」と話している。
大崎さんは国鉄で、機関助士を務めていた。
というわけで、なかなか話題の多い作品である。
この「火夫の像」は、新得駅の真ん前という立地条件もあり、ネット検索をかけると、膨大な数のサイトやブログがヒットするが、制作者などにまで踏み込んで紹介しているサイトは非常に少ない。
その少ないサイトの一つである、十勝毎日新聞社の「十勝めーる」によると、作者は、元新得中校長の横田裕美さん。
像には、作者名が明記されていないのだ。
なお、横田さんは美術教師を務め、1965年の道展では、北海タイムス賞を受けている。
台座には、蒸気機関車(SL)の前部扉の複製があしらわれている。
この5けたの数字について鉄道ファンでない人のために説明すると、この機関車は「9600」系で、1台目は「9600」、2台目は「9601」…と番号を振っていくのであるが、100台目の「9699」の次を「9700」とすると、すでに存在していた「9700」系との重複を避けるため、101台目は「19600」、201台目は「29600」…というふうに番号をつけていったのである。
これは、9600系が、評価が高く、数多く製造されたために起きた事態といえる。
しかし、番号の付け方がややこしくなったことや、この後に5けたに突入することもあり、後の「C11 ●」「D51 ●」というすっきりしたナンバリングに変わっていったのであった。
新得駅と金山駅の間にある狩勝トンネルは、鉄道にとっては大変な難所であった。
「十勝大百科事典」(北海道新聞社)によると、このトンネルは1907年(明治40年)開通したが、延長954メートルの大部分が1000分の25という急勾配で、登りは補助機関車をつけなければならず、トンネル内では高温で、やけどを負う乗務員もいたという。
そこで、国労は1947年、トンネルの改築や手当増額を要求。満足できる回答が得られなかったため、48年5月から3割減車、5割減車の実力行使に入った。
北海道主要部と道東を結ぶ幹線だけに、新得駅には多くの貨車が滞留する大きな影響が出た。争議は大量の処分者を出して終わったという。
その後、現在の狩勝トンネルが開通し、旧トンネルは役割を終えた。
この闘争に着想を得て、灼熱の機関室で奮闘する機関士と助士の姿を描いたのが、小樽出身の画家富樫正雄の代表作「狩勝のたたかい」である。
ちなみに、この機関助手のモデルを務めたのは、新得在住の大崎和男さんといわれている。
大崎さんは抽象画家で、道展会員であると同時に、写真道展の会員でもある。
美術の道内三大公募展と写真道展の会員を兼ねているのは、道内に美術家・写真家多しといえど、大崎さんだけであろう。
1989年12月6日の北海道新聞に登場し「横田裕美さんは、道立清水高の一期先輩。自宅で投炭のポーズをしてみせたんですよ」と話している。
大崎さんは国鉄で、機関助士を務めていた。
というわけで、なかなか話題の多い作品である。