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「火夫の像」 (十勝管内新得町)

2013年05月27日 01時11分11秒 | 街角と道端のアート
 2013年4月末の十勝経由札幌行きの大旅行? の際に見た野外彫刻のうち、新得しんとく駅(十勝管内新得町)の前にあった二つの像を紹介したい。

 この「火夫の像」は、新得駅の真ん前という立地条件もあり、ネット検索をかけると、膨大な数のサイトやブログがヒットするが、制作者などにまで踏み込んで紹介しているサイトは非常に少ない。

 


 その少ないサイトの一つである、十勝毎日新聞社の「十勝めーる」によると、作者は、元新得中校長の横田裕美さん。
 像には、作者名が明記されていないのだ。

 なお、横田さんは美術教師を務め、1965年の道展では、北海タイムス賞を受けている。




 台座には、蒸気機関車(SL)の前部扉の複製があしらわれている。

 この5けたの数字について鉄道ファンでない人のために説明すると、この機関車は「9600」系で、1台目は「9600」、2台目は「9601」…と番号を振っていくのであるが、100台目の「9699」の次を「9700」とすると、すでに存在していた「9700」系との重複を避けるため、101台目は「19600」、201台目は「29600」…というふうに番号をつけていったのである。
 これは、9600系が、評価が高く、数多く製造されたために起きた事態といえる。
 しかし、番号の付け方がややこしくなったことや、この後に5けたに突入することもあり、後の「C11 ●」「D51 ●」というすっきりしたナンバリングに変わっていったのであった。




 新得駅と金山駅の間にある狩勝かりかちトンネルは、鉄道にとっては大変な難所であった。
 「十勝大百科事典」(北海道新聞社)によると、このトンネルは1907年(明治40年)開通したが、延長954メートルの大部分が1000分の25という急勾配で、登りは補助機関車をつけなければならず、トンネル内では高温で、やけどを負う乗務員もいたという。
 そこで、国労は1947年、トンネルの改築や手当増額を要求。満足できる回答が得られなかったため、48年5月から3割減車、5割減車の実力行使に入った。
 北海道主要部と道東を結ぶ幹線だけに、新得駅には多くの貨車が滞留する大きな影響が出た。争議は大量の処分者を出して終わったという。
 その後、現在の狩勝トンネルが開通し、旧トンネルは役割を終えた。


 この闘争に着想を得て、灼熱しゃくねつの機関室で奮闘する機関士と助士の姿を描いたのが、小樽出身の画家富樫正雄の代表作「狩勝のたたかい」である。

 ちなみに、この機関助手のモデルを務めたのは、新得在住の大崎和男さんといわれている。
 大崎さんは抽象画家で、道展会員であると同時に、写真道展の会員でもある。
 美術の道内三大公募展と写真道展の会員を兼ねているのは、道内に美術家・写真家多しといえど、大崎さんだけであろう。
 1989年12月6日の北海道新聞に登場し「横田裕美さんは、道立清水高の一期先輩。自宅で投炭のポーズをしてみせたんですよ」と話している。
 大崎さんは国鉄で、機関助士を務めていた。

 というわけで、なかなか話題の多い作品である。


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