(長文です)
すこし以前のことになるが、月刊誌を4冊買った。
「文藝春秋」「世界」「美術手帖」「文學界」である。
いったいいつ読むんだ-と自分でも思うのだが…。
このうち「美術手帖」は特大号なので、別にエントリをたてることにして、ここでは「文学界」のことを書く。
筆者は、小説に関心はあるが、正直言って手が回らない。だから、いまどんな小説が書かれているのか、まったく知らない。
にもかかわらず「文学界」を購入したのは、この雑誌が長く連載してきた「同人雑誌評」がこの号で打ち切られるということを知ったためであった。
芥川賞に代表される純文学の世界のほとんどは「文学界」「群像」「新潮」「すばる」の雑誌に掲載された作品により構成される。
ほかに、書き下ろしの単行本や、「早稲田文学」「三田文学」「文科」といった少部数の雑誌もあるが…。
この世界を、読者として、また書き手予備軍として支えてきたのは、全国で同人雑誌を発行し、そこで小説を発表している人たちであった。
「文学界」は、毎月寄せられる全国各地の同人誌に載った小説・評論を評するとともに、優秀作を半年に1度、転載していた(昔はもっとひんぱんに転載していたらしいが)。
しかし、かつての文学青年たちが高齢化して同人雑誌の発行間隔があいたり、休刊・廃刊に追い込まれる例が増えている。
また、近年多くなっているのは、カルチャーセンター系の雑誌である。
そこは、真剣に文学論が闘わされる場や新人を鍛える場ではなく、「到着順に」原稿を載せるだけの媒体になっている。
そういった事情で、「文学界」は、同人雑誌評を12月号限りで打ち切ることになったようだ。
評は「三田文学」が引き継ぐという。
文学雑誌としては、先に挙げた4誌が、朝日新聞に毎月広告を出しているメジャーな存在であり(といっても部数は少ないが)、「三田文学」は地方の小さな書店ではあまり見かけない雑誌だ。この打ち切りが、全国の同人雑誌にあたえた衝撃の大きさは察するにあまりある。
今後、小説の世界でデビューする舞台は、事実上、各誌の新人賞という「一発勝負」しかなくなってしまうのだ。
よその業界のことをどうしてこんなにだらだら書いているかというと、新人発掘システムの変容という点では、美術界も似たような問題を抱えているように思われるからだ。
かつては「団体公募展」「貸しギャラリー」という日本独特のシステムが新人発掘を支えていたと思う。
団体公募展についてはいうまでもないだろう。団体の数が少なかった時代には、有力公募展の新人賞などは、昨今よりもはるかに注目を集めていたはずだ。
貸しギャラリーについては、東京では、京橋から銀座に大半が固まっており、美術評論家や学芸員たちは週の初めに片っ端から見て回るのを習慣としていた時代があった。
そこで興味深いと思われた展覧会は、どんなに無名の作家やグループであれ、新聞や美術手帖の評に取り上げられ、ステップアップのきっかけになったのであった。
しかし、「美術手帖」は昨年、東京・大阪・名古屋の月評をとりやめた。
全国紙の文化面も、取り上げる展覧会の大半は美術館のものになってしまい、最後の砦(とりで)であった毎日新聞も、担当の三田晴夫記者の定年退職にともない、ギャラリー回りの比率を下げていると思う(「思う」という表記をするのは、当地に夕刊が配付されなくなったため、文化面の全容がわからないためである)。
銀座の画廊が減って、江東区や青山などに分散しつつあることもあって、週初めのギャラリー回りの習慣もいつしかすたれてしまったようだ(暮沢剛巳著「現代アートななめナナメ読み」による)。←2008年12月6日修正
雑誌や新聞に載るのは、すでに評価の固まった作家が美術館で開いている展覧会ばかり。じゃあ、新人はどうやってステップアップすればいいのか?
美術界は、文学や写真の世界ほど新人賞が機能していないと思う。「機能」という言葉が悪ければ、芥川賞や木村伊兵衛賞ほど知名度の高い賞はない。
となれば、ポートフォリオをかかえて企画ギャラリーをまわればいいのか。
ろくに目配りをしていないジャーナリズムがたまたまスポットライトを当てた新人を、そのまま美術館が評価すればいいのか。
ともあれ、これまでよりは、はるかに運と偶然に左右されることは間違いないだろう。
そもそも、新人を世に送り出すパイプそのものが細ってしまう危険性は高いと思う。
北海道美術ネットは、こうした風潮に徹底的に抵抗したい。
すこし以前のことになるが、月刊誌を4冊買った。
「文藝春秋」「世界」「美術手帖」「文學界」である。
いったいいつ読むんだ-と自分でも思うのだが…。
このうち「美術手帖」は特大号なので、別にエントリをたてることにして、ここでは「文学界」のことを書く。
筆者は、小説に関心はあるが、正直言って手が回らない。だから、いまどんな小説が書かれているのか、まったく知らない。
にもかかわらず「文学界」を購入したのは、この雑誌が長く連載してきた「同人雑誌評」がこの号で打ち切られるということを知ったためであった。
芥川賞に代表される純文学の世界のほとんどは「文学界」「群像」「新潮」「すばる」の雑誌に掲載された作品により構成される。
ほかに、書き下ろしの単行本や、「早稲田文学」「三田文学」「文科」といった少部数の雑誌もあるが…。
この世界を、読者として、また書き手予備軍として支えてきたのは、全国で同人雑誌を発行し、そこで小説を発表している人たちであった。
「文学界」は、毎月寄せられる全国各地の同人誌に載った小説・評論を評するとともに、優秀作を半年に1度、転載していた(昔はもっとひんぱんに転載していたらしいが)。
しかし、かつての文学青年たちが高齢化して同人雑誌の発行間隔があいたり、休刊・廃刊に追い込まれる例が増えている。
また、近年多くなっているのは、カルチャーセンター系の雑誌である。
そこは、真剣に文学論が闘わされる場や新人を鍛える場ではなく、「到着順に」原稿を載せるだけの媒体になっている。
そういった事情で、「文学界」は、同人雑誌評を12月号限りで打ち切ることになったようだ。
評は「三田文学」が引き継ぐという。
文学雑誌としては、先に挙げた4誌が、朝日新聞に毎月広告を出しているメジャーな存在であり(といっても部数は少ないが)、「三田文学」は地方の小さな書店ではあまり見かけない雑誌だ。この打ち切りが、全国の同人雑誌にあたえた衝撃の大きさは察するにあまりある。
今後、小説の世界でデビューする舞台は、事実上、各誌の新人賞という「一発勝負」しかなくなってしまうのだ。
よその業界のことをどうしてこんなにだらだら書いているかというと、新人発掘システムの変容という点では、美術界も似たような問題を抱えているように思われるからだ。
かつては「団体公募展」「貸しギャラリー」という日本独特のシステムが新人発掘を支えていたと思う。
団体公募展についてはいうまでもないだろう。団体の数が少なかった時代には、有力公募展の新人賞などは、昨今よりもはるかに注目を集めていたはずだ。
貸しギャラリーについては、東京では、京橋から銀座に大半が固まっており、美術評論家や学芸員たちは週の初めに片っ端から見て回るのを習慣としていた時代があった。
そこで興味深いと思われた展覧会は、どんなに無名の作家やグループであれ、新聞や美術手帖の評に取り上げられ、ステップアップのきっかけになったのであった。
しかし、「美術手帖」は昨年、東京・大阪・名古屋の月評をとりやめた。
全国紙の文化面も、取り上げる展覧会の大半は美術館のものになってしまい、最後の砦(とりで)であった毎日新聞も、担当の三田晴夫記者の定年退職にともない、ギャラリー回りの比率を下げていると思う(「思う」という表記をするのは、当地に夕刊が配付されなくなったため、文化面の全容がわからないためである)。
銀座の画廊が減って、江東区や青山などに分散しつつあることもあって、週初めのギャラリー回りの習慣もいつしかすたれてしまったようだ(暮沢剛巳著「現代アート
雑誌や新聞に載るのは、すでに評価の固まった作家が美術館で開いている展覧会ばかり。じゃあ、新人はどうやってステップアップすればいいのか?
美術界は、文学や写真の世界ほど新人賞が機能していないと思う。「機能」という言葉が悪ければ、芥川賞や木村伊兵衛賞ほど知名度の高い賞はない。
となれば、ポートフォリオをかかえて企画ギャラリーをまわればいいのか。
ろくに目配りをしていないジャーナリズムがたまたまスポットライトを当てた新人を、そのまま美術館が評価すればいいのか。
ともあれ、これまでよりは、はるかに運と偶然に左右されることは間違いないだろう。
そもそも、新人を世に送り出すパイプそのものが細ってしまう危険性は高いと思う。
北海道美術ネットは、こうした風潮に徹底的に抵抗したい。
文学や美術ではどうせ食えないんだから、あまりアテにしていないというのが本音ではないでしょうか。
マスコミや各種のアワードでスポットが当たることは背景として文化の成熟度あるいは具体的な作品購買力や市場活力ということが備わっていなければ新人育成の原動力にはならないわけです。
昨今の芥川賞作家が食えないというのも同じでしょう。
要するに競争社会が行き着くところまで来てしまって価値尺度が移り変わったのですよ。同人雑誌や文芸誌しかり、公募展しかり。
中心購買層は教養が低いのか好みが違うのかライフスタイルが子供じみていたりするわけです。だから瀬戸内何某のような作家でも通用するのです。さらにインターネットが普及して、見る読む時間がシフトしてリアルな芸術に触れる時間や興味、動機付けはますます少なくなっています。
その中に文学だとか美術だとかを提示してもぜんぜん相手にしてくれるわけがありません。
その意味では今の時代こそが芸術の純粋性というか時代の風潮に左右されない作家活動の好機ではないかという気がしますが、おっとこれは20年も前のカビの生えた評論でした。(笑)
まじめに書けばいくらでも問題点はあぶりだされると思いますが、非常に厳しく止めを刺せば、『作家の質が低い』ということに尽きますね。
美術系雑誌に取り上げられるということについても、売り込むためには元手が必要な時代です。その意味でも売り込む金が回らなければ作家は何も出来ないと思います。
作家は本質的には自虐的ですから運や偶然に左右されることにそれほど違和感は持ち合わせていないのではないでしょうか。
ほんとに最近コメントが少ないですね。
じつは、「ギャラリーまわり」は、このブログのことは措いておくとしても、ブログやインターネットの世界に移っている感があります。
「ガデン.com」や「弐代目青い日記帳」「あお・ひー!」といった人たちは実に熱心ですよね。
活字メディアはそれに死にものぐるいで対抗しなくてはならないはずなのに、サボっているように見えます。
あとは、新人と「全国区の舞台」をつなぐ細い糸といえば、「VOCA」かなあ。
ただ、各地の学芸員たちが、ちゃんとギャラリーをまわっている-という前提が成立していれば、の話ですけど。
朝日は夕刊文化面で画廊の個展をよく展評していますし、読売も毎週土曜日の夕刊で画廊の展覧会を紹介しています。新人の初個展でも取り上げています。
したがって少なくとも毎日・朝日・読売の美術記者は今も画廊めぐりをしていますし、記事もある程度出ています。「昔はよく出ていた」というのは事実ではなく、むしろ昔の方が少なかったほどです。
いずれも東京本社版の夕刊なので、北海道では分からないと思いますが。。
朝日と読売は当地でも夕刊が配布されていますが、それほどまでに内容が異なるとは、指摘をいただくまで知りませんでした。
おなじ購読料を払っているのに、腑に落ちませんねー。
しかも、10年ぐらい前までは、ギャラリーでの展覧会の記事もよく見かけた記憶があるのです。
どうして、北海道配布の夕刊では省いてしまうのでしょう。
たかのさんの指摘はとてもためになりました。
ネット上で他人の誤りをただすときは、ともすれば殺伐とした表現になりがちですが、たかのさんのように優しくていねいに書いていただけると、助かります。腹もたちません。
大いにみならいたいと思いました。自戒をこめて…
今後ともよろしくおねがいします。
東京は現代美術の画廊がどんどん分散し、数も増えているので、とても回りきれなくなってきました。京橋、銀座、清澄、茅場町、馬喰町、白金、神楽坂、初台・・。昔は数が限られていたので、今よりずっと回りやすかったと思います。回っている者の実感です。
北海道は全国紙3紙が現地印刷を始めてすでに半世紀になりますので、たぶん単に費用対効果の問題と思われます。
札幌は貸しギャラリーばかりで、企画のギャラリーはとても少ないです。
現代美術の画廊が増えているというのは「うれしい悲鳴」ですね。うらやましいというか。
ただ、銀座や京橋は昔から画廊が集中していましたが、清澄とか初台(オペラシティ以外にもあるのでしょうか)となると、地理的にいささか分散しすぎで、まわるほうは大変ですね。