いつにない反響を呼んだ記事
「2017年3月10~12日は3カ所。あるいは、好きなことをやっている人に対して「批評」は無意味か?」
を書いたあとで、とある絵画グループ展を見ながら考えました。
趣味で絵筆を執り、絵画教室に通う人は多いです。
絵だけでなく、マチの文化センターには、さまざまなアートの教室が花盛りです。
自分としては、趣味をバカにしてはいけないと思います。こういう人が、ときどき美術館に足を運んだり、教室の講師や仲間とグループ展を開いたりして、アートの裾野を支えているのでしょう。
プロの作家やキュレーター、研究者、金持ちのコレクターも確かに重要な、アートの世界のプレイヤーです。しかし、一握りの関係者だけがいて、一般のファンが存在しなかったら、その分野は長続きせず、早晩おとろえていくのではないでしょうか。
むかしは筆者も、絵画グループ展などの会場(札幌時計台ギャラリーの3階とか、札幌市資料館など)で「へただなあ」「1秒で、だれが先生なのか、わかっちゃうなあ」と内心悪態をつきつつ、足早に作品を見ていたものでした。だけど、まあいいんですよ。
師匠の画風にあこがれて似るぶんには、ほほえましいぐらいです。
(師匠の画風をまねることで、団体公募展の中で師匠のおぼえがめでたくなり、その結果、各所に政治力をふるうようになったりするのであれば問題ですが…)
趣味というのは、家業や仕事にさしさわりのない範囲で、余暇を楽しむことです。
気が乗らなければ、やらなくてもいっこうにかまわないのです。
それに対して、「作家」というものは、自分の全存在をかけてアートに取り組むものです。
休日に楽しんで描く絵を否定はしませんが、そういう作品に対して、批評しようとは思いませんし、すべきだとも思いません。
作家が手がけるアートは、単に楽しければいいというものではなく、現代という時代と何らかのかかわりをもち、美術史に対して意味をもち、オリジナリティーのあるものでなければ存在意義がありません。師匠に似ているだけの作品なんぞ、馬の餌にもなりません。
全身全霊をこめた作品だからこそ、こちらは接したときに感動するのですし、いろいろな人に紹介したくなるのです。そして、紹介するときは、でたらめに思いつきを並べておしまいではなく、全力で取り組んでいるつもりです。
いささか口幅ったいことを言わせてもらえば、全力さ加減において、批評する側が作る側に負けてはいけないのです。
もしアートがおおまかに
1)全身全霊系
2)趣味系
の二つに分けられるとしたら、筆者の目からすると、統計的な裏付けはありませんが、2)が相対的に増えて1)の全体に占める割合が減っているような気がします。
それは、どちらがいい悪いという問題ではないと思います。
2)のほうは、仲間うちで楽しくやっていればいいのですから、批評の出る幕はありません。ほかとの比較も、歴史上の意義付けも関係なく
「わー、これ、かわいいね」
で終わりです。
これも統計的な証拠はないのですが、若い世代を中心にこの10年ほど、基本は2)ですが
「質はそれなりなので、気に入ってもらえたらお小遣いで買ってくれればラッキー」
というような意識を抱いた作り手が増えているような感じがします。
くりかえしになりますが、これは時代の流れなので、いいとか悪いとかという問題ではありません。
ただ、自らの実存をかけていないような作品を、自分は、あまり喜んで見ようとは思わないのです。少なくても「良い作品」が生まれてくる確率は、2)より1)のほうが高そうな気がします。
そんなことを考えながら、ギャラリーをあとにしました。
「2017年3月10~12日は3カ所。あるいは、好きなことをやっている人に対して「批評」は無意味か?」
を書いたあとで、とある絵画グループ展を見ながら考えました。
趣味で絵筆を執り、絵画教室に通う人は多いです。
絵だけでなく、マチの文化センターには、さまざまなアートの教室が花盛りです。
自分としては、趣味をバカにしてはいけないと思います。こういう人が、ときどき美術館に足を運んだり、教室の講師や仲間とグループ展を開いたりして、アートの裾野を支えているのでしょう。
プロの作家やキュレーター、研究者、金持ちのコレクターも確かに重要な、アートの世界のプレイヤーです。しかし、一握りの関係者だけがいて、一般のファンが存在しなかったら、その分野は長続きせず、早晩おとろえていくのではないでしょうか。
むかしは筆者も、絵画グループ展などの会場(札幌時計台ギャラリーの3階とか、札幌市資料館など)で「へただなあ」「1秒で、だれが先生なのか、わかっちゃうなあ」と内心悪態をつきつつ、足早に作品を見ていたものでした。だけど、まあいいんですよ。
師匠の画風にあこがれて似るぶんには、ほほえましいぐらいです。
(師匠の画風をまねることで、団体公募展の中で師匠のおぼえがめでたくなり、その結果、各所に政治力をふるうようになったりするのであれば問題ですが…)
趣味というのは、家業や仕事にさしさわりのない範囲で、余暇を楽しむことです。
気が乗らなければ、やらなくてもいっこうにかまわないのです。
それに対して、「作家」というものは、自分の全存在をかけてアートに取り組むものです。
休日に楽しんで描く絵を否定はしませんが、そういう作品に対して、批評しようとは思いませんし、すべきだとも思いません。
作家が手がけるアートは、単に楽しければいいというものではなく、現代という時代と何らかのかかわりをもち、美術史に対して意味をもち、オリジナリティーのあるものでなければ存在意義がありません。師匠に似ているだけの作品なんぞ、馬の餌にもなりません。
全身全霊をこめた作品だからこそ、こちらは接したときに感動するのですし、いろいろな人に紹介したくなるのです。そして、紹介するときは、でたらめに思いつきを並べておしまいではなく、全力で取り組んでいるつもりです。
いささか口幅ったいことを言わせてもらえば、全力さ加減において、批評する側が作る側に負けてはいけないのです。
もしアートがおおまかに
1)全身全霊系
2)趣味系
の二つに分けられるとしたら、筆者の目からすると、統計的な裏付けはありませんが、2)が相対的に増えて1)の全体に占める割合が減っているような気がします。
それは、どちらがいい悪いという問題ではないと思います。
2)のほうは、仲間うちで楽しくやっていればいいのですから、批評の出る幕はありません。ほかとの比較も、歴史上の意義付けも関係なく
「わー、これ、かわいいね」
で終わりです。
これも統計的な証拠はないのですが、若い世代を中心にこの10年ほど、基本は2)ですが
「質はそれなりなので、気に入ってもらえたらお小遣いで買ってくれればラッキー」
というような意識を抱いた作り手が増えているような感じがします。
くりかえしになりますが、これは時代の流れなので、いいとか悪いとかという問題ではありません。
ただ、自らの実存をかけていないような作品を、自分は、あまり喜んで見ようとは思わないのです。少なくても「良い作品」が生まれてくる確率は、2)より1)のほうが高そうな気がします。
そんなことを考えながら、ギャラリーをあとにしました。
コンカリーニョの話から、いろいろ盛り上がっているようですね。
私は確かに、
>「良い作品」が生まれてくる確率は、2)より1)のほうが高そう
とは思うのですが、あまり他人に全身全霊を求める気がないのです。
我が身を振り返れば、読書においては相当なレベルをキープしていたと思いますが、それでも年齢とともに集中力がなくなり、何ともな体たらく。
美術鑑賞も相当な量だとは思っていますが、批評などするすべもない、しょせん素人の見学レベル。
仕事だけはまあ恥ずかしくないレベルをキープしようと思っていますが、それもお金をもらっての話ですからね。
有限の時間ですから、何にせよなるべく高水準のモノに出会いたいとは思いますが、こちらもお金を出している訳ではないので、まあ程々にという感じです。
心の中では「下手すぎてコメントできん」とか「仲間内でじゃれあっていて、作品が見づらいな、このボケ!」とか思いますが、それは心の中なので許してほしいと思います。
とは言っても、おそらくは言葉にするヤナイさんの方が、優しい人だということに気が付いてほしいとは思います。
そんなのは、人の自由なので。
ただ、自分が見るぶんには、気合の入った作品が見たいというだけの話です。もちろん、遊びで、手を抜いてこしらえたものの方がよかったり、ということもあるでしょうし。
遊びがダメなのは単なる確率の問題だと思います。
おそらくSHさんも、本を読むときは、力の入った作のほうがいいのではないでしょうかね。
ただ、このブログは「趣味」でやっているつもりはないです。
「趣味でない」作品に取り組んでいる人に対して、それでは失礼なので。
あと、自分では自分のことを優しいと思ったことはあまりないですね。
たぶん自分はすごく冷たいほうだと思います。
というか、空気が読めないし、人がなにを考えているかもわからないから、とくに何かをしてあげることもないです。
まあ、でもそのおかげで、多少はラクに生きられているのかもしれません。
>このブログは「趣味」でやっているつもりはないです
そうですよね。
しかし、私は美術鑑賞についてはそうではなくて、できる限り趣味に徹しようと思っているのです。
深く考えず、単なる趣味で見る人がいないジャンルは、行き詰まるのではないかと思っているからなのですが。
まぁいろんなアプローチの人がいて、ちょうどいいんだと思います。