札幌彫刻美術館編の「北海道の野外彫刻」は、この分野を調べるにあたってのバイブル的な冊子だが、記載のない作品も多い。
この像もそのひとつ。
オホーツク管内津別町の河畔公園内にあり、かなり大きい。
作者は砂川放光という人で、裏側にサインがあった。
ネット検索すると、モニュメントや偉人の銅像彫刻を専業にしている人らしい。
この近くでは、美幌町の「希望の像」も同じ作者である。
裏面には、次のように記されている。
若干補足しておく。
野付牛村は現在の北見市である。
また、この文章には、大越氏のおこした企業名が記されていないが、たぶん「丸玉産業」のことであろう。
津別町では圧倒的な大企業であるばかりでなく、オホーツク管内でもこの30年ほど連続して、売上高ナンバーワンを誇る企業なのである。
管内一の企業が北見でも網走でもなく、また建設業でもハイテク工業でもなくて1次産業に近い企業であることがおもしろい。
この像もそのひとつ。
オホーツク管内津別町の河畔公園内にあり、かなり大きい。
作者は砂川放光という人で、裏側にサインがあった。
ネット検索すると、モニュメントや偉人の銅像彫刻を専業にしている人らしい。
この近くでは、美幌町の「希望の像」も同じ作者である。
裏面には、次のように記されている。
大越外氣雄氏は明治四十一年常呂郡野付牛村に生を享け、大正十四年森林資源豊かな本町に転住、爾来幾多の艱難を克服し新しい合板製品の開発、製造工程の改良等に努力を傾注して比類なき堅実な企業を築きあげ、合板業界ならびに本町産業の発展興隆に貢献された。この間、社会福祉、教育文化、消防力の整備充実と振興に深い理解と熱意を示し、率先多くの私財を寄せられ、二回にわたり紫綬褒章を受章した。斯る公共社会の為に尽瘁された幾多の事績とその崇高な奉仕の精神とは真に郷土の誇りとして深く尊敬するところであり昭和四十七年七月名誉町民の称号を贈られ、従五位勲四等瑞宝章叙勲の栄誉に輝く。
この顕著な功績を讃え永くこれを後世に遺す。
昭和四十九年七月
津別町長 土田耕治
若干補足しておく。
野付牛村は現在の北見市である。
また、この文章には、大越氏のおこした企業名が記されていないが、たぶん「丸玉産業」のことであろう。
津別町では圧倒的な大企業であるばかりでなく、オホーツク管内でもこの30年ほど連続して、売上高ナンバーワンを誇る企業なのである。
管内一の企業が北見でも網走でもなく、また建設業でもハイテク工業でもなくて1次産業に近い企業であることがおもしろい。