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<みずなら>遠軽ゆかりの金工作家

2021年12月06日 17時52分54秒 | つれづれ日録
 北海道新聞2021年12月3日オホーツク面に書いたコラムの全文です。
 姓のルビのみ追記しています。
 また、紙面には写真はついていません。

 遠軽町図書館の中で、昔読んだ懐かしい本の書名が目に入った。「畠山三代喜はたけやま み よ き  金工の世界」。金属工芸の道内の第一人者が、亡くなる4年前の1998年に自費出版した作品集だ。

 それにしてもなぜ、芸術の棚でなく郷土資料の書架にあるのだろう。手に取ってみた。畠山さんは26年(大正15年)、生田原村(現遠軽町生田原)の鉄道官舎の生まれだったのだ。生前、取材した際に聞いた、北見市留辺蘂町で過ごした少年時代の話の印象が強く、出生地がどこかを失念していた。

 女性や小鳥を配した、優しい浮き彫りを作った。旭川師範学校(現道教大旭川校)在学中に召集された経験の持ち主。「戦争中、金属は供出させられた。金工は平和でなくてはできないんですよ」という言葉は今も覚えている。

 遠軽町内のどこかに畠山さんの作品が飾ってあっても良さそうなものだが、残念ながら見たことはない。地元ゆかりの芸術家は、自分が知らないだけで、まだまだいるのかもしれない。(梁井朗)


 実は2019年11月におなじ趣旨のことをブログに書いていたのですが、すっかり忘れていました。

 文字数の関係で、コラムでは省きましたが、畠山さんの生家は、生野の鉄道官舎だったそうです。

 生野駅といえば、ことし3月に廃止された無人駅です。

 ただ、生野駅の所在地は途中で移転しています。
 廃止された駅の前で畠山さんが生後すぐの期間を過ごしたわけではありません。

 もうひとつ書けば、上記で留辺蘂 る べ しべ町とあるのは、留辺蘂町の端っこである常紋トンネルの近くの官舎です。
 昔は津々浦々に鉄道員が住んでいたことにあらためて驚かされます。

 それにしても、コラムにも書きましたが、遠軽町内では、畠山さんが生まれたことを示すもの(作品等)は、全く見ることができません。筆者が知らないだけかもしれませんが。
 公共施設にさりげなく飾ってあってもいいのにな、とちょっと思いました。


過去の関連記事へのリンク(いずれも画像なし)
北海道金工作家協会展創立30周年記念展および畠山三代喜(遺作)展 (2008)
第26回北海道金工作家協会展 (2003)
訃報 (7月24日の項)


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