この本を読むまでは、今後の新聞産業については、わりと単純に考えていた。
紙で読むという形態が衰亡必至なのであれば、ネットで有料購読者を募れば良い。その金額は、現行の購読料から、製版・印刷・配達にかかる費用を差し引き、サーバー維持などに必要な金額を上乗せしたものとなるだろう。
したがって、現行の約3900円よりはいくらか安くなるだろう。そして、現行の紙では読めない他地域の地方版などが読めるようになる上、現在のネット版では省略されている多くの記事も閲覧可能になるだろう、と。
もちろん、この施策は、印刷現場と販売店に恐慌をもたらすだろう。
ただし冷酷なことをいわせてもらえば、新聞社にとってもっとも重要なのはジャーナリズムであって、印刷と販売の組織では決してない。
しかし、この本が繰り返し述べているのは「コンテナ」という概念の重要性である。
いわば、コンテンツと消費者を結ぶ橋である。
早い話、こないだ日本でも発売開始となったキンドルを例にとろう。
これを開発したアマゾンの取り分は70%だか65%。コンテンツ配信側には30%しか来ない。
人をバカにした話だと思う。アマゾン、もうけすぎだろう。が、ニュースは届かなかったら意味がない。
もし将来、人が新聞を読むスタイルのスタンダードがキンドルになってしまったら、新聞社は一気に窮乏化するだろう。
もっとも、いまでもgoogleニュースやYahoo!は、新聞社に対し、それほど多額の金を支払っているわけではないのだ。
ネットの世界では「ポータル」という概念はすでに過去のものとなりつつあるという説も強いが、とにかく、ニュースのポータルをYahoo!などのインターネット業者側に握られたままでは、新聞社はいったいなんのために必死で取材に走り回り、価値判断を考え、見出しをつけているのか、わからなくなる。
ブロガーの中には、「マスゴミ」呼ばわりして、したり顔で新聞やテレビを批判する向きは多い。
しかし、そういう輩(やから)の大半は、1次情報の入手を、新聞社が取材したコンテンツに頼っているにすぎない。
2ちゃんねらーの中などには、「直電」といって、取材相手に直接電話することをさも大した行為であるかのようにほめたたえるばかばかしい文化があるようだ。
だが、新聞記者が電話に頼って取材していれば
「ちゃんと会いに行って話を聞いて来い」
とデスクに怒られる。
全国津々浦々で、火事現場に急行し、どうせいま聞いてもなにも教えてくれないんだろうなと思いつつも現場検証中の警察官に質問をぶつけ、それでも現場からなにかしらのヒントを得てこようと走り回っているのは、新聞記者である。工場に、福祉施設に、学校に、実際に足をはこんでいるのは、新聞記者である。決してブロガー連中ではない。連中は、人が苦労して得た情報をもとに、ぬくぬくと室内で好き勝手なことを書き散らしているだけだ。
(しかも、ネットに載っている記事は、紙面からくらべれば何分の1かにすぎない。本当に重要な情報は、ネットには、新聞紙のあとから載る)
新聞産業が崩壊すれば、いちばん困るのは、「マスゴミ」などと言ってバカにしているブロガー連中なのだ。
しかし、ブロガーが困るのは別にかまわないのだが、新聞産業がなくなれば、一般市民だって得にはならないはずである。
いま、海の向こうの、共産党が支配している国では、報道の自由がない。
あちこちで暴動が頻発しているのは、新聞が信用できないからにほかならない。(新聞だけではなく、政治も裁判所も信用できないからともいえるが)
もしジャーナリズムがなかったら、無駄かもしれないと思いつつもいろいろな現場に足をはこんで人に話を聞く新聞記者がいなかったら、デマや流言蜚語が飛び交う社会になりかねない。
だから、紙であろうとなかろうと、ジャーナリズムは絶対に必要なのだ。
この本の「2011年」はすぐそこだ。
アメリカで起きたことは日本でも起きると、佐々木氏は述べている。
宅配普及率の違いがこの本では完全にスルーされているので、2011年に日本の新聞が消えることはありえない。
しかし、新聞紙の長期低落が続くことは確実であろう。
「紙」の凋落とともにジャーナリズムまでが消滅することのないよう、新聞社は、コンテンツとともにコンテナの支配権をインターネット業者側から奪還し、ジャーナリズムが民主主義社会のインフラであることを世間に知らせなくてはならないのだ。
(ちょっと力が入りすぎてしまった)
紙で読むという形態が衰亡必至なのであれば、ネットで有料購読者を募れば良い。その金額は、現行の購読料から、製版・印刷・配達にかかる費用を差し引き、サーバー維持などに必要な金額を上乗せしたものとなるだろう。
したがって、現行の約3900円よりはいくらか安くなるだろう。そして、現行の紙では読めない他地域の地方版などが読めるようになる上、現在のネット版では省略されている多くの記事も閲覧可能になるだろう、と。
もちろん、この施策は、印刷現場と販売店に恐慌をもたらすだろう。
ただし冷酷なことをいわせてもらえば、新聞社にとってもっとも重要なのはジャーナリズムであって、印刷と販売の組織では決してない。
しかし、この本が繰り返し述べているのは「コンテナ」という概念の重要性である。
いわば、コンテンツと消費者を結ぶ橋である。
早い話、こないだ日本でも発売開始となったキンドルを例にとろう。
これを開発したアマゾンの取り分は70%だか65%。コンテンツ配信側には30%しか来ない。
人をバカにした話だと思う。アマゾン、もうけすぎだろう。が、ニュースは届かなかったら意味がない。
もし将来、人が新聞を読むスタイルのスタンダードがキンドルになってしまったら、新聞社は一気に窮乏化するだろう。
もっとも、いまでもgoogleニュースやYahoo!は、新聞社に対し、それほど多額の金を支払っているわけではないのだ。
ネットの世界では「ポータル」という概念はすでに過去のものとなりつつあるという説も強いが、とにかく、ニュースのポータルをYahoo!などのインターネット業者側に握られたままでは、新聞社はいったいなんのために必死で取材に走り回り、価値判断を考え、見出しをつけているのか、わからなくなる。
ブロガーの中には、「マスゴミ」呼ばわりして、したり顔で新聞やテレビを批判する向きは多い。
しかし、そういう輩(やから)の大半は、1次情報の入手を、新聞社が取材したコンテンツに頼っているにすぎない。
2ちゃんねらーの中などには、「直電」といって、取材相手に直接電話することをさも大した行為であるかのようにほめたたえるばかばかしい文化があるようだ。
だが、新聞記者が電話に頼って取材していれば
「ちゃんと会いに行って話を聞いて来い」
とデスクに怒られる。
全国津々浦々で、火事現場に急行し、どうせいま聞いてもなにも教えてくれないんだろうなと思いつつも現場検証中の警察官に質問をぶつけ、それでも現場からなにかしらのヒントを得てこようと走り回っているのは、新聞記者である。工場に、福祉施設に、学校に、実際に足をはこんでいるのは、新聞記者である。決してブロガー連中ではない。連中は、人が苦労して得た情報をもとに、ぬくぬくと室内で好き勝手なことを書き散らしているだけだ。
(しかも、ネットに載っている記事は、紙面からくらべれば何分の1かにすぎない。本当に重要な情報は、ネットには、新聞紙のあとから載る)
新聞産業が崩壊すれば、いちばん困るのは、「マスゴミ」などと言ってバカにしているブロガー連中なのだ。
しかし、ブロガーが困るのは別にかまわないのだが、新聞産業がなくなれば、一般市民だって得にはならないはずである。
いま、海の向こうの、共産党が支配している国では、報道の自由がない。
あちこちで暴動が頻発しているのは、新聞が信用できないからにほかならない。(新聞だけではなく、政治も裁判所も信用できないからともいえるが)
もしジャーナリズムがなかったら、無駄かもしれないと思いつつもいろいろな現場に足をはこんで人に話を聞く新聞記者がいなかったら、デマや流言蜚語が飛び交う社会になりかねない。
だから、紙であろうとなかろうと、ジャーナリズムは絶対に必要なのだ。
この本の「2011年」はすぐそこだ。
アメリカで起きたことは日本でも起きると、佐々木氏は述べている。
宅配普及率の違いがこの本では完全にスルーされているので、2011年に日本の新聞が消えることはありえない。
しかし、新聞紙の長期低落が続くことは確実であろう。
「紙」の凋落とともにジャーナリズムまでが消滅することのないよう、新聞社は、コンテンツとともにコンテナの支配権をインターネット業者側から奪還し、ジャーナリズムが民主主義社会のインフラであることを世間に知らせなくてはならないのだ。
(ちょっと力が入りすぎてしまった)