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深瀬昌久(1934~2012)は、上川管内美深町生まれの写真家。
自分の家族の中に外部の人を入れて定期的に撮ったシリーズや、鬼気迫る「鴉」のシリーズなどを撮り、1992年に東川賞を受賞。同年、東京・新宿の行きつけのバーの階段から転落して脳挫傷を負い、その後20年間は特別養護老人ホームで介護を受けながら暮らしました。活動終了後、国際的な評価が高まっています。
この特異な写真家の助手を務め、その後もプリントを多数手がけるなど、最も近いところにいたひとりである、写真家の瀬戸正人(1953~)が、先輩の横顔をつづった一冊。「日本カメラ」誌の連載をまとめました。
文章だけでなく、なにせ書かれる方も書く方も写真家なので、生前の貴重な写真・資料も多数収録されています。1982年、銀座ニコンサロンで開かれた個展で、高梨豊、森山大道、荒木経惟、深瀬の4人が一列に並んで談笑している写真を見ると
「お~、豪華メンバー」
と驚かされます。
また、深瀬だけではなく、荒木や森山、東松照明といった写真家も登場します。東松照明が壊れたレンズを持ち込み瀬戸正人が修復する場面など、深瀬昌久と直接関係ないけど、おもしろいです。
1970年代の日本写真史に残るワークショップ写真学校についても1章がさかれており、そのあたりも興味深いです。
(深瀬の作品や、写真集の表紙なども多数載っていますが、代表作といえる家族写真のシリーズはあまり収録されていません。おそらく肖像権などがネックになっているんだろうなあ)
瀬戸さんが深瀬昌久の事務所に勤めたのは、なんと森山大道さんの紹介でした。彼のワークショップに参加していて、助手を募集している事務所があるがどうだろうと言われた、というのです。
ただ深瀬さんは、もともと理論派でも饒舌でもないということもあるでしょうが、この本に出てくるのは、自前の写真論を語ったり、カメラを構えたりしている姿ではなく、山梨県の知り合いの別荘(というか家庭菜園のような場所)に出かけて猫をかわいがっているとか、美深に帰って川釣りに熱中するとか、そんな場面がほとんどです。
東京の夜の公園に行ってストロボをたいて、カラスの写真を撮ったら、大騒ぎになった挿話などは笑えますが。
Tは東松照明、Mは森山大道を指します。
このへんの感覚は分かるんですが、20世紀に登場して、モノクロフィルムで撮って自分で現像・プリントする世代の感覚だな~という気もします。タイのチェンマイでゲリラ的にヌードを撮る話とか、今後の世代からの共感は得づらいんじゃないかな。
で、これはネタバレになるから、ここでは詳述しませんけど、深瀬昌久の遺作は、中央公論の仕事で、文学の故郷を訪ねるという旅で北海道に行ったときにカメラに入っていたフィルムになるそうです。でも、このフィルムに映っている場所を、瀬戸さんが探して回るてんまつを読んで
「いや~、やっぱりこれはプロとして、やっちゃいかんだろう」
という感想が浮かんできました。
森山さんは「写真よさようなら」とばかりに実験や沈潜を経た末に、ストリートへと帰ってきたわけですが、深瀬昌久は、正気と狂気紙一重の実験を繰り返し、そのままあちら側にいっちゃったのかなあ。
もやもやしたままの読後、でした。
2020年12月刊。208ページ、税別1800円。
過去の関連記事へのリンク
深瀬昌久さん死去(写真家)
自分の家族の中に外部の人を入れて定期的に撮ったシリーズや、鬼気迫る「鴉」のシリーズなどを撮り、1992年に東川賞を受賞。同年、東京・新宿の行きつけのバーの階段から転落して脳挫傷を負い、その後20年間は特別養護老人ホームで介護を受けながら暮らしました。活動終了後、国際的な評価が高まっています。
この特異な写真家の助手を務め、その後もプリントを多数手がけるなど、最も近いところにいたひとりである、写真家の瀬戸正人(1953~)が、先輩の横顔をつづった一冊。「日本カメラ」誌の連載をまとめました。
文章だけでなく、なにせ書かれる方も書く方も写真家なので、生前の貴重な写真・資料も多数収録されています。1982年、銀座ニコンサロンで開かれた個展で、高梨豊、森山大道、荒木経惟、深瀬の4人が一列に並んで談笑している写真を見ると
「お~、豪華メンバー」
と驚かされます。
また、深瀬だけではなく、荒木や森山、東松照明といった写真家も登場します。東松照明が壊れたレンズを持ち込み瀬戸正人が修復する場面など、深瀬昌久と直接関係ないけど、おもしろいです。
1970年代の日本写真史に残るワークショップ写真学校についても1章がさかれており、そのあたりも興味深いです。
(深瀬の作品や、写真集の表紙なども多数載っていますが、代表作といえる家族写真のシリーズはあまり収録されていません。おそらく肖像権などがネックになっているんだろうなあ)
瀬戸さんが深瀬昌久の事務所に勤めたのは、なんと森山大道さんの紹介でした。彼のワークショップに参加していて、助手を募集している事務所があるがどうだろうと言われた、というのです。
「コマーシャル写真の事務所だけど、そこに写真家の深瀬昌久さんもいるし、ちゃんと技術の習得をするのもいいと思うけど…」。そんな風に言われた気がする。街の写真ばかり撮っている森山さんが、コマーシャル写真の事務所を紹介するとは意外だったが、細江英公さんの助手を務めあげた森山さんだから、僕は何の疑いもなくその言葉を信じた。(51~52頁)
ただ深瀬さんは、もともと理論派でも饒舌でもないということもあるでしょうが、この本に出てくるのは、自前の写真論を語ったり、カメラを構えたりしている姿ではなく、山梨県の知り合いの別荘(というか家庭菜園のような場所)に出かけて猫をかわいがっているとか、美深に帰って川釣りに熱中するとか、そんな場面がほとんどです。
東京の夜の公園に行ってストロボをたいて、カラスの写真を撮ったら、大騒ぎになった挿話などは笑えますが。
僕は、戦後日本の写真ウイルスは三つの型に集約されると思っている。すなわちT型とM型、そして深瀬さんのF型だ。いやもう一つある。それは、後発ながら強靱で感染力も強力な荒木経惟のA型だ。(94頁)
Tは東松照明、Mは森山大道を指します。
このへんの感覚は分かるんですが、20世紀に登場して、モノクロフィルムで撮って自分で現像・プリントする世代の感覚だな~という気もします。タイのチェンマイでゲリラ的にヌードを撮る話とか、今後の世代からの共感は得づらいんじゃないかな。
で、これはネタバレになるから、ここでは詳述しませんけど、深瀬昌久の遺作は、中央公論の仕事で、文学の故郷を訪ねるという旅で北海道に行ったときにカメラに入っていたフィルムになるそうです。でも、このフィルムに映っている場所を、瀬戸さんが探して回るてんまつを読んで
「いや~、やっぱりこれはプロとして、やっちゃいかんだろう」
という感想が浮かんできました。
森山さんは「写真よさようなら」とばかりに実験や沈潜を経た末に、ストリートへと帰ってきたわけですが、深瀬昌久は、正気と狂気紙一重の実験を繰り返し、そのままあちら側にいっちゃったのかなあ。
もやもやしたままの読後、でした。
2020年12月刊。208ページ、税別1800円。
過去の関連記事へのリンク
深瀬昌久さん死去(写真家)