それにしても、じぶんがこんなに浮世絵好きだったとは、われながら意外だった。
なんたって、今回の旅行では、東京に泊まったのに、東京ではひとつも展覧会を見ないで、わざわざいわきまで来ているんだから。
この展覧会は、昨年5月、東京の太田記念美術館を皮切りに、金沢、萩(山口)、名古屋、神戸と巡回し、いわき市立美術館の会期も4月12日-5月18日となっている。残るは、6月1日-7月13日の長崎県美術館だけで、道内では開かれない。
むかしは、どうして美人画はみんなおんなじ顔をしているんだ! などと思っていたけれど(いまもすこしは思っていたけれど)、仔細に眺めてみれば、それぞれの画家でちがいがあることに気づく。
冒頭の画像は、喜多川歌麿「青楼遊君合鏡 玉屋内 春日野 歌浜」(1796-1804)である。
こうしてみると、われわれが「美人画」ということばを見て、まず脳裡に思い浮かべるのは、歌麿の絵ではないだろうか。
くらべてみると、道立近代美術館に大量のコレクションがあるために、なんだか親しみがわいてくる渓斎英泉は…。
これは「浮世四十八手 茶屋にまつやくそくの手」(1818-21)だけど、うーん、たしかに歌麿よりも頽廃的な美しさなのだ。
ただ、今回の展覧会で意外だったのは、英泉の風景画がなかなか渋いこと。
「木曽海道六拾九次之内 板鼻」は、松並木に雪が積もり、笠をかぶった人が静かに歩きゆく情景。空の淡い灰色と、わずかに茜色がかったグラデーションが、静けさを増しているような佳品だ。
会場では、歌麿と英泉のあいだに、役者の表情をじつに個性的にとらえた豊国や、ごぞんじ北斎「冨嶽三十六景」のシリーズなどがあった。北斎は、一昨年に札幌西武で見たものよりも保存状態は若干おちるが、奇抜な構図は何度見ても新鮮だ。
広重は、初期の貴重な作品もあったが、やはり見てしみじみとくるのは、「東海道五拾三次」のシリーズなどだろう。
札幌西武で、娘に絵のなかの文字を読んでやった「鞠子 名物茶店」などもあった。
画像は「木曽海道六拾九次之内 軽井沢」。
焚き火と、馬上のあんどんとが、淡い光を発するあたり、いかにも旅情を漂わせる、にくい表現だ。
このシリーズでは「下諏訪」なども、旅人が夕食を味わっている情景が、見る側にもしみじみと旅愁を感じさせる。
「洗馬」の、しだれ柳と舟のある風景や、「宮ノ越」の、淡くぼかされた遠景も、見事というしかない。
広重が、国木田独歩より半世紀以上も前にこういう表現の境地にたどり着いたことが、筆者には不思議でならないのだ。
さて、この浮世絵展の目玉のひとつは、あまり現存しないうちわの絵がたくさんきていること。
江戸時代には有名絵師の絵もうちわに用いられていたのだが、実用品だったのであまり現存していない。
画像は広重「箱根塔の沢湯場」(1855年2月)。
錦絵だと、藍色だけならさびしく感じることもあるだろうけど、どうです、この1枚。
夕闇に沈もうとする湯治場の情感が、藍色だけの画面で、かえってよくつたわってくる。
あと、この展覧会でおもしろかったのが、歌川貞秀の「新板早替」シリーズ。
おなじかたちの絵を切り取って、裏表に貼り付け、くるくるまわして変身を愉しむ一種のおもちゃらしい。
たとえば「からかさの化物」は、表側と裏側で表情が異なり、くるっとかえすと怖い絵になるからおもしろい。
でも、ほんとうにおもしろいのは「あさりの化物」と「はまぐりの化物」。
どこがちがうんじゃい!(笑)
こういうのを見ると、浮世絵というのはまさに庶民の楽しみであったのだなあとあらためて思うのだ。
なんたって、今回の旅行では、東京に泊まったのに、東京ではひとつも展覧会を見ないで、わざわざいわきまで来ているんだから。
この展覧会は、昨年5月、東京の太田記念美術館を皮切りに、金沢、萩(山口)、名古屋、神戸と巡回し、いわき市立美術館の会期も4月12日-5月18日となっている。残るは、6月1日-7月13日の長崎県美術館だけで、道内では開かれない。
むかしは、どうして美人画はみんなおんなじ顔をしているんだ! などと思っていたけれど(いまもすこしは思っていたけれど)、仔細に眺めてみれば、それぞれの画家でちがいがあることに気づく。
冒頭の画像は、喜多川歌麿「青楼遊君合鏡 玉屋内 春日野 歌浜」(1796-1804)である。
こうしてみると、われわれが「美人画」ということばを見て、まず脳裡に思い浮かべるのは、歌麿の絵ではないだろうか。
くらべてみると、道立近代美術館に大量のコレクションがあるために、なんだか親しみがわいてくる渓斎英泉は…。
これは「浮世四十八手 茶屋にまつやくそくの手」(1818-21)だけど、うーん、たしかに歌麿よりも頽廃的な美しさなのだ。
ただ、今回の展覧会で意外だったのは、英泉の風景画がなかなか渋いこと。
「木曽海道六拾九次之内 板鼻」は、松並木に雪が積もり、笠をかぶった人が静かに歩きゆく情景。空の淡い灰色と、わずかに茜色がかったグラデーションが、静けさを増しているような佳品だ。
会場では、歌麿と英泉のあいだに、役者の表情をじつに個性的にとらえた豊国や、ごぞんじ北斎「冨嶽三十六景」のシリーズなどがあった。北斎は、一昨年に札幌西武で見たものよりも保存状態は若干おちるが、奇抜な構図は何度見ても新鮮だ。
広重は、初期の貴重な作品もあったが、やはり見てしみじみとくるのは、「東海道五拾三次」のシリーズなどだろう。
札幌西武で、娘に絵のなかの文字を読んでやった「鞠子 名物茶店」などもあった。
画像は「木曽海道六拾九次之内 軽井沢」。
焚き火と、馬上のあんどんとが、淡い光を発するあたり、いかにも旅情を漂わせる、にくい表現だ。
このシリーズでは「下諏訪」なども、旅人が夕食を味わっている情景が、見る側にもしみじみと旅愁を感じさせる。
「洗馬」の、しだれ柳と舟のある風景や、「宮ノ越」の、淡くぼかされた遠景も、見事というしかない。
広重が、国木田独歩より半世紀以上も前にこういう表現の境地にたどり着いたことが、筆者には不思議でならないのだ。
さて、この浮世絵展の目玉のひとつは、あまり現存しないうちわの絵がたくさんきていること。
江戸時代には有名絵師の絵もうちわに用いられていたのだが、実用品だったのであまり現存していない。
画像は広重「箱根塔の沢湯場」(1855年2月)。
錦絵だと、藍色だけならさびしく感じることもあるだろうけど、どうです、この1枚。
夕闇に沈もうとする湯治場の情感が、藍色だけの画面で、かえってよくつたわってくる。
あと、この展覧会でおもしろかったのが、歌川貞秀の「新板早替」シリーズ。
おなじかたちの絵を切り取って、裏表に貼り付け、くるくるまわして変身を愉しむ一種のおもちゃらしい。
たとえば「からかさの化物」は、表側と裏側で表情が異なり、くるっとかえすと怖い絵になるからおもしろい。
でも、ほんとうにおもしろいのは「あさりの化物」と「はまぐりの化物」。
どこがちがうんじゃい!(笑)
こういうのを見ると、浮世絵というのはまさに庶民の楽しみであったのだなあとあらためて思うのだ。