「12月19日(土)のつぶやき」のコメント欄で、皇帝と王の話題が出ているので、ここらで話を整理しておく。
なお、以下に述べる知識は、高校時代と浪人時代に世界史の受験勉強をする過程で得たものであり、その後の史学の進展によってあるいは現状とそぐわなくなっている部分があるかもしれない。その場合はご容赦されたい。
端的にいうと
王は国の支配者・統治者
皇帝は世界の支配者・統治者
である。
世界、といっても、全地球ということではなく、インド亜大陸とか西洋とか、その時代に生きる人々にとって世界と認識されていた広大な地域という意味である。
したがって、皇帝のほうが格が上である。
もちろん、洋の東西で事情や来歴は異なる。
皇帝のドイツ語は「カイザル」、ロシア語は「ツァー」である。
これは、ローマの初代皇帝カエサル(英語読みはシーザー)に由来する。
古代においては、ローマが西洋のほとんどを支配していた。
しかし、強勢を誇ったローマも衰え、4世紀末には東西に分裂する。
必然的に皇帝も東西の二人になる。
東ローマ帝国はその後15世紀まで続き、皇帝は君臨する。
西ローマ帝国は5世紀、異民族の侵入で滅ぶ。
ただし、正教会と世俗の権力を一手に握っていた東ローマに対し、西ローマでは、カトリック教会の頂点は教皇(法王)になっていた。
西欧の群雄割拠にいったん終止符を打ったのが8-9世紀のカール大帝で、彼は教皇から皇帝の戴冠を受ける。つまり、フランク王国の王に「おぬしはローマの後継であるぞよ」とお墨付きを与えたわけだ。これが「神聖ローマ帝国」の起源となる。
ただし、カール大帝の死後は、フランク王国も分裂し、神聖ローマ皇帝というのは実権のない地位になる。
ドイツはしばらく、グリム童話に登場するような小さな王国がいくつも分立し、神聖ローマ皇帝は統治しないという時代が続くことになる。
つまり、皇帝の下に、王がたくさんいるという状態は、ふつうのことである。
ドイツの分裂にいったん終止符が打たれるのは19世紀初頭である。
さて、東ローマ帝国はイスラームの台頭や十字軍による略奪などで衰え、15世紀に滅亡する。
正教会のトップについては、ロシアが引き継ぐことを宣言し、以後、ロシアで「カエサルの後継」たる「ツァー」をいただく帝政が始まる。
なお、ロシアの帝室は、1918年に起きた革命で、全員処刑され、滅亡する。
話を西に戻す。
1789年に始まったフランス革命。ブルボン王朝がいったん滅ぶなどの混乱の中から飛び出して最高権力を握った男が、あのナポレオン・ボナパルトである。
彼は、ドイツをはじめ西欧各地をブルドーザーのように征服した。神聖ローマ帝国は消滅し、ナポレオンはローマ教皇から戴冠して皇帝を名乗るようになった。
その場面を描いたのが、ルーブル美術館にあるダヴィッド作の絵である。
しかし、ナポレオンは対ロシア戦争で敗北して没落。
西欧の皇帝は、神聖ローマ帝国時代のドイツで最も有力な王室であったオーストリアのハプスブルク家が継承することになり、これは第1次世界大戦後、オーストリアが領土の大半を失って共和国になるまで続く。
一方、ドイツは、分裂状態を克服して、1871年に統一を果たす。
その際、ドイツ全体の支配者として「ドイツ皇帝」の座についたのが、ハプスブルク家のライバルであったプロイセンのホーエンツォレルン家だったのだ。
もっとも、ドイツも第1次世界大戦に敗れて革命が起こり、皇帝は退位して共和国になった。
(共和国とは、王や皇帝など血縁による支配者のいない国のことです)
だから、第1次大戦後、一気に皇帝3人がいなくなったというわけだ。
なお、フランスでは、1852-70年、ナポレオンの甥がクーデタを起こして皇帝を名乗り支配者であった時代があった。これを第2帝政という。
東アジアで誰が最初の皇帝なのかは知らんが、広大な世界を初めて統一したのは、秦の始皇帝である(紀元前3世紀)。
以後、漢や唐がそれを引き継ぎ、周辺の衛星国は、漢、隋、唐、明といった中央王朝に朝貢することでその秩序の中に位置づけられる-という歴史が、清の滅亡する20世紀初頭までエンエンと続くことになる。
さっき「3人がいなくなった」と書いたけれど、辛亥革命で追われた清の皇帝を入れると、20世紀はじめだけで四つの帝政が消えたわけだ。
朝鮮の諸王朝をはじめ、ベトナム、渤海など周囲のことごとくの王たちは、唐や宋の皇帝にとっては、貢物を持って礼を尽くしてくる「格下」の存在ということになる(じつは、この上下関係の中で、チベットはちょっと違うのだが、話が長くなるので、今回は省略)。
ところが、東アジア秩序の中で、漢字をはじめさまざまなものを大陸から学んでいるくせに、公式には一度も朝貢をせず、対等を主張しつづける国があった。
それが、日本だ。
歴史的に見ると日本の皇室は、出雲とか岡山とかにある諸王朝をまとめ、その上に立つものという位置づけだから、単に「王」じゃなくて「帝」を名乗っているんだろう。
その帝室が7世紀、小野妹子に持たせて隋帝(煬帝)によこした手紙が、あの有名な「日出る処の天子」ってやつだ。
オスマン朝とかムガル帝国は、話が長くなるので省略。
以上、記憶を頼りにテキトーに書いてきたので、細部はまちがってるかもしれん。指摘願います。でも、アウトラインはだいたいこんなとこだと思う。
なお、以下に述べる知識は、高校時代と浪人時代に世界史の受験勉強をする過程で得たものであり、その後の史学の進展によってあるいは現状とそぐわなくなっている部分があるかもしれない。その場合はご容赦されたい。
1.どっちがえらいのか
端的にいうと
王は国の支配者・統治者
皇帝は世界の支配者・統治者
である。
世界、といっても、全地球ということではなく、インド亜大陸とか西洋とか、その時代に生きる人々にとって世界と認識されていた広大な地域という意味である。
したがって、皇帝のほうが格が上である。
もちろん、洋の東西で事情や来歴は異なる。
2.西洋の皇帝
皇帝のドイツ語は「カイザル」、ロシア語は「ツァー」である。
これは、ローマの初代皇帝カエサル(英語読みはシーザー)に由来する。
古代においては、ローマが西洋のほとんどを支配していた。
しかし、強勢を誇ったローマも衰え、4世紀末には東西に分裂する。
必然的に皇帝も東西の二人になる。
東ローマ帝国はその後15世紀まで続き、皇帝は君臨する。
西ローマ帝国は5世紀、異民族の侵入で滅ぶ。
ただし、正教会と世俗の権力を一手に握っていた東ローマに対し、西ローマでは、カトリック教会の頂点は教皇(法王)になっていた。
西欧の群雄割拠にいったん終止符を打ったのが8-9世紀のカール大帝で、彼は教皇から皇帝の戴冠を受ける。つまり、フランク王国の王に「おぬしはローマの後継であるぞよ」とお墨付きを与えたわけだ。これが「神聖ローマ帝国」の起源となる。
ただし、カール大帝の死後は、フランク王国も分裂し、神聖ローマ皇帝というのは実権のない地位になる。
ドイツはしばらく、グリム童話に登場するような小さな王国がいくつも分立し、神聖ローマ皇帝は統治しないという時代が続くことになる。
つまり、皇帝の下に、王がたくさんいるという状態は、ふつうのことである。
ドイツの分裂にいったん終止符が打たれるのは19世紀初頭である。
さて、東ローマ帝国はイスラームの台頭や十字軍による略奪などで衰え、15世紀に滅亡する。
正教会のトップについては、ロシアが引き継ぐことを宣言し、以後、ロシアで「カエサルの後継」たる「ツァー」をいただく帝政が始まる。
なお、ロシアの帝室は、1918年に起きた革命で、全員処刑され、滅亡する。
話を西に戻す。
1789年に始まったフランス革命。ブルボン王朝がいったん滅ぶなどの混乱の中から飛び出して最高権力を握った男が、あのナポレオン・ボナパルトである。
彼は、ドイツをはじめ西欧各地をブルドーザーのように征服した。神聖ローマ帝国は消滅し、ナポレオンはローマ教皇から戴冠して皇帝を名乗るようになった。
その場面を描いたのが、ルーブル美術館にあるダヴィッド作の絵である。
しかし、ナポレオンは対ロシア戦争で敗北して没落。
西欧の皇帝は、神聖ローマ帝国時代のドイツで最も有力な王室であったオーストリアのハプスブルク家が継承することになり、これは第1次世界大戦後、オーストリアが領土の大半を失って共和国になるまで続く。
一方、ドイツは、分裂状態を克服して、1871年に統一を果たす。
その際、ドイツ全体の支配者として「ドイツ皇帝」の座についたのが、ハプスブルク家のライバルであったプロイセンのホーエンツォレルン家だったのだ。
もっとも、ドイツも第1次世界大戦に敗れて革命が起こり、皇帝は退位して共和国になった。
(共和国とは、王や皇帝など血縁による支配者のいない国のことです)
だから、第1次大戦後、一気に皇帝3人がいなくなったというわけだ。
なお、フランスでは、1852-70年、ナポレオンの甥がクーデタを起こして皇帝を名乗り支配者であった時代があった。これを第2帝政という。
3.東洋の皇帝
東アジアで誰が最初の皇帝なのかは知らんが、広大な世界を初めて統一したのは、秦の始皇帝である(紀元前3世紀)。
以後、漢や唐がそれを引き継ぎ、周辺の衛星国は、漢、隋、唐、明といった中央王朝に朝貢することでその秩序の中に位置づけられる-という歴史が、清の滅亡する20世紀初頭までエンエンと続くことになる。
さっき「3人がいなくなった」と書いたけれど、辛亥革命で追われた清の皇帝を入れると、20世紀はじめだけで四つの帝政が消えたわけだ。
朝鮮の諸王朝をはじめ、ベトナム、渤海など周囲のことごとくの王たちは、唐や宋の皇帝にとっては、貢物を持って礼を尽くしてくる「格下」の存在ということになる(じつは、この上下関係の中で、チベットはちょっと違うのだが、話が長くなるので、今回は省略)。
ところが、東アジア秩序の中で、漢字をはじめさまざまなものを大陸から学んでいるくせに、公式には一度も朝貢をせず、対等を主張しつづける国があった。
それが、日本だ。
歴史的に見ると日本の皇室は、出雲とか岡山とかにある諸王朝をまとめ、その上に立つものという位置づけだから、単に「王」じゃなくて「帝」を名乗っているんだろう。
その帝室が7世紀、小野妹子に持たせて隋帝(煬帝)によこした手紙が、あの有名な「日出る処の天子」ってやつだ。
オスマン朝とかムガル帝国は、話が長くなるので省略。
以上、記憶を頼りにテキトーに書いてきたので、細部はまちがってるかもしれん。指摘願います。でも、アウトラインはだいたいこんなとこだと思う。
しかし、今まで四十年あまり生きてきて王と皇帝の違いについて語ってくれる人も教えてくれる人もなく、自分でもその違いを追求する気が全く起きてこなかったということに改めて驚きます。
これでも、だいぶはしょって書いたんですけど。
あと、日本は、形式的には東アジアの華夷秩序に組み込まれていないというのも、誤解している人がいると思います。
その程度の歴史も知らずに日本を属国視する支那人には困ったものです。