北広島市の河田隆子さんは、二紀展、道展に連続入選していましたが、昨年12月に62歳で亡くなりました。
7月11日の北海道新聞北広島版によると、河田さんは1973年、北広島(当時は石狩管内広島町)の「グループ連」結成に当時最年少で参加したそうです。今回の遺作展も、遺族や「連」の仲間が中心に開催し、団体公募展に出品した100-130号から小品までおよそ50点を展示しました。
河田さんは2002年、スカイホール(札幌)で個展をひらいています。
そのとき筆者は「ピカソみたいなキュビスム風室内画」とかんたんに片付けてしまいました。もうすこしくわしく書くと、木製の卓上にマンドリンなどの絃楽器や花瓶などを載せ、手前にいすを置いた上で、画面全体に斜めの直線を数本引き、透視図法的な整合性よりも、その斜めの線によって生まれるリズムや動勢を優先して構図をつくるという手法です。
うまく説明するのはむつかしいのですが、ピカソが1920年代以降おびただしい数を描いた、食器や花瓶などの静物画を、室内全体にまで拡張したともいえそうです。
たしかにこの手法は、二紀展や二科展ではさほどめずらしいものではありませんでした。ただ、河田さんの場合はかなり自覚的というか、徹底していました。床を格子状の模様にしている場合が多いのですが、このことによって、絵画空間が透視図法によっていないことをあえて鮮明にする結果を生んでいます。床のあちこちで高低が生じ、まったくつじつまが合っていません(もちろん、わざとやっているのです)。テーブルのひきだしは、開いたり閉まったり、絵によって違います。空間づくりにどれだけ腐心していたか、はかりしれません。
絶筆の静物画は、河田さんにはめずらしく横位置で、やはり卓上には、鳥かごやマンドリン、観葉植物が載っています。
マンドリンには絃がはられていません。彼女の遺作は、永遠に音を奏でることなく終わってしまったのでしょうか。
小品は人物や風景などを自由に描いていました。
あらためてご冥福を祈ります。
2009年7月8日(水)-12日(日)10:00-18:00 (最終日-17:00)
北広島市芸術文化ホール(北広島市中央6-2-1)
7月11日の北海道新聞北広島版によると、河田さんは1973年、北広島(当時は石狩管内広島町)の「グループ連」結成に当時最年少で参加したそうです。今回の遺作展も、遺族や「連」の仲間が中心に開催し、団体公募展に出品した100-130号から小品までおよそ50点を展示しました。
河田さんは2002年、スカイホール(札幌)で個展をひらいています。
そのとき筆者は「ピカソみたいなキュビスム風室内画」とかんたんに片付けてしまいました。もうすこしくわしく書くと、木製の卓上にマンドリンなどの絃楽器や花瓶などを載せ、手前にいすを置いた上で、画面全体に斜めの直線を数本引き、透視図法的な整合性よりも、その斜めの線によって生まれるリズムや動勢を優先して構図をつくるという手法です。
うまく説明するのはむつかしいのですが、ピカソが1920年代以降おびただしい数を描いた、食器や花瓶などの静物画を、室内全体にまで拡張したともいえそうです。
たしかにこの手法は、二紀展や二科展ではさほどめずらしいものではありませんでした。ただ、河田さんの場合はかなり自覚的というか、徹底していました。床を格子状の模様にしている場合が多いのですが、このことによって、絵画空間が透視図法によっていないことをあえて鮮明にする結果を生んでいます。床のあちこちで高低が生じ、まったくつじつまが合っていません(もちろん、わざとやっているのです)。テーブルのひきだしは、開いたり閉まったり、絵によって違います。空間づくりにどれだけ腐心していたか、はかりしれません。
絶筆の静物画は、河田さんにはめずらしく横位置で、やはり卓上には、鳥かごやマンドリン、観葉植物が載っています。
マンドリンには絃がはられていません。彼女の遺作は、永遠に音を奏でることなく終わってしまったのでしょうか。
小品は人物や風景などを自由に描いていました。
あらためてご冥福を祈ります。
2009年7月8日(水)-12日(日)10:00-18:00 (最終日-17:00)
北広島市芸術文化ホール(北広島市中央6-2-1)
もっと筆を執り続けて、いい絵を描いてほしい方でした。