札幌の若手画家で、個展やグループ展、「絵画の場合」などで発表をつづけている小林さんが、会場をたくみに使った展覧会をひらいています。
メーンとなる作品は、冒頭の画像と、つぎの画像で、ほぼ全体像となりますが、要するに、ロールキャンバス(幅1.4メートルの一般的なもの)10メートルぶんのうち8メートルに絵を描き、はとめ20個をつけて、天井からぐるっとつるしています。冒頭画像の右端が、次の画像の左側につながります。
壁にぴったりとつけることをせず、隅はまるくしていることから、パリのオランジェリー美術館の地下展示室に展示されているモネ「睡蓮」を聯想(れんそう)した人もいたようです。
昨年秋の「絵画の場合」展でドローイングが発表されていたものなど、5つの風景を、ひとつの画面に構成しなおしています。
「絵画の場合」展でも目を引いた金網はここでも健在です。
ただ、小林さんの絵としては、これまでになく色調が明るいためか、また、空間を取り巻いている絵は、360°のうち130°程度ということもあるのか、以前ほど閉塞感(へいそくかん)はありません。
もとになっている映像は、携帯電話のカメラで撮った写真で、冒頭画像の右の太い斜線は、携帯のストラップだそうです。
また、木を持つ後ろ向きの男性がふたり描かれていますが、これは小林さんの祖父とのことです。
でも、それらを知っても知らなくても、絵画の鑑賞にはさして関係ないのかもしれませんが。
2枚目の画像の、中央右より部分の拡大図です。
おなじく、中央左寄り部分の拡大。
作者によると、着衣姿だそうですが、筆者の目には、セザンヌの大水浴に登場する人物のように見えてしかたありません。
作品の右端で、クレーターのようなものは、ダムの一種なんだそうです。なんだか、恐ろしい雰囲気があります。
この画像で分かるとおり、右端はくるくるとキャンバスが巻かれています。
会場の三方(正確には「二方向と半分」)を絵がとりまいているため、会場の内部には、作品全体を一度に見渡せるポイントがありません。
そのため、鑑賞者は、会場内を歩きまわって、絵から離れたり近づいたりしながら、見なくてはならないのです。
「全体を見通せる特権的な位置」の存在を拒否するあたりに、この作品をとくかぎが潜んでいるのかもしれません。
このメーン作品のほか、小品14点が、額装されずに、会場のあちらこちらに飾られています。
上の画像の2点は、会場のtemporary spaceを特徴づける、はしごで昇ったところの「2階」に展示されています。
入り口附近に展示されている3点のうちの1点。
これは作者自身だそうです。
つまり「風景にみられている私」です。
下のリンク先にありますが、2000年に、まだ学生だった小林さんがひらいた2人展は「風景」がテーマでした。ただ、今回の個展に際して彼女はそのことをすっかりわすれていたそうです。
字義どおりの「風景」ではなく、作者の中に取り入れられたあと、咀嚼(そしゃく)され、解体され、再構成された風景。
それは、ロマン派的な時代の文脈で発見された風景ではなく、人々の共同性が喪失し、個々が、相互に孤立した風景を眺めている21世紀にふさわしい風景画のありかたのような気もするのですが。となると、小林さんの絵は、エドワード・ホッパーなんかよりもはるかに都市の孤独に寄り添っているともいえるでしょうか。
ちょっと社会的なコンテキストに偏りすぎな見方かも…、と、自分で書いてて思ったりもします。
08年5月9日(金)-15日(木)11:00-19:00
テンポラリースペース(北区北16西5 地図H)
□小林さんのホームページ http://www.tonden-street.com/kobayashi/
■絵画の場合(07年1月)
■アートあけぼの冬のプログラム(06年)
■絵画の場合2005
■札幌の美術2004
■お宝展(わたしのお宝交換プロジェクト)=03年、画像なし
■小林麻美個展(02年、画像なし)
■ふくらめる湿度(01年)
メーンとなる作品は、冒頭の画像と、つぎの画像で、ほぼ全体像となりますが、要するに、ロールキャンバス(幅1.4メートルの一般的なもの)10メートルぶんのうち8メートルに絵を描き、はとめ20個をつけて、天井からぐるっとつるしています。冒頭画像の右端が、次の画像の左側につながります。
壁にぴったりとつけることをせず、隅はまるくしていることから、パリのオランジェリー美術館の地下展示室に展示されているモネ「睡蓮」を聯想(れんそう)した人もいたようです。
昨年秋の「絵画の場合」展でドローイングが発表されていたものなど、5つの風景を、ひとつの画面に構成しなおしています。
「絵画の場合」展でも目を引いた金網はここでも健在です。
ただ、小林さんの絵としては、これまでになく色調が明るいためか、また、空間を取り巻いている絵は、360°のうち130°程度ということもあるのか、以前ほど閉塞感(へいそくかん)はありません。
もとになっている映像は、携帯電話のカメラで撮った写真で、冒頭画像の右の太い斜線は、携帯のストラップだそうです。
また、木を持つ後ろ向きの男性がふたり描かれていますが、これは小林さんの祖父とのことです。
でも、それらを知っても知らなくても、絵画の鑑賞にはさして関係ないのかもしれませんが。
2枚目の画像の、中央右より部分の拡大図です。
おなじく、中央左寄り部分の拡大。
作者によると、着衣姿だそうですが、筆者の目には、セザンヌの大水浴に登場する人物のように見えてしかたありません。
作品の右端で、クレーターのようなものは、ダムの一種なんだそうです。なんだか、恐ろしい雰囲気があります。
この画像で分かるとおり、右端はくるくるとキャンバスが巻かれています。
会場の三方(正確には「二方向と半分」)を絵がとりまいているため、会場の内部には、作品全体を一度に見渡せるポイントがありません。
そのため、鑑賞者は、会場内を歩きまわって、絵から離れたり近づいたりしながら、見なくてはならないのです。
「全体を見通せる特権的な位置」の存在を拒否するあたりに、この作品をとくかぎが潜んでいるのかもしれません。
このメーン作品のほか、小品14点が、額装されずに、会場のあちらこちらに飾られています。
上の画像の2点は、会場のtemporary spaceを特徴づける、はしごで昇ったところの「2階」に展示されています。
入り口附近に展示されている3点のうちの1点。
これは作者自身だそうです。
つまり「風景にみられている私」です。
下のリンク先にありますが、2000年に、まだ学生だった小林さんがひらいた2人展は「風景」がテーマでした。ただ、今回の個展に際して彼女はそのことをすっかりわすれていたそうです。
字義どおりの「風景」ではなく、作者の中に取り入れられたあと、咀嚼(そしゃく)され、解体され、再構成された風景。
それは、ロマン派的な時代の文脈で発見された風景ではなく、人々の共同性が喪失し、個々が、相互に孤立した風景を眺めている21世紀にふさわしい風景画のありかたのような気もするのですが。となると、小林さんの絵は、エドワード・ホッパーなんかよりもはるかに都市の孤独に寄り添っているともいえるでしょうか。
ちょっと社会的なコンテキストに偏りすぎな見方かも…、と、自分で書いてて思ったりもします。
08年5月9日(金)-15日(木)11:00-19:00
テンポラリースペース(北区北16西5 地図H)
□小林さんのホームページ http://www.tonden-street.com/kobayashi/
■絵画の場合(07年1月)
■アートあけぼの冬のプログラム(06年)
■絵画の場合2005
■札幌の美術2004
■お宝展(わたしのお宝交換プロジェクト)=03年、画像なし
■小林麻美個展(02年、画像なし)
■ふくらめる湿度(01年)
会場でお会いしましたが、あの取材がこのようなかたちに!と感動しました~。アートブロガーの技ひかりますね。
私は「作者の中に取り入れられたあと、咀嚼され、解体され、再構成された風景」という絵の作り方に山水画・中国文化圏的(あるいはヨーロッパ近世)な絵画を連想します。
と同時に、網目の部分や画面のゆがみにはワーキングスペースやピカソの絵画のようなリテラルな字義通りの空間(コラージュみたいな空間性)が同時にあって(モネって指摘もいいですね)
ねむいヤナイさんのおっしゃるように「作品全体を一度に見渡せるポイントがありません。そのため、鑑賞者は、会場内を歩きまわって、絵から離れたり近づいたりしながら、見なくてはならないのです」という鑑賞スタイルに鑑賞者を誘導する点や、メイン画面のような「見る風景」と別画面としての「見られる自分」という相互関係の暗示?みたいな仕掛けが同時にあるところが面白いですね。
風景詳しくないので勉強しなおしたいです。(長文ごめんなさい・・)
とりあえず会場の雰囲気が伝われば…と。
で、山水画なんですが、あれは「理想的風景」というのがカギで、そこが近代以降コバヤシさんまでの風景画との違いではないですかねえ。
>理想的風景
そうでした!その点は大事ですね。
作り方の手順は似ているのだけれど「何を」というストーリーの部分はまったく違いますね。
>孤独
私、小林さんの今回の表現をついつい近代的自我っぽい孤独と結びつけてしまうのですが「小林さんって寂しい人」と言いたい訳ではないのです。
そのあたりのことを「都市の孤独に寄り添っている」とうまく言い当てているやないさん・・・と思いました。
「130°程度」というのは、コバヤシさんのことばです。しかし、角度として、合ってるのかな?
>「小林さんって寂しい人」と言いたい訳ではないのです。
わかります。だいじょうぶです。
もちろん、作家は「寂しい」部分がまったくないと、それはそれで困るわけですが。
>コバヤシさん
個展、お疲れさまでした。
たぶん、小林さんの絵を、いわゆる「風景画」に引き寄せすぎて考えると、あらぬ方向に行ってしまうのではないかと思います。
まだまだヤナイも考えなくてはならないことがいっぱいです。
そのうちまた、ゆっくりお話ししましょう。
初めて行ったので、あそこに2階があること知らなくて・・・(汗)
わざわざ札幌までいらしていたのですね。
小林さんは今回、会場のレプリカ(縮小模型)に細長い紙をすえつけて、全体のサイズなどを、まさに計算してからのぞんだようです。
2階は、上るのは、けっこう危ないです。
はじめまして、すごく嬉しいコメントありがとうございます。網は、網膜を意識させてくれるモチーフです。ご高覧頂いた作品は 網目の景色(木を運ぶ人)というタイトルなのですが、一つ前の展覧会では、(もうもくのけしき)とルビをふっていました。
網目よりも網膜に意識が強かったからと思います。
作品をみて、そう思ってくださったのであれば、
私自身は、報われた思いです。
遠方からいらっしゃってくださったのでしょうか。
本当にありがとうございました。
小林麻美