楢原地区は、上野村役場の西約7kmのところ
上野村役場北側の道路を西へ出て、約100mで左(南)へ、道成りに進みます
約400mで右(西)へ国道299・462号重複線です
道成りに約5kmで「小海・ぶどう峠⇐」「御巣鷹の尾根」の標識に従って斜め左(南西)へはいります

約1.3km「白井関所ののイチイ⇒」の案内板が有りますので鋭角に坂道を上って行きます

約800mで「休憩所」前の
駐車スペースに入りました

地区の案内図です、右側に目的の「白井関所跡のイチイ」・「白井の大桑」も載っています

裏面の説明書きです
白井集落の歴史
1、十石(峠)街道の白井の市
十石(峠)街道は中山道新町宿から神流川に沿って、上流の山中領を通り上信国境の十石峠を越えて甲州街道に合流する。
「十石峠」の由来は、信州から佐久米が1日10石(約1500kg)馬で白井へ運び込まれたことによる。
白井集落には米穀屋を始め、宿屋、質屋、酒造業、飲食店などがあり、毎月、定期市が開かれ繁栄した。
市には、上州、武州、信州から商人が集り、米を中心に各地の物産交易が明治中頃まで続いた。白井集落の真ん中に寛文13年(1673)の銘のある市神様(村指定重要文化財)の祠が祭られている。
2、白井関所
寛永8年(1631)江戸幕府が中山道の脇往還として信州への往来取締りのため設置、番人2人ずつを板葺き屋根の番屋(5間×5間半)に配置しました。
関所は集落東の「白井関所跡のイチイ」付近にあった。主な通行人は参詣人、廻国巡礼、湯治客、職人、商人などであり。明治2年(1869)廃止された。
3、秩父事件の宿営地
明治17年(1884)11月1日、明治政府のデフレ政策などで困窮した秩父地方を中心に西南上州などからも加わった農民らが椋神社(現・秩父市)へ終結、国民党軍を組織し政府、警察、軍隊と戦った。(秩父事件)
国民党軍の本体が解体後、菊池寛平(現・長野県北相木村出身)の率いる一隊百数十人は、11月6日、上山郷(現・上野村)へ入り、山中領中山郷の同行者含め数百人が白井集落に宿営し、村民などが焚出し等にあたった。
翼7日、一行の多くは十石峠へ向かい、途中山越で帰村する者もいたが信州での戦闘の末、9日、野辺山の原で潰滅した。
当時、上山郷には公認自由党員や賛同する村民もいて困民党軍の行動に理解を示す者もいたらしい。
事件は長い間「秩父暴動」として悪事、犯罪とされてきたが、近年、自由民権運動の一環で正当な行動として評価・顕彰されている。
平成21年3月 上野村教育委員会

東へ進みます

道路左手に「市神様」です

説明版です
上野村指定有形民俗文化財
白井の市神様
所在地 上野村大字楢原字白井1167番地
管理者 白井集落
指定年月日 昭和55年7月7日
十石峠の名の由来は、信州から1日10石(約1500kg)の佐久米が「十石馬子唄」を歌いながら馬で信州から運ばれてきたことによるといわれています。
この地に毎月、3・7・11・16・20・24・28の7日間、市が開かれ上州・武州・信州から商人が集り、信州から味噌・醤油・衣類・日用品など、上州からは木炭・木鉢・下駄・和紙・薬草・栗の実・繭など、各地の物産の交易が行われました。
米問屋7軒を始め、宿屋・酒屋・質屋・飲食店など多くの商店があり、活気のある集落で明治中頃まで繁栄していました。
旧街道端に寛文13年(1672)の銘がある市神様を祀った石宮が現存しています。
集落東端の「白井関所跡のイチイ」附近には、白井関所が寛永8年(1631)に設置され、江戸幕府が中山道の脇往還として取り締まっていましたが、明治2年(1869)に廃止されました。
平成22年3月 上野村教育委員会

更に東へ進みます

目的の「白井関所のイチイの樹冠」が見えました
案内図に”声を掛けて下さい”とありましたが、お留守のようでしたのでここまでにしました

ズームアップしました(イチイに根元には説明版があるはずですが、見えませんね~)

南西側から

更に南東へ、車庫の脇に「白井関所跡」の石碑です

ここを左上へ進みました

石仏が並びます

一番大きなお地蔵様です

すぐ東側にも石仏が並びます、後ろの建物は「白井集会所」です

三面八臂像です

坂道を登って行くと左手に目立つ木が見えて来ます

ズームアップしてみました、目的の大クワです


東側へ登って来ました
では、戻って次へ行きましょう

2024・8・23・13・55
上野村役場北側の道路を西へ出て、約100mで左(南)へ、道成りに進みます
約400mで右(西)へ国道299・462号重複線です
道成りに約5kmで「小海・ぶどう峠⇐」「御巣鷹の尾根」の標識に従って斜め左(南西)へはいります

約1.3km「白井関所ののイチイ⇒」の案内板が有りますので鋭角に坂道を上って行きます


約800mで「休憩所」前の


地区の案内図です、右側に目的の「白井関所跡のイチイ」・「白井の大桑」も載っています


裏面の説明書きです
白井集落の歴史
1、十石(峠)街道の白井の市
十石(峠)街道は中山道新町宿から神流川に沿って、上流の山中領を通り上信国境の十石峠を越えて甲州街道に合流する。
「十石峠」の由来は、信州から佐久米が1日10石(約1500kg)馬で白井へ運び込まれたことによる。
白井集落には米穀屋を始め、宿屋、質屋、酒造業、飲食店などがあり、毎月、定期市が開かれ繁栄した。
市には、上州、武州、信州から商人が集り、米を中心に各地の物産交易が明治中頃まで続いた。白井集落の真ん中に寛文13年(1673)の銘のある市神様(村指定重要文化財)の祠が祭られている。
2、白井関所
寛永8年(1631)江戸幕府が中山道の脇往還として信州への往来取締りのため設置、番人2人ずつを板葺き屋根の番屋(5間×5間半)に配置しました。
関所は集落東の「白井関所跡のイチイ」付近にあった。主な通行人は参詣人、廻国巡礼、湯治客、職人、商人などであり。明治2年(1869)廃止された。
3、秩父事件の宿営地
明治17年(1884)11月1日、明治政府のデフレ政策などで困窮した秩父地方を中心に西南上州などからも加わった農民らが椋神社(現・秩父市)へ終結、国民党軍を組織し政府、警察、軍隊と戦った。(秩父事件)
国民党軍の本体が解体後、菊池寛平(現・長野県北相木村出身)の率いる一隊百数十人は、11月6日、上山郷(現・上野村)へ入り、山中領中山郷の同行者含め数百人が白井集落に宿営し、村民などが焚出し等にあたった。
翼7日、一行の多くは十石峠へ向かい、途中山越で帰村する者もいたが信州での戦闘の末、9日、野辺山の原で潰滅した。
当時、上山郷には公認自由党員や賛同する村民もいて困民党軍の行動に理解を示す者もいたらしい。
事件は長い間「秩父暴動」として悪事、犯罪とされてきたが、近年、自由民権運動の一環で正当な行動として評価・顕彰されている。
平成21年3月 上野村教育委員会

東へ進みます


道路左手に「市神様」です


説明版です
上野村指定有形民俗文化財
白井の市神様
所在地 上野村大字楢原字白井1167番地
管理者 白井集落
指定年月日 昭和55年7月7日
十石峠の名の由来は、信州から1日10石(約1500kg)の佐久米が「十石馬子唄」を歌いながら馬で信州から運ばれてきたことによるといわれています。
この地に毎月、3・7・11・16・20・24・28の7日間、市が開かれ上州・武州・信州から商人が集り、信州から味噌・醤油・衣類・日用品など、上州からは木炭・木鉢・下駄・和紙・薬草・栗の実・繭など、各地の物産の交易が行われました。
米問屋7軒を始め、宿屋・酒屋・質屋・飲食店など多くの商店があり、活気のある集落で明治中頃まで繁栄していました。
旧街道端に寛文13年(1672)の銘がある市神様を祀った石宮が現存しています。
集落東端の「白井関所跡のイチイ」附近には、白井関所が寛永8年(1631)に設置され、江戸幕府が中山道の脇往還として取り締まっていましたが、明治2年(1869)に廃止されました。
平成22年3月 上野村教育委員会

更に東へ進みます


目的の「白井関所のイチイの樹冠」が見えました

案内図に”声を掛けて下さい”とありましたが、お留守のようでしたのでここまでにしました

ズームアップしました(イチイに根元には説明版があるはずですが、見えませんね~)


南西側から


更に南東へ、車庫の脇に「白井関所跡」の石碑です


ここを左上へ進みました


石仏が並びます


一番大きなお地蔵様です


すぐ東側にも石仏が並びます、後ろの建物は「白井集会所」です


三面八臂像です


坂道を登って行くと左手に目立つ木が見えて来ます


ズームアップしてみました、目的の大クワです



東側へ登って来ました

では、戻って次へ行きましょう


2024・8・23・13・55
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