ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です
その前の4月12日八代市内へ・・・
八代市役所は現在工事中です、市役所の西側に
八代城跡公園が有り、本丸跡には八代宮が鎮座します
JR鹿児島本線やつしろ駅前から市内循環バスに乗り
市役所前で降りました、城跡の南東側です。
中心市街地マップも確認しました
南側の八代宮参道から城跡公園入口です
城跡の案内板です
説明書きです
国指定史跡 八代城跡
元和8年(1622年)に築城された八代
城とその城下町八代町は、今も江戸時代の姿
をよくとどめています。築城当時からある周
辺のお寺や神社は現在も同じ位置にあり、当
時の町割りが今の人々の暮らしの中に受け継
がれています。
八代城の中心となる本丸には、大小の天守
台と8つの櫓が築かれ、中央には大規模な本
丸御殿が設けられていました。外観4層、地
下1階の大天守がありましたが、寛文12年
(1672年)に落雷で焼失し、その後は再
建されませんでした。
現在は、お堀と石垣の一部が残り、本丸跡
には明治16年(1883年)に八代宮の社
殿が落成しました。八代城跡は今なお八代市
中心部のシンボルとなっています。
堀に掛かる橋の上から左右の石垣を見ました、かつてはこの橋はなかったのです
石垣を切って参道を造ったわけですね、鳥居の位置が大手門の位置です
二ノ丸とされている部分が堀の南側道路から東側に回って市役所の位置です
では、かつての順路から行きましょう(余呉くんのお城のページが参向になりました)
城跡の南東側石垣です、二の丸が鈎の手に曲がっている部分です
東側の本丸入り口欄干橋です
南側と
北側の石垣です
枡形虎口です
高麗門跡・欄干橋跡の標柱です
高麗門は本丸の正面にあたる表枡形門の
一の門です。枡形門とは四方を石垣で囲み、
敵の直進を避けるとともに、敵の側面及び
背面から攻撃するために喰い違う二箇所に
門を設けたものです。一の門には幅二間一
尺の高麗門を設けていました。この高麗門
は、現在本町一丁目の本成寺に移されてい
ます。二の門は頬当御門と呼ばれて東西九
間南北三間を測り、石垣の上に設けられて
いた櫓門でした。また、欄干橋は本来木造
の太鼓橋で、八代城築城年を示す元和8年
(1622)銘の擬宝珠が残されています
。
枡形内から東側高麗門と欄干橋方向を見ました、石垣が高麗門の土台ですね
北に向って直角に曲がると石垣の間に頬当御門と呼ばれた櫓門が有ったようです
また直角に西に向きます、白い壁が八代宮社務所の建物です、かつての本丸御殿の位置です
さて、南側に回りましょう
南側石垣への石段です、八代宮参道西側井戸の所です
南側石垣の上から東を見ました、切られてしまった部分と横箭掛の石垣です
南側の石垣上を西へ行きます、まだ桜が残っています
月見櫓の標柱です
本丸の南西隅に建つ月見櫓は二階建ての
櫓です。一階は梁間五間・桁行六間、二階
は梁間三間・桁行四間の大きさが有ります
。屋根は入母屋造で、本瓦葺です。北側の
小天守との間は「石落とし」二箇所を持つ
三十八間の長塀が有ります。また、東側の
十二間櫓との間は、同じく「石落とし」二
箇所を持つ四十六間の長塀で結ばれていま
す。
北へ進みます
小天守台です
小天守跡の標柱です
小天守は東西九間、南北四間半を測る外
観二層内観三階(地下部分を含む)でした
。大天守とは東西四間・南北八間の渡櫓で
結ばれており、当時は大天守の下の平場か
ら石段を登って小天守の地階に入り、渡櫓
を通って大天守の地階へと通じていました
。
小天守の地階部分の石垣と大天守台です
大天守地階への入り口です
東側から天守台の石垣です
大天守跡の標柱です
大天守は、東西十間、南北十一間を測る
外観五層内観六階(地階部分を含む)でし
た。屋根の両棟には鯱が載って偉容を誇っ
ていましたが、築城から五十三年後の寛文
十二年(1672)2月19日落雷による
火事で焼失してしまい、その後再建される
ことはありませんでした。
天守台には、昭和天皇の展望碑が建てられています
北側の展望です、堀の北側には三の丸と北の丸です
北側の虎口の守り、唐人櫓への石垣です
では、北側の虎口からの入り口を確認しましょう
北西側から天守台です
北東側から
屋根の付いた廊下橋と廊下橋門の石垣です
廊下橋門の標柱です
廊下橋門は、本丸の搦手口にあたる裏枡
形門の一の門です。枡形門とは四方を石垣
で囲み、敵の直進を巡すとともに、敵の側
面及び背面から攻撃するために喰い違う二
箇所に門を設けたものです。廊下橋門は両
側の石垣の間に東西五間、南北二間藩の櫓
門で、その下部に門を設けていました。現
在でも門の礎石が残されています。
枡形です
埋門跡の標柱です、北側の枡形二の門です
門の内側右手石垣の上には唐人櫓が有りました
では、次は北の丸にある臥龍梅です
その前の4月12日八代市内へ・・・
八代市役所は現在工事中です、市役所の西側に
八代城跡公園が有り、本丸跡には八代宮が鎮座します
JR鹿児島本線やつしろ駅前から市内循環バスに乗り
市役所前で降りました、城跡の南東側です。
中心市街地マップも確認しました
南側の八代宮参道から城跡公園入口です
城跡の案内板です
説明書きです
国指定史跡 八代城跡
元和8年(1622年)に築城された八代
城とその城下町八代町は、今も江戸時代の姿
をよくとどめています。築城当時からある周
辺のお寺や神社は現在も同じ位置にあり、当
時の町割りが今の人々の暮らしの中に受け継
がれています。
八代城の中心となる本丸には、大小の天守
台と8つの櫓が築かれ、中央には大規模な本
丸御殿が設けられていました。外観4層、地
下1階の大天守がありましたが、寛文12年
(1672年)に落雷で焼失し、その後は再
建されませんでした。
現在は、お堀と石垣の一部が残り、本丸跡
には明治16年(1883年)に八代宮の社
殿が落成しました。八代城跡は今なお八代市
中心部のシンボルとなっています。
堀に掛かる橋の上から左右の石垣を見ました、かつてはこの橋はなかったのです
石垣を切って参道を造ったわけですね、鳥居の位置が大手門の位置です
二ノ丸とされている部分が堀の南側道路から東側に回って市役所の位置です
では、かつての順路から行きましょう(余呉くんのお城のページが参向になりました)
城跡の南東側石垣です、二の丸が鈎の手に曲がっている部分です
東側の本丸入り口欄干橋です
南側と
北側の石垣です
枡形虎口です
高麗門跡・欄干橋跡の標柱です
高麗門は本丸の正面にあたる表枡形門の
一の門です。枡形門とは四方を石垣で囲み、
敵の直進を避けるとともに、敵の側面及び
背面から攻撃するために喰い違う二箇所に
門を設けたものです。一の門には幅二間一
尺の高麗門を設けていました。この高麗門
は、現在本町一丁目の本成寺に移されてい
ます。二の門は頬当御門と呼ばれて東西九
間南北三間を測り、石垣の上に設けられて
いた櫓門でした。また、欄干橋は本来木造
の太鼓橋で、八代城築城年を示す元和8年
(1622)銘の擬宝珠が残されています
。
枡形内から東側高麗門と欄干橋方向を見ました、石垣が高麗門の土台ですね
北に向って直角に曲がると石垣の間に頬当御門と呼ばれた櫓門が有ったようです
また直角に西に向きます、白い壁が八代宮社務所の建物です、かつての本丸御殿の位置です
さて、南側に回りましょう
南側石垣への石段です、八代宮参道西側井戸の所です
南側石垣の上から東を見ました、切られてしまった部分と横箭掛の石垣です
南側の石垣上を西へ行きます、まだ桜が残っています
月見櫓の標柱です
本丸の南西隅に建つ月見櫓は二階建ての
櫓です。一階は梁間五間・桁行六間、二階
は梁間三間・桁行四間の大きさが有ります
。屋根は入母屋造で、本瓦葺です。北側の
小天守との間は「石落とし」二箇所を持つ
三十八間の長塀が有ります。また、東側の
十二間櫓との間は、同じく「石落とし」二
箇所を持つ四十六間の長塀で結ばれていま
す。
北へ進みます
小天守台です
小天守跡の標柱です
小天守は東西九間、南北四間半を測る外
観二層内観三階(地下部分を含む)でした
。大天守とは東西四間・南北八間の渡櫓で
結ばれており、当時は大天守の下の平場か
ら石段を登って小天守の地階に入り、渡櫓
を通って大天守の地階へと通じていました
。
小天守の地階部分の石垣と大天守台です
大天守地階への入り口です
東側から天守台の石垣です
大天守跡の標柱です
大天守は、東西十間、南北十一間を測る
外観五層内観六階(地階部分を含む)でし
た。屋根の両棟には鯱が載って偉容を誇っ
ていましたが、築城から五十三年後の寛文
十二年(1672)2月19日落雷による
火事で焼失してしまい、その後再建される
ことはありませんでした。
天守台には、昭和天皇の展望碑が建てられています
北側の展望です、堀の北側には三の丸と北の丸です
北側の虎口の守り、唐人櫓への石垣です
では、北側の虎口からの入り口を確認しましょう
北西側から天守台です
北東側から
屋根の付いた廊下橋と廊下橋門の石垣です
廊下橋門の標柱です
廊下橋門は、本丸の搦手口にあたる裏枡
形門の一の門です。枡形門とは四方を石垣
で囲み、敵の直進を巡すとともに、敵の側
面及び背面から攻撃するために喰い違う二
箇所に門を設けたものです。廊下橋門は両
側の石垣の間に東西五間、南北二間藩の櫓
門で、その下部に門を設けていました。現
在でも門の礎石が残されています。
枡形です
埋門跡の標柱です、北側の枡形二の門です
門の内側右手石垣の上には唐人櫓が有りました
では、次は北の丸にある臥龍梅です