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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

熊本県八代市、松代城町「八代城跡」です!!

2020-04-30 06:36:18 | 城跡・館跡・陣屋跡
ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前の4月12日八代市内へ・・・

八代市役所は現在工事中です、市役所の西側に

八代城跡公園が有り、本丸跡には八代宮が鎮座します

JR鹿児島本線やつしろ駅前から市内循環バスに乗り

市役所前で降りました、城跡の南東側です。


中心市街地マップも確認しました

南側の八代宮参道から城跡公園入口です


城跡の案内板です

説明書きです
   国指定史跡 八代城跡
 元和8年(1622年)に築城された八代
城とその城下町八代町は、今も江戸時代の姿
をよくとどめています。築城当時からある周
辺のお寺や神社は現在も同じ位置にあり、当
時の町割りが今の人々の暮らしの中に受け継
がれています。
 八代城の中心となる本丸には、大小の天守
台と8つの櫓が築かれ、中央には大規模な本
丸御殿が設けられていました。外観4層、地
下1階の大天守がありましたが、寛文12年
(1672年)に落雷で焼失し、その後は再
建されませんでした。 
 現在は、お堀と石垣の一部が残り、本丸跡
には明治16年(1883年)に八代宮の社
殿が落成しました。八代城跡は今なお八代市
中心部のシンボルとなっています。


堀に掛かる橋の上から左右の石垣を見ました、かつてはこの橋はなかったのです

石垣を切って参道を造ったわけですね、鳥居の位置が大手門の位置です

二ノ丸とされている部分が堀の南側道路から東側に回って市役所の位置です

では、かつての順路から行きましょう(余呉くんのお城のページが参向になりました)

城跡の南東側石垣です、二の丸が鈎の手に曲がっている部分です

東側の本丸入り口欄干橋です

南側と

北側の石垣です

枡形虎口です

高麗門跡・欄干橋跡の標柱です
 高麗門は本丸の正面にあたる表枡形門の
一の門です。枡形門とは四方を石垣で囲み、
敵の直進を避けるとともに、敵の側面及び
背面から攻撃するために喰い違う二箇所に
門を設けたものです。一の門には幅二間一
尺の高麗門を設けていました。この高麗門
は、現在本町一丁目の本成寺に移されてい
ます。二の門は頬当御門と呼ばれて東西九
間南北三間を測り、石垣の上に設けられて
いた櫓門でした。また、欄干橋は本来木造
の太鼓橋で、八代城築城年を示す元和8年
(1622)銘の擬宝珠が残されています


枡形内から東側高麗門と欄干橋方向を見ました、石垣が高麗門の土台ですね

北に向って直角に曲がると石垣の間に頬当御門と呼ばれた櫓門が有ったようです

また直角に西に向きます、白い壁が八代宮社務所の建物です、かつての本丸御殿の位置です

さて、南側に回りましょう


南側石垣への石段です、八代宮参道西側井戸の所です

南側石垣の上から東を見ました、切られてしまった部分と横箭掛の石垣です

南側の石垣上を西へ行きます、まだ桜が残っています

月見櫓の標柱です
 本丸の南西隅に建つ月見櫓は二階建ての
櫓です。一階は梁間五間・桁行六間、二階
は梁間三間・桁行四間の大きさが有ります
。屋根は入母屋造で、本瓦葺です。北側の
小天守との間は「石落とし」二箇所を持つ
三十八間の長塀が有ります。また、東側の
十二間櫓との間は、同じく「石落とし」二
箇所を持つ四十六間の長塀で結ばれていま
す。

北へ進みます

小天守台です

小天守跡の標柱です
 小天守は東西九間、南北四間半を測る外
観二層内観三階(地下部分を含む)でした
。大天守とは東西四間・南北八間の渡櫓で
結ばれており、当時は大天守の下の平場か
ら石段を登って小天守の地階に入り、渡櫓
を通って大天守の地階へと通じていました


小天守の地階部分の石垣と大天守台です

大天守地階への入り口です

東側から天守台の石垣です

大天守跡の標柱です
 大天守は、東西十間、南北十一間を測る
外観五層内観六階(地階部分を含む)でし
た。屋根の両棟には鯱が載って偉容を誇っ
ていましたが、築城から五十三年後の寛文
十二年(1672)2月19日落雷による
火事で焼失してしまい、その後再建される
ことはありませんでした。

天守台には、昭和天皇の展望碑が建てられています

北側の展望です、堀の北側には三の丸と北の丸です

北側の虎口の守り、唐人櫓への石垣です

では、北側の虎口からの入り口を確認しましょう


北西側から天守台です

北東側から

屋根の付いた廊下橋と廊下橋門の石垣です

廊下橋門の標柱です
 廊下橋門は、本丸の搦手口にあたる裏枡
形門の一の門です。枡形門とは四方を石垣
で囲み、敵の直進を巡すとともに、敵の側
面及び背面から攻撃するために喰い違う二
箇所に門を設けたものです。廊下橋門は両
側の石垣の間に東西五間、南北二間藩の櫓
門で、その下部に門を設けていました。現
在でも門の礎石が残されています。

枡形です

埋門跡の標柱です、北側の枡形二の門です

門の内側右手石垣の上には唐人櫓が有りました

では、次は北の丸にある臥龍梅です
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熊本県八代市、松江城町「八代城跡の八代宮」です!!

2020-04-29 06:50:13 | 文化財・寺社
ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前の4月12日八代市内へ・・・

八代市役所は現在工事中です、市役所の西側に

八代城跡公園が有り、本丸跡には八代宮が鎮座します

JR鹿児島本線やつしろ駅前から市内循環バスに乗り

市役所前で降りました、城跡の南東側です。

やつしろ駅前の八代市街マップで確認しましょう

中心市街地マップも確認しました

南側の八代宮参道から城跡入口です

明治13年の大きな石碑が有ります

城跡の案内板です

説明書きです
   国指定史跡 八代城跡
 元和8年(1622年)に築城された八代
城とその城下町八代町は、今も江戸時代の姿
をよくとどめています。築城当時からある周
辺のお寺や神社は現在も同じ位置にあり、当
時の町割りが今の人々の暮らしの中に受け継
がれています。
 八代城の中心となる本丸には、大小の天守
台と8つの櫓が築かれ、中央には大規模な本
丸御殿が設けられていました。外観4層、地
下1階の大天守がありましたが、寛文12年
(1672年)に落雷で焼失し、その後は再
建されませんでした。 
 現在は、お堀と石垣の一部が残り、本丸跡
には明治16年(1883年)に八代宮の社
殿が落成しました。八代城跡は今なお八代市
中心部のシンボルとなっています。


堀に掛かる橋の上から左右の石垣を見ました、かつてはこの橋はなかったのです

石垣を切って参道を造ったわけですね

狛犬です

八代宮の説明版です
   八代宮
 1619(元和5)年、地震により麦島城
が倒壊すると、城代・加藤正方は当地に城を
移し、1622(元和8)年、八代城(松江
城)を完成させる。欄干橋の宝珠には竣工年
の銘が残されている。石垣には八代産の石灰
岩を用い、麦島城の石垣も再利用したが、そ
の白さから別名「白鷺城」とも呼ばれる。
 そもそも麦島城は一国一城令のなか存続を
許された城だったが、八代城は新築を許され
点で価値がある。1870(明治3)年に廃
城になると城内の建物は撤去され、1880
(明治13)年、ここ本丸は八代宮の境内地
となる。本丸には天守台を含む石垣や堀のほ
か、大書院の枯山水や井戸跡が残る。
 八代宮の祭神は懐良親王。一の鳥居は旧大
手門付近に設置され、参道が徳渕の津より直
進する。二の鳥居の次に三間一戸、軒唐破風
の四脚門がある。門に廻廊と透き塀がつき、
神殿を囲む。拝殿は入母屋妻入、向拝つき。
左右に切妻屋根の神饌所がつき、拝殿の屋根
と交差する。本殿は三間社流造で、向拝の奥
行きは深い。いずれの建物もかつては杮葺だ
ったが、現在は銅版葺、妻飾はいのこ叉首、
軒が深くプロポーションが美しい。組物など
のしのぎは平らで、丸みがなく直線的である
。開口部は腰長押または腰貫と内法長押の間
に連子窓がつく。官幣社にふさわしい気品あ
るたたずまいである。
  熊本高等専門学校「八代建物マップ」
              プロジェクト

井戸跡です

参道左手の境内社です

本殿です

参道右側の建物です

四脚門です

手水舎です

拝殿です

本殿です

境内南西隅にクスノキです

では、続いて城跡を見て行きます



 
 

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鹿児島県姶良市、蒲生上久徳「霧島神社のムクロジ」です!!

2020-04-28 13:31:00 | 巨樹・大木
ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前の4月12日です・・・

蒲生町上久徳地区は、姶良市役所の北西約7kmのところ

麓集落街並みの中程に、霧島神社が鎮座します

雨が時々強く降る中を市役所蒲生支所前から歩いて来ました

蒲生郷日本一の巨樹蒲生の大クスと武家門の町の看板があちこちに有ります

霧島神社入り口鳥居です

水盤です

拝殿です

本殿覆屋です

掲示版です、神社の説明が色々貼り出されています

拝殿前参道の左手にムクロジの大木が在ります

東側から

ムクロジの説明書きです
  ムクロジ(ムクロジ科ムクロジ属)
 ムクロジの分布域は広く、インドからラオス
ベトナム、中国中~南部から日本中部に至る。
 ムクロジは、川沿いなどに自生するものを見
かけるが、神社や寺院などに植えられているこ
とも多い。
 用途は、庭木、器具材のほか、果皮はサポニ
ンを含むため、かつては「せっけん」の代用に
、また、種は「羽根つきの羽」に使われた。
 このムクロジは、霧島神社が創建された当時
植栽されたものと思われる。樹齢、推定183
年、樹の高さ27m、胸高の直径1m10m。

拝殿前から見ました


境内南端道路際のケヤキの大木です

道路南側から見ました

では、バスに乗って次へ行きましょう

「姶良市鍋倉の帖佐八幡神社のイチョウを見る予定でしたが

雨が強く、靴も濡れ始めてしまったので今回は諦めました

帖佐駅に戻って、鹿児島中央から、また乗客のいない新幹線で

新八代へ移動しました」

 

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鹿児島県姶良市、蒲生町上久徳「蒲生支所の御仮屋門とイヌマキ」(市指定)です!!

2020-04-27 06:10:31 | 巨樹・大木
ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前に・・・

蒲生町上久徳地区は、姶良市役所の北西約7kmのところ

蒲生八幡神社参道入口から南へ少し行くと姶良市蒲生支所の前に御仮屋門が有ります

説明版です
  鹿児島県指定文化財
御仮屋門  平成23年4月19日指定
 蒲生地頭仮屋の正門で、通称「御仮屋門」と
称される。御仮屋とは、現在の役場にあたるも
のである。
 この地にあった当時の御仮屋は、石垣の高塀
を巡らし、中央の正門(御仮屋門)を中に入る
と広庭に出た。左手には鐘撞堂があり、周囲に
は建物が並列していた。門の直前に正玄関、右
手に中門があり、その内側が正院の庭になって
いたが、隣にある御仮屋犬槇の下がその場所で
ある。
 御仮屋は、文政9年(1826)3月に再建
されたのであるが、それ以前のものが腐朽した
ため新たに建てられた旨が、姶良市教育委員会
所蔵の地頭仮屋棟札に記されている。御仮屋門
は、高さ4,5m、横6,1mで、材木にはす
べてクスノキが使用されている。反り瓦屋根の
両脇には小屋根が、前方には袖が出ており、乳
鋲を打った観音開きの大扉や不浄門などに昔日
の面影をとどめている。
     姶良市教育委員会

イヌマキです

説明版です
   姶良市指定天然記念物
御仮屋犬槇((方言:一ッ葉)
 藩政時代、この地に蒲生地頭仮屋が設けられ、
周囲に麓集落が形成された
 御仮屋犬槇は、その表庭に植えられていた樹
で、隣の御仮屋門とともに往時を偲ぶことがで
きる。
 推定樹齢は約400年、樹高10m、根回り
4m、目通り幹囲3,5mあり、内部は空洞化
しているが、樹勢は保たれている。
   昭和43年3月24日指定


南側市役所支所前から見ました

では、雨の中を歩いて次へ行きましょう
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鹿児島県姶良市、蒲生町上久徳「蒲生のクス」(国特別指定)です!!

2020-04-26 07:22:12 | 巨樹・大木
ゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前の4月12日に鹿児島へ・・・


蒲生町上久徳地区は、姶良市役所の北西約7kmのところ

姶良市役所蒲生支所のすぐ北側に蒲生八幡神社が鎮座します

蒲生八幡神社境内の社殿と社務所の間に

日本一大きな(太い)クスノキがあります

国の特別天然記念物に指定さtれている「蒲生のクス」です


参道入口鳥居です

蒲生八幡神社です

目的の大クスです、拝殿下の境内参道から見上げました

拝殿脇(東側)から

国指定特別天然記念物「蒲生のクス」の標柱です

説明版が拝殿の中に在りました
  八幡様の御神徳
 八幡の神は普通、応神天皇・比売神・神功皇后で
あるも、当社は仲哀天皇・応神天応・神功皇后の三
柱の神を主神として祭ってあります。
  1、文化の神様
 八幡様は、平安時代より江戸時代を通じて武家の
守護神とされたので、一般に武神とされたが、本来
の御神徳は、文化の導の神ではなかろうか。神功皇
后と応神天皇の御代はさかんに大陸の文化を取り入
れられた時代であった。八幡の神は外来文化を取り
入れられ我が国の発展を図られた最初の神様です。
   1、安産の神 自立自興の神様
 神功皇后と応神天皇は御母子であらせられたので
古くから母子神としての信仰が盛んであった。八幡
様は、その限りない慈愛のゆえに、わが子に素直で
正しく強い心を合わせ持つようにと教えられた。こ
のように八幡様は多角的な御神徳を有せられるのが
八幡信仰の本になっており、全国に約二万五千社あ
ります。
  蒲生八幡神社の日本一の大クス
 蒲生八幡神社の御守護により日本一の巨樹になり
ました。
 この大クスは特別天然記念物です。(昭和27年
3月29日再指定)
 樹齢1500年以上、根の周り33m、幹の周り
24,2m、樹高30m、空洞八畳敷


北側から

社務所前(北西側)から

南西側から見上げました、目通り幹囲24,2mの巨木です

形が綺麗で大きさをあまり感じさせませんが

日本一の大きさなのは間違いありませんね

では、次へ行きましょう
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鹿児島県姶良市、上久徳「蒲生八幡神社参道の大楠とカヤ」です!!

2020-04-25 06:57:04 | 巨樹・大木
今週からゴールデンウィーク明けまで外出自粛期間です

その前の・・・

2020年4月12日、鹿児島へ行って来ました

新型コロナウイルスの影響が拡がる中

九州新幹線の乗客は一両に私ともう一人だけ

鹿児島中央駅で日薩本線で姶良市の帖佐駅まで

混むことはなく車両に15人ほど、距離を置いて座っています

帖佐駅から蒲生まではバスです、バスの乗客は3人でした

2人の方は、イオンモール前で降りてしまったので後は私だけでした

上久徳地区は、姶良市役所の北西約7kmのところ

姶良市役所蒲生支所のすぐ北側に蒲生八幡神社が鎮座します

蒲生麓の町割り図です

蒲生の大クスは信号を渡って行きましょう

バス停のそばにある観光施設です

蒲生小学校入口です

八幡神社参道入口鳥居です

蒲生八幡神社です

参道を進みます

参道の左手に大きなクスノキが見えて来ます

参道の大クスです、目通り幹囲7,4mの巨木です

南西側から幹が良く見えます


北西側から

石段を上がります

正面に拝殿が見えて来ます

参道右手にカヤの巨木です

目通り幹囲5,0mの巨木です

拝殿に向いましょう

手水舎です

狛犬です

説明版が拝殿の中に在りました
  八幡様の御神徳
 八幡の神は普通、応神天皇・比売神・神功皇后で
あるも、当社は仲哀天皇・応神天応・神功皇后の三
柱の神を主神として祭ってあります。
  1、文化の神様
 八幡様は、平安時代より江戸時代を通じて武家の
守護神とされたので、一般に武神とされたが、本来
の御神徳は、文化の導の神ではなかろうか。神功皇
后と応神天皇の御代はさかんに大陸の文化を取り入
れられた時代であった。八幡の神は外来文化を取り
入れられ我が国の発展を図られた最初の神様です。
   1、安産の神 自立自興の神様
 神功皇后と応神天皇は御母子であらせられたので
古くから母子神としての信仰が盛んであった。八幡
様は、その限りない慈愛のゆえに、わが子に素直で
正しく強い心を合わせ持つようにと教えられた。こ
のように八幡様は多角的な御神徳を有せられるのが
八幡信仰の本になっており、全国に約二万五千社あ
ります。
  蒲生八幡神社の日本一の大クス
 蒲生八幡神社の御守護により日本一の巨樹になり
ました。
 この大クスは特別天然記念物です。(昭和27年
3月29日再指定)
 樹齢1500年以上、根の周り33m、幹の周り
24,2m、樹高30m、空洞八畳敷



本殿です

境内社ですがお名前が有りませんでした

蒲生の大クスは、また明日投稿したいと思います

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山梨県北杜市、長坂町大八田「八幡大神社の大ケヤキ」です!!

2020-04-24 07:29:55 | 巨樹・大木
長坂町大八田地区は、北杜市役所の北西約7kmのところ

中央自動車道の長坂インターチェンジ入口から西へ

県道32号長坂高根線を1km程進むと

北杜市立甲陵高校入口が有ります(高校への道路は通行止めでした)

一つ手前(東側)の道路を南へ下ると直ぐに八幡神社が南向に鎮座します

神社前(南側)の田圃の縁に車を止めさせて頂きました


南側の田圃の中から八幡神社を見ました

社殿の前に目的の大ケヤキです

西側から南に少し傾いて立っています


南側から見上げました

社殿です

境内に大きな石碑が有ります
  八幡神社と甲斐源氏発祥の記
 甲斐源氏の勃興は、今を距たる九百余年前の
長元2年源頼信が甲斐守となるに始まる。当時
甲斐には柏前、真衣、穂坂の官牧があり、頼信
その子頼義はこれが復興につとめ、更に隣接す
る広大な八ヶ岳山麓の原野に私牧をもとめ軍馬
を飼育し荘園を建置し、大いに民生を厚くした

 古伝によれば、その開発の中心地に源氏の守
護神である ”誉田別命” を京都の石清水より
勧請し、頼義の子頼光は、広大な神領と壮大な
社殿を寄進した。八幡宮(おおはったのみや)
と尊称した。即ち、当八幡大神社であり、甲斐
の八幡信仰の発祥であって、大八幡の荘名・大
八田の杮名はこれから起こる。
 逸見郷は、大八幡荘を中心に開発され、義清
を経て清光が、逸見山の要害に谷戸城を築くに
及んで、甲斐源氏の基礎は確立され、子孫各地
に分派繁栄し、甲斐はその一族の支配するとこ
ろとなり、八幡宮も亦各地に勧請され、当社は
総社に仰がれるに至った。
 古祠は6・7丁東にあり、総社にふさわしい
壮麗な社殿であったが、水害によって流失し、
現在地に移築された。旧祠側に日本武尊御東征
の副将軍大伴武日命を祀る嗽神、西方に命の妃
大炊姫を祀る弁天社がある。
 茲に氏子相謀りその由来を碑に刻し永く後世
に伝えるのである。
   昭和45年10月1日
      宮司 塚川宜正 撰

社殿右手のケヤキの大木です

東側道路沿いに説明版がありました
  (史跡)八幡大神社
      所在地 長坂町大八田4404
      管理者 八幡大神社
 甲斐源氏の勃興は今から900余年前の長元
2年(1029年)源頼信が甲斐守となるに始
まる。当時甲斐には柏前・真衣・穂坂の官牧が
あり、頼信とその子の頼義は、復興につとめ、
更に隣接する八ヶ岳山麓の原野に私牧をもとめ
、軍馬を飼育し荘園を建置じし民生を厚くした

 古伝によれば、その開発の中心地に源氏の守
護神である誉田別命を京都の石清水より勧請し
頼義の子の義光は広大な神領と壮大な社殿を寄
進し、大八幡宮と尊称した。
 これが八幡大神社であり、甲斐の八幡信仰の
発祥地であって大八幡の荘名、大八田の名
はこれから起こっている。その後頼清を経て清
光その子光長に至っていよいよ尊崇厚かったが
水害により流失し、現在地に移されたものであ
る。  昭和47年3月1日
        長坂町教育委員会

石碑の一部抜粋かな・・・・

では、次へ行きましょう
 


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山梨県北杜市、高根町村山西割「熱那神社のエドヒガンザクラ」(市指定)です!!

2020-04-23 06:40:44 | 巨樹・大木
高根町村山西割地区は、北杜市役所の北北性約7kmのところ

伊勢大神社の南西約1kmほどのところ

県道32号線の高根西小学校入口から南に下って来た

道路の右手(西側)に熱那神社が鎮座します

西小学校のすぐ手前に参道入口が有ります

神社境内東側入口前に駐車スペースが有ります
(訪問日2020年3月17日火曜日、桜はまだまだ蕾でした)

郷社 熱那神社です

一ノ鳥居です

参道を進みましょう

ニノ鳥居です

随身門です、スギが門杉になっています

鳥居竣工記念碑です


水盤です

神楽殿です




拝殿です

本殿です


熱那神社縁起碑です


境内東端に目的のエドヒガンです

北西側から見上げました

根元に天然記念物標柱が寄りかかっていましたが、ほとんど文字は消えています

南側から、目通り幹囲5,7mの巨木です

勤王殉難宗十郎先生の石碑です

栃木県栃木市の出流山満願寺で挙兵し、
後に、佐野市の三毳山の麓で処刑されて
しまた内容のようです

境内社です

では、次へ行きましょう
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山梨県北杜市、高根町村山東割「伊勢大神社のケヤキ」(市指定)です!!

2020-04-22 06:45:22 | 巨樹・大木
高根町村山東割・・・長い地区名です・・・は、

北杜市役所の北北西約7kmのところ

国道141号線の”たかねの湯南”信号を西へレインボーラインです

レインボーラインに入って直ぐに南側の斜めに入る細い道を

道なりに2km程進むとクランクを過ぎると右手に

南西向参道で伊勢大神社が鎮座します

参道入口南側の田圃道に車を止めさせて頂きました

南西側から参道鳥居と鳥居の左手に目的のケヤキの巨木が見えています

南側から参道入口を見ました

ケヤキを近付いて見ます

鳥居です

伊勢大神社です、後方の白い山は八ヶ岳連峰の主峰赤岳です

手水舎です

参道の右手の岩には注連縄が巻かれています

正面に神楽殿です


拝殿は南向です

かわいい本殿です

南側道路脇の説明版です
  伊勢大神社
鎮座地 
  北巨摩郡高根町村山東割960番地
御祭神 
  天照大神 豊受大神 素戔嗚命 日本武尊
例祭日
  祈年祭   4月20日
  大祭   10月 2日 
  新嘗祭  11月23日
由緒沿革
  日本武尊御東征の途次、当地を御通路あり、
 小丘にご休憩、里人に天照大神の御霊代を賜り
 て立ち去りたり、里人此の処に宮を造りて安置
 す。
  境内に樹齢一千年以上を経たご神木あり、町
 の天然記念物に指定されている。
  現在の御社殿は、昭和58年に改築、神楽殿
 は、昭和33年に新築、御神庫は、昭和50年
 に新築されてものである。


根元から見上げました

拝殿前参道から見ました

北側の大部分は枯れて空洞になっています

北側から枯れてた部分を見ました

南側道路脇に説明版があります
 高根町指定天然記念物第2号
  伊勢大神社のケヤキ
    昭和56年(1981)8月21日指定
所在地 高根町村山東割字蕪田976番地
所有者 伊勢大神社(いせだいじんじゃ)
説明  ケヤキは被子・双子葉植物・離弁花類で
   ニレ科ケヤキ属の落葉広葉樹で、国内では
   本州から九州に自生し、古くは槻(ツキ)
   とも呼ばれ、語源はけやけき木、つまり、
   きわだった素晴らしい木ということを表し
   ています。一般的に樹高は50mにも達し
   、葉は狭い卵形で先はとがり、縁は鋸歯状
   となり、雌雄同株です。
    4月から5月にかけて新緑と共に淡黄緑
   色の花が咲き、果実は堅くゆがんだ球形で
   、10月ごろ褐色に熟します。
    当木は、神社境内の入り口部分に立つ巨
   樹巨木で、落雷により地上
    
   
    



境内の祠です

では、次へ行きましょう
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山梨県北杜市、須玉町上津金「海岸寺仁王門の大スギ」です!!

2020-04-21 06:45:38 | 巨樹・大木
上津金地区は、北杜市役所の北約9kmのところ

県道605号線を北へ進みます

津金郵便局を過ぎて桑原集落を抜け

しばらく進むと、森のようちえんピッコロが有ります


旧参道の大杉やモミノキを見て更に車道を進みます

旧参道も、モミノキから上へは行けるようですが・・・


県道から仁王門前の駐車場への入り口です

光陽関という寺門です

注意書きです、ここ海岸寺は観光開放していません

仁王門です

仁王門を潜ると直ぐ左手に目的の大スギです

仁王門脇(南側)から見上げました

参道石段上側(北東側)から見ました、目通り幹囲5,2mの巨木です



大スギの反対側には七佛通戒の偈の石碑です


参道の鐘楼門です

説明版です
  海岸寺の由来
 今より約1260年前(元正天皇の養老元年=
西暦717年)行基菩薩が庵をかまえられたのが
海岸寺のはじまりといわれる。
 行基菩薩は、土木工事や農業の技術を伝えると
ともに、千手千眼観世音の像を彫り海岸寺に祀っ
た。
 天平9年(737年)には、聖武天皇より「光
明殿」の勅額を賜った。
 また、寛治年間(1087~1094年)新羅
三郎義光が甲斐の国主としてこの国を支配するに
あたり、京より玄観律師を海岸寺に迎えて聞法の
師として仰ぎ、深く帰依して鎮護国家の大道場と
した。義光の子義清も父の志をついで多くの寺領
を奉納し、供華を怠らなかった。
 六百年程前の応安年間(1368~1375年)
大義詮和尚の時に、鎌倉、建長寺より石室善玖和
尚(勅賜直指見性禅師=本朝高僧伝巻三十二詳記)
を招いて、律宗を臨済宗に改め、海岸寺の開祖と
した。
 天正10年(1582年)織田が甲斐に侵攻の
際、寺の堂塔ことごとく焼き払われたが、同11
年には、徳川家康が寺領を寄進し再興を命じた。
慶長8年(1603年)には、さらに寺領を寄進
し法令4条を下して天下安寧の祈願所と定めっれ
た。
 万治4年(1661年)山火事により堂宇全焼。
 寛文6年(1666年)中興の祖、即應宗智和
尚が海岸寺山主として堂宇を再建し現在に至って
いる。

本堂です






境内には多くの観音像が並びます



説明版です
  海岸寺の百体観音
 観音は、衆生の救済に専念する菩薩で、人々の
祈り(音)をみ(観)て「慈悲」と「現世利益」
を施すとされ、多くの信仰をあつめました。
 海岸寺の百体観音は、
・聖観音  (主に立像で頭髪を結いあげ、左手
       で蓮茎を持つ)
・十一面観音(頭頂部に複数の顔、蓮茎か蓮をさ
       した水瓶を持つ)
・千手観音 (複数の手に多くの法具を持つ)
・如意輪観音(坐像で、右手を頬に当て、左手に
       法輪を持つ)
・馬頭観音 (怒った顔で頭頂部に馬頭を持つ)
                 などです。
 まだ、町内には多数の石造物があり、路傍の歴
史的景観を形成しています。
  平成11年12月    山梨県・須玉町


本堂前庭から大杉を見ました

境内では、フクジュソウが花盛りでした

では、次へ行きましょう
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山梨県北杜市、須玉町上津金「海岸寺旧参道の大杉とモミノキ」です!!

2020-04-20 06:52:54 | 巨樹・大木
上津金地区は、北杜市役所の北約9kmのところ

県道605号線を北へ進みます

津金郵便局を過ぎて桑原集落を抜け

しばらく進むと、森のようちえんピッコロが有ります

ここの脇に海岸寺の門柱が立っています、目的の旧参道並木はすぐ目の前です

手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

道路右側に杉の並木が残ります

一番手前には目通り幹囲5,8mの杉の巨木です

北東側から

もう一本を南から見ました、目通り幹囲5,6mの杉の巨木です

南南西側から見上げました

東側から

北側から

北側から二本の大杉を見ました

海岸寺へ向かいましょう

海岸寺旧参道は、新しく出来た道路のためほとんどが使われられなくなってしまっています


道路のカーブの外側にモミの大木が並んでいます

海岸寺参道の石段の前に門の様に並んでいます

車を手前の脇道入口に止めさせて頂きました

参道右手のモミノキです

参道左手のモミノキです共に目通り幹囲4m程の大木です

モミノキの間を通る参道石段です

では、海岸寺へ向かいましょう

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山梨県北杜市、須玉町穴平「遠照寺のアカマツとオハツキイチョウ」(県指定)です。

2020-04-19 08:10:42 | 巨樹・大木
穴平地区は、北杜市役所の北約4kmから7kmのところ

南北に細長い地区です

県道619号線を北へ進みます

地区の中ほどに庵に伴が出ていますがそのまま県道を進みます

レインボーラインの高架を潜ってすぐ左(西)へ

レインボーラインに出た所に遠照寺参道入口があります

道路脇の駐車スペースに車を止めさせて頂きました

目の前には目的のアカマツが在ります

背の高いアカマツと

地に伏したようなアカマツの二本です

天然記念物石碑です

説明版です
 山梨県指定天然記念物
  遠照寺のアカマツ
    所在地北杜市須玉町穴平2629
    指定年月日昭和45年10月26日
    所有者遠照寺
 「鶴亀のマツ」もしくは「夫婦マツ」とも呼ばれている
アカマツの2樹で、その美しい樹形と大木であることから
県指定天然記念物に指定されています。
 東側のものはほぼ直立し。幹囲3,50m、樹高9,0
m、枝張り東西9,2m、南北8,6mを測ります。以前
は地上3mほどで3本に枝分れしていましたが、雪折れで
1本の枝のみ残されています。
 西のものは横に這った形をしており、地上2,5mほど
で3本に枝分れしています。幹囲2,5m、樹高5,0m、
枝張りは西へ8,4m、北へ8,7mを測ります。
          山梨県教育委員会
          北杜市教育委員会

参道(南西側)から東側のマツです

参道(南東側)から西側のマツです


北側から


参道から山門(鐘楼門)を見ました

手水舎です

本堂前境内参道左にオハツキイチョウです

説明版です
   遠照寺のお葉つきイチョウ
 お葉つきイチョウは日蓮宗に関する寺院に多
くみられる。このお葉つきイチョウは葉に二つ
の実が付き、お葉つき双子イチョウといわれて
いる。実の7割がお葉つきになる珍しい木であ
る。              すたま

本堂です

略縁起です(参道入口アカマツの前に有ります)
  定栄山・遠照寺 略縁起
 当寺は、日蓮聖人晩年の直弟子にして宗門古来
中老僧十二座の一人である、越後阿闍梨日弁上人
(1239~1311)を開山とする。日弁上人
は甲州北巨摩郡穴平の地に弘通の拠点とする新道
場を設置すべく布教を開始した。その結果上人に
深く帰依した坂本八郎祐氏の三代目伊賀守定照公
が自邸を分け諸堂宇を建立して上人を招き開山と
した。故に、山寺号は開基壇越の定照という名を
分けて定照山遠照寺と称号した。時に、永仁2年
(1294)日蓮聖人第十三回忌のご正当年であ
った。
 日弁上人はその後奥州の地に弘法の錫を進めら
れたが応長元年6月、世 73才の時、現、宮城
県角田市佐倉において謗法不信の徒の双にかかり
殉教された。従者が上人遺愛の杖を有縁の当寺に
持ち帰り、墓の印にと塚の上に差し置かれたとこ
ろ、根付きやがて枝葉繁茂し春毎に見事な花を咲
かせるようになった。八重桜にして七囲えもある
大樹ともなり、里人は上人の遺徳を偲んで「杖桜」
と称したが惜しくも昭和の中頃樹齢尽き、今は唯
物語るのみ。
 創建393年目の貞享4年3月、全山焼失の厄
に遭う。諸堂宇、古記の類全て灰塵に帰す。それ
より73年の間、数代の守灯、壇越異体同心よく
その復興に務め、宝暦10年(1760)第33
世日相代に十界曼荼羅緒尊を造立勧請し、ようや
くその再建を達成した。因みに江戸期本寺の規模
は、現存の本堂、庫裏、客殿、鐘楼門等及び今は
無き匕面堂、鬼子母神堂、更に塔頭として安立坊、
日朝庵、妙見庵、妙蓮坊、澄順坊、寬光坊があっ
た。なお、境内地1200坪、宅地田畑3町7反、
山林7反、檀家数140戸と。又、40世日喜代
(明治25年)には永代緋金襴跡、中本山に昇格
した。
 栄枯盛衰は世の習い、特に今次大戦前後約半世
紀の間は世相の激変に押し流されて、堂宇の護持
も意の如くならずという状況の裡、幸いにも日蓮
聖人七百遠忌報恩記念並びに今次の創建七百年慶
讃記念の諸事業により寺観を一新、新めて寺門興
立、娑婆即浄土、信心堅固、即身成仏の法鼓いよ
いよ盛大に且つ、永劫ならんことを祈念しつつ以
上本寺の縁起とする。
  遠照寺創建七百年慶讃実行委員会
  平成6年10月16日 第44世 日明代
本堂前参道右手に日蓮聖人様です

向かい側参道左には日弁上人の墓と桜の碑が有ります

本堂前から鐘楼門側(南)を見ました、右側がオハツキイチョウです


駐車スペースのベンチには「鶴亀の松」「夫婦松」の文字が有りました

では、次へ行きましょう





  

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山梨県北杜市、須玉町穴平「天津名神社の杉」です!!

2020-04-18 06:51:38 | 巨樹・大木
穴平地区は、北杜市役所の北約4km~7kmのところ

南北に細長く延びた地区です

県道619号線を北へ、地区の北の端近く字川又集落を過ぎて

県道沿い東側に天津名神社が鎮座します

県道端に車を止めさせて頂きました


道路脇に杉林が見えて来ます

神社への入り口です

参道です

参道の左手、道路脇に目的の大杉です

正面の社が天津名神社のようです

石の祠も立派な作りです

社の前から見ました

西側の道路から、目通り幹囲5,2mの巨木です

道路脇の環境の良くないところで頑張って成長しています

では、次へ行きましょう
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山梨県北杜市、須玉町比志「日影のトチノキ」(県指定)です!!

2020-04-17 06:57:43 | 巨樹・大木
比志地区は、北杜市役所の約9kmから15kmの広い地区です

字日影集落は、地区の一番奥に当たります

県道23号線を北へ


塩川ダムと増富温泉郷との三叉路を増冨温泉側へ

トンネルを抜けて坂道を登り切って下りになると

日影集落の入り口に「日影のトチノキ」の案内板が有ります、ここを左に入ります

富士浅間神社前の施設駐車場を利用させて頂きました


富士浅間神社の大杉を右に見て道なりに進むと案内板が有ります、ここから4分です

ちょうど富士浅間神社の裏側が見えます

舗装が途切れます

あと2分の看板が有ります

沢側を覗くと目的のトチノキが見えました

日影のトチノキです

説明版です
 山梨県指定文化財
   「日影のトチノキ」
      昭和54年2月8日指定
   Aesculus turbinata Blune
とりのき科とちのき
   落葉喬木
   根回り10,5m、目通り幹回り8,2m、
   樹高約30m
 トチノキは山地に自生するほか人家の庭先や街路樹
にしたてられることもある。材は家具用材などに用い
られる。種はさらして食用になる。落葉し、背も高く
なる木(落葉喬木)である。
 このトチノキは日本有数の巨木で初夏に淡紅色の花
が咲き10月には実が落下する。実は割ると三つに裂
け中には光沢のある赤褐色の種皮をした種子があり、
昔は子供たちが釘で小穴を空け中をくりぬきトチ笛に
して吹いた。
 食用としてトチ餅やトチ粥などになる。また、トチ
麺といってトチの実の粉と米(または麦)粉をまぜソ
バのようにして食べることもある。トチ麺をのばす棒
を「トチ麺棒」といいトチ麺は早くのばさないといけ
ない事から”うろたえること”また”あわて者”の意味で
使われる。
 栃や橡は俗用字である。
     平成9年3月  山梨県教育委員会
             須玉町教育委員会


山梨の巨樹・名木100選です

大きな幹です

西側に回り込みました

上側(南側)から

説明版の上側(南東側)から

東側の幹に大きな傷があります


北側そばに倒れたものが、傷のところに付いていた大枝でしょうか

では、次へ行きましょう
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2020年桜、栃木県塩谷町、大宮「大宮神社のしだれ桜」(町指定)です!!

2020-04-16 06:30:00 | 
2020年4月5日に、栃木県北西部に桜を見に行って来ました

東京都内などでは新型コロナウイルス警戒で外出自粛のなかですので

人ごみを避けて行動です

では、
大宮地区は、塩谷町役場の南南東約5kmのところ

県道63号藤原宇都宮線の大宮上信号のすぐ南側に

大宮神社が鎮座します

神社境内南端に枝垂桜の古木が有ります

境内鳥居前に車を止めることが出来ました


南向に鳥居です

村社 大宮神社です

手水舎です

狛犬です

拝殿です

本殿覆い屋です

社殿西側にも大きな社(摂社 八坂神社)です

本殿です




境内には祠や石塔が点在します

説明版です
  大宮神社・高靇大明神
主祭神  軻遇突智命(かぐつちのみこと)
配神   稲倉魂之命
  由緒
 第50代桓武天皇の御代、延暦23(804)
年、南部の僧玄慶和尚が、軻遇突智命を勧請し創
建した。
 明治5年旧鎮座地宿東二斗蒔より摂社八坂神社
の現境内地に遷座。
 明治9年大宮神社境内を改め。
 明治42年10月15日指定村社となる。
 当社は、人間の生活と生業に必要不可欠な火の
神であり、又、商売繁盛の神を配祀し、氏子の崇
敬篤く守護神として今日に至る。
(軻遇突智命は、古事記でイザナギとイザナミの
間に生まれた最後の神で火の神です、多くの秋葉
神社や愛宕神社に祀られています。)

境内入口から枝垂桜を見ました

三本の幹が樹形を形造っています

説明版です
塩谷町指定天然記念物
   しだれ桜
     昭和47年4月1日指定
樹高  15m 目通り周囲 3m
枝張り 18m 推定樹齢200年
 大宮神社の入り口にあって主幹は空洞化
しているが、春になると毎年色鮮やかなピ
ンクの花をいっぱいにつけ、道行く人々の
目を楽しませてくれている。
 今から約135年前、もと山下家の地に
大宮神社が遷座したとき、すでに植栽され
ていたということで、今でも地域の人々の
手厚い保護を受け、一年でも長生きさせた
い名木である。
 里桜としては、町内最大・最古のもので
ある。
 塩谷町大字大宮1987番地 
 大宮神社所有
塩谷町教育委員会建之(平成28,3)

北西側から

西側から、満開ですね

では、次へ行きましょう     
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