戸隠栃原地区は、長野市役所の西北西約15km、長野市戸隠支所の西南西約4kmのところ
長野市戸隠支所前から県道86号線を南へ道成りに進みます
約1.2kmで案内板に従って「川手区折橋・国道406号線」方面の右(南西)へ、県道86・404号線です
約2.4kmの折橋で案内板の「地質化石館」方面の右(南西)へ、県道404号線です
道成りに約2.2kmで、折橋の案内板にあった「地質化石館」(旧柵小学校の校舎)を左に直ぐ先を左(西)へ入ります
まだまだ県道404号線です、約1.1kmで左へ道成りに進み坂道を下って行きます
約700mで橋の手前を右後方へ、「岩窟観音自然公園900m入口」と「岩窟観音堂大杉(周囲9m)」の看板が有ります
登り返して約200mの案内板です
また約200mで案内板です
約200m急な坂道を上って、神社の幟の支柱の先を右へ細い舗装路に入ります、「林道上ノ入線」です
道成りに約300m進んで砂利道となって、約400mで道路右手に
看板が見えて来ました
目的の大杉の説明版です
天然記念物 岩窟観音堂の大杉
樹種 熊杉
目通り周囲 8,6m
高さ 25.0m
平維茂手植えの杉が起源と言い伝えられている。
樹齢 約450年(推定)
昭和47年11月1日指定
岩窟観音堂の説明版です
長野市指定有形文化財(建造物)
戸隠田頭の岩窟観音堂
平成30年3月9日指定
戸隠栃原の田頭集落にある岩窟観音堂である。
観音堂内には、52枚の絵馬が奉納され、古いものは天明6年(1786)の絵馬がある。
建物の年代を確認できる史料として、拝殿板壁に記された文政8年(1825)の墨書があり、19世紀前半以降の建築と推定される。
本建物は、山岳地域に立地する懸造の建造物である。
全面の拝殿とその奥の巖窟を奥殿とした造りは、独特の宗教的雰囲気を醸し出している。
また、床下の架構が独特で、曲がった水平材を巧みに組み合わせ、その上に垂直材をたてることで床を支える。
一般的な懸造にみられる床を支える柱はなく、架構の形は他に類を見ない。
岩窟観音堂の隣には、市指定天然記念物の大杉が立つ。
懸造・・・寺社建築、住宅などにおいて山または崖に持たせかけて建物を造ること。懸崖(けんがい)造ともいう。
平成30年12月26日
長野市教育委員会
100m程先に駐車スペースが有りますので利用させて頂きました、東屋のある岩窟観音自然公園です
駐車場脇の説明版です
岩窟観音自然園
平安の昔から伝承された天然記念物の大杉と岩窟観音堂、そして鬼女紅葉伝説、更に多くの石仏は、地域遺産として今日まで語り守られてきました。
地域住民が住みよい環境を願い里山として手造りで育て守っている公園です。
樹木・野草・昆虫など大切にしましょう。
説明版のところへ戻って岩窟観音への山道を行きましょう
石仏は観音様でしょうか
さらに進むと
右手に天然記念物標柱です
右上を見上げるようにして、目的の大杉を見ました
ズームアップしてみました
すぐ先の木々の間からも見てみました
山道を折り返すと観音堂と大杉です
斜め下側から見上げます
岩窟観音堂は大きな岩屋の前に建って居ます
軒下に説明書きです
名稱及び所在地
1、妙見寺(岩窟観音堂守護寺)奥の院岩窟観音堂と稱し長野縣信濃国上水内郡柵村(しがらみむら)大字栃原ノ内の裏山に存在す
縁起
2、本尊観世音(弘法大師御作)
仝馬頭観世音(仝 松せり
右観世音の起 たるや、康保安和(964~970)の昔、本村釜巖山(后は荒倉山と称せり)に鬼女紅葉云う者穴居し、徘徊出没しして遠近の人民の残害あり。
安和2年(969)余吾将軍平維茂勅を奉じてこれを征す。
先是将軍駕を當国に狂ぐるも鬼女の棲所を知るに由なし、仍て小縣郡別所村北向堂観世音に祈願を込め参籠て一夜深更堂宇北に向かうと、霊夢・感應あり、即ち鬼女北方に生息す、生息を知る。遂に釜岩山に じ鬼女及び妖邪徒を掃蕩して全て平 に帰す、是れ観音大士の霊験ありと感悦す、惜 之釜岩山脈の西南の凡り30丁奇巌聳えるの地を探索し、北向山観世音の霊を分ちて此所に安置し岩窟観音と尊し、人馬等参拝する。
古今遍し境内に老杉あり、、周囲実に3丈3尺、今尚維茂将軍手植の杉と稱賛せり。
如是由緒の深遠霊験顕著の観音大士を敬拝し信念、神ねん溢れ、終に国宝に編入すべく其節へ目下出願中。
3、仝地に到る順路
長野県県庁所在地を距る、4里30丁
観音堂の前には石仏です
少し下に大杉が立っています
「岩窟観音堂・維持お手植えの杉」の看板です
*維持は平安時代の平維茂(たいらのこれもち)のことで、鬼女紅葉を維茂が討伐した紅葉伝説の伝承地です(大昌寺の説明版にも「紅葉狩」の説明がありました)
こちらからでは余り太く見えませんね~
観音堂と大杉の間を通って境内端から見ましたがこれが限界でした
では、次へ行きましょう