友沼八幡神社は、野木町役場の北約1kmのところ
国道4号線の友沼小学校入口に在ります
神社境内入口に駐車スペースが有ります
八幡神社です
鳥居です
説明版です
友沼八幡神社「将軍御休所跡」
元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河の久能山にいったん葬ったが、翌3年の
一周忌んい久能山から日光へ改葬した。
東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発してい
る。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大
名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社
参まで十九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参から行列の規模も拡大された。
社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一拍、十六日に日光に入り、十
八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日でかえるのが恒例となった。それとともに昼食、休憩の
宿や寺社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止をした場
所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
ところで、近世における八幡神社は、「日光道中略紀」によると、別当法音寺の支配下にあった。
野木村の野木神社の場合、元和二年(1616)に別当満願寺の支配がはじまるから、八幡神社も早
くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規
模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内に在り、西運庵と呼ばれた。日
光社参と八幡神社の整備が深くかかわっているとすれば西運庵の成立もこの時期賀茂しれない。なお
文化期(1804~17)の宿駅のようすを描いたとおいわれる「日光道中分間延絵図」では運西庵
となっている。
八幡神社からの眺めはすばらしく、「日光道中略記」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さら
に遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
肥前国平戸藩主松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の
「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばしこ輿をとめ」、休憩している。
天保十四年(1843)四月、「続徳川実記」によると、十二代将軍家慶の社参では、享保(第十
七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所まで行われた。友沼の御休所
でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。
平成三年三月二十五日 野木町教育委員会
拝殿です
本殿です
本殿の東側にあるのが、友沼八幡神社ケヤキです
境内社が根元に並びます
説明版です
町指定文化財 友沼八幡神社ケヤキ
指定年月日 平成二十二年三月二十五日
所 在 地 野木町大字友沼912
友沼八幡神社は将軍が江戸を出発して三日目に、「将軍御休所」として最初に小休止をした場所
であったという。小祠がら拝殿、本殿をそなえた神社であり、将軍御休所の建物は境内にあったと
されている。当時はケヤキ、スギ、イチョウなどの大木が境内を囲むようにあったといわれる、
明治十一年頃の友沼村の地誌には、スギ、ケヤキの「大木あり」と記されており、昭和三十~四
十年頃おこの木の他に太いケヤキもあったが、樹勢の衰えにより伐採されている。現在、推定樹齢
五百五十年のこのケヤキは、向き合うようにあるイチョウとともに、神社を代表する巨木として、
その勇壮な美しい姿で立っている。 野木町教育委員会
銀杏の木です
北東側から
野木町名木八幡神社のいちょうです、太さはまだまだ巨木には足りませんが、名木です
友沼八幡神社ケヤキのサイズは、目通り幹回り5.8mの巨木です
では、次へ行きましょう