ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

栃木県栃木市、岩船町三谷「成就院の親子しだれ桜」(市指定)です!!

2023-03-31 18:35:46 | 
 岩船町三谷地区は、栃木市役所の西南西約11km、栃木市役所岩船総合支所の北西約4kmのところ

 栃木市役所岩船総合支所北側の岩船町役場信号から、県道67号線を西へ

 約1.8kmの下津原信号を右(北東)へ、陸橋でJR両毛線を越えます、約800mの信号を左(西)へ、県道282号線です

 約600mの信号を右(北)へ、約800mで道路左に「東国花の寺百ヶ寺 ぼけ封じ観世音 成就院」の案内板が有ります

 左(西)に入って、道成りに進むと南向き成就院山門前の駐車スペースに出ました

 真言宗 梅花山 成就院の参道です

 山門には「東国花の寺百ヶ寺」の札です

 山門正面に本堂です

 左手に目的のシダレザクラです

 説明版です
  三谷親子しだれ桜
 樹齢300年の親桜は平成14年2月で、その一生を閉じました。
 その親桜から実生で受け継がれたものが現在の桜です。
 東と西の桜が親、中央が子となり、親子しだれ桜といわれます。
 この三本の桜は互いにいたわりながら成長しています。
 この桜のように親子、そして、すべての人々の温かい心の交流が生まれますことを当寺は願っています。合掌
   見ごろ3月下旬    成就院住職
 

 東側から、丸い樹冠が淡紅白色に輝いています

 南西側から

 まだまだ5分咲きと思われます

 本堂前には、右側から真言宗の宗祖弘法大師と中興の祖興教大師・真言宗豊山派第一祖専誉僧正像です

 *東国花の寺百ヶ寺とは、心に「花」を咲かせて欲しいとの願いから関東1都6県の寺院により、宗旨に関係なく平成13年3月に結成され、高尾山薬王院や西新井大師総持寺・池上本門寺など現在103ヶ寺が参加しています。
 *春の桜や牡丹に始まってクリン草・ハナミズキ・アジサイ・百日紅・秋の彼岸花・ハギやモミジなどの花々が登録されています。
 *実家の宗旨も真言宗豊山派なので、良く耳にしたことのある名前ですね

 では、次へ行きましょう
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愛知県豊田市挙母町5丁目「挙母神社のクス(市指定)とイチョウ・カゴノキ」です!!

2023-03-31 06:30:07 | 巨樹・大木
 挙母町5丁目は、豊田市役所の北東約500mのところ

 豊田市役所前から国道153号線を東へ、挙母町1丁目信号を左(北)へ

 二つ目の信号が挙母神社西信号です、右(東)に入って案内板に従い

 境内参道沿いの駐車スペースに車を止めさせて頂きました

 参道南端から境内を見ました


 挙母神社(ころもじんじゃ)社號標です

 説明版です
祭神
1、高皇産霊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の祖父神
1、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々藝命・・・瓊瓊杵尊の古事記での表記です
1、天萬栲幡比賣命・・・・・・・・・・・・・・・・瓊瓊杵尊の母神
1、天之水分神
1、國之水分神
   由緒
 文治・建久の頃(1189)源義経の家臣、三河鈴木重善(のちの善阿弥)は、源義経の没落を聞き当地に隠れ住み、そののち大和吉野から子守社を勧請して、衣之上郷にまつり奉仕した。
 鎌倉実記・義経勲功記に「其の頃熊野の鈴木次郎重行というものあり、矢作川の上・衣の里と言う処あり、彼の里に庵室をしつらい、住みける殊勝なる法師に里人もと尊みしたしみけり。熊野の神を勧請云々」とあり。
 延宝旧図に「大明神の本殿は四間に三間あり、拝殿は長さ三間横二間とす。社内に薬師堂あり」とある。衣記に「子守大明神は往古より挙母の鎮護たり、草創は何れの年ともいまだつまびらかならず鈴木某熊野より云々」。旧幕時代は、子守大明神といっていたが、明治4年(1871)3月14日挙母藩庁から挙母神社と改められ藩社となるり、その後郷社となった。
 昭和21年(1946)宗教法人令により届出認証登記、旧社格を廃止神社等級八級。
 昭和28年(1953)宗教法人による「宗教法人挙母神社」設立認証登記。
 昭和54年9月28日神社等級六級に昇格。
   祭儀(大祭)
1、祈念祭 2月17日
1、例祭  10月第3日曜日
1、新嘗祭 11月23日

 鳥居です

 参道右手に目的のクスが見えて来ました

 南側から

 説明版です
  豊田市指定第5号天然記念物 挙母神社のクス
   根回り  9.5m
   目通り  6.5m
   樹高 約25.0m
   樹齢 推定650年
 元亀3年(1572年)の昔瑞光院が火災の時に薬師如来がこのクスの木の下に難をさけられたという伝説があります。
     豊田市教育委員会

 東側から

 西側から

 クスの北側に手水舎です

 手水舎の東側に名木のイチョウです

 豊田市名木愛護会の案内板です、胸回り3.30mの大木です


 参道正面の建物です

 舞殿でしょうか

 拝殿です

 本殿です

 拝殿西側の境内社の秋葉社です

 子守天満宮です

 天神様と言えば牛ですね

 拝殿東側の金毘羅社です

 御鍬社です

 境内西側参道前のカゴノキです

 こちらも名木愛護会の案内板です

 南側から

 子守稲荷社の鳥居です、綺麗に並んでいます

 協賛依頼の説明版です

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栃木県野木町、友沼「法音寺のコヒガンザクラ」です!!

2023-03-30 18:30:34 | 
 友沼地区は、野木町役場の北西約1.5kmのところ

 野木町役場から北側の平成通り(県道314号線)を北西へ、JR宇都宮線を陸橋で越えます

 道成りに進んで役場入口信号を右(北東)へ、次の信号のところ左に法音寺が南東向きに有ります

 *法音寺には、本堂と中門の横にそれぞれエドヒガンザクラが立っています。 周辺の桜に先駆けて開花して、淡紅色の小輪五弁の花が咲く様は風流です。
 *古河徳星寺満海上人の法流を汲んで、応永2年(1395年)真海上人によって創建されました。
  境内には安永9年(1780年)に門人により建立された松尾芭蕉の句碑があります。
 *コヒガンザクラ(小彼岸)はエドヒガンザクラ(江戸彼岸桜)とマメザクラ(豆桜)の交雑種で、花は下向きに咲きます。

 信号を左に入って、墓地側の駐車場に車を止めさせて頂きました

 山門(仁王門)です

 真言宗 豊山派 法音寺です

 山門を潜ると目的のコヒガンザクラです

 手前には弘法大師像です

 南側から、5分咲きを越えた感じでしょうか

 中門を入ると右手に鐘楼です

 本堂です

 本堂前のヒガンザクラの古木です、幹の傷が大きくなっています

 本堂前(南西側)から見ました、下枝が無いので不思議な感じです

 南東側から見ました

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愛知県豊田市、畝部東町川端「八柱神社の樟 二樹」(県・市指定)です!!

2023-03-30 06:32:08 | 巨樹・大木
 畝部東町川端地区は、豊田市役所の南約9kmのところ

 豊田市役所前から国道153号線を東へ、挙母町1丁目信号を右(南)へ、国道248号線です

 道成りに約9.8km進んで、天神橋東信号を右(西)へ天神橋で矢作川を渡ります

 最初の十字路を右(北)に入ると八柱神社参道なのですが、車は右折禁止になっていますので

 西側から回り込み、鳥居前の道路脇に車を止めさせて頂きました


 境内入口です

 八柱神社です

 水盤は封鎖されています、まだまだコロナの影響があります

 拝殿です

 本殿の屋根が少しだけ見えています


 八柱神社由緒記の石碑です
   八柱神社由緒記
 御祭神 天照大神の御子五男三女神を祀る
  天忍穂耳命
  天之菩卑能命
  天津日子根命
  生津日子根命
  熊野久須毘命
  多岐理毘賣命
  市寸嶋比賣命
  多岐津比賣命
 古書によれば有史以前に伊勢海岸から磯部族がこの地に移り来て住すという。35代孝徳天皇白雉3年(652)采女朝臣勅によりこの地の郷長となり采女郷と名づく。始祖を祀って氏神となし、宇称部大明神と称す。これ当社の起因なりと伝う。
 寛政4年(1463)川端福林寺の住持警誉上人が水害を憂い寺の持仏を社に安置して寺の鎮守となす。以来永禄年間まで寺の社として寺祭を行う。寛政年間の頃社名を八王子神社に改む。
 徳川時代に大水害あり、悲惨困窮甚だし
  宝暦7年(1757)中島堤防決潰
  明和7年(1767)川端堤防決潰
  安永8年(1779)川端堤防決潰
  嘉永3年(1850)川端宗定堤防決潰
  嘉永6年極度に傾いた社殿を修復
  明治維新の際社名を八柱神社と改む
  明治5年村社に指定
  明治39年(1906)傾廃甚だしくなった本殿を改築
  明治41年共進神社に指定
  昭和10年社殿を改築、石垣を巡らし地上げをして造営された宏壮なる社殿と大広前に建立された大鳥居など相俟って社の面目を一新
  翌11年3月28日上棟の盛義を挙ぐ
  昭和14年10月25日御神木の大樟天然記念物に指定
  昭和22年宗教法人に指定 九級社
  昭和34年9月26日未曾有の伊勢湾台風によって本殿倒潰
  昭和62年本殿新築に着工、63年完工、待望久しき本殿の復旧なって社の面目が整い同年10月23日氏子を挙げて竣工祭を行う。


 拝殿西側のクスノキです

 目的のクスノキは拝殿手前東側に玉垣に囲われています

 南側から

 天然記念物標柱です

 説明版です
  愛知県指定文化財(天然記念物)
   八柱神社の樟 
     指定 昭和31年5月18日
 社殿東側に立つ八柱神社の樟は、幹周17m、高さ20mで樹齢は約千年といわれる。
 幹の根元は瘤状に膨らんで盛り上がり、特異な樹形である。この原因は不明であるが、地下水位と関係するともいわれている。
 言い伝えによると、弘法大師が三河を巡錫した際に植えたといわれ、神社の御神木として幾多の人々を見守ってきた。
     豊田市教育委員会


 西側から

 北側から、こちら側には大枝を伐った跡が見られます

 東側から見ました


 境内東側出入り口の鳥居脇にもクスノキの巨木(市指定)です

 南西側から太い幹を見上げました

 説明版です
  市指定天然記念物
    八柱神社の樟
  樹高 20.0m
  目通り 5.0m
  根廻り 7.4m
 県指定天然記念物八柱神社の樟の隣にあって、基部は県指定の樟のように台状に盛り上がってはいないが、八柱神社を形成する重要な要素の一つになっている。 
 樹木の配置からみると県指定の樟と同時、あるいは県指定の樟の実の自生したものではないかと考えられる。
     豊田市教育委員会

 南側から

本殿の東側境内端にも根元の膨らんでクスノキです

 神馬像です

 境内社の八幡社です

 川端八幡社由緒石碑です

 秋葉社です

 こちらにはお名前が見当たりませんでした

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栃木県野木町、野渡「満福寺のサクラ(ソメイヨシノ)」です!!

2023-03-29 18:31:02 | 
 野渡地区は、野木町役場の南西約5kmのところ

 野木町役場から北側の平成通りを北西へ、JR宇都宮線を陸橋で越えて役場入口信号を左(南西)へ国道4号線です

 約4.0km道成りに古河方面へ進んで、野木信号を斜め右(南西)へ県道261号線です、一度茨城県古河市に入ります

 約800mで古賀自動車(株)の先を右(西)へ入ります、道成りに進むと右手に満福寺の駐車場です

 満福寺は、古河公方・ 足利成氏公墓所としてGoogleマップにも名前が出ています

 *足利 成氏(あしかが しげうじ)とは、室町時代から戦国時代の武将。永享6年(1434年諸説あり)生まれ~明応6年9月30日(1497年10月25日)没。第5代鎌倉公方(室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東10か国を統治するために設置した鎌倉府の長官)1449年 ~ 55年、初代古河公方(鎌倉公方の本拠地を古河に移してからの呼び名)1455年~97年を務めた。
 *鎌倉公方は、足利尊氏以来の将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉公方」となった。(ウェキペディア一部抜粋)
 

 曹洞宗 満福寺参道入口です

 山門脇に目的の桜(ソメイヨシノ)です

 南側から

 南東側から

 山門に梵鐘が下がっています

 大きな本堂です

 西側から見上げました

 まだまだ3分咲きでしょうか、明日からは天気が下り坂ですので暫くは楽しめそうですね


 西側から離れて見ました

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愛知県岡崎市、鴨田町広元「松平・徳川家菩提寺の大樹寺」です!!

2023-03-29 06:31:00 | 文化財・寺社
 鴨田町広元地区は、岡崎市役所に北北西約3kmのところ

 岡崎市役所前から国道1号線を西へ、八帖信号を右へ国道248号線です

 約2.7kmの大樹寺3丁目信号を右(東)へ、間も無く左手に大樹寺山門です

 山門の東側から境内の駐車場に入る事が出来ました

*境内では、駐車場の有料化に伴う工事とテレビ局の中継車が数台止まっていました


 山門(三門)です

 徳川家菩提所 成道山 大樹寺です

 眺望ライン説明版です
   今に伝わる歴史的眺望
  眺望ライン(ビスタライン)
 ビスタラインの「ビスタ」は「眺望・展望」を意味し、大樹寺と岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」と呼んでいます。
 これは徳川三代将軍家光公が、家康公の十七回忌を機に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、徳川家の祖先、松平家の菩提寺である大樹寺の本堂から山門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城を望むように伽藍を整備したことに由来しています。
 時は移り、岡崎城も再建されましたが、大樹寺と岡崎城を結ぶ歴史的眺望は往時のままで、門越しに臨む岡崎城は、まるで額のなかの絵のようです。 
      岡崎市

 山門を潜ると右手に鐘楼です

 左手に手水舎です

 正面に本堂です

 本堂の西面です

 岡崎市文化財本堂と開山堂の説明版です


 本堂前では、大太鼓の演奏が行われていました

 文化財一覧です

 *市指定天然記念物の「大樹寺のしい」は本堂の裏側にあるようなのですが見る事はできませんでした

 岡崎観光文化百選の説明版です

 説明版です
   大樹寺沿革
 応仁元年(1467)8月23日、井田野の合戦で多くの戦死者が出たので、松平4代・親忠公は勢誉愚底上人に帰依して七日七夜の別時念仏会を修し、敵味方の別なく千人塚を作って葬った。
 その後、文明7年(1475)親忠公は、熱心な念佛者となり、愚底上人を開山として大樹寺を建立した。
 それ以来、大樹寺は、松平家・徳川家の菩提寺として1000石近い石高を受け、大樹公寺と称し、二十有余の末寺を持つ東海の名刹となった。
 現在でも岡崎城の天守閣と大樹寺の総門・三門・本堂は南北一直線上にある。
 本尊の阿弥陀如来は平安末期の作と言われ、一光千体の阿弥陀如来として信仰されている。
 親忠公は、愚底上人より在家としてはじめて五重相伝を受けられたので、大樹寺は浄土宗五重相伝の根源道場として知られている。
 松平家第9代の家康公は、19才の時、桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に殺されたので、身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした。大樹寺住職登誉天室上人はこれをとどめ「厭離穢土・欣求浄土」の教えを説き、家康公に浄土念佛の尊さを教えた。それ以来、家康公は熱心な念佛者となり、生涯この「八文字」を座右の銘とした。
 この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、「厭離穢土・欣求浄土」の旗を立て、大力無双の祖同和尚が門の貫木引き抜いて奮戦し、敵を退散せしめた。これを大樹寺の陣という。家康公はこの貫木を「開運の貫木」として尊信したが、今もこの貫木は大樹寺に安置されている。
 家康公が陣中において人知れず書いた「陣中名号」はたくさんあるが、この寺にも署名された「名号」がおあさめられている。
 松平の御八代の墓は西方墓地の北側にあり、近年、家康公の墓を模した供養塔も岡崎市民により建てられた。
 三門と鐘楼は三代将軍家光公の建立で、三門楼上の「大樹寺」の扁額は後奈良天皇の宸筆である。
 西方に見ゆる多宝塔は天文4年(1535)松平7代・清康公の建立で、重要文化財に指定されている。
 本堂と大方丈は安政2年(1855)に焼失したが、安政4年、十三代将軍家定公の時に再建された。大方丈の障壁画は、土佐派の画家、冷泉為恭の描いたもので、146面あり、国の重要文化財に指定され、その一部は収蔵庫に陳列されている。

 本殿前東側に家康像です、岡崎市内には家康像があちこちにりますね

 本堂西側の建物が開山堂です

 墓地の中に多宝塔です

 東側から

 説明版です
  国指定重要文化財
建造物 大樹寺多宝塔(付棟札)1棟
 多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことである。
 大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものである。松平7代清康により天文4年(1535)に建立された。
 下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の燈身を立て、四手先で軒をささえる。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸がつるされている。塔内部には禅宗様の須弥壇を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置する。
 この多宝塔は上下層の釣合いもよく、蟇股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式も古風でていねいに作られ、この時期としては和様色の強い建築物である。
    明治37年2月18日指定
       岡崎市教育委員会

 墓地の北端に松平氏墓所です

 東側から

 西側から

 説明版です
  岡崎市指定文化財
史跡 松平八代墓 八基
 元和元年(1615)、松平氏の菩提寺であるこの寺に徳川家康が先祖八代の墓を再建したもので、元和3年(1617)には天領代官畔柳寿学が奉行となり、現在の姿に整備された。
 初代 親氏(生没年不詳)     宝篋印塔
 二代 泰親(生没年不詳)     宝篋印塔
 三代 信光(1404~1488) 宝篋印塔
 四代 親忠(1431~1501) 五輪塔
 五代 長親(1473~1544) 五輪塔
 六代 信忠(1486~1531) 五輪塔
 七代 清康(1511~1535) 五輪塔
 八代 広忠(1526~1549) 無縫塔
 大樹寺は、文明7年(1475)に安城松平家初代親忠が浄土宗鎮西派の勢誉愚底に帰依して開創し、同家の菩提寺とした。
 長親の代に安城家が松平総領家となったことにより、本寺は松平宗家菩提寺となった。
 元和2年(1616)、家康の遺言により歴代将軍の位牌所とされ、以後十四代将軍家茂までの位牌が納められている。
    昭和37年6月15日指定
       岡崎市教育委員会

 家康の供養塔が西端にあります

 家康墓を模した供養塔の説明石碑です
 

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群馬県板倉町、海老瀬「頼母子薬師堂のシダレザクラ」(町指定)です!!

2023-03-28 18:30:55 | 
 海老瀬地区は、板倉町役場の東約5kmのところ

 役場前から南へ、水郷公園入口信号を左(東)へ国道354号線です

 約2.8kmの小保呂信号を左(北東)へ県道367号線です

 約1.9kmの海老瀬信号を右(東)陸橋で東部日光線を越えて直ぐの信号を左(北)へ入ると

 間も無く右手に文化財資料館が在ります、奥の海老性東公民館の前が駐車場(桜の北東側)になっています

 西北西側から見ました、境内では地元の方々が、パンフレットや観桜客の対応をされています

 境内に陳列された写真には65年前の白黒写真で境内の様子を知ることが出来ました

 西側(薬師堂前)から

 南西側から

 南側から

 天然記念物標柱です

 説明版です
  板倉町指定天然記念物
    シダレザクラ
   板倉町大字海老瀬字頼母子5959
   昭和61年12月6日指定
 このシダレザクラは「ウバヒガン」の一変種で、樹高16m、目通りは2.53m、樹齢は200余年といわれています。
 シダレザクラでこれほどの大木は町内随一で、3月下旬から4月上旬にかけての開花期には、美しい淡紅白色の花を咲かせます。
 このシダレザクラは、弘法大師が日光開山の勝道上人の足跡を追ってこの地を訪れた際、使用していた杖をさしたものが根を張り、大きく育ったという伝説があります。
  平成25年9月   板倉町教育委員会


 薬師堂境内の祠です

 駐車場のカヤです

 説明版が在ります

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愛知県岡崎市、康生町「 新田白山神社のクスノキ」(市指定)です!!

2023-03-28 06:29:47 | 巨樹・大木
 康生町は、岡崎市役所の西北西約1.5kmのところ、岡崎城址の西側です

 国道1号線を西へ、岡崎城址北西側の龍城橋西信号を左(南)へ入ります

 間も無く右手に新田白山神社の参道が東向きに出ていますが、車は入れないので

 少し南へ、次の交差点を右(西)へ、また次の交差点を右(北)へ、また次の交差点を右(東)へ進んで

 境内に車を入れる事が出来ました

 東側の境内入口です

 新田白山神社です

 徳川家康公御氏神です

 説明版です
  新田白山神社
鎮座地 愛知県岡崎市康生町345-2
御祭神 白山姫命 新田義重公
例祭日 10月17日
(境内地 742坪・氏子数 843戸・宮司 畔柳吉生)
由緒
 当神社は、永禄9年(1566)徳川家康公が厄除開運祈願のため、上州の新田(現在の群馬県)より勧請されたものです。
 上州の新田は、源氏である新田氏の縁の地であり、家康公が征夷大将軍になる志を既にこの時期に抱いていたことがうかがわれます。江戸時代は岡崎城内の白山曲輪内にあり、岡崎城主の産土神として崇敬されていました。
 例祭は、町内から獅子や御神輿が繰り出され、拝殿では子供たちによる巫女の舞が奉納されます。
 また、殊に有名なのが、夏越の神事で6月30日夕方、厄除け祈願祭と茅野輪くぐり、自然石鳥居くぐりが、樹齢600年である御神木の大楠前で斎行されます。自然石鳥居くぐりは全国でも珍しく、例がないと云われています。
 家康公25才の厄除け祈願の時、病んでいた水疱瘡がこれにより完治したという故事に習ったもので毎年氏子を始め大勢の崇敬者で賑わいます。尚、自然石鳥居の後方に扇形に彫刻された石があり、その要の穴から鳥居越しに岡崎城天守閣を望むことができます。
 岡崎城に隣接し、家康公産湯の井の約400m、二七曲にもあたる、岡崎市の中心部に鎮座する神社です。

 もう一枚説明版です

 手水舎です

 拝殿です

 本殿覆い屋です

 拝殿の右手(北側)に目的のクスノキです

 南南西側から

 南側から

 説明版です
 岡崎市指定文化財
        白山神社
天然記念物 白山神社の大くす
 胸高囲7.7m、根囲9.4m、樹高12.5mのクスノキの古木。老樹であるが、樹勢なお衰えず、枝張りは東西22m、南北14.5mにおよぶ。主幹が高さ2mの位置で二裂し、幹にはノキシノブの着生もみられる。
 樹形もよく、市街地の中心部にある巨樹として価値が高い。神木として信仰の対象とされ、6月30日には輪くぐり神事がこの前で行われる。
 白山神社は永禄9年(1566)に徳川家康が厄除け開運祈願のため上野国新田から勧請したとつたえ、岡崎城主の産土神とされている。
   昭和38年5月8日指定
       岡崎市教育委員会



 鳥居の側にあった説明版です
第9回 岡崎市 守ろう自然 三河の巨樹を訪ねて
  新田白山神社の大クス
 徳川家康誕生の地である岡崎城(岡崎公園内)のすぐ西を流れる伊賀川を渡った住宅地の中に新田白山神社がある。
 神社の鳥居をくぐると立派な社殿があり向かって右側に堂々としたクスノキが立っている。その木はかなり老体のようで、あちこち修復が施されていて、広がる大きな枝にはノキシノブが着生しておりその面持ちは深い歴史を感じさせる。
 岡崎市中心部に存在する巨木としても貴重である。
 この神社はもともと岡崎城内にあったが、1566年に厄除け開運祈願の為、家康により上州新田(群馬県)より勧請(神仏の分霊を移し祭る)されたと伝えられている。
 祭神は、白山姫命と新田義重で、上州新田は、皇族と血縁の深い源氏一族の新田氏ゆかりの地である。
 家康と新田氏の関係には様々な見解があるが、家康はこの頃より征夷大将軍まで上り詰める志を抱いていたようだ。
 樹齢600年以上のクスノキは家康が生まれる前からこの地で根をはり、その行く末を見守ってきたのであろう。
      企画・製作/中日新聞広告局

 南東側から

 南側から

 南西側から見ました

 クスノキの北側の境内社です

 本殿北側に西観社です

 案内板です

 では、次へ行きましょう

 *後日Googleマップの航空写真に白山神社駐車場の時分の車が止まっているのを発見しました、15分程度の訪問時間に撮影されていたことにビックリです
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埼玉県久喜市、鷲宮1丁目「鷲宮神社の八幡太郎源義家駒繋ぎの桜」です!!

2023-03-27 19:06:51 | 
 ここから午後の投稿は、2023年3月22日取材分です

 鷲宮1丁目は、久喜市役所の北約5km、久喜市役所鷲宮総合支所の西約1kmに鷲宮神社が鎮座します

 久喜市役所鷲宮総合支所から県道152号線を北西へ直ぐの鷲宮総合支所前信号を左(南西)へ県道410号線です

 道成りに進み鷲宮駅入口信号を過ぎると、赤い鳥居が見えて来ます(鷲宮神社は東向きに鎮座します)

 鳥居南側に参拝者用の駐車場が有りますので利用させて頂きました

 武蔵国 鷲宮神社の社號標です、約70m手前にも「一の社號標」が有ります。元の一ノ鳥居が建っていた場所です

 由緒略記です
  埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮鎮座
   武蔵国 鷲宮神社
 当社は出雲族の草創に係わる、関東最古の大社として今昔より、鷲宮大明神・浮島大明神または大酉元祖とも称し州群所々に多数分祀あり
 祭神 大巳貴命(大国主神:おおくにぬしのかみの別称です)
    天穂日命(天照大御神の第二子とされ、天忍穂耳命の弟神にあたります)
    武夷鳥命(天夷鳥命:あめのひなどりのみこと、天穂日命の御子神にあたります)他九柱
  社務所

 2015年12月13にこのブログで「埼玉県久喜市、鷲宮神社・栗原城跡です!!」で桜やイチョウ等も紹介させて頂いております

 参道を進みます

 参道右手に根元を注連縄で囲まれた桜の古木が在ります

 南側から、目的の「八幡太郎源義家駒繋ぎの桜」です

 (前回訪問時には案内板が建っていました)

 南西側から、樹勢はすっかり衰えてしまっているようです

 北東側から見ました



 花です、まだ蕾も見られます

 参道を進むと、右手にカヤノキです

 社殿は工事中です、左手にイチョウの切株からはヒコバエが伸びています

 (前回のブログを確認すると残っていた太い枝が伐られてしまっています)

 では、次へ行きましょう
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愛知県岡崎市、福岡町西市仲「福岡小学校の土呂陣屋の松」(市指定)です!!

2023-03-27 06:29:55 | 文化財・樹木
 福岡町西市仲地区は、岡崎市役所の南南西約7kmのところ

 岡崎市役所前から国道1号線を南東へ、岡崎インター西信号を右(南西)へ、県道26号線です

 約4.5kmで上地3丁目信号からは、県道327号線となって更に進みます

 約1.3kmの福岡小学校南信号を右(北)へ入り小学校の先を左(西)へ入ると・・・

 小学校の北側入口の周りに松の林が有ります

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 目的の松です

 説明版です
  岡崎市指定文化財
        福岡小学校
天然記念物 土呂陣屋の松 5本
 福岡小学校のの北側にある5本のクロマツ。最も大きなものは、胸高囲3.7m、樹高15mである。
 江戸時代、この地に置かれた旗本山口氏の陣屋の庭に植えられていた松である。
 旗本山口氏は土呂村の一部をはじめ3千石の知行所を領し、その陣屋は宝永2年(1705)に設置されている。
 指定時には松は6本あったが、最も樹形が美しく風格のあった一本がマツクイ虫の被害をうけて立ち枯れ、昭和61年(1986)5月に伐採した。幹の一部は校庭の一角に保存展示されている。


 西側の松です

 では、次へ行きましょう
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群馬県板倉町、下五箇「十二所神社のエノキ」です!!

2023-03-26 18:30:06 | 巨樹・大木
 板倉町は群馬県の南東端の自治体です、埼玉県加須市・茨城県古河市・栃木県栃木市との境界渡良瀬遊水地に面しています

 下五箇地区は、板倉町役場の東南東約5kmのところ

 板倉町役場前から南へ、水郷公園入口信号を左へ、国道354号線です

 東へ向かって約4.3kmで左(東側)の集落が下五箇集落です

 集落への道路を入ると

 左手に鳥居が見えて来ました、東側は墓地になっています

 鳥居前に車を止めさせて頂きました

 鳥居の額です「十二所大権現」の文字が確認できます

 参道から目的のエノキです

 石段下の南東側から見上げました

 幹にエノキの案内が有りますが、縒れてしまっています
  認定標識・エノキ・22.0m・周3.96m・・・28号・板倉町の文字が見えました

*ネットで調べて見ましたが、たどり着けませんでした

 東側から

 北側から

 境内社です

 拝殿です

 本殿です


 東側の墓地入り口から見ました

 では、この辺で帰りましょう

 
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愛知県岡崎市、保母町西ノ畑「瓶井神社の大ケヤキ(市指定)と大タブノキ」です!!

2023-03-26 06:29:04 | 巨樹・大木
 ここからは、2023年2月9日取材分です

 保母町西ノ畑地区は、岡崎市役所の東南東約5kmのところ

 市役所前から国道1号線を南東へ進みます、竜泉寺川を渡ったほたる橋南信号を左(東)へ道成りに進みます

 道路左手「デイサービスセンターあゆみ」の先を左(北)へ入ると

 左手に瓶井神社(かめいじんじゃ)が東向きに鎮座します

 北側の東名高速道路手前に広い駐車場が有ります


 東側から境内入口です

 一ノ鳥居の額です

 村社 瓶井神社です

 ニノ鳥居です

 手水舎です

 正面に拝殿です

 本殿覆い屋の側面です

 説明石碑です
  社記
    瓶井神社
鎮座地 岡崎市保母町字西ノ畑56番地
祭神  豊玉姫命 玉依姫命
    配祀 豊受大神 應仁天皇
祭日  10月10日
  御由緒
 創立長禄2年と伝ふ、往古より安産育児の神として篤く信仰せられ、亀井大明神と崇められた。
 明治元年、社名を瓶井神社とす。
 明治5年10月12日村社にれっせらる。
 明治42年6月17日(字稲荷下無格社)稲荷社・(境内社)八幡社・(同)御鍬社を合祀す。
 大正2年12月24日神鐉弊帛料共進神社に指定せらる。

 境内北側にタブノキです

 南側から

 案内板です
  ふるさとの名木
 「瓶井神社の大たぶ」
指定番号 第45号
指定の日 平成3年2月22日
       岡崎市


 本殿の南西側に大きな緑の樹冠が見えますが、目的のケヤキはその影に在るようですので境内南側へ行ってみます

 壁沿いに目的のケヤキを見ました、でも手前の細いケヤキが邪魔ですね~

 東側から太い幹を見上げました

 説明版です
  岡崎市指定文化財
        瓶井神社
  天然記念物 瓶井神社の大ケヤキ
 保母町の瓶井神社境内にあるケヤキの巨木である。ケヤキでは、県下最大級のものである。
 胸高囲6.05m、根囲7.5m、樹高22m、主幹は高さ約3mの位置で二裂する。
 瓶井神社の南側には、タブノキ、ムクノキ、エノキ、ヤブツバキも生えているが、大きさにおいては他を圧倒している。
 県下には、ケヤキの大木は少なく、山地ではなく、平坦な地にこのような巨大なケヤキが残っているのは注目に値する。
 また見方によっては、二本の巨大なケヤキが合体したように見えるのは興味深い。
    昭和47年7月5日指定
         岡崎市教育委員会

 南側から

 南西側から

 西側から見上げました

 では、次へ行きましょう
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群馬県みどり市、大間々町塩原高松「高松のケヤキ」です!!

2023-03-25 18:31:25 | 巨樹・大木
 平成18年(2006)3月27日 新田郡笠懸町・山田郡大間々町と勢多郡東村が合併しみどり市となりました

 大間々町塩原高松地区は、みどり市本庁舎(笠懸町鹿)の北約8km、みどり市大間々庁舎の北約4kmのところ

 みどり市役所大間々庁舎から国道122号線を北へ進みます

 約2kmで国道は左へ足尾(日光)方面に分れて県道257号線です

 渡良瀬川の福岡大橋を渡って直ぐを左へ、また直ぐの交差点を右(北東)へ

 道成りに坂道を登って行きます、約2kmで下りになって約500mの

 道路右手の住宅の東側に大きな樹冠が見えて来ます

 目的のケヤキです

 西側のブロック塀越しに根元を見る事が出来ました、目通り幹囲5.2mの巨木です

 新型コロナウイルスの取り扱いが5類に変更になることや、マスクが自己判断になったとしても、まだまだ簡単に個人宅を訪問できませんので、道路からのみ撮影させて頂きました_(._.)_

 では、次へ行きましょう
 

 
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愛知県豊田市、下川口町井戸入「天神社のイチョウ」(市指定)です!!

2023-03-25 06:29:31 | 巨樹・大木
 下川口町井戸入地区は、豊田市役所の北東約17km、豊田市役所藤岡支所の東南東約6kmのところ

 豊田市藤岡支所前から県道33号線を東へ道成りに進みます

 約3.8kmの御作目沢信号を右(東)へ、まだまだ県道33号線を進みます

 約3kmで上川口梨ノ木信号を右(南西)へ県道11号線です

 約1kmの県道右手に天神社が南東向きに鎮座します

 境内南側の道路脇に車を止めさせて頂きました


 県道から天神社を見ました


 鳥居の先すぐに社殿です

 右側から本殿を見る事が出来ました

 説明版です
  十五等級 天神社 旧村社
鎮座地 豊田市下川口町御堂294番地
      (城ヶ峰山頂・川口城の麓)
祭神 菅原道真(天満大自在天神)
由緒
 社殿に天正10年(1582)7月、水野将監政義が川口城に居城の際に勧請したと云われ、境内にある公孫樹の老木は鎮座の記念に植えたものであり、昭和60年3月に藤岡町天然記念物(文化財)に指定されています。
 氏子の崇敬あつく、特に雷神として恵みの雨をもたらす農業守護の神・学問や書道の守護神として崇められ近郷近在で有名です。
 明治6年村社に列格しました。
例祭日 10月第日曜日(毎月25日 月例祭日)
社殿 本殿 流造 1.80坪
   覆殿    3.00坪
   拝殿   15.75坪
   社務所  19.25坪
   神庫    3.00坪
境内      96.00坪
      藤岡観光協会

 境内の鳥居右側に目的のイチョウです

 北西側から、幹の枝がすっかり伐られてしまっています
*グーグルマップストリートビューでは2015年10月の画像で大きく樹冠を広げている姿が見られます


 北東側から見ました、目通り幹囲約3.5m(目測)の大木です




 すぐ裏側(西)にある川口城阯への登り口です

 では、次へ行きましょう
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群馬県太田市、新田市野井「新田義貞挙兵の生品神社」(国史跡)です!!

2023-03-24 18:29:47 | 遺跡・史跡
 新田市野井地区は、太田市役所の西北西約7km、太田市役所新田庁舎の北東約2kmのところ

 太田市役所新田庁舎前から東へ進みます、新田庁舎東信号の丁字路を左(北)へ

 約1.3kmの信号を右(東)へ、道成りに進んで次の信号を左(北)へ県道322号線です

 間も無く左手に生品神社が南向きの参道で鎮座します

 鳥居前に駐車場が有ります

 太平記の里案内図です


 生品神社の社號標です

 手前の砂利の駐車場に、新田義貞公の像が有ります

 説明版です
  国指定史跡 新田荘遺跡
 生品神社境内
   所在地 群馬県新田郡新田町市野井640他
   指定  平成12年11月1日
 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。
 昭和9年に建武の中興600年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成12年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
 義貞が旗挙げを行った時はわずか150騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となった、15日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
 神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿のまえには義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
 現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年5月8日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
 平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。
    平成13年7月
      文部科学省
      群馬県
      新田町・・・*2005年3月28日に平成の大合併により新しい太田市となった

 説明版のそばに「史跡 新田義貞挙兵伝説地」の標柱です

 駐車所の西端に説明版にあった「床几塚」です

 石碑です

 社務所の後ろ(西)側に「挙兵塚」です

 石碑です


 参道を進みます、ニノ鳥居です

 参道左手に手水舎です

 三ノ鳥居です

 参道左手には神楽殿(舞殿)です

 参道右側には、説明版い有った新田義貞公が旗挙げの時に軍旗を掲げたクヌギの切株です

 説明版です
   神代木
 此の木は櫟(クヌギ)なり、新田義貞公挙兵の際大中黒の旗を此の樹に掲げ戦捷うぃ祈願す。
 爾来鬱蒼と繁茂せり、周囲二丈(6m)余、高さ十丈(30m)にたっす。明治37年6月9日白晝(日中)静穏の時大音響ありて倒れたり、依って其の一部を遺し滋に記念とす。
 爾後春秋星霜90有余年風化に依り腐食朽壊の状なり、依って燻蒸処理をしポリウレタン系合成樹脂加工に依り脆弱破損部の強化修復をし最後シリコン材塗布に依り保存処理した。
 同時に覆屋も新築して未来永劫後世に遺すものとす。
   新田義貞公挙兵666年祭に際して
        生品神社

 かつて6mに及んでいた幹は、半分くらいの幹周で遺されています

 参道左手には、石祠が多数集められています

 拝殿です

 本殿です

 本殿左手には、冨士嶽浅間大神の石碑と祠です、後ろ側のブロックの建物は古御札納所です
 
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