ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

山梨県上野原市、上野原の大けやき(国指定天然記念物)です!!

2017-08-31 07:49:27 | 巨樹・大木
上野原市役所の東に上野原小学校があります

校庭の南端に大ケヤキは立ちます

校庭への南側入り口前の道路に車を止めさせて頂きました

南側道路から見上げました

校庭への階段ですが、普段は使われていないようです


上野原市立上野原小学校です

フェンス越しにケヤキを見る事が出来ました

校庭には立派な石碑が建っています


目通り幹周り8,6mの巨木です

では、次へ行きましょう

ネットで確認してみました

富士の国山梨観光ネットの記載内容です

上野原小学校の校庭に在る大ケヤキは国指定の天然記念物です。
推定樹齢は850年以上、高さ28m、目通り8.64m、根回り10.21mで
主幹は地上4.5mのところで失くなっています。
今では幹に大きな空洞ができ、枝には支柱が必要になってしまいましたが、上野原
小学校PTAが中心となり樹勢回復活動を開始したため、樹勢は見事に回復してい
ます。

上野原小学校の校庭にあるため、ケヤキを鑑賞したい方は小学校のインターホンで
職員の方に許可をいただいてください。

とのことでしたが、朝早い時間でしたのでどちらにしてもダメでしたね~
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県下郷町、円福寺の大ケヤキです!!

2017-08-30 06:37:03 | 巨樹・大木
円福寺は、下郷町役場の南西約3kmのところ

国道121号線沿い東側に参道入り口が有ります

円福寺は楢原宿の中ほどに在ったようです

入り口に楢原宿の説明版が有ります
   楢原宿
     幕藩体制下での輸送方法は、宿駅から宿駅へ荷物を継ぎ送る「馬継ぎ方式」
    が原則でした。
     輸送された物資の中で、その量からみても筆頭にあげられるのが会津藩米の
    江戸輸送です。年間10万俵にも及ぶ廻米が、江戸在住の藩士の扶養米、ある
    いは藩財政操作の資材として送られています。
     各宿駅は、当時の物資輸送にとって大変重要な役割を果たしていたのです。
     楢原宿の宿駅整備を知る資料としては、本寺圓福寺所蔵の「楢原宿古絵図」
    があります。
     絵図は、旧街道を挟んで東町22戸、西町22戸の町割りがなされ、寛永17
    年(1640)2月24日の墨銘があることから、寛永年間には楢原宿も宿駅と
    して機能していることが伺え知れます。
     正保4年(1647)には、会津藩から宿駅の管理体制についての掟が公布
    され、寛文7年(1667)には街道に一里塚等が築かれました。
     このようなことから、下野街道の宿駅や道路が完全に整備されたのは17世
    紀中頃と考えられる。
                     下郷町教育委員会
国道反対側に車を止めさせて頂きました


円福寺入口です

山門です、光林山 圓福寺・比叡山延暦寺直末の文字が見えます


円福寺説明版です
   光琳山 圓福寺
     1、由緒
        本寺は嘉祥元年(848年)慈覚大師円仁により開山され、延寿寺(
       若松城内にあったが戊辰戦争で焼失)の末寺であった。現在は比叡山延
       曆寺を本山とする天台宗山門派で、以前は聖観音を祀っていた。明和7
       年(1770年)に現在の本尊阿弥陀如来三尊が安置された。
     2、文化財(下郷町)
       (1)木造聖観音座像 古本尊で像高87cm。南北朝時代の作と推定
          される。
       (2)木版無量義経 延寿寺豪仙から曼荼羅と共に寄進されたもの。法
          華経の最初の「開経」と呼ばれる部分。松平下野守奉寄進の墨書
          銘がある。
       (3)紙本着色胎蔵金剛両界曼荼羅 大日如来を中心とした仏衆の組織
          図。若松城主蒲生忠郷公(1618年~1627年)が城内に東照宮
          を造営の折寄進された。延寿寺は以後東照宮の別当となる。
       (4)楢原宿古絵図 寛永17年(1640年)に宿の様子を幕府に報告の
          ため作られた絵図の控え。
      3、緑の文化財(福島県指定)
       (1)圓福寺の大ケヤキ 胸高幹回り6m、樹高31m、推定樹齢550年
       (2)圓福寺のシャクナゲ アズマシャクナゲで樹高3m、推定樹齢170年
         

境内へ入りましょう


鐘楼です

本堂です

本堂前に大ケヤキは在ります

福島県緑の文化財としての保護が行なわれています

北側から

南側から

本堂前から見上げました

では、次へ行きましょう





ここまで、2017年8月6日に取材したものです
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県会津若松市、二本木稲荷のケヤキです!!

2017-08-29 06:11:30 | 巨樹・大木
会津若松市役所の西北西約3kmのところ

中四合集落の北の端に

小さな祠が東向きに建ち、鳥居が南に並んだ

二本木稲荷神社が在ります

境内に車を止める事が出来ました



赤鳥居が並んだ境内にケヤキの巨木が在ります

二本木稲荷神社です

南東側から

東から、祠の後ろ側のケヤキが立派です

説明版です
  二本木稲荷神社由緒
    創祀年代は詳かでないが、口伝によれば、文治5(己酉)年(西暦1189年
   今より785年前)会津の守護佐原十郎義連は奥羽平定の祭源頼朝に従って平泉
   の役に勲功あり、その恩賞として会津を賜り、この地に来り、油幕を張って仮の
   城郭としたところから村名を幕之内と名付けたと伝えられている。当時稲荷社の
   側には幹囲7尋もある老槻の神木2株が在ったが、この枝を伐り油幕の幕串にす
   る細柱として用いたというから随分古い社である。
    公は、敬神の念篤くこの社をこよなく崇敬しており、後葦名7代目の会津若狭
   守平直盛が康暦元(己未)年(西暦1379年今より595年前)鎌倉より会津
   に下向、幕之内新城寺に三年居住し至徳元(甲子)年(西暦1384年今より5
   90年前)小高木城(鶴ヶ城)を築城のときこの稲荷社に祈願し薄雪が鹿子斑に
   降った満願の朝、夢のおさとしがあって使いの白狐が参詣道を一路東に進み足跡
   を印して城郭の導をつけたといわれ今の御城稲荷は二本木稲荷の分神とも伝えら
   れている。
    
現在残っている一本のケヤキは、目通り幹周り5,3mの巨木です

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県会津若松市、如来堂のイチョウです!!

2017-08-28 07:19:43 | 巨樹・大木
神指町如来堂は、会津若松市役所の西北西約4kmのところ

「高瀬の大木」の南西約400mの所にあります

神指城跡の南側土塁上に如来堂が建っています

土塁の坂道を登って如来堂入口に車を止めさせて頂きました


南から見ました、神指城跡の南端です

入り口の坂(神指城土塁へ上る坂道)の途中の案内板です

境内入口です、大イチョウが境内に見えています

史蹟 新撰組殉難地の石柱が入口にあります

境内入口には、石仏や石塔が並びます

東向に如来堂が在ります

説明版です
   如来堂
    慶応4年(1868)9月4日、山口次郎こと斎藤一ら新撰組隊士が守備
   したここ如来堂が、新政府軍によて襲われ、隊士が全滅したとされる場所で
   ある。
    近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新撰組は、母成峠防衛の任と
   なるが、西軍の攻撃の前に敗退いた。庄内へ援軍を求めて会津を離れようと
   する土方に対し、山口は会津藩主・松平容保への恩義から「今、落城せんと
   するのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、会津に残留して徹底抗戦
   を主張した。
    会津を去った土方とは対照的に、山口は20名(十数名とも言われている
   )ばかりの隊士とともにこの地に宿陣していたが、西軍の襲撃を受けて全滅
   したとされている。しかし数名の隊士が乱戦の中を脱出し、生存していた。
    ここ会津で隊長として新選組を率いた山口においては会津藩が降伏開城し
   た後、藩士とともに斗南藩に移り、苦渋をともにしたのち、大正の世まで生
   き抜いたのであった。

南側から

自然景観指定緑地の案内板です

如来堂の前から見上げました


では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県会津若松市、国指定天然記念物高瀬の大木です!!

2017-08-27 17:52:39 | 巨樹・大木
高瀬の大木は、神指城址二の丸北東隅の土塁の上に立ちます

会津若松市役所の北西約4kmのところ

国道252号線の高瀬信号を西に入ると

田圃の中に見えて来ます

北側土塁脇に車を止めさせて頂きました



東側から望みます

北東側から見上げました

説明版が有ります
   国指定天然記念物 文部省告示第23号
            昭和16年1月27日指定
     高瀬の大木(ケヤキ)
       会津若松市神指町大字高瀬字五百地
     慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にある。
     築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12,55m、
    目通りの幹囲10,45m、樹高24,64mある。
     大枝の折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきたが、樹姿はなお堂々とし
    てすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものである。
       昭和56年11月            会津若松市教育委員会   


南東側から

土塁の上に登り南から

南西側から

西側から

北側から

北北東側から

神指城跡の説明版です
  (詳しくは、このブログ2011年10月29日のこのブログを見てただければと思います)

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県会津若松市、高野木流馬頭観音のケヤキです!!

2017-08-26 01:18:19 | 巨樹・大木
高野町木流地区は、会津若松市役所の北北西約6kmのところ

国道121号線を磐越自動車道会津若松インターチェンジから

北へ1kmほどで右手に小山が見えて来ます

道路脇に山門があります、山門前に車を止められます




山門です

馬頭観世音です

明治時代の手水鉢があります

石段を上がりましょう

観音堂の西側の薮の中にケヤキの巨木があります


幹に穴の開いたケヤキの木です、目通り幹周り6,4mの巨木ですが・・・

幹に大きな傷が有り、大枝が折れています長生きしてもらいたいですね~


馬頭観音の縁起です
   馬頭観世音縁起
     厩は獄の観音秘蔵なりしかば別に此が像を別に前立とす
     されど彼地山は道険しければ参詣の便をはかり大同の・
     此の地に移し、天文の頃聖護院宮此の堂に遊宴ありと云
     う(新編会津風土記より)
        昭和60年6月建
        福聚山観音寺総代記

では、次へ行きましょう
     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、塩川金川戸隠神社の大銀杏です!!

2017-08-25 06:46:52 | 巨樹・大木
金川地区は、喜多方市役所の南南東約7kmのところ

県道7号線と県道69号の交差点を南に入った所に

戸隠神社参道が東向きに在ります

参道を入った鳥居前に駐車スペースが有ります



この道を入ります

鳥居です

社殿です、左側に大銀杏が在ります

大きな看板が有ります
   塩川町指定文化財 
     天然記念物 金川戸隠神社の大イチョウ
       昭和48年2月4日指定
       塩川町教育委員会(2006年1月4日に喜多方市に合併しました)

裏側に説明が有ります
   金川の戸隠神社の境内に、胴回り5,6m(目通り)樹高25m余、樹齢
  600年余と推測される、樹勢きわめて良好な大イチョウです。
   この金川の大イチョウは根張りが6m余にわたり露出し、枝から気根(乳
  ともいっている)もみられ、壮観なる古木で、会津には珍しいイチョウです



南東側から見上げました

喜多方市指定天然記念物と福島緑の文化財の標柱が建ちます



南側から

根元は柵で根を守り、看板や標柱が建つのが解かりますね

拝殿前から見上げると、幹が拝殿に隠れてしまいました

社殿の北側には、杉の御神木です


では、次へいきましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、塩川町中屋沢杓子ヶ入のメグスリノキです!!

2017-08-24 07:49:38 | 巨樹・大木
雄国沼へ至る2本の林道のうち南側を登る林道を進むと

やがて沢のカーブの所に、案内板が出ています

手前の沢側に駐車スペースが有りますので

山道を登って行きましょう

このカーブのところです

林野庁「森の巨人たち100選」喜多方市指定天然記念物 杓子ヶ入メグスリノキ 車道から100mです

小沢を木橋で越えて

先へ進みます

また木橋です展望台でした

説明版です
喜多方市指定天然記念物
     「杓子ヶ入のメグスリノキ」(しゃくしがいり)
            喜多方市教育員会
     所在地  喜多方市塩川町中屋沢字水山国有林388林班せ5小班内
     所有者  林野庁  会津森林管理署
     周囲の状況  本樹は、雄国山麓の猫魔火山西斜面中部に位置し、標高650mの
              小渓畔に自生している。
     本樹の特性  目通り幹囲は4,1m、樹高は約20mで枝張りは東・南・北へそ
              れぞれ9m、西へ6mほどを保っている。
               幹は地上3mほどで枝分かれし、主幹はさらに地上7mほどで3本 
              に別れている。これらの大枝はそのまま斜上し、全体として開いた壺
              状の樹幹を形成している。
     住民とのかかわり  かつてはこの渓畔に沿って小径があり、山作業の人々が本樹
              を目印として往復し、また休憩地として親しまれていた場所であったと
              伝えられている。



下の沢際に大木は在りました

木橋の階段を沢側へ下ります


階段途中からようやくメグスリノキを見上げるようになりました

森の巨人100選の案内版です
    NO37「杓子ヶ入メグスリノキ」
               福島県塩川町
      樹種  メグスリノキ
      推定樹齢  300年
      樹高  20m
      幹周  4,10m


沢音を真横に聞きながら見上げました

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、二軒在家の大クリ(月岩の大クリ)の木です!!

2017-08-23 20:09:12 | 巨樹・大木

二軒在家は、喜多方市役所の北東約4kmのところ

国道121号線の旧道米沢街道を大峠方面に進みます

間もなく二軒在家の標識があり、直ぐ先を右斜めに入ると

右側の畑の中に大クリが在ります

道路脇に車を止めさせて頂きました



二軒在家の標識の直ぐ先を右に入ります

右手にクリの巨木が在ります

福島県緑の文化財の標柱です、表記名称は月岩の大クリと成っています

説明版が有ります
   市指定天然記念物
     二軒在家の大クリの木
      所有者 瓜生次男氏
      指定年月日 昭和43年7月22日
     このクリの木は、高さが約15m、地上1.3mの幹の周りが約5mの大木である。
     地上2mのところから、四方に枝を広げ、東に約10m、西に約12m、南に約25
    m、北に約25mの枝張りがある。   
     クリの寿命は、二百年といわれているが、古老の話などから二百年は下らないと推定
    されている。このような老樹が毎年実を結び収穫できるのはたいへん珍しく、学術的に
    も貴重なものである。
      クリ―――ブナ科
                             喜多方市教育委員会

幹の根元が覗けます

西側から

北西側から

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、熱塩加納温泉神社の大杉です!!

2017-08-22 04:05:52 | 巨樹・大木
熱塩加納温泉は、喜多方市役所の北約10kmのところ

県道33号線を北上します

この看板、温泉神社の大杉が温泉街入口に立っています

温泉街の入口のトチノキの大木です、根元の洞に耳の神様が祀られています

説明版です
   耳の神様
     ここに祀られている神様は「耳の神様」で通称「ツンポの神様」とよばれていました。
    三本の大木の根元が空洞になっており、人間の耳の穴を連想して、ここに昔の人は耳の神
    様をお祀りしたのです。現在大木は栃の木一本だけです。昔はカエデの木(目薬の木)、
    センの木の大木もありましたが、通行に被害を及ぼす恐れがありましたので、二本は切ら
    れてしまいました。
     この神について物語が村人達に語り継がれています。ツンポとは方言で耳の聞こえない
    人のことです。神は大きな栃の木の根穴を祠にして、祀られています。昔洞窟のようなと
    ころを耳の悪い乙女が毎日手を合わせて行き来していると、いつしか乙女の耳が聞こえる
    ようになりました。その後耳の神として方言でツンポの神様といわれたのでしょう。
     また根穴の中に沢山のお椀が飾ってあります。横から見たお椀が耳の形に似ていること
    から、お椀の底に穴を開けて耳の通りや耳の病気が良くなるように奉納されたものです。
     このような昔ながらの民間信仰が医学の発達した現在もあります。
     


温泉街の一番奥のお寺の駐車スペースを利用させていただきました

少し戻ると綺麗な水がながれています

この案内板を入ります

石段があります

坂道をのぼります

鳥居が入口です

鳥居脇の境内社です、雪の深い地域だからでしょうか柱の上部が祠になています


参道を進みます


社殿が見えてきました、社殿の前に杉の巨木があります

喜多方市指定天然記念物と福島緑の文化財の標柱が並んでいます

説明版です
   市指定天然記念物
     温泉神社の大杉
温泉神社拝殿前にそびえるこの杉は自然生の杉で、目通り周囲6,5m、樹高約25m位
      あり樹齢一千年とも言われているが定かでない。
       元は、この杉の根元に草創の年代は不明ではあるが、山の神である大山祗神を祀る山神社
      の小石宮がありその御神木といわれ、旅人の崇敬受けてきた由緒あるものである。
       この杉は永年の風雪に耐え生きつづけてきたが、大正9年(1920)4月17日の温泉
      大火による飛び火によって外皮の一部が焼損しているが、樹勢はまだまだ旺盛である。
       この御神木は、本村樹木の中において最も古くから最大であり信仰とまた植物生態学から
      も貴重な存在である。
       現在、杉は本村の象徴の一つであり「村の木」に指定されている。
            指定年月日  平成18年1月4日       喜多方市教育委員会
     



下側から見上げました

社殿です

社殿前から見上げました

社殿脇から見ました

枝の折れた痕から痛みが進んでいるようです

では、次へ行きましょう



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、三谷北野神社の杉です!!

2017-08-21 06:58:34 | 巨樹・大木
三谷地区は、喜多方市役所の北西約4kmのところ

国道459号線から県道385号線を北へ進みます

地区の北の端に大用寺が有ります

東向きの参道の途中を北に入る道が北野神社の参道です

参道入り口に車を置かせていただきました

五分一の標識の交差点を西へ入ります

北野神社への参道です

鳥居です

鳥居脇の杉の大木です

境内社が並んでいます

石段の上に社殿が見えて来ました

社殿です

北野社と成っています

社殿の真裏にも祠が有ります

社殿南側境内に杉の巨木が在ります

東側から見上げました、隣の松も十分な大木です


北側から見ました、説明版等はありませんが、目通り幹周り5,0mの巨木です

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、慶徳熊野神社「長床」です!!

2017-08-20 07:12:09 | 文化財・寺社
後半です

長床は、熊野神社の拝殿にあたる建物で国の重要文化財です

大銀杏と同じ平面境内に建ちます


長床です


説明版です
   国指定重要文化財(建造物)
     熊野神社長床
       所有者 新宮熊野神社
       指定年月日 昭和38年7月1日
    長床は熊雄神社の拝殿で、9間×4間、茅葺寄棟造りの建物です。
    直径1尺5寸(45、4cm)の円柱44本が5列に並び、各柱の間は10尺
   (303cm)の等間隔で全部吹抜けです。外廻り1間通りが化粧屋根裏の庇の
   間として区切るように並べてあり、中央桁行7間、梁間2間のところは天井を張
   った身舎となっています。
    各柱の上には、平三斗の組物がのり、中備には間斗束を用いている。
    前身建物は、各所に残る部材の様式手法から考えて、鎌倉時代初期のものと推
   定されます。慶長16年(1611)の大地震で倒壊し、同19年に再建されま
   したが旧材を再使用したため柱間寸法が縮み身舎9尺(272cm)庇8尺(2
   48cm)となり、また組物や天井等を廃したり、軒はせがい造りに改められた
   りしていました。
    そこえ昭和46年から49年にかけて解体修理が行なわれた時、調査の結果旧
   規を知る箇所が数多く判明したので、できる限り当初の姿に復元しました。
    中央の系統をひく鎌倉時代の遺構として、東北地方では他に類をみないものと
   なりました。
                          喜多方市教育委員会

南側からの全景です

北東側から

境内南側には鐘楼が有ります


県指定文化財の銅鐘です

鐘楼の西側の建物は文殊堂です


本殿へ行きましょう、正面に見えているのは新宮の本殿です

説明版です
   福島県指定重要文化財(建造物)
     熊野神社本殿 三棟
      昭和42年12月8日指定
      所在地 喜多方市慶徳町新宮字熊野2258
      所有者 熊野神社
    国指定重要文化財熊野神社長床を拝殿とし、石段をのぼった山の中腹に、玉垣を
   めぐらし三殿が並列し、東を向いて建っている。中央から本社新宮証誠殿、左が末
   社那智山飛龍権現、右が末社本宮十二社権現である。
    三社とも一間社奥行二間、妻入り向拝付の同じ規模であるが、各社各部に手法や
   細工の程度に相違がみられ、同じ棟梁でないだけでなく、修理のあとも多い。 
    中央の新宮殿は、両末社より手法・細工とも入念であり、基壇はなく、礎石の上
   に地長押を置き、縁長押も設けて床を高くいている。向拝には特に浜床に相当する
   部分はない。向拝の三つ斗・つなぎ虹梁・木鼻などが洗練されている一方、主屋の
   木鼻や懸魚は鈍いので、向拝は修理にあたって変更を受けているとも考えられる。
   一見して春日造りの形をとるが、ここでは向拝を入母屋の妻屋根の延長として扱い
   平行二重の重棰は隅木を入れて前面にも巡らし、縁も両側面に延長して脇障子をた
   てるなど、本来の形式よりは進化している。
    この種の本殿形式は紀州熊野神社社殿がそうであるところから、熊野造りの名称
   もある、東北地方の神社本殿はほとんどが流造りである中で、わずかの熊野神社の
   みが妻入りの系統を伝えているのは興味深い。建立時期についての記録はないが、
   形式伝播や同種の例から推定して、主屋は室町末期以降、向拝などには慶長年間(
   1600年ころ)に、山上から現在地に移されたとき大修造があったと考えられる
   。
    なお、熊野造りが三社併置されている大規模構造は、県下に当社以外例を見ない
   。
                            福島県教育委員会



福島県指定重要文化財の標柱です


石段を登って新宮右手に本宮本殿です


左手には那智殿本殿です


三社本殿が同一平面上に並んでいます

本殿前石段上から拝殿である長床を見下ろしました

では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、慶徳熊野神社のケヤキと大銀杏です!!

2017-08-19 07:26:31 | 巨樹・大木
慶徳熊野神社は、長床が有名な神社です

喜多方市役所の南西約7kmのところ

新宮城跡の南に参道の入り口が有ります

参道の鳥居南側に駐車場が有ります


参道鳥居です

懸社 熊野神社です

説明版です
   熊野神社
     本宮十二社権現殿
     新宮証誠殿
     那智山飛竜権現殿
    平安中期の永承6年(1051)奥州平定を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家は、
   紀州熊野三所に武運を祈願し、前九年の役(1051~62)に勝利したのを機に天喜3年
   (1055)河沼郡熊野堂村(現河東町)に熊野三社を勧進したが、後三年の役(1083
   ~7)の兵乱が始まった応徳2年(1085)八幡太郎義家によって熊野堂村からこの地に
   移された。当初は本村に新宮、岩沢村に本宮、宇津野村に那智殿が別箇に祀られたが、後に
   この地に三社が合祀された。
    「新宮雑葉記」によれば、盛時には三百余の末社霊堂に多くの宗徒、百余人の神職を置き
   国家の安全を祈願し、奥州の熊野と称され崇高されたという。
    文治5年(1189)佐原義連によって寺社領悉く没収されたが、建久3年(1192)
   源頼朝より社供二百町を賜り、かつ文殊菩薩の形像を安置せられた。また当地の地頭新宮氏
   によって以前の栄耀をみるに至ったが、打ち続く戦乱と慶長16年(1611)の大地震で
   多くの建物は倒壊した。堂19年再建されたが昔の面影は失われ、ただ拝殿(長床)の遺構
   のみが往時の壮大さを伝えている。
    当社には国指定重要文化財2点、県重要文化財7点があり歴史の古さを物語っている。
   
ケヤキの巨木です

南西側から

「春待ち欅」です、目通り幹周り5,0mです

駐車場(南)から見ました


杉並木の参道を行きましょう

手水舎です

長床が見えて来ました

長床の前に大銀杏が在ります

説明版です
   市指定天然記念物
     新宮熊野神社の大イチョウ
       イチョウは、かつて中国から日本に渡来したとされ、この大イチョウは
      神社創設の際に植えられたものと口伝されている。
       樹高は約37m、幹周りは約8mで、全国でも最大級のイチョウである
      樹齢は800年以上ともいわれ、当社の神木となっている。かつては会津
      若松市からも見ることができたといわれるこの巨木は、熊野神社長床とと
      もに、神社の景観を象徴するものとして、悠久の時を刻み続けている。
        市指定年月日 平成18年1月4日      喜多方市教育委員会

北西側長床の軒下から見上げました

南側から

少し長くなってしまったので、後半と分けますね

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、新宮城址です!!

2017-08-18 07:39:31 | 城跡・館跡・陣屋跡
新宮城址は、喜多方市役所の南西約6kmのところ

県道336号線沿いに城跡碑が建っています

城址碑の南側に広い駐車場が用意されています

県道沿いに幟が出ています

新宮城址の碑が有ります

草の植えられている部分が南側の堀跡です

県道沿いの段差が、郭と堀の段差でしょうか

駐車場に説明版が有ります

 会津新宮城跡
   会津新宮城跡は、福島県西部、会津盆地北西部位置しており、南北朝時代~室町時代前期に会津北部から
  新潟県の東蒲原郡方面に勢力を持っていた有力武士、新宮氏の城館跡です。新宮氏は平姓の武士で、鎌倉時
  代の初め頃会津に所領を与えられた関東御家人佐義連の子孫とされます。鎌倉時代の末頃には当地の地頭と
  して土着しており、新宮熊野神社には新宮氏一族が寄進した銅鐘が残されています。室町時代に入ると後に
  戦国大名となる黒川(現会津若松)の蘆名氏とたびたび争い、城も合戦の場になりました。応永22年(1
  415)に城を落されて越後に逃れ、最後は永享5年(1433)に小河荘(現新潟県東蒲原郡阿賀町津川)にお
  いて蘆名氏により滅ぼされえいます。
   城跡は、周囲に幅15~20mの内堀と土塁を方形(ロ字状)にめぐらした東西100~120m、南北120~130
  mの主郭と、その外側を天然の谷を利用した外堀で広く囲む外郭からなり、城跡全体では東西約480m、南
  北約440mの規模となります。この城跡のように、平坦な場所に方形に堀をめぐらす形態の城館跡は平地式
  の方形居館と呼称されていますが、14世紀から15世紀前半、戦国時代以前のものとしては東北地方でも有
  数の規模になります。
   発掘調査では、礎石建物跡や、国内最大級の方形木組遺構が見つかり、中国・朝鮮産の磁器、国産の珠洲
  系の陶器や古瀬戸、かわらけが出土しました。外国産の磁器には高麗象嵌青磁や象の青白磁など、出土事例
  の少ない高級品を含んでいます。かわらけは当時の儀式などに使用されていた素焼きの皿類で、主郭からた
  くさん出土しており、かわらけを大量に使用する儀式がおこなわれていたことがわかります。礎石建物跡、
  方形木組遺構など通常の城館跡には見られない遺構や、高級品を含む陶磁器類、東北地方の中世城館跡では
  まとまった出土事例の少ないかわらけなどは、新宮氏の財力、勢力の大きさを知ることができます。出土し
  た陶磁器類は、12世紀から15世紀前半のもので占められており、文献資料から知られる新宮氏の盛衰と一致
  しています。
   会津新宮城跡は、その規模や出土遺物から城の具体的な在り方がうかがえるとともに、全体の保存状態も
  極めて良好であり、文献資料からも来歴をあとづけられることができる貴重な遺跡です。

  *城跡の範囲は私有地となっていますので、畑地内への立入はご遠慮ください。
                            
                                  喜多方市教育委員会

図面や発掘調査の写真です

では、次は熊野神社に行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島県喜多方市、慶徳稲荷神社の杉2本です!!

2017-08-17 06:23:07 | 巨樹・大木
慶徳地区は、喜多方市役所の南西約6kmのところ

県道16号線が西の山間へ上る手前に稲荷神社が在ります

参道の北側に駐車場が有ります

慶徳稲荷神社です

参道を進みます

境内入口の鳥居です



参道脇にまず1本目の「稲荷神社の杉」があります

目通り幹周り4,4mだそうですが、計測から15年以上過ぎているので、もっと太くなっていることでしょう


北側から見ました、注連縄を巻かれた御神木です

福島緑の文化財の標柱です

「稲荷神社の杉」の直ぐ西側にも杉の巨木があります

説明版が有ります
   八幡太郎御手植の杉 
     寬治5年(西暦1091年)907年前、源義家が後三年の役で、
    東北にこられる際、京都伏見稲荷の御分霊を、この地に勧進したのを
    記念して植えられた杉と伝えられております。
       平成9年7月吉日          慶徳稲荷神社

北側から見上げました、目通り幹周り5,9の巨木です

二の鳥居でしょうか

手水舎です

鐘楼です

拝殿です

狛犬でなく狛狐ですね

説明版です
慶徳稲荷神社 由来記
   所在 福島県喜多方市慶徳町豊岡字香隈山 鎮座
     祭神 宇迦之御魂神 須佐之男命 大名牟遅神 少名毘古那神
     由緒 当、稲荷神社の創建奉斎は、大そう古く893年前の寛治5年堀川天皇の御代、
       鎮守府将軍、源義家が奥州の清原武 家 征伐のため下降(都から東北にこられた
       )の際、京都伏見稲荷山に祀られてある稲荷神社をこの地に勧進し神領を寄進しま 
       した。鈴木蔵人元行という人(現当社神官穂積氏先祖)が神に供奉して当社の別当
       となったのが始まりであります。
        その後、領主の変遷や、兵乱が打続いたため、その影響で当社も衰微し、社殿は
       朽廃(くちはて)し、神木と称する杉の大木が数本繁茂するのみでした。
        応永3年の春(588年前)当村慶徳寺の開山(寺を建てた人)源翁和尚が霊女
       の夢知らせによい朽廃した神社の再興を思い立ち、広く勧進(募金活動)により社
       殿を改造し、境内を整備し昔の姿に復元いたしました。是より領主・地頭など多く
       の人々が怠らず社殿に補修を加え、毎年2月と11月の初午の日には、海幸・山幸
       百味の神供を備え、神徳、霊験あらたな神として近郷、近在より陸続きとして参詣
       者が訪れ御社の栄えと共に村も賑い、慶徳組の米は、よそに勝るのもこの大神の深
       い御恵の賜と信じられております。
        寛永20年(341年前)保科氏が会津の領主として入国以来稲荷神社を深く崇
       敬し、境内での狼藉、殺傷、緒木伐採の禁札を掲示し、祈願所と定め毎年大祭日に
       は殿の代参を派遣し、幣帛(神前に供える品々)を献じ、祝詞を奏上し百穀の豊熟
       を祈願するのが例でありました。完成12年12月29日(180年前)朝廷より
       正一位の神位の宣下がくだされました。
        御田植祭の神事は、当社最大の祭典行事で、7月半夏生に行われる「神輿」には
       数々の具奉が従い町内を一巡し、御正田に安置され御田の神事が行なわれ、五穀の
       豊作を祈念されます。
        御田植歌の歴史も古く、500年程前に作られたと伝えられています。
        明暦3年(327年前)の頃よりお田植祭は一時すたれましたが、天保5年(1   
       50年前)再興するに際し、元の御田植歌を会津藩の大学者であり歌人でもある沢
       田名重が補作し、同藩士で雅楽にも長じていた浦上秋琴が「越天楽調」に作曲し、
       今日まで歌い継がれてきました。
     主なる祭事  例大祭 (御田植祭)7月1・2日(半夏生の日)
              初午祭  2月初午の日(祈年祭)
                    11月初午の日(新嘗祭)
     文化財  神木2本  福島県天然記念樹指定  昭和56年10月1日
            慶徳稲荷お田植まつり  市指定文化財に指定  昭和57年4月9日
        昭和59年6月記         御田植まつり保存会
         




本殿です

参道北側には不動殿

八雲神社です

もう一棟神社が在ります

南側に境内社の祠が並びます


では、次へ行きましょう
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする