ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

岩手県住田町、世田米清水沢「浄福寺参道のイチョウ群」です!!

2024-11-30 18:45:00 | 巨樹・大木
 世田米清水沢地区は、住田町役場の北西約600mの気仙川対岸のところです

 住田町役場を南西に出て、国道340号線を北西へ

 約900mの美土里橋を渡って直ぐの信号を右(北東)へ

 約600mで左(北東)へ直ぐの左手に

 浄福寺参道です

 参道入口に車を止めさせて頂きました

 参道左手にスギの大木が並びます、一番手前が合体木ですが目通り幹囲8.5mの巨木です

 三本が寄り添っています

 北側から

 さらに3本が間を置いて並びます
 
 単幹では一番太いと思われるイチョウです

 北側から、目通り幹囲5.7mとされるイチョウのようです

 更に3本のイチョウです

 参道を登った駐車場入り口のイチョウです

 北東側から見ました

 境内入口石段です、石段の上に松の樹冠が見えます

 参道右手に傘松です

 幹を見上げました

 鐘楼です

 本堂です

 本堂南側のモミの巨木は、親鸞聖人像に変わってしまいました

 南側から見上げました、モミはかつて目通り幹囲5.0mの巨木でした

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・14・40
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岩手県住田町、上有住中井「上有住の一本松」です!!

2024-11-30 06:34:00 | 巨樹・大木
 上有住中井地区は、住田町役場の北約6kmmのところ
 
 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約5.2kmで左手に「万福寺の門杉」入口を過ぎて約1.7kmで

 道路右手(南側)に形の良い大きなアカマツがあります、後方には気仙川に架かる小台橋です

 すぐ先の交差点北側に車を止めさせて頂きました

 夢がかがやく上有住(かみありす)史跡・景勝地案内板です、左下の赤〇が表記の一本松です

 北東側から

 東側から、一本松の案内板と一緒に

 南東側から

 東側から幹を見上げました、目通り幹囲3.4mの大木です

 幹に薬剤注入の表示が止められています、施工令和3年2月17日・樹木番号30・胸高直径109cm等の表示があります

 北側から

 西側から

 道路北側の北西側から

 北側から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・14・20
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岩手県住田町、下有住十文字「万福寺の門スギ」(町指定)です!!

2024-11-29 18:39:00 | 巨樹・大木
 下有住十文字地区は、住田町役場の北約6kmのところ

 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約5.1kmの「下有住郵便局」の先約200mで左手に万福寺の寺号標が見えますので、左(北西)へ入ります

 間も無く南東向きに万福寺参道入口です

 石段の両脇に目的の門杉です

 参道右(東)側の道路脇に車を止めさせて頂きました

 北東側から二本を魔ました、手前が参道右(東)側のスギです


 参道石段左(西)側のスギです

 北東側から。目通り幹囲4.6mの大木です

 北側から


 参道石段右(東)側のスギです


 西側から、目通り幹囲5.6mの巨木です

 北西側から


 参道石段を上がります

 本堂です

 説明版です
   外舘城(とだてじょう)と万福寺
 外舘城は、応永年間(1394~)葛西の臣紺野美作守の居城(気仙風土草)、或は、紺野右近の居城であったと言われ、東西30m、南北40mの本丸、ここを中心に、三段土檀が取り巻き、苗代沢より水を引き、中腹から水路を通して気仙川に捨てる等、優れた技法で築城されている。
 場内中段に天正元年(1573)曹洞宗普門寺3世勅得賜俊明佛覚禅師大竜長熈大和尚の開創された、金昌山萬福寺がある。
 当寺は、城主紺野美作守に関係があると考えられるが、明治2年旧3月4日、19世十州大和尚焼死示寂とともに、本堂庫裡建物一切火災に遭い、貴重な書類什宝を焼失している。
 その後、昭和3年本堂を再建し、今日の伽藍を見るに至っている。

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・14・10
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岩手県住田町、下有住高瀬「長桂寺の門スギと杉」です!!

2024-11-29 13:07:00 | 巨樹・大木
 下有住高瀬地区は、住田町役場の北西約4kmのところ

 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約2.7kmの横断歩道の手前を右(東)へ入って気仙川を高瀬橋で渡ります

 右手に「長桂寺の杉」が見えますが、先に「玉桂」を見て来ました

 西向きの参道入口です

 石碑が並びます、右後方の黄葉した木が「玉桂」です

 参道を進むと「長桂寺の門杉」ですね(カメラのレンズに水滴が付いています)

 目的の「長桂寺の杉」です

 御月山 長桂寺寺号標です

 北側から

 北東側から、目通り幹囲5.6mの巨木です
 
 手水です

 東側から

 門杉を見ました

 本堂です

 説明版です(右側の中清水観音から)
   気仙三十三観音十五番札所
     中清水観音(なかしずかんのん) 
 中清水現当主の吉田孝守さんによると、「昭和8年に長桂寺の本堂を新築した時、ご本尊の前仏がないというので、中清水観音を寺に寄贈した」という。
 長桂寺の阿部住職も「それ以来、寺に”永久預け”となっており、十六番札所(聖観音菩薩)との2つの観音像が寺に安置されている」と話している。
 中清水観音は水月観音ともいわれ、高さ20cmほどの小さな仏像だが「唐仏」とある通り、東洋と西洋が融合したようなエキゾチックなイメージを漂わせる。
     住田町下有住字高瀬145
   気仙三十三観音十六番札所
     長桂寺聖観音(ちょうけいじしょうかんのん)
 この寺は宮城県栗原市涌谷の竜渕寺の末寺とされ、開基は古く、天文23年(1554)室町時代後期に当たる。
 寺号の由来となっている樹齢800年とも1000年とも言われる「玉桂(たまかずら)」が本堂の北側100mのところに豊かな枝を伸ばしている。
 内陣正面に、ご本尊の釈迦如来像をはさんで、向かって左側が聖観音、右側に中清水観音(十五番札所)が祀られている。
 1カ所に2つの観音さま(札所)があるのは、気仙三十三観音霊場でもここしかない。
     住田町下有住字高瀬145
   
 では、次へ行きましょう




 2024・10・19・14・00
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岩手県住田町、下有住高瀬「長桂寺の玉桂とカヤ」です!!

2024-11-29 06:39:00 | 巨樹・大木
 下有住高瀬地区は、住田町役場の北西約4kmのところ

 住田町役場を南西側に出て、国道340号線を北西へ進みます

 道成りに約3.4kmで「遠野・国道340号線⇗」の標識に従って信号を右(北西)へ

 約2.7kmの横断歩道の手前を右(東)へ入って気仙川を高瀬橋で渡ります

 右手に長桂寺の参道です、「長桂寺の杉」が見えます

 道路右手に「玉桂」が見えました

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 南西側から

 南側から、目通り幹囲16.7mの巨木です

 説明趙慶次
   玉桂と長桂寺
 天文23年(1554年)一翁舜獄大和尚により開基された。
 寺の寺号を、近くに高く聳え立つ桂があることから長桂寺と定めた。
 当時は旅する人達の目標(めじるし)となる高い桂だったに相違ない。
 其の後落雷により幹は倒れ、その根本から数十本の芽が伸びて、遠くからの眺めは大きな玉のようだったので、人呼んで玉桂という。
 その根本から豊量の湧き水が出て付近の住民から崇拝されている桂である。
 享保3年(1718年)高田村佐々木三郎左エ門が詠んだ「気仙三十三観音十六番札所御詠歌」に
     永き世の 法のしるしや玉桂 花咲く春に あうぞうれしき
 この桂の樹齢は800年~1000年は経っているであろう。
                  住田町

 南東側から、第一世代は説明版の通り無くなっています

 東側から

 根元には「水神宮」の祠です、もう一つの祠と石祠のお名前は分かりませんでした

 東北東側から

 北東側から

 北側の根元近くの水場には湧水があります

 玉桂の北側にカヤの大木です

 南側の幹です、目通り幹囲4m(目測)の大木です

 西側の幹です、なぜか新聞受けがぶら下がっています

 北側道路から見ました

 南西側から

 南側からも

 では、長桂寺へ行きましょう



 2024・10・19・13・50
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岩手県遠野市、小友町29地割「大葛沢のサワグルミ2本」です!!

2024-11-28 18:32:00 | 巨樹・大木
 小友町29地割地区は、遠野市役所の南西約14km、遠野市役所 市民センター小友地区センターの南南東約5kmのところ

 遠野市役所 市民センター小友地区センター北側の道路を西へ進みます

 約500mの「⇙大船渡12km」の標識に仕上がって左(南東)へ、国道107号線へ出ます

 約5.4kmでスギ林の手前を左(東)へ入ると

 目的のサワグルミが見えて来ます

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 目的のサワグルミは2本並んでいますが、東側の1本は幹が途中で伐られています

 西側の一本を南西側から

 南側から、目通り幹囲5.1mの巨木です

 もう一本を南側から

 南東側から、目通り幹囲4.1mの大木です

 天然記念物標柱です

 東南東側から2本を見ました

 東側から

 道路から見ました

 では、次へ行きましょう




 2024・10・19・13・20
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岩手県遠野市、小友町32地割「大洞の千本カツラ」(市指定)です!!

2024-11-28 12:32:00 | 巨樹・大木
 小友町32地割地区は、遠野市役所の南西約13km、遠野市役所 市民センター小友地区センターの東南東約3km

 遠野市役所 市民センター小友地区センター北側の道路を西へ進みます

 約500mの「⇙大船渡12km」の標識に仕上がって左(南東)へ、国道107号線へ出ます

 約3.1kmで「大洞」バス停の手前を左(東)へ入ります

 約400mで道路が電気柵で封鎖されています

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 電気柵が遠野遺産第74号「千本カツラ」の標柱の間を通ています

 右手の砂利道の先に大きなカツラが見えました

 目的の「大洞の千本カツラ」です

 西側から見上げました

 遠野市指定天然記念物「千本カツラ」の標柱です

 *グーグルマップでは小友の千本カツラ(大洞の千本カツラ)となっています

 南西側から、目通り幹囲19.4mの巨木です

 南側から、第一世代は既に姿を消して大きな空間に成っています

 根元には東向きに祠です

 南東側から

 東側から

 北東側から見上げました

 南側の一段高い耕地の縁から見ました

 では、次へ行きましょう



 2024・10・19・13・10
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岩手県奥州市と花巻市・遠野市の境界「五輪峠の五輪塔と宮沢賢治詩碑」です!!

2024-11-28 06:40:00 | ドライブ
 五輪峠は、奥州市役所の北東約32km、遠野市役所の西南西18kmのところです

 奥州市側の県道27号線の「米里大谷地バス停」(標高約345m)から県道174号小友米里線を東へ進みます

 道成りに約5.2km坂道を上がってきました

 遠野市の標識です

 反対側(東側)からは奥州市の標識です

 北側には「花巻市営東和五輪牧野」です

 文化12年銘の石碑です

 北側に大きな五輪塔がありますが、五輪峠の名前の元となった五輪塔は小さなものだったようです

 五輪峠(標高約556m)の竣工記念碑です

 五輪牧野記念碑です、記されているのは・・・

 そばの案内文です
    五輪牧野記念碑
  五輪峠と名づけしは  地輪水輪また火風
  (巖のむらと雪の松)  峠五つの故ならず
  ひかりうづまく黒の雲 ほそぼそめぐる風のみち
  苔蒸す塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ
            宮沢賢治

 説明版です
   宮沢賢治詩碑「五輪峠」案内
 五輪峠は、遠野市小友、奥州市人首、花巻市田瀬を結ぶ県道の接点で、峠の標高は556m。かつては、遠野街道、人首街道の要所であった。
 隣接する種山高原は、南方5kmの地点にあり、盛岡高等農林学校3年時、江刺郡地質調査で初めて踏査して以来、多くの作品に登場する賢治ゆかりの高原である。
 詩碑「五輪峠」「文語詩五十扁」は、東和町五輪牧野解法10周年記念として、五輪牧野記念碑建立委員会によって、郷土の書家である菅原一峯氏の揮毫を刻し、五輪塔と並んで昭和55年8月に建立し、11月5日に除幕された。
 なお、平成17年3月と平成18年8月に、文部科学省によって「イーハトーブの風景地」として、五輪峠を含め7カ所が国の名称に指定されている。
       花巻市

 賢治と五輪峠の説明版です
 五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。慶長年間には遠野郷の阿曽沼氏と南部氏の戦いが行われ。多くの血が流されたといいます。
 また、藩政時代には「人反し」(他藩に逃亡した罪人が交換されること)の場所として利用されたり、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。 
 賢治の詩「五輪峠」から想像される風景や道筋は、現在もところどころ残っており追体験できますが、彼はその日、花釜線の鱒沢駅方面から鮎貝~切伏~五輪峠の行程を、おそらく知人と共にか、またはその彼の案内で、五輪峠から上大内沢を経て、人首町方面へ歩いて行ったことが考えられます。(五輪峠の北東側から南西側へ歩いた)
 詩中に「向こうは岩と松との高み / その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいている」とありますが、これは峠の頂上付近の情景で、現在も同じように大きな空間が広がっています。
 今も、茂みの少ない春先になると、そのはるか向こうに水沢や北上平野が眺望できます。
 昭和32年の道路開通工事で、すっかり頂上付近の様子は変わりましたが、現在のどっしりとした五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、子供でも動かせるような大きさだったと言います。
 おそらく、それが賢治の目に映った「そんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。
 その由来については約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた千葉日向という侍が、父の菩提を弔うために建立したものと伝えられています。       
         賢治街道を歩く会

 賢治の歩いた峠道の説明版です
 五輪峠は、宮沢賢治の歩いた江刺郡の旧街道(黒石・気仙・盛)の中で、最も当時の景観を残している道筋です。
 特に、この五輪峠から北新田までの峠道は、その後の道路開発からも逃れ、ほとんど昔のままの状態が残っています。
 今では地元住民にも忘れ去られてしまおうとしていますが、明治元年には本州で一番最初にロシア正教を人首番所で説いたという沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟)や、同39年には高名な俳人の河東碧梧桐、またその後の大正6年9月の江刺郡の地質調査時です。
 同行した友人の高橋、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾い乍ら、ホ―、ホー20万年もの間陽の目を見ずに居たので、みな驚いていると叫んでいた。」と述べていますが、現在も峠道の処所で、それと同じように露出した蛇紋岩体に出会うことができます。
 賢治が二度目に五輪峠を訪れたのは、大正13年3月です。その時は、現在の釜石線の鱒沢駅で下車し、鮎貝~切伏~五輪峠を経て、人首町へ向かったことが推定されます。
 特に、五輪峠から人首町への行程は、第二詩集の「春と修羅」に収められた「五輪峠」「丘陵地を過ぎる」「人首町」等の連作から想像できます。
 現在もその道筋を辿ると、それらの詩に、描かれた情景がつぶさに浮かんできて、、数少ない追体験のできる貴重な空間ともなっているのです。
          賢治街道を歩く会

 遠野市側(東)へ下って行きます


 2024・10・19・12・40


 
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岩手県奥州市、江刺米里荒田表「自徳寺のイトヒバとイチョウ(市指定)」です!!

2024-11-27 18:57:00 | 巨樹・大木
 江刺米里荒田表地区は、奥州市役所の東北東約18km、奥州市役所江刺総合支所の東北東約13kmのところですが

 今回は花巻市東和町田瀬21区(国道107号線と県道27号線・県道178号線の交差点)から南下して来ました

 花巻市と奥州市の界から、南へ花巻市学問沢地区です、約5.8kmの「荒町橋」手前で斜め右(南西)へ県道27号線から外れます

 約300mで丁字路を右(北東)へ、坂道を登って間も無く斜め左(北北西)へ進むと

 自徳寺前の駐車場に入りました

 南東向きに山門です

 山門脇にモミジの古木です

 幹に古木感が出ています

 幹の洞から根が出ています

 北東側から

 六地蔵様です

 参道石段を進みます

 鐘楼です

 手水舎です

 イトヒバです

 説明版です



  北東側から

 本堂です

 目的のイチョウは本堂西側の墓地入口に立っています

 東側から

 南側から

 南西側から

 西側から

 南東側の駐車場へ戻る時にふり返って見ました

では、次へ行きましょう




2024・10・19・12・00
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岩手県花巻市、東和町田瀬「田瀬舘跡の杉」(市指定)です!!

2024-11-27 13:07:00 | 巨樹・大木
 東和町田瀬地区は、花街市役所の南東約18km、花巻市役所東和総合支所の南東約12kmのところです

 こんかいは遠野市側から入りましたので、遠野市と花巻市の界からのルートで説明させて頂きます

 遠野市市内から東北横断自動車道の守谷インターを降りました、信号を右(北)へ、国道107号線です

 約800mの猿ケ石川の沢田橋を渡った「⇐盛岡・北上・花巻・国道283・107号線」の標識に従って信号を左(西)へ

 道成に猿ケ石川沿いを約3.9kmで「⇖横手・北上・国道107号線」の標識に従って斜め左(西)へ

 さらに道成りに猿ケ石川に沿う様に約3.8kmの「屏風岩」の先の切通しが遠野市と花巻市の境界です

 道成に約3.0kmの県道27号線と県道178号線の交差点を右(北)「宮森」方向へ、県道1768号線です

 約2.1kmで右手に「田瀬湖中通パーキング」があります

 駐車場に車を止めさせて頂きました

 かつて湖面で使われていた船が展示されています

 説明版です
   第二東和丸の歩み
 花巻市東和町の田瀬地区は、小倉、中通、白土の三つの行政区に分かれ、農協の支所や派出所、診療所、中学校があった中通集落が中心地となっておりました。
 しかし、昭和29年の田瀬ダムの完成に伴い中通集落が分断され、24戸が向田瀬側に取り残された格好となりました。
 田瀬大橋がまだ架設されておらず、田瀬湖の対岸に行くためのルートは、ダムの堰堤か、上流にあるつり橋の白金橋だけでした。
 当時はバスもなく、向田瀬と中通の約1kmを結ぶため、昭和35年に渡し舟「第一東和丸」が就航しました。
 その後、木造船の第一東和丸が老朽化し、昭和45年に鉄製の第二東和丸(展示船)に引き継がれました。 
 船体の長さ9.5m、幅2.5mの19人乗り。乗船は無料で通学や通院、荷物の運搬などに利用されておりました。
 最盛期は、1日7往復運航していましたが、冬場は砕氷して航路を確保するため、夜中も3回ほど運航し、所要時間は、夏場は10分、冬場は30分ぐらい要しました。
 その後、向瀬田地区まで道路が整備され乗合バスが運行されたことから昭和57年3月をもって渡し船は廃止となりました。
 その後、第二東和丸は、民間に払い下げられましたが、平成18年11月、この地に保存、展示することになりました。
       制作 平成21年12月 田瀬地域コミュニティ会議


 舳先側から見ました

 エンジンが載っています

 目的の「田瀬舘跡の杉」の案内図と説明版です
   花巻市指定天然記念物(植物)
     田瀬館跡の杉(たてだてあとのすぎ)
       法量  目通り幹囲4.65m、根元回り5.95m、樹高約25m、樹種 スギ
       指定年月日  昭和51年9月27日
       所在地    花巻市東和町田瀬
 田瀬舘は、天正19年(1591)に江刺氏(のちの土沢城主)の舘跡で、この杉は、その田瀬舘があった場所に生育しています。
 樹齢は400年以上あると推定されます。杉の根元には、祠が祭られています。
 🔳所在地
 田瀬舘跡の杉は、田瀬湖中通駐車場より歩いて3分ほどの場所にあります。
 途中、未舗装の道となり、土手を登らなければならない場所もありますので。足元には十分注意して探訪してください。
 なお、田瀬舘跡の杉の南東側は、斜面が急な崖となっておりますので、気を付けてご見学願います。
          花巻市教育委員会
       
 「田瀬舘跡の杉」を見に行きましょう

 ダム湖が見えました

 ここを入って行きますが、目的のスギの樹冠が見えています

 草苅がされていません

 小雨が降っているので、靴からズボンまでビショ濡れの上、草の種(ヒッツキムシ)が沢山付いてしまいました

 右手に目的のスギが見えています

 回り込む様に北東側から近付きます

 南側から

 根元に祠です

 南東側から、目通り幹囲5.1mの巨木です

 東側から見ました

 では、濡れた服を着替えて、次へ行きましょう




 2024・10・19・11・20
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岩手県遠野市、土淵町栃内22地割「前厚楽沢のアカマツ」(市指定)です!!

2024-11-27 06:34:00 | 巨樹・大木
 土淵町栃内22地割地区は、遠野市役所の東北東約9kmのところ

  遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ

 約1.1kmの国道283号線の交差点信号からは国道340号線となって更に進みます

 約6.2kmの「貞任・山口⇒」の標識に従って交差点を右(東)へ
 
 約700mの三叉路を左の道へ

 三叉路に大槌街道説明版です
   大槌街道
 「遠野物語」第37話には、馬で荷物を輸送する駄賃付けが、大槌街道上にある界木峠で、度々狼に遭遇したという話がしょうかいされている。
 この街道は、近代になるまで駄賃付けを主とした、内陸部と沿岸部を結ぶ輸送の道で、情報や文化の行き交う街道であった。
 駄賃付けの賃金は、冬の夜間で3割増しにもなるが、積雪のために道がすっかり埋まり、命を落とす人も多かった。
     令和2年3月  遠野市教育委員会  協力 山口自治会
 *ここから約2kmで目的の「前厚楽沢のアカマツ」の前を過ぎて、界峠の北側に広がる約9km先の、このブログで紹介した釜石市の和山高原の「和山のシナノキ」の前を通り、更に約30kmで大槌町内へ抜ける事も出来ます

 重要文化的景観 遠野土淵山口集落案内図です
   馬産地・遠野と山口集落
 馬は移動や運搬、農耕などに役立つ大事な動物で、遠野一帯でも古くから飼養されていました。
 江戸時代には馬産の礎が築かれ、近代以降も基幹産業として営まれてきました。現在も、乗用馬などの育成が行われています。
 山口集落は江戸時代、山口村と杤内村の一部で、明治時代に土淵村となり、昭和29年の合併で遠野市となります。
 市の中心市街地から東方の三陸海岸へと向かう街道が通過しており、大槌方面と釜石方面に分かれる分岐点に立地しています。
 街道沿いに並ぶ家々では、馬を飼い、農耕や駄賃付け(運送業)に利用していました。
 以上より、馬産地・遠野の象徴する重要文化的景観「遠野荒川高原牧場土淵集落」の一部となっています。
  *「荒川高原牧場」は、先日このブログで「荒川高原のシナノキ」で紹介させて頂いておりますが、霧(雲の中)で風景を見る事が出来ませんでした。
  *グーグルマップの荒川高原牧場を開くと、沢山に馬たちの写真が載っています。
   柳田國男「遠野物語」と山口集落
 かつて人馬が行き交った山口集落では、旅人によってさまざまな話がもたらされたほか、家々や地域の由緒なども語られていたものと思われます。
 こうして当地に残った話を収集していた佐々木喜善が柳田國男に語り、まとめられたのが日本民俗学の記念碑的著作とも言われる「遠野物語」です。
 山口集落には、「遠野物語」に描かれるさまざまな場所が残っています。
 山男山女と出会うとされた峠、河童が出る淵、ザシキワラシがいたという屋敷跡などはその一例です。
 人が馬と一緒に暮らしていたころ、山々へ畏怖、危険な場所への警告、不思議な出来事などをどのように表現してきたのかを、物語と景観で感じてください。
   山口集落の「ながめづくり」
 山口集落では、住民自らが取り組む景観保全の指針として「おらほのながめづくりガイドライン」を定めています。
 また、市と「遠野市土淵町山口集落ながめづくり協定」を結び、協働で「遠野物語」の原風景を守っています。
     令和2年3月 遠野市教育委員会・協力山口自治会

 約1.9km坂道を登って行きます

 道路左手に鳥居が見えました

 前の道路脇に車を止めさせていただきました

 天然記念物標柱ですが、文字は消えてしまっています

 鳥居が登り口ですが草苅がされていないので登のは諦めました

 すぐ先から林が刈り払われた上に目的の「前厚楽沢のアカマツ」だけが残っています

 少し先から

 ズームアップして見ました

 少し先から

 またズームアップして見まました

 さらに少し先から

 では、次へ行きましょう




 2024・10・19・10・25
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岩手県遠野市、土淵町栃内11地割「爪喰稲荷境内の杉」です!!

2024-11-26 20:08:06 | 巨樹・大木
 土淵町栃内11地割地区は、遠野市役所の北東約9kmのところ

 遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ

 約1.1kmの国道283号線の交差点信号からは国道340号線となって更に進みます

 約9kmの左手住宅入口に天然記念物標柱です

 手前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 住宅の先のルートが分かりませ、少し先から左への農道に入ると、草苅作業をされている方に、あそこに見える稲荷神社にはどういったらよいのか聞いてみました

 天然記念物標柱の建っていた家の方でしたので、住宅のお庭を通らせて頂きました
 
 住宅の北側から畑の先に稲荷の社が見えます

 農道の西側には牧場の牛さんが「珍しい人が来た!!」みたいに見つめています

 畦道状の農道を進みます

 爪喰稲荷の社の北側に目的のスギです

 西側から

 南西側から、目通り幹囲6.1mの巨木です

 南側から、社殿前から見上げました

 東側から見ました

 教えて頂きた方が自宅に戻っていたので御礼を言って、次へ行きましょう




 2024・10・19・9・55
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岩手県遠野市、土渕町栃内6地割「八坂神社・天王様のモミの木」(市指定)です!!

2024-11-26 13:00:30 | 巨樹・大木
 土渕町栃内6地割地区は、遠野市役所の北東約10kmのところ

 遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ

 約1.1kmの国道283号線の交差点信号からは国道340号線となって更に進みます

 約9.6kmの「一の渡」バス停の所で斜め右(東)へ小烏瀬川を琴畑第一橋で渡り坂道を上ります

 間も無く左手に「一ノ渡公民館」がります、

 公民館の影(東側)に、八坂神社参道の鳥居があります

 公民館前に車を止めさせて頂きました

 天然記念物標柱です

 遠野遺産第53号です

 鳥居を潜って

 山道の参道に入ります

 奥に鳥居が見えて来ました


 社殿と目的の「天王様のモミの木」です
 
 西向きに社殿です

*古来、川と川の合流点である落合は「神分かれ」と称し、神社が営まれた。上流から一の渡、二の渡、三の渡といい、小烏瀬川と琴畑川の合流地点には、農事の神様であり地元では「天王様」として慕われている八坂神社がある。祭神は牛頭天王であるがビンズル尊が祀られているという。また境内には樹齢約300年のモミの木があり、市の天然記念物にも指定されている。この樹木は、幹先が霞んで見えないほど天に突き出ており、神木として祀られている。(以上は遠野市公式ウェブサイトから)

 西側から

 こちらにも「市指定天然記念物 天王様のモミの木」の標柱があります

 南西側から、目通り幹囲3.55mの大木です

 南側から

 南東側から見上げました

 では、次へ行きましょう




 2024・10・19・9・40

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岩手県遠野市、土淵町土淵7地割「常堅寺からカッパ淵」です!!

2024-11-26 06:30:04 | ドライブ
 土淵町土淵7地割地区は、遠野市役所の北東約5kmのところ

 遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ

 約1.1kmの国道283号線の交差点信号からは国道340号線となって更に進みます

 約3.3kmの「⇐附馬牛(つきもし)・県道160号線」の標識に従って信号を左(北西)へ

 約500mで「伝承園⇒」の案内板で信号を右(東北東)へ

 約300mで「伝承園・カッパ淵 無料大駐車場」が有りますので利用させて頂きました

 駐車場脇の説明版です
   新奥の細道 遠野物語の道(2)
 このコースは、起点伝承園からカッパ淵、たかむろ水光園、デンデラ野、山口水車を経て、終点和野に至る全長約5.8kmののどかな田園風景が広がる自然歩道です。
 カッパ淵は、人々を驚かし、いたずらをしたカッパがいまにも出てきそうな雰囲気です。
 近くの常堅寺境内には、全国的にも珍しいカッパ狛犬があります。
 たかむろ水光園には太陽熱を利用した「ソーラートロン温泉」た曲り家などがあります。約2時間の散策路です。

 周辺観光案内板です、2⃣のカッパ淵へ行きます

 横断歩道を渡って南への道路を進みます

 常堅寺入口です、午前9時を過ぎて観光客が大勢通って行きました

 入口の南東側にカッパ淵上流側の蓮池川です

 下流側です、この先にカッパ淵がありますが、常堅寺境内を通らないと行けないので戻ります

 常堅寺本堂です


 本堂南側の通路を西側へ、池があります
   説明版には・・・
    蓮池地区の常堅寺と河童
 古来、この地は「蓮池(はせき)」と呼ばれ、寺の名前も「蓮峰山(れんぽうざん)常堅寺(じょうけんじ)」という。
 その昔、常堅寺が火事のとき、淵の河童が、火を消してくれたことから、時の住職が河童狛犬を祀って感謝したといわれている。
 淵と阿部家の間には池があり、蓮の葉が浮いていたが、流れ入る水量も減り、今は池の形跡も見られなくなった。
 この池は、何れの時か、河童が戻ってきて、泳ぎ回ることを思いを寄せて、地元の有志で造成したものです。
       土淵町地域づくり連絡協議会・土淵町大杉自治会
       蓮池川を考える会・土淵地区環境保全活動協議会
 *カッパ淵は、池の対岸の直ぐ南側です

 説明版です
   河童
 馬を川に引きこむいたずらに失敗したカッパは、おわびをして許され、母と子の守り神となりました。
 常堅寺の火事のさいは頭の皿から水を吹き出して消し止め、今でも一対のカッパ狗犬として境内にその姿をとどめています。

 橋を渡るとカッパ淵です

 橋の上流側です

 下流側がカッパ淵です

 西へ進むとカッパだ

 御堂です

 説明版です、遠野遺産第22号「カッパ淵~蓮池川水域」の標柱です
   カッパ淵
 遠野の河童は顔が赤いといわれ、その伝説は数多く残っている。
 「小烏瀬川(こがらせがわ)の姥小淵(おばこぶち)の辺りに、新屋の家という家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、河童出てその馬を引込まんとし、却りて馬に引きずられて厩の前に来り・・・」遠野物語58話
 この淵には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。
 洞の中には乳首の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰に転化している興味深い民俗がある。
        遠野市・遠野市観光協会
        遠野ライオンズ クラブ

 釣り竿が立てられています

 糸の先にはキュウリがぶら下がっています

 館跡です

 説明版です
   阿部屋敷(別名 屯館)
 陸奥六郡に威勢を誇った安部氏の一族が、天喜・康平のころ(紀元1050年ごろ)から構えた屋敷で、豪壮な直家の母屋には数十名の家族がすみ、土塁と堀でかこまれていました。
 八幡座館(はちまんざだて)の八幡太郎の軍と小烏瀬川をはさんで矢をうちあった伝える的場跡もある。
 *北側に八幡座山(標高445m、カッパ淵の標高は280m附近です)があり、間を小烏瀬川(こがらせがわ)が東西に流れています

  屋敷跡

 説明版です
   安倍(阿部)屋敷跡
 「遠野物語」第68話に「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云ふ。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通す。刀剣馬具あまたあり」と記されている。
 昔からこの地は、屯館とも呼ばれ、平安時代後期に北上川流域に勢力を誇った安倍氏の一族(貞任の弟・北浦六郎重任)が屋敷を構えたと伝えられている。
 現在も堀の跡などの遺構が残り、この地に続く阿部氏は安部氏の転じたものと伝えられている。
 屋敷跡の東北にある稲荷社は、約400年前に安部氏の養子となった人が甲州(山梨県)より勧請し氏神としたもので、近郷でも古い社の一つといわれている。
 明治の始め頃まで旧暦2月15日の祭例日には「ダンビラケー(ダンビラ祭)」が行われていた。
 近郷の山伏を一堂に集めて、湯立の儀式を行い巫女が笹を振りながら巫女舞を舞ったといわれる。
 近くにカッパ淵がある。
         遠野市

 西側からカッパ淵側(上流)を見ました

 蓮池川の下流側です



 では、戻って次へ行きましょう


 


 2024・10・19・09・05
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岩手県遠野市、土淵町土淵7地割「常堅寺のケヤキ」です!!

2024-11-25 18:31:54 | 巨樹・大木
 土淵町土淵7地割地区は、遠野市役所の北東約5kmのところ

 遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ

 約1.1kmの国道283号線の交差点信号からは国道340号線となって更に進みます

 約3.3kmの「⇐附馬牛・県道160号線」の標識に従って信号を左(北西)へ

 約500mで「伝承園⇒」の案内板で信号を右(東北東)へ

 約300mで「伝承園・カッパ淵 無料大駐車場」が有りますので利用させて頂きました

 観光案内図です、「常堅寺のケヤキ」と「カッパ淵」を見て行きます

 横断歩道脇の石像です、説明書きがあります・・・
   馬っこつなぎ
 6月15日の朝、わらで編んだ2頭の馬っこをつなぎ、家の川戸や田の水口などに立てて、豊作を祈ります。
 津島天王にこの日集まる農神たちの神馬とも伝えられていますが、疫病の牛頭天王の力で川に流してしまう素朴な水神まつりの原型です。
 馬のかたちを木版で刷った紙の小旗を大地に差し立てる所もあります。

 横断歩道を渡って南へ「ホップ畑」脇の道路を進みます

 約200mで常堅寺の墓地の北西端にケヤキが見えて来ます

 墓地の手前に「カッパ淵」近道の看板を右(西)へ

 今回の目的のケヤキです

 東側から

 北側から、目通り幹囲5.4mの巨木です

 西側から

 南側の墓地の中から

 戻って常堅寺の拝観時間午前9時を過ぎました

 東向きに山門です

 標柱です、山門の仁王像は・・・
 早池峰神社山門にあったが、明治3年この地に移されたものと云われる。
 慈覚大師(848年代)作伝。
*5回前の「早池峰神社のスギと御神木」の回で紹介させて頂きた山門には、新たに作られた随神像が祀られています。

 御堂の前には「カッパこま犬」です

 鐘楼です

 本堂です

  説明版です.
    蓮峰山 常堅寺
      宗派  曹洞宗  一関市大東大原長泉寺の末寺 
      本尊  釈迦如来
 延徳2年(1490)開創、開山は大聞秀宗禅師(だいもんしゅうすうぜんじ)である。
 開基は、大原弾正勝行、遠野郷の曹洞宗12ヶ寺の筆頭であると「遠野物語」88話にある。
 一説には、同寺はもと安倍家の菩提所といわれ、大原弾正勝行(本姓千葉氏、大原城主)が当地にきて土淵村を領有した時、大聞禅師を開山として開創、寺禄20石を与えた。
 第6世の時、南部家の守り本尊勢至観音像と、新たに寺領12石4斗を拝領したという。
 山門にある白木の仁王像2体は、もと市内附馬牛町の早池峰山妙泉寺にあったものを、明治維新の頃、妙泉寺が廃寺になる際移したもので、総丈3.5m、慈覚大師の作と伝えられ、また山門にあるスギの古木一株(高さ約20m、幹周り約7.8m)は、開祖が手植えしたものといわれる。
 仁王像と道元禅師像は、市の文化財に指定されている。
              遠野市

 説明版です
   遠野市指定文化財(有形文化財)
     道元禅師像
       指定 昭和34年3月10日
   木造寄木造 ・ 制作年代  室町時代 ・ 座面高 46cm
 本像は道元禅師像と伝える僧形像で、右手に払子、左手に数珠を持つ形とし、曲彔座に坐す。
 蓮峰山常堅寺は、延徳2年(1490)大原長泉寺大聞秀宗の開山、開基は大原弾正勝行と伝えられている。
     仁王尊像2体
       指定 昭和36年11月25日
   木造寄木造(ヒバ材) ・ 制作年代 江戸時代 ・ 高さ 325cm、頭長 67cm、顔幅 47cm、肩幅 80cm、掌 36cm
 もと早池峰山妙泉寺の仁王門に安置されていた仁王像で、明治3年神仏分離により、常堅寺に移されたものである。
           遠野市教育委員会
       
 では、「カッパ淵」へ行きましょう




 2024・10・19・09・00

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