ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

栃木県那須烏山市、滝「竜門の滝」(とちぎの百様)です!!

2025-01-16 07:03:44 | ドライブ
 車を止めさせて頂いた「龍門ふるさと民芸館」前から、「竜門の滝」を見に行きます


 那須烏山市案内板です

 左下の図をアップで撮影しました、太平寺と竜門の滝が並んでいます

 東へ進みます

 龍門ふるさと民芸館に説明版があります
     竜門の滝
 高さ約20m、幅約65mの焼きの中段には、直径4mにもなる男釜(A)と直径2mの女釜(B)と呼ばれる2つの縦穴があります。
 そこには、神通力を持った龍神様が棲み、村人たちの願いを叶えたといわれており、民話として伝えられています。
 龍門ふるさと民芸館内にある龍神洞には、龍神様が鎮座し、あなたの願いを叶えてくれます。

 竜門の滝への下り口に句碑があります・・・大滝や とどろと放つ 神の虹・・・三郎

 裏面に作者の経歴が記されています
   水沼三郎「けごん」俳句会主等
 大正14年栃木県烏山町生まれ。 「南風」山口草堂に師事、主要同人。下野新聞俳句選者。
 平成12年俳詩「けごん」創刊、主宰。俳人協会名誉会員。栃木県文化功労者賞受賞。
 「けごん」5周年記念に当たり、その御高恩に報いるべく、ここに水沼三郎主宰の句碑を建立する。
      平成17年11月吉日  「けごん」俳句会一同

 滝への遊歩道を下りましょう

 すぐ左手に白い水飛沫を落とす滝が見えます

 ササの間に滝の流れが見えます

 更に遊歩道を下って中段の展望所です

 *竜門の滝は、とちぎの百様(とちぎのひゃくさま)に選定されています。
 栃木県が選定した、100の地域資源で、県民が自慢できる文化財や特産品を選定したものです。

 更に下って、滝の南西側の展望所から見ました

 近付いて北側の大きな滝の流れです

 川原に下りられます

 川原から

 滝に近付ける中州へ行きます

 滝に近付いて北側の大きな流れを斜めから見ました

 岩の表面に氷が張っています、真ん中部分に「男釜」と「女釜」があるようですが下からでは分かりませんでした

 *竜門の滝の案内には、大蛇伝説も残る壮観な大滝とされています

 南端の部分です
 

 *那須烏山市の郊外にあり、那珂川に注ぐ江川にかかる、高さ約20m、幅約65mの大滝。
 大蛇が住むという伝説があり、名前の由来にもなっています。
 滝を間近で見れる遊歩道があり、滝つぼの周辺まで降りることも可能です。
 また、近くにある「龍門ふるさと民芸館」には、烏山に伝わる民話のコーナーや展望台もあります。

 では、戻って次へ行きましょう
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埼玉県北本市、荒井「自然学習センター・北本自然観察公園」を歩いて来ました③!!

2025-01-11 06:38:35 | ドライブ
 荒井地区は、北本市役所の南西約3kmのところです。

 前回②からの続きです

 高尾の池の南側に出ました

 高尾の池も日陰だった場所は凍っていました

 高尾の池南側を東へ進むと八ツ橋池の中に木橋がジグザグに架けられています



 シラサギがいます



 シラサギを撮影していると、後方から集団が近付いてきました



 シラサギが飛び上がってしまいました

 かえる池では、湿地耕転の作業が行われています

 ヨシ刈り・湿地耕転のお知らせです
 湿地内で、草刈り機や重機による作業を行います。
 作業に伴い騒音、一時的な通行止めなどが発生します。
 なお刈り取りと集草が終わり次第、耕転作業を行います。
 ご理解とご協力をお願いいたします。
 🔳作業予定日 2024年12月10日頃~の主に平日
 *荒天時や、年末年始は作業を行いません。
     埼玉県自然学習センター

 ふれあい橋から北側へ行きます

 かわせみ池の耕転作業は終わっているようです


 セグロセキレイです

 灰色のセキレイです

 木の枝に止まっているのは、ルリビタキですね

 またシラサギです

 すぐに飛び立ちました

 赤いキノコです

 この時期の観察ポイント:2024・10
     ヒイロタケ
 主に広葉樹の朽ち木に重なるようにして生えるきのこです。
 質感は堅く食用には適しませんが、きのこ染めの染料として活用されます。
   埼玉県自然学習センター・北基本自然観察公園

 ズームアップして見ました、綺麗なヒイロ(緋色)ですね

 かわせみ池から北へ木道を進むと、大きな木が倒れています

 天然記念物標柱です

 樹冠側から

 説明版です
   北本市指定天然記念物 エドヒガンザクラ
       昭和53年3月15日指定
 この「エドヒガンザクラ」(品種名「エドヒガン」)は、その名のとおり春の彼岸頃(3月下旬)に花を咲かせる。花は薄紅色で、花弁は5枚で一重である。
 エドヒガンはサクラの中では非常に長寿であることが知られており、このサクラも樹齢200年を超えると推定される。
 規模は、根回り3m、枝張り南北24m、東西13m、高さ20mの大木です。サクラは東向きの傾斜地に自生しており、幹は約30度傾斜している。
 周囲はモウソウチクやクヌギ、ナラなどの林に囲まれ、桜の開花期にはそれらを背景として花をいっそう際立たせている。
 エドヒガンザクラは北本に春を告げるサクラとして愛されており、開花期には多くの見学者で賑わう。
      平成29年3月   北本市教育委員会

 北東側から見ました

 さらに北側へ進みましょう


 カワラタケの群落です

 水路確保のために土上げが行われています

 こちらは水量確保のためと思われる溜池状態になっていました

 さらに進みます

 21番の所でおしまいになります

 右へ進むと

 公民館口案内板です

 緩く登る様に進んで

 阿観堂のそばに出ました

 北側から公民館口を見ました

 道路を約600m南へ進み、駐車場に帰りました

 これで「埼玉自然学習センター・北本自然観察公園」は終わりにします
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埼玉県北本市、荒井「自然学習センター・北本自然観察公園」を歩いて来ました②!!

2025-01-10 06:43:00 | ドライブ
 荒井地区は、北本市役所の南西約3kmのところです。

 前回の続きです

 桜堤の道路を少し南へ進むと「石戸城跡」です、南西側から今は住宅が並んでいます

 説明版です
   埼玉県選定重要遺跡 石戸城跡
       昭和44年10月1日選定
 石戸城は別名「天神山城」ともいわれ、15世紀後半頃に築かれたと考えられている。
 当時は戦国大名が覇権を争う群雄割拠の時代であった。
 城は上杉氏の家人・藤田八右衛門によって築城されたとされ、北上する北条氏の勢力に備えるため、岩付城から松山城、河越城を結ぶ防衛線の一部を担っていたと思われる。
 永禄6年(1563)2月、北条・武田の連合軍が上杉方である初山城を包囲した際、雪の上越国境を越えて援軍に駆けつけてきた上杉輝虎(謙信)が、短期間ではあるが石戸城に逗留している。
 その後は北条氏の支配を経て、徳川氏の関東入国以降、城としての役割をおえるようである。
 現在では発掘調査などによって土塁や堀が良好に保存されていることが確認され、堅牢な城郭の姿が復元されつつある。
      平成29年3月    北本市教育委員会

 戻って「一夜堤」へ行きましょう

 石戸城跡北側の土塁にケヤキの巨木です

 「北本自然観察公園」ここは一夜堤口です、埼玉自然学習センターまで950mです

 「北本市自然遊歩道案内図」です(下側が北です)

 沼面に近い遊歩道を進みます

 木道に成っています

 オニグルミの冬芽です、説明版には・・・
   この時期の観察ポイント:2024・12
     何に見える!オニグルミの冬芽と葉痕
 葉が落ちた跡の葉痕と冬芽がなんとも可愛いオニグルミ。
 葉痕の形により、ヒツジやサルの顔にも見えてきます。
 姿によっては手をあげているようにも・・・
 さて、何に見えますか?
     埼玉県自然学習センター・北本自然観察公園

 一夜堤が見えて来ました

 西側から見ました

 一夜堤中ほどに大きな説明版です
   石戸城と一夜堤
 石戸城は、室町時代長禄年間(1457~60)ころ、岩付・松山・河越の各城との連絡のために築かれたおのと伝えられている。
 扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)氏の家臣藤田八右衛門の居城にはじまり、永禄6年(1563)松山攻めの時には、上杉謙信が石戸まで進入してくるなど、いくたびかの変遷をみたという。
 謙信の松山攻めに先立つ永禄5年(1562)北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守とのあいだに激しい攻防戦を演じたことが「関八州古戦録」にみえている。
 毛利氏の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出したが、この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き一気に城に攻め上って勝利したという伝承がある。
 この土橋が現在「一夜堤」とよばれている。
 「一夜堤」は、石戸城跡と谷をへだてた東側の台地とを結ぶ長さ45m、幅5mほどの堤で、自然散策の遊歩道として市民に親しまれている。
     平成元年3月1日   北本市

 東側から見ました

 更に南東へ進みましょう

 ササに囲われた遊歩道を進むと

 7番の橋を渡ると「子ども公園」です

 橋の上から「一夜堤」側の谷地を見ました、戻ります

 6番の「一夜堤」東側です

 北本自然観察公園の「保護区域」案内図です

 遊歩道を北へ進みましょう

 ジャノヒゲの実です

 この時期の観察ポイント:2024・12
   林床のサファイア
 細い葉っぱの根元をよく見ると、青がとってもきれいなジャノヒゲの実が見つかります。
 いろいりな鳥がこの実を丸呑みにして、うんちと一緒にタネが出てきます。
 ジャノヒゲがいろんなところに生えているのは、鳥が食べてタネを運んでくれるからです!
     北本自然観察公園・埼玉県自然学習センター

 18自然の林は何階建て?
 彩ちゃん   父より
 知っているかい?
 林って、同じ高さの木ばかりではないってことを。彩より低い木もあるんだよ。
 林はね、高い木や低い木が一緒になって生活してるんだ。
 普通、林には、1階建てから4階建てのものまであるんだ。
 えつ、何のことかって?
 例えば、目の前の林は、1階は草。2階は草より少し高い木。3階は葉がテカテカ光っていて、頭が天井にまでは届いていない木、4階は一番高い木。
 ほら!ここの林は4階建てになっているよ。
 彩も近くの林を調べてごらん。

 確かに!4階建てですね

 ヤマコウバシです

 この時期の観察ポイント:2024・12
     ヤマコウバシ
 枝や葉に芳ばしい香りがあることが名前の由来です。
 クスノキ科にしては珍しく落葉樹ですが、枯葉は落ちにくく、春先まで残ることが多いです。
     埼玉県自然学習センター・北本自然観察公園

 20野鳥が近づいてくる方法
 この辺りで、「二―二―」という鼻のつまったような鳥の声が聞こえませんか?
 これは、ヤマガラの鳴き声

 橋を渡って谷地を横切ります

 また、長く成りましたので続きとさせて頂きます<m(__)m>
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埼玉県北本市、荒井「埼玉自然学習センター・北本自然観察公園」を歩いて来ました①!!

2025-01-09 06:50:13 | ドライブ
 今年最初の取材として1月8日に車の定期点検のついでに「埼玉自然学習センター・北本自然観察公園」へ行って来ました

 荒井地区は、北本市役所の南西約3kmのところ

 北本市役所の南側の道路を西へ、直ぐの信号を左(南)へ、約300mの信号を斜め右(南西)へ

 約200mの信号を左(南東)へ、約150mの「北本団地入口」信号を鋭角に右(西)へ、県道312号線です

 約1.2kmの「荒井」信号を左(南)へ、県道57号線です

 多雨1.1kmの「石戸宿1丁目」信号を右(西南西)へ、約400mで「北里メディカルセンター⇒」の案内板を右(北西)へ


 約600mで「埼玉自然学習センター・北本自然観察公園」駐車場⇒の案内板ですので、右へ入って無料駐車場に車を止めました

 駐車場入り口の案内図です(左が北です)

 公園東側の正門(入り口)です

 北本自然観察公園です、ふれあい橋を渡ります

 自然観察公園案内図です


 「埼玉県自然学習センター」にまず寄って見ました

 公園内の生き物の出没状況案内が出ています
 セグロセキレイ・ツグミ・カワラヒワ・ルリビタキ・カワセミ・イカル・マガモ・イタチ・ホンドギツネ等の名前が見られています

 学習センターの北側を西へ進みます

 右手の広場にモグラの持ち上げて痕です

 説明版があります
   この時期の観察ポイント:2024・12
       モグラ塚
 モグラはとても大食漢!ミミズなどの土壌生物を一日に体重の半分ほども食べます。
 広い範囲にエサを採るためのトンネルを堀り、余った土を地上に捨てます。

 「高尾の池」の北側の別れ道です

 右(西)へ行きましょう「森のアスレティック」の案内板です

 高尾の池北側の説明版です
 この高尾の池と、まわりのヨシ原は、生きものたちのすみかです。
 生きものたちがこわがりますので、中へ入ったり石を投げたりしないでください。
   (ここにくらしている生きものたち)
 カワセミ・コサギ・カイツブリ・クイナ・イタチ・カヤネズミ、など。
 秋から冬にかけて、北の国から、マガモ・コガモ・オナガガモ・ハシビロガビ、なども渡ってきます。
   池の住人にちょっとした心づかいを。

 高尾の池の北端近くにサギがいましたが、大きなレンズのカメラを持った人達がカワセミを待っているようです

 「8雑木林ってなあに?」の説明版です
 彩ちゃんへ   父より
 ここは雑木林と言って、いろいろな種類の木た草が生えている所なんだ。
 だから昔、この林は人々にいろいろ利用されていたんだ。
 秋には木の実やきのこ、冬にはたきぎや落ち葉をとったりしてね。
 それからこうしたいろいろな植物が生える林には、人間以外でもいろいろな種類の動物たちが集まって、とてもにぎやかなんだよ。
 生きものにとっては、エサやすみかがたくさんあるからね。
 そこがスギ、ヒノキしか生えていない人工林とはちがう所なんだよ。

 *この自然観察公園の雑木林も、かつての雑木林の様に利用されていないので、常緑広葉樹のシラカシやアラカシ、低木のアオキ等が増えているようです。

 説明版です
   北本市高尾ふるさとの森
     昭和56年3月20日指定
 身近な緑が姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この森が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この森は、クヌギやコナラなどで構成されており、荒川沿いの台地と谷地が入り組んでいている地域の一角にあって、周辺の田畑と一体となった優れた景観を見せてくれます。
 また、この森を含めた地域一帯は、県内でも有数の恵まれた自然環境を残しており、様々な動植物を観察することができます。
 そのため、県では、自然を学び、自然と親しめる場として、この地に「北本自然観察公園」を整備する予定です。
     平成元年3月     埼玉県

 高尾の池の西側を南へ進みます

 案内板です、右の「桜堤」へ向かいましょう

 大きなカシノキにサルノコシカケ科のキノコが生えています

 下から見上げました

 右手の土手にはカシノキの大木が並んでいます

 ササの間を進むと

 桜堤側の入り口説明版です
 北本自然観察公園
   ここは桜土手口です、埼玉自然学習センターまで700mです
 この公園は、埼玉県の「里地里山」の自然環境を残しながら、野生の生きものがくらしやすいように、また来園される方々が自然に親しめるように整えられた公園です。

 桜堤に桜の大木が並んでいます、直ぐ西側は「荒川」です

 土手上の「桜堤通り」には「どうぶつ ちゅうい」の標識です

 長く成りますので続きとさせて頂きます<m(__)m>
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埼玉県富士見市、南畑新田「荒川右岸の初日の出」です!!

2025-01-01 08:10:30 | ドライブ
 明けましておめでとうございます、今年も宜しくお願いいたします

 初日の出を拝みに、今年も荒川右岸の堤防へ行って来ました

 場所は、昨年の所より少し北側に当たる「登戸公園」の脇、国道463号線の羽倉橋の上流約2kmの地点です

 弱い北風が吹いていますが、上空には雲一つ見えませんので良い初日の出が見れそうです

 堤防上に到着して撮影を始めたのは6時25分でしたので、日の出の時間まで20分ほどあります

 荒川がゆるくS字にカーブして、国道463号線の羽倉橋方面へ流れています

 堤防の上には、多くの人達が初日の出を待っています

 6時43分、間も無く初日の出が見られます

 1分後、そろそろ光が見えてきています

 6時45分、初日の出です

 徐々に大きくなっていきます

 明るい光が差し込みます



 タイムラプスで1分置きに撮影して見ました

 明るい太陽が上りました




 完全に上ったところで終了しました


 西には富士山が、雲をまとうことなく聳えています

 初日の出を見ていた人たちも帰って行きましたので、戻りましょう
 
 
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埼玉県朝霞市、栄町4丁目「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」続きです!!

2024-12-23 18:54:45 | ドライブ
 前回の「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」の続きです

 外展示場の北側には西側から


 「94式 水際地雷敷設装置」です
 全長 11.8m、 全幅 2.8m(陸上姿勢)・4.0m(水上姿勢)、 全高3.5m
 全備重量 16トン(空車)、 乗員3人
 最高速度 50km/h(陸上車輪走行)、 11km/h〈6ノット〉(水中プロペラ推進)
 制作   日立造船


 「87式 自走高射機関砲」です
 乗員3人、全高7.99m、全幅3.18m、全高4.4m(起立)、全備重量約38トン
 速度 約53km/h、 武装 35mm(エリコンKDA)高射機関砲・・・2
 制作 三菱重工(車体)・日本製鋼所(砲塔)
 *エリコンKDAとは、第二次世界大戦終結直後、スイスのエリコン社(現在はドイツのラインメタル社に吸収合併)は、新しい砲弾規格である20mm×128弾を開発し、続いて1950年代初頭に、これを大口径化して開発されたのが、35mm×228弾である。
 35mm×228弾は、1950年代後半より、エリコンKDA/KDB35mm機関砲とともに運用を開始しました。
 同砲を採用したGDFシリーズの牽引式高射機関砲は、日本の陸上自衛隊が35mm2連装高射機関砲Lー90として採用したのを初めとして、世界的に広く採用されました。


 「89式 装甲戦闘車」です
 「愛称:ライトタイガー」
 乗員 10人、全備重量 約26.5トン、全長 6.8m、全幅 3.2m、全高 2.5m
 最高速度 約70km/h、航続距離 約400km
 装備 35mm機関砲・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
    79式対舟艇対洗車誘導弾発射装置・・・2
 制作 日本製鋼所(35mm機関砲)、三菱重工(砲塔・車体)、川崎重工(誘導弾発射装置)


 「74式 戦車」です
 乗員 4人、全備重量 約38トン、全長 9.41m、全幅 3.18m
 全高 2.2m(砲塔上面まで標準姿勢)、最低地上高 0.40m地上高変換可能
 登坂能力 約30°、旋回性能 超信地、最高速度 53km/h、行動距離 約300km
 武装 105mm戦車砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、74式車載7.62mm機関銃・・・1
 制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(105mm砲)


 「90式 戦車」です
 乗員 3人、重量 50トン、全長 9.8m、全幅 3.4m(スカート付)、全高 2.3m
 登坂能力 約30°、最高速度 70km/h
 武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
 制作 三菱重工(砲塔・車体)、日本製鋼所(120mm砲) 


 現在陸上自衛隊主力の「10式 戦車」(ひとまるしきせんしゃ)ですが、2010年の調達開始から14年が経過しています
 乗員 3人、重量 43.3トン、全長 9.4m、全幅 3.1m、全高 2.3m
 最高速度 70km/h
 武装 120mm滑腔砲・・・1、12.7mm重機関銃・・・1、7.62mm機関銃・・・1
 制作 三菱重工・日本製鋼所

 外の展示場から更に南西側へ


 駐車場端にポツンと一台だけ「水陸両用車(AAV7)」です
   「愛称:アムトラック」
 乗員 3人+21人・・・乗員3名戦闘員21名と言うことでしょうか
 全長 8.2m、全幅 3.3m、全高 3.3m、全備重量 21.8トン・・・重量が軽いのは水の上に浮かなければなりませんからね~
 最高速度(陸上)72km/h・最高速度(海上)13km/h(8ノット少々ってところですね)
 武装  12.7mm重機関銃・・・1、 40mm自動てき弾銃・・・1
 制作  BAEシステムズ社・・・1999年に設立されたイギリスの国防・情報セキュリティ・航空宇宙関連企業で、2020年現在も防衛関連企業として世界7位の事業規模を誇る企業です。

 更に南西側の「振武臺館」へ行ってみましょう

 掲示板の案内です
   振武臺
 戦前、ここ朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在しておりました。
 陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)にありましたが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転してまいりました。
 陸軍士官のなるには予科で約2年、その後の本科で約1年8ヶ月の教育訓練を受けなければなりませんでした。
 修学後、部隊での見習士官を経て少尉に任官するという制度となっておりました。
 また航空要員は予科終了後、入間(埼玉)いありました陸軍航空士官学校へと進みました。
 朝霞では終戦の昭和20年8月まで、57期生から61期生まで19147名の学生が学びました。
 振武臺記念館では当時の貴重な資料や所縁の品などを展示、古墳時代以来の朝霞の歴史と合わせて皆様に紹介しております。
 「振武臺」という名前の由来は昭和18年12月9日、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いからお名付けになられた学校の別称です。
 また本記念館の建物は、陸軍士官学校(本科)にありました「皇族舎」(皇族男子学生の特別宿舎)を昭和53年、隊員の手によって座間から移築した歴史的建造物です。

 西側へ回り込むと「振武臺」入口です

 説明版です
   陸軍豫科士官學校正門門柱
 この門柱は、陸軍豫科士官學校が昭和16年(1941年)10月から終戦まで、ここ朝霞の地で使用していたものであり、昭和53年(1978年)8月に、現在地から南へ約1kmにあった当時の正門を移設して保存しているものです。

 振武臺記念館です

 説明版です
   振武臺記念館
 この振武臺記念館は、昭和53年(1978年)3月に神奈川県座間市にありました陸軍士官學校の皇族舎を隊員の手によって解体移設した建物で、市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍豫科士官學校に関する資料等を中心に展示されています。
 振武臺の由来は、昭和18年(1943年)12月、昭和天皇陛下が行幸された折に「将来益々 武を振るえ」と言った意味からお名付になられたそうです。
  注:皇族舎とは
 皇族(男子)が、陸軍士官學校や海軍兵學校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎であり、本皇族舎は東久邇宮殿下〈ひがしくにのみやでんか〉(54期生)や賀陽宮殿下〈かやのみやでんか〉(55期生)が使用したと記録に残っています。


 「九九式十糎山砲」です
 (99式10せんちさんぽう)
 大日本帝国陸軍が1939年(昭和14年)に制式化した口径105mmの山砲です。
 日中戦争当時、中国軍からろ獲した105mm砲(仏製)を再設計し、分解運搬ができるように改良したものです。
 通常馬2頭で運搬しますが、悪路等では分解して10頭の馬を使用していました。
 最大で約7km(所沢インター付近まで)、有効射程は約4kmの射撃が可能です。
     昭和16年大阪陸軍造兵廠製

 *振武臺記念館の中の展示も見たいところでしたが、午前中の終了時間11時30分が迫っているので、戻ることにしました。

 では、次へ行きましょう
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埼玉県朝霞市、栄町4丁目「りっくんランド/陸上自衛隊 広報センター」です!!

2024-12-23 06:30:03 | ドライブ
 りっくんランド/陸上自衛隊 広報センターには、2015年5月以来の3回目の訪問(ブログ投稿)です

 陸上自衛隊朝霞駐屯地の国道254号線(川越街道)沿いにあります

 朝霞駐屯地は、いろいろな行事の度に総理大臣が出席するので、国道254号線は交通規制が行われたりもします

 国道254号線の「朝霞自衛隊」信号(北北東側)から入って直ぐ検問前を右へ進んで駐車場です

 陸上自衛隊 広報センターです


 駐車場脇に展示されているのは「96式 装輪装甲車」です
 日の丸を着けてイラク戦争後の支援活動で活躍した「愛称:クーガー」
 乗員10人、全備重量約14.5トン、全長6.84m、全幅2.48m、全高1.85m
 最低地上高0.45m、登坂能力約30°、最高速度100/h、行動距離500km以上
 装備96式40mm自動てき弾銃または12.7mm重機関銃・・・1
 制作 小松製作所
 *この96式装輪装甲車の後継機種が、一回り大きい実績のあるフィンランドのパトリア社製のAMVに決定した事でも話題になっていました


 こちらもイラク戦争後の支援活動で活躍した「軽装甲機動車」です
 「愛称:ライトアーマー」
 乗員 4人、全長 約4.2m、全幅 約2.0m、全高 約1.8m
 空車重量 約4.5トン、速度 100km/h、制作  小松製作所
 入口で入館申請書を書いて、入館します

 一階は、装備関係の展示や、映像関係での広報活動とシュミレーターを操作出来るスペースとなっています


 以前に訪問した時には「90式戦車」が展示してありましたが「16式機動戦闘車」です
 乗員4人、全備重量約26トン、全長8.45m、全幅2.98m、全高2.87m
 最高速度約100km/h、最高速度70km/h・・・*二重に最高速度が表示されているのは不明です
 装備105mm施線砲・・1、12.7mm重機関銃・・1、7.62mm機関銃・・1
 制作 三菱重工・日本製鋼所 

 中央には「攻撃ヘリコプター」ですが説明版を撮っていませんでした


 「偵察用オートバイ」です
 乗員1人、重量117kg、全長2135mm、全幅885mm、全高1210mm
 最高速度 135km/h、制作 川崎重工業
 *ウクライナ戦争では、オートバイで突撃するような報道がされていましたが、偵察任務だけで運用してもらいたいものです

 屋外の展示を見て行きます


 「UHー1H」ヘリコプターです
 乗員2(P)+11人、機体 全幅14.64m、全長17.39m(胴12.62m)
 全高3.95m、ローター径14.64m、制作 富士重工
 エンジン名称 T53ーKー13B、出力1100SHP(連続)×1、制作 川崎重工
 最大全備重量4309kg、巡航速度230km/h、航続距離440km
 *HU-1型のヘリコプターは、アメリカのベル・エアクラフト社が開発したモデル 204・205・212ヘリコプターのアメリカ軍における制式名称です。
 1959年よりアメリカ陸軍で採用され、ベトナム戦争などで活躍しましたので、1985年に公開された映画「ランボー怒りの脱出」でシルヴェスター・スタローンが操縦していたヘリコプターも「UH-1」型だと思われます。
 日本の陸上自衛隊の機種は205型の発展型で富士重工でライセンス生産されました。


 「75式 自走155mmりゅう弾砲」です
 乗員6人、全備重量25.3トン、全長7.79m、全幅2.98m、全高2.55m
 速度47km/h、装備155mmりゅう弾砲・・・1、12.7mm重機関銃M2・・・1
 制作 日本製鋼所(砲・砲塔)、三菱重工業(車体)


 「74式 自走105mmりゅう弾砲」です
 乗員4人、全備重量16.5トン、全長5.8m、全幅2.9m、全高2.39m
 速度50km/h、武装105mmりゅう弾砲・・・1、12.7mm重機関銃M2・・・1
 制作 日本製鋼所(砲・砲塔)、小松製作所(車体)


 「中距離多目的誘導弾」です
 システム構成 誘導弾・車載発射機及び発射装置用車両(試作品)
 全体重量 3.9トン、全長 4.8m、全幅 2.2m、全高 2.0m
 標定方式 赤外線画像標定及びミリ波レーダー標定
 誘導方式 赤外線画像誘導及びレーザセミアクティブ誘導
 射撃方式 車載及び地上布置、制作 川崎重工業


 「遠隔操縦観測システム(無人機)」です
 重量 275kg、全長 3.8m、全幅 1.2m、全高 1.3m
 最高速度 135km/h、制作 富士重工
 *ウクライナ戦争では、ドローンや無人機による偵察・爆撃など戦争のイメージが一変しています

 長くなりそうなので、続きとさせて頂きます<m(__)m>
 
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岩手県陸前高田市、気仙町砂盛「 高田松原の奇跡の一本松と大防潮堤」です!!

2024-12-01 07:01:00 | ドライブ
 気仙町砂盛地区は、陸前高田市役所の南西約2kmのところ

 道の駅高田松原・東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)が併設されていて、JR釜石線BRTの「奇跡の一本松駅」にもなっています。

 平成23年(2011)3月11日の東日本大震災で被災した「旧道の駅高田松原(タピック45)」でしたが、新たに「重点道の駅」に選定され、震災の犠牲者への追悼と鎮魂、復興への強い意志を国内外に向けて明確に示すことを目的として整備されました。
 「高田松原津波復興祈念公園」は、約130 ㌶( 東京ドームおよそ30 個分)という広大な面積を誇り、国、県、市による復興プロジェクとの一環として、令和3年(2021)に完成しました。
 「国営追悼・祈念施設」及び「東日本大震災津波伝承館」が、たくさんの方に追悼や学習のためなどに利用され、この日も、土曜日ということもあり大勢の方々が、道の駅を利用していました。

 駐車場南西端に車を止めさせて頂きました
 
 曇り空で降ったり止んだりの一日でしたが、降らないようなので「道の駅高田松原 大屋根休憩スペース」から南西に向かいます

 右手に見えるのは

 巨大なベルトコンベアの基礎(土台)です

 説明版です
   希望のかけ橋とベルトコンベアの基礎
 ・希望のかけ橋
 東日本大震災津波で壊滅的な被害を受けた陸前高田市では、高さ10m以上に及ぶ市街地のかさ上げ盛土工事が行われました。
 その工事で土砂を運搬した巨大ベルトコンベアとそのためのつり橋希望のかけ橋の基礎部分が、ここに残されています。
 気仙川をはさんで、高台の住宅地造成のために掘削した土砂を、市街地のかさ上げ盛土用に運んだベルトコンベアは、幅1.8m、全長3km。
 2014年(平成26年)3月末から2015年(平成27年)9月末までの稼働期間中に運んだ土砂は500万㎥。
 これは、かさ上げ盛土に必要な1200万㎥の約4割にあたり、10tトラックなら9年ほどかかる運搬作業を1年半に短縮しました。
 市内の小学生に公募し決定した希望のかけ橋。「まちの復興と未来へのかけ橋に」との願いが込められました。
 ・復興遺構として後世に伝える
 2015年(平成27年)9月まで稼働し、被災した市街地のかさ上げ盛土工事の工期短縮に大きな成果をあげた希望のかけ橋とベルトコンベアは2016年(平成28年)から解体が進む中で保存の声が上がり、気仙川をはさんだ基礎部分の保存がけっていしました。
 ベルトコンベアと橋の設置に当たっては、土砂のスピーディーな運搬はもちろん、サケやアユが遡上する気仙川の環境にも配慮し、河川内に支柱を建てるのないつり橋構造が採用されました。
 復興への道のりは長く険しいものです。希望のかけ橋は、長期にわたるこうした復興過程を後世に伝える場所として、その新たな役割を果たしています。

 対岸に「奇跡の一本松」が見えて来ました

 奇跡の一本松の説明石碑です
   奇跡の一本松
 平成23年3月11日に発生した東日本大震災津波は、東日本各地に未曾有の被害をもたらしました。
 陸前高田市においても多くの方々が犠牲となり、市街地は壊滅し、市の象徴であった高田松原も失ってしまいました。
 そんな中、唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」でした。
 震災直後から、陸前高田市民だけでなく全世界の人々に親しまれてきた「奇跡の一本松」。
 その後、海水による傷みによって枯死してしまいましたが、陸前高田市では、この一本松を鎮魂・希望・復興の象徴として保存することといたしました。
 この保存企業は、日本全国、そして世界からの数多くのご支援によって実現したものです。
 みなさんの想いがこめられた「奇跡の一本松」は、これからもずっと、わたしたちを見守りつづけます。
         平成25年3月  陸前高田市

橋を渡って北側から、後方にはユースホステルの残骸です

 震災遺構 奇跡の一本松
 ・震災前の「奇跡の一本松」
 東日本大震災津波被害前、「奇跡の一本松」の東側に広がっていた「高田松原」の約7万本の松林は、江戸時代の防風、防潮林としての植林がその始まりでした。
 その後、津波多発地帯であった三陸沿岸には、1896年(明治29年)の明治三陸地震津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波など何度も大津波が襲来、沿岸住民に多大な被害を及ぼすとともに多くのマツも枯死するなどの被害を受けてきました。
 しかし「奇跡の一本松」はその度に津波被害を乗り越え、生き残ってきました。
 「奇跡の一本松」は、アカマツとクロマツの交雑種(アイグロマツ)で、高さは約27.5m、幹の直径約90cm、東日本大震災津波発災時の樹齢は173年でしたが、「高田松原」内の周囲の老樹のマツに比べてもとりわけ大ぶりなマツの木でした。
 ・被災状況
 2011年(平成23年)3月11日、大地震とともに発生した大津波は、5.5mの防潮堤(当時)を倍以上の高さで乗り越え、松林をなぎ倒しながら陸前高田市の市街地を襲いました。 
 過去の度重なる津波には耐えてきた松林でしたが、ほとんどのマツが流失しました。
 その中で、津波を耐え抜き、倒れずに最後まで残ったのがこの「奇跡の一本松」でした。
 震災津波で深く傷ついた人々の心の支えとなり、復興のシンボルとして全国に知れ渡った「奇跡の一本松」でしたが、海水により深刻なダメージを受けており、震災翌年の2012年(平成24年)5月には、枯死が確認されました。 
 しかし、保存を願う市民、また内外からの温かい支援により、モニュメントとして保存され、今も震災の記憶を伝え続けています。
 ・保存活動ーー奇跡の一本松プロジェクトーー
 枯死が確認された一本松をモニュメントとして保存することを目指したプロジェクトは、国内外の多くの方々から寄せられた募金を原資として、2012年(平成24年)9月にスタートしました。
 屋外でのこのような保存例はありませんでした。そこで幹部分は、特殊な防虫防腐処理を行い、自立させるため芯棒を入れ、その素材には航空宇宙技術などさまざまな先端技術が使われました。
 2013年(平成25年)6月に完成しました。

 東側から見上げました

 「奇跡の一本松」の南側には、震災遺構「陸前高田ユースホステル」です

 陸前高田ユースホステルの説明石碑です
   震災遺構 陸前高田ユースホステル
 「陸前高田ユースホステル」は風光明媚な高田松原公園内にあった宿泊施設でした。
 1969年(昭和44年)竣工の鉄筋コンクリート2階建て、延べ床面積698㎡、玄関ホールを中心に左右に客室がのびた美しい建物でした。
 2011年(平成23年)1月から休館中だったため東日本大震災津波の発災当日は無人でしたが、津波によって建物は完全に水没。
 砂地だった地盤が大きくえぐられ、建物の東半分が折れ曲がるように破壊された姿は、津波の脅威を如実に物語っています。
 「奇跡の一本松」は、この建物があったために津波の直撃を免れ、倒れることなく残ったと考えらてれます。

 北東側から

 東側から見ました

 奇跡の一本松の東側には「被災したマツの根株」がありましたが、ほぼ残っていません

 説明石碑です
   被災したマツの根株
 巨大津波に襲われた名勝高田松原。江戸時代から植林を重ね、地域の人々に親しまれてきた約7万本の松林は、津波に飲み込まれ、そのほとんどが流失しました。
 津波の去った後には、地面の砂が洗われて浮き上がった沢山のマツの根株が残されていました。

 大防潮堤に登って見ましょう

 奇跡の一本松付近に「松坂新右衛門翁顕彰碑」が設置されました。この碑は東日本大震災津波で流され気仙川水門工事の際に発見されたものです。松坂新右衛門はかつて江戸時代に不毛の地であったこの場所に私財を投じ松を植え高田松原の礎を築き、初めて植林に取り組んだ菅野杢之助と並ぶ偉人の一人です。(高田松原の北東側にあったとされる菅野杢之助翁顕彰碑はまだ見つかっていません)
 顕彰碑の文面には・・・
    松坂新右衛門定宣翁
      顕彰碑
        岩手県知事 千田正 書
 この旧称今泉松原は、その始め享保年中気仙町和名倉松坂家第4代の租松坂新右衛門定宣翁によって植栽されたのである。
 当時此の地は一木も無く、海風は絶えず砂じんを耕地に吹き入れ、そのため田圃は埋没荒廃し、収獲皆無こと再びに及んだ。
 翁は此のことを深く憂え、之が対策は防風林の造成にあるのみと、多額の私財を投じて苗木を求め、人夫を雇い、自らも身を挺して赤松の数千を植え付け、更に幾多の悪条件を克服し、かつ補植をつづける管理をよくし、以て今日の美林の基をつくりあげた。
 それより歳月を経ること250余年、我々は今松原を郷土の名勝として他に誇り、安んじて農耕に従事して豊穣を喜ぶ。是皆翁の深慮の賜と言うべきである。
 気仙川の清流は、滔々として千載に語り、太平洋の碧浪は白砂を打って賛歌を奏で、翁の功業を常してに称えようとしている、我等気仙町民亦是を子孫に伝えてその功績を謝し、永く後世の亀鑑とせんと此の閑地に石文を建て、以て顕徳の微意を表する次第である。
        昭和47年仲春

 三陸ジオパーク説明版です
   高田松原ジオサイト
 ・概要
 高田松原には、かつて約2kmに及ぶ砂浜と約7万本のクロマツが防潮林として存在していました。
 東日本大震災津波で甚大な被害を受け、奇跡的に残った松は「奇跡の一本松」と呼ばれ、復興のシンボルとなっています。
 南部三陸海岸は、入り組んだ岬や入り江で知られるリアス海岸が天然の良港となるとともに、複雑な岩礁が海洋資源を育んでいます。
 一方で、湾の入り口から奥へ狭くなる形状と、水深が浅くなる地形的特徴から、津波の波高が大きく増幅されるため、繰り返し大きな被害に見舞われてきました。
 ①繰り返される津波被害
 ②災害文化の伝承と次世代への継承
 周囲の見どころ
 ③玉山金山跡
 ④氷上山
 ⑤気仙縄文遺跡(「中沢浜貝塚」)
 ⑥南部北上帯の古生界
 三陸地域の成り立ち
     三陸ジオパーク推進協議会
 ③

 防潮堤の斜面を上がると西側に気仙川水門が良く見えます

 防潮提に上がりました、右(西側)から

 南側です、松原の再生が進められています

 東側ははるか遠くまで防潮提が続いています

 高田ユースホステルと奇跡の一本松を見下ろしました

 気仙川水門へ行ってみます

 防潮堤上から南側(広田湾)側に下りて水門を見上げました

 東側は波に洗われていますので諦めて戻ります

 水門脇から高田ユースホステルと奇跡の一本松を見ました

 防潮堤上を東へ進みましょう

 「道の駅高田松原」正面(南東側)の「海を望む場」から西側の松原です

 南側です

 東側です

 「道の駅高田松原」へ戻りましょう

 戻って来ました、右側(北東側)が東日本大震災津波伝承館 (いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル)です

 賑わって居たので、トイレだけ借りて、今回の宮城・岩手の取材旅行2024年10月15日からの5日間を終わりにし、三陸道から東北道で埼玉へ戻ることにしました

 2024・10・19・15・00


 今回は、かなり長いブログに成ってしまいました、ご覧いただきありがとうございます<m(__)m>


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岩手県奥州市と花巻市・遠野市の境界「五輪峠の五輪塔と宮沢賢治詩碑」です!!

2024-11-28 06:40:00 | ドライブ
 五輪峠は、奥州市役所の北東約32km、遠野市役所の西南西18kmのところです

 奥州市側の県道27号線の「米里大谷地バス停」(標高約345m)から県道174号小友米里線を東へ進みます

 道成りに約5.2km坂道を上がってきました

 遠野市の標識です

 反対側(東側)からは奥州市の標識です

 北側には「花巻市営東和五輪牧野」です

 文化12年銘の石碑です

 北側に大きな五輪塔がありますが、五輪峠の名前の元となった五輪塔は小さなものだったようです

 五輪峠(標高約556m)の竣工記念碑です

 五輪牧野記念碑です、記されているのは・・・

 そばの案内文です
    五輪牧野記念碑
  五輪峠と名づけしは  地輪水輪また火風
  (巖のむらと雪の松)  峠五つの故ならず
  ひかりうづまく黒の雲 ほそぼそめぐる風のみち
  苔蒸す塔のかなたにて 大野青々みぞれしぬ
            宮沢賢治

 説明版です
   宮沢賢治詩碑「五輪峠」案内
 五輪峠は、遠野市小友、奥州市人首、花巻市田瀬を結ぶ県道の接点で、峠の標高は556m。かつては、遠野街道、人首街道の要所であった。
 隣接する種山高原は、南方5kmの地点にあり、盛岡高等農林学校3年時、江刺郡地質調査で初めて踏査して以来、多くの作品に登場する賢治ゆかりの高原である。
 詩碑「五輪峠」「文語詩五十扁」は、東和町五輪牧野解法10周年記念として、五輪牧野記念碑建立委員会によって、郷土の書家である菅原一峯氏の揮毫を刻し、五輪塔と並んで昭和55年8月に建立し、11月5日に除幕された。
 なお、平成17年3月と平成18年8月に、文部科学省によって「イーハトーブの風景地」として、五輪峠を含め7カ所が国の名称に指定されている。
       花巻市

 賢治と五輪峠の説明版です
 五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。慶長年間には遠野郷の阿曽沼氏と南部氏の戦いが行われ。多くの血が流されたといいます。
 また、藩政時代には「人反し」(他藩に逃亡した罪人が交換されること)の場所として利用されたり、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。 
 賢治の詩「五輪峠」から想像される風景や道筋は、現在もところどころ残っており追体験できますが、彼はその日、花釜線の鱒沢駅方面から鮎貝~切伏~五輪峠の行程を、おそらく知人と共にか、またはその彼の案内で、五輪峠から上大内沢を経て、人首町方面へ歩いて行ったことが考えられます。(五輪峠の北東側から南西側へ歩いた)
 詩中に「向こうは岩と松との高み / その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいている」とありますが、これは峠の頂上付近の情景で、現在も同じように大きな空間が広がっています。
 今も、茂みの少ない春先になると、そのはるか向こうに水沢や北上平野が眺望できます。
 昭和32年の道路開通工事で、すっかり頂上付近の様子は変わりましたが、現在のどっしりとした五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、子供でも動かせるような大きさだったと言います。
 おそらく、それが賢治の目に映った「そんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。
 その由来については約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた千葉日向という侍が、父の菩提を弔うために建立したものと伝えられています。       
         賢治街道を歩く会

 賢治の歩いた峠道の説明版です
 五輪峠は、宮沢賢治の歩いた江刺郡の旧街道(黒石・気仙・盛)の中で、最も当時の景観を残している道筋です。
 特に、この五輪峠から北新田までの峠道は、その後の道路開発からも逃れ、ほとんど昔のままの状態が残っています。
 今では地元住民にも忘れ去られてしまおうとしていますが、明治元年には本州で一番最初にロシア正教を人首番所で説いたという沢辺琢磨(坂本龍馬の従兄弟)や、同39年には高名な俳人の河東碧梧桐、またその後の大正6年9月の江刺郡の地質調査時です。
 同行した友人の高橋、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾い乍ら、ホ―、ホー20万年もの間陽の目を見ずに居たので、みな驚いていると叫んでいた。」と述べていますが、現在も峠道の処所で、それと同じように露出した蛇紋岩体に出会うことができます。
 賢治が二度目に五輪峠を訪れたのは、大正13年3月です。その時は、現在の釜石線の鱒沢駅で下車し、鮎貝~切伏~五輪峠を経て、人首町へ向かったことが推定されます。
 特に、五輪峠から人首町への行程は、第二詩集の「春と修羅」に収められた「五輪峠」「丘陵地を過ぎる」「人首町」等の連作から想像できます。
 現在もその道筋を辿ると、それらの詩に、描かれた情景がつぶさに浮かんできて、、数少ない追体験のできる貴重な空間ともなっているのです。
          賢治街道を歩く会

 遠野市側(東)へ下って行きます


 2024・10・19・12・40


 
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岩手県遠野市、土淵町土淵7地割「常堅寺からカッパ淵」です!!

2024-11-26 06:30:04 | ドライブ
 土淵町土淵7地割地区は、遠野市役所の北東約5kmのところ

 遠野市役所南側の仲町通りを東南東へ、約200mで信号を左(北北東)へ

 約1.1kmの国道283号線の交差点信号からは国道340号線となって更に進みます

 約3.3kmの「⇐附馬牛(つきもし)・県道160号線」の標識に従って信号を左(北西)へ

 約500mで「伝承園⇒」の案内板で信号を右(東北東)へ

 約300mで「伝承園・カッパ淵 無料大駐車場」が有りますので利用させて頂きました

 駐車場脇の説明版です
   新奥の細道 遠野物語の道(2)
 このコースは、起点伝承園からカッパ淵、たかむろ水光園、デンデラ野、山口水車を経て、終点和野に至る全長約5.8kmののどかな田園風景が広がる自然歩道です。
 カッパ淵は、人々を驚かし、いたずらをしたカッパがいまにも出てきそうな雰囲気です。
 近くの常堅寺境内には、全国的にも珍しいカッパ狛犬があります。
 たかむろ水光園には太陽熱を利用した「ソーラートロン温泉」た曲り家などがあります。約2時間の散策路です。

 周辺観光案内板です、2⃣のカッパ淵へ行きます

 横断歩道を渡って南への道路を進みます

 常堅寺入口です、午前9時を過ぎて観光客が大勢通って行きました

 入口の南東側にカッパ淵上流側の蓮池川です

 下流側です、この先にカッパ淵がありますが、常堅寺境内を通らないと行けないので戻ります

 常堅寺本堂です


 本堂南側の通路を西側へ、池があります
   説明版には・・・
    蓮池地区の常堅寺と河童
 古来、この地は「蓮池(はせき)」と呼ばれ、寺の名前も「蓮峰山(れんぽうざん)常堅寺(じょうけんじ)」という。
 その昔、常堅寺が火事のとき、淵の河童が、火を消してくれたことから、時の住職が河童狛犬を祀って感謝したといわれている。
 淵と阿部家の間には池があり、蓮の葉が浮いていたが、流れ入る水量も減り、今は池の形跡も見られなくなった。
 この池は、何れの時か、河童が戻ってきて、泳ぎ回ることを思いを寄せて、地元の有志で造成したものです。
       土淵町地域づくり連絡協議会・土淵町大杉自治会
       蓮池川を考える会・土淵地区環境保全活動協議会
 *カッパ淵は、池の対岸の直ぐ南側です

 説明版です
   河童
 馬を川に引きこむいたずらに失敗したカッパは、おわびをして許され、母と子の守り神となりました。
 常堅寺の火事のさいは頭の皿から水を吹き出して消し止め、今でも一対のカッパ狗犬として境内にその姿をとどめています。

 橋を渡るとカッパ淵です

 橋の上流側です

 下流側がカッパ淵です

 西へ進むとカッパだ

 御堂です

 説明版です、遠野遺産第22号「カッパ淵~蓮池川水域」の標柱です
   カッパ淵
 遠野の河童は顔が赤いといわれ、その伝説は数多く残っている。
 「小烏瀬川(こがらせがわ)の姥小淵(おばこぶち)の辺りに、新屋の家という家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、河童出てその馬を引込まんとし、却りて馬に引きずられて厩の前に来り・・・」遠野物語58話
 この淵には河童駒引きの伝説を伝える河童神様を祀っている。
 洞の中には乳首の縫いぐるみが奉納されており、乳の信仰に転化している興味深い民俗がある。
        遠野市・遠野市観光協会
        遠野ライオンズ クラブ

 釣り竿が立てられています

 糸の先にはキュウリがぶら下がっています

 館跡です

 説明版です
   阿部屋敷(別名 屯館)
 陸奥六郡に威勢を誇った安部氏の一族が、天喜・康平のころ(紀元1050年ごろ)から構えた屋敷で、豪壮な直家の母屋には数十名の家族がすみ、土塁と堀でかこまれていました。
 八幡座館(はちまんざだて)の八幡太郎の軍と小烏瀬川をはさんで矢をうちあった伝える的場跡もある。
 *北側に八幡座山(標高445m、カッパ淵の標高は280m附近です)があり、間を小烏瀬川(こがらせがわ)が東西に流れています

  屋敷跡

 説明版です
   安倍(阿部)屋敷跡
 「遠野物語」第68話に「安倍氏という家ありて貞任の末なりと云ふ。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通す。刀剣馬具あまたあり」と記されている。
 昔からこの地は、屯館とも呼ばれ、平安時代後期に北上川流域に勢力を誇った安倍氏の一族(貞任の弟・北浦六郎重任)が屋敷を構えたと伝えられている。
 現在も堀の跡などの遺構が残り、この地に続く阿部氏は安部氏の転じたものと伝えられている。
 屋敷跡の東北にある稲荷社は、約400年前に安部氏の養子となった人が甲州(山梨県)より勧請し氏神としたもので、近郷でも古い社の一つといわれている。
 明治の始め頃まで旧暦2月15日の祭例日には「ダンビラケー(ダンビラ祭)」が行われていた。
 近郷の山伏を一堂に集めて、湯立の儀式を行い巫女が笹を振りながら巫女舞を舞ったといわれる。
 近くにカッパ淵がある。
         遠野市

 西側からカッパ淵側(上流)を見ました

 蓮池川の下流側です



 では、戻って次へ行きましょう


 


 2024・10・19・09・05
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宮城県松島町、松島犬田「西行戻しの松(歌人西行法師、平安時代)公園」です!!

2024-10-29 06:30:05 | ドライブ
 松島犬田地区は、松島町役場の南西約2kmのところ、松島湾を見下ろす丘の上のところです

 地区の中心部に「西行戻しの松公園」があります

 松島町役場の東側の道路を南(仙台方面)へ、国道45号線です

 五大堂や瑞巌寺入口を過ぎた約1.8kmの「利府・県道144号線⇒」の標識に従って右(西)へ

 すぐ右手にはJR仙石線の「松島海岸駅」です、仙石線の高架を潜って坂道を上って行きます

 約900mの信号を左(南東)へ、さらに坂道を上って行くと

 約400mで道路左手に公園が広がります

 西行戻しの松公園です

 案内図です、奥にも駐車スペースが在りますので、奥の駐車場に車を止めさせて頂きました

 *側の東屋では、バイカーが野宿していたようです

 東へ向かいます、丘の上にも松の木が目立ちます

 明治100年記念の昭和43年4月の桜樹百本植樹記念の碑です

 雲が多かったものの朝焼けの松島湾です、松の枝に朝日が当たっています

 東端に「西行戻しの松」の碑があるようです

 案内図です
    西行戻しの松
 西行法師が諸国行脚の折、松の大木の下で出会った童子と禅問答して敗れ、松島行きをあきらめたという伝説があり、一帯の松を西行戻しの松と呼ぶようになったといわれています。

 石碑と石仏が並んでいます、右端に「西行戻の松」の文字が見えました

 説明版です
   西行戻しの松(さいぎょう・もどしのまつ)
 歌人西行(1118~1190)がこの地にて
「月にそふ 桂男(かつらおとこ)の かよひ来て すすきはらむは 誰(た)がこなるらん」
と一首を詠じて悦に酔っていると、山王権現の化身である鎌を持った一人の童子がその歌を聞いて
「雨もふり 霞もかかり 霧もふりて はらむすすみは 誰れが子なるらん」
と詠んだ。
 西行は驚いてそなたは何の業(なりわい)をなししているのか聞くと「冬は萌(ほ)きて夏枯草」を刈って業としていると答えた。
 西行はその意味が分からなかった。
 童子は才人が多い霊場松島を訪れると恥をさらすとさとしたので、西行は恐れてこの地を去ったという伝説があり、一帯を西行戻しの松という。
 西行に関するこのような伝説は各地にあり、古くからかたり継がれている。
 (*桂男=美男子*業=仕事*冬萌きて夏枯れ草=麦)
     平成17年6月  松島町教育委員会


 朝の松島湾です

 駐車場西側の丘の上には白衣観音と展望台となっていますが、朝早くから観光客が陽の出を見ていたので行きませんでした

 では、次へ行きましょ


 
 2024・1015・05・50
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高知県大豊町、日浦「六社聖神社のスギ」です!!

2024-08-17 12:32:42 | ドライブ
 日浦地区は、大豊町役場の東約4kmのところ

 大豊町役場の北側の国道439号線を南東へ進みます

 約2.6kmの審議右を左(東)へ、国道32号線です

 約1.6kmで、国道から斜め左の斜面んを上に行く道路に入ります

 約200mの三叉路は右へ、道成りに上って行きます

 約800mで、左下への道路がありますので、道路脇に車を留させて頂きました

 道路を下ると民家の前へ出ます

 民家の前を更に下ると鳥居前に出ました

 六社聖神社参道入口の鳥居です




 JR土讃線の「大杉」駅と「土佐穴内」駅の間を通過するアンパンマンラッピング車両です

 見上げるような急な石段です

 石段左に目的のスギです

 東側から

 スギの上側を西に入って北西側から見ました

 石段上側から、樹高38m、目通り幹囲9.1m、推定樹齢330年とされる巨木です

 拝殿前から

 拝殿です

 本殿です

 では、次へ行きましょう


 2024・6・14・14・50
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高知県室戸市、室戸岬町「室戸岬周辺」です!!

2024-08-02 06:30:09 | ドライブ
 室戸岬町は、室戸市の南側の広い地域です

 次に予定していた「四国八十八ヶ所第25番津照寺」が開くのに時間が有りましたので、室戸岬周辺を廻ってみました

 室戸市役所北西側の「室戸市浮津」信号から国道55号線で南へ岬の先端を廻って東側へ行ってみました

 約8km道路左手に白い弘法大師像が見えて来ます

 広い駐車場が有ります

 まだ早いので開いていませんが来迎寺入口です

 にゃんこが門の番をしています

 室戸青年大師像です

 では、岬先端へ約2km戻りましょう

 室戸岬周辺案内図です 

 岬先端部の国道沿いに中岡信太郎の像です

 南側から

 風見クジラ像です

 岬の海岸へ出てみましょう、振り向くと山の上の方に前日の行った灯台です

 南側へ出ました
 
 灌頂ヶ浜です


 海岸沿いの遊歩道には花が綺麗です

 テリハノイバラですね、植物解説板のもう一つの表示はハマダイコンです

 天気が良かったので、波が綺麗です

 黒い岩は玄武岩でしょうか

 波が強いのでこれ以上行きませんでした
 
 また植物の解説内板が有ります、ハマアザミとハマゴウです

 コマツナギとアゼトウナです

 岩の感じ変りました

 説明版です
   しましまの地層
 白(砂)と黒(泥)のしましまの地層(タービダイト)は、約1600~2800万年前に深海にあった。
 室戸の土地はもりあがり続けているため、もともと深海にあったものを陸上で見ることができる。隆起するときに地層は大きく傾いた。
 しましまの地層のできかたは、
 ①河口付近に砂や泥が降り積もる。
 ②地震や台風でおこる土砂崩れや激しい水流によって砂や泥が深海に運ばれる。
 ③深海に運ばれた砂や泥は、あらい粒の砂が先に海底に降り積もり、次にこまかい粒の泥が降り積もる。
 という①から③が何度も繰り返してできた。
 一枚の砂の層をよくみると、下から上にむかって砂つぶがだんだん細かくなっていく様子がわかる。
     室戸ジオパーク

 湯歩道を戻ります

 岩の間に海面が見えました
 
 もう少し(約500m)市内方向へ移動しました

 「高岩」入口です

 大きな岩があります

 西側から

 この附近の海岸には斑レイ岩が沢山落ちていました

 そろそろ「津照寺」が開く時間ですので移動しましょう



 2024・6・12・7・30
 
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高知県室戸市、室戸岬町「室戸岬灯台と室戸スカイライン山頂展望台」です!!

2024-08-01 12:30:07 | ドライブ
 室戸岬町は、室戸市の南側一帯の広い地区です

 室戸岬灯台は、室戸市役所の南南東約5kmのところ

 室戸市役所前の道路を西へ直ぐで国道55号線を南へ進みます

 道成に約5kmの「⇐24番札所・最御崎寺」の標識に従って信号を左へ、県道203号線で坂道を登って行きます

 約1.4kmヘアピンカーブ3ヶ所を過ぎて、最御崎寺の参道入口前駐車場です

 最御崎寺山門への参道を進みます

 山門を左に見るところです

 南へ進み

 下って行きます

 灯台が見えました

 説明版です
   室戸岬灯台
   ~日本一の一等レンズ~
 四国南東端に位置する室戸岬灯台は、明治32年(1899年)4月1日に完成しました。
 その後、昭和9年(1934年)の室戸台風と戦災、昭和21年(1946年)の南海地震で灯台のレンズが破損し修理を行いました。
 鉄造の灯塔はほとんど被害はなく、建設当時の姿を残しています。
 光源は最初石油を使用しておりましたが、大正6年(1917年)12月に電化されました。
   位置      北緯  33度14分50秒
           東経 134度10分32秒
   光り方     単閃白光
   光の強さ    160.0万カンデラ
   光の届く距離  26.5海里(約49km)
   高さ      地上から灯台頂部 約 15.4m
           水面から灯火   約154.7m
   管理事務所   高知海上保安部
     海上保安庁・燈光会・日本財団

 室戸岬灯台です

 灯台左手(南東側)です

 灯台右手(南西側)です

 岬先端部の岩場を見下ろしました

 西側に太陽が傾いて海面に輝いています

 では、戻って室戸スカイラインの展望台へ行きましょう
 

 最御崎寺から、室戸スカイラインを北東へ坂道を上って行きます

 約2.3kmで道路右手に広い駐車場が有ります

 駐車場の南端から階段を登ります

 もう少しです

 展望台へ出ました


 南側です、ここからでは、灯台は見えません

 東側

 北東側の眺めです

 北側です

 西側の室戸岬漁港です


 西側には陽が傾いています

 今日の取材は、この辺で終了して室戸市内で食糧の買い出しをして、今夜は高知市方面に約6km移動した「道の駅キラメッセ室戸」で車中泊予定です/cars_red/}

 「道の駅キラメッセ室戸」に到着しました

 ちょうど陽の沈む時間になりました

 漁船が一艘夕日に照らされています





. では、明日の為に休むことにしましょう


 2024・6・11・19・00
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徳島県美波町、日和佐浦「大浜海岸のアカウミガメ・産卵地」(国指定)です!!

2024-07-29 06:43:22 | ドライブ
 日和佐浦地区は、美波町役場の直ぐ東側のところ

 美波町役場前の道路を東へ進みます、約500mで左手に八幡神社が有ります

 境内に車を止めさせていただき、クスノキ群を取材しました

 更に東側にあるのが大浜海岸(日本の渚百選)です

 北側の浜辺です

 中ほど

 南側です

 国定公園の標柱です

 国定公園の案内板です
   室戸阿南海岸国定公園
     大浜海岸乗入れ規制地域(平成10年〔1998〕3月16日指定)
 ●乗入れ規制地域は、アカウミガメの産卵環境等の保護するために、自然公園法の規定に基づき、自動車、バイク等の乗入れが規制されている地域です。
 ●規制地域へこれから車両等が乗入れする場合は、事前に県知事の許可が必要です。
 ●農林漁業のための乗入れの場合は、手続きは不要です。
 国定公園の自然を守るため、ご協力をお願いします。
         環境庁・徳島県

 アカウミガメが産卵することで有名な浜で国指定の天然記念物に指定されています
   国指定文化財・天然記念物
     大浜海岸のアカウミガメおょびその産卵地
       昭和42年(1967年)8月16日指定
 大浜海岸は延長約500mの砂浜で、アカウミガメの上陸と、産卵地としての諸条件が整っていて、古来よりアカウミガメの産卵地となっている。
 当町は、カメが上陸するにあたり環境や保護の面において細心のこころ配りをしている。
 この大浜海岸は、5月から8月にかけて産卵のためアカウミガメの上陸があるが、産卵地としての国指定となっているのは、ここの「大浜海岸」と、「御前崎の浜(静岡県)」の2か所のみである。

 海岸線の道路を南へ

 アカウミガメの像です

 北側

 中ほど

 南側には小島が点在しています

 では、次へ行きましょう



 
 2024・6・11・12・55
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