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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

山形県上山市、下生居「旧尾形家住宅(国指定重要文化財)」です!!

2019-10-31 06:25:21 | 文化財・寺社
下生居地区は、上山市役所の南東約4kmのところ

県道263号線から県道264号線へ入って間もなく

県道北側に国指定重要文化財の旧尾形家住宅があります

県道沿いに駐車スペースが有りますので利用させて頂きました

あいにく閉館日でしたが、道路から住宅を覗くことが出来ました


東北自然歩道の案内板です
  新奥の細道 蔵王信仰へのみち
 蔵王の山々は、現在では火口湖のお釜・樹氷・スキー
などの観光名所となておりますが、かつては山岳信仰の
山で、このコースは羽州街道から蔵王山麓へたどる道で
した。歴史の村一牧野地区へ入ると、五邑神社や市宝に
指定されている六面体の如来時石憧などの文化遺産があ
り、往時の信仰心がしのばれるとともに芸術的な味わい
があります。
 生居地区には、代々庄屋の家柄である旧尾形家住宅が
あります。17世紀末頃に建てられたものとされ、大型
民家としてのかやぶき屋根では建築史上貴重な資料であ
る事から国の重要文化財に指定されました。
 又、生居川ダム・花森湖では雄大な自然と湖水が織り
成す四季の風景が楽しめます。
 コース沿いには、この様な見所に加えてそば・こんに
ゃく・果物・紅つるし柿・ゆべしなどの地元特産物も多
く、郷土の味覚も十分に楽しめます。
 
  永野バス停⇒生居ダム⇒三度栗・観世音堂⇒
  大慈院のさいかち⇒堂屋敷⇒旧・尾形屋家住宅
  ⇒化け石⇒五巴神社⇒龍谷寺⇒楢下
   総延長12,3km 所要時間・約6時間
        環境庁・山形県自然保護課
  


駐車場前の案内板です


旧尾形家住宅です

覗いてみました

母屋です

説明版です
国指定重要文化財
   旧尾形家住宅
 尾形家は71代つづいた上層農民の家系で
旧藩時代は庄屋を務めた家柄であり、家構は
17世紀末の建築とみられる。
 建物は寄棟造りで、前に厩中門、後に上座
敷が突き出している建坪323㎡の大型の上
層農民の住宅である。母屋は前後の突出部を
除いて桁行26,36m、梁間9,61m。
大黒柱は周りが1,13mもある釿けずりの
栗材で黒光りしている。上屋と下屋があり、
上屋は、下・中・上座敷に一間幅の縁側が廻
される造り、下屋は囲炉裏のある座敷・にわ
等からなる造りであり、普通の家の間取りと
は異なっている。座敷にはそれぞれ段差がつ
けられているが、家の格式と権威を示したも
のと言われている。
 昭和44年国の重要文化財指定され、昭和
51年6月に修復工事が完了した。
       上山市教育委員会


訪れた日は、開館日ではありませんでしたが

東側のソバ畑が満開の花を咲かせていました

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山形県上山市、宮脇「正八幡神社(正八幡宮)のケヤキ」です!!

2019-10-30 06:40:13 | 巨樹・大木
宮脇地区は、上山市役所の南東約3kmのところ

県道263号線を東へ、国道13号線を超えて間もなく

左手に正八幡神社が鎮座します

手前の社務所前に駐車場が有りますので利用させて頂きました




境内入口です

鳥居です

「郷社 八幡神社」となっています

由緒記です
  正八幡神社御由緒
 當八幡神社の肇基は、人皇77代堀川天皇の
寬治7年、源義家勅命に依り清原氏を討伐の途
次、京師の男山八幡宮を遥拝し戦勝を祈れる古
跡たるを起因す。降りて99代後村上天皇の、
正平11年8月出羽探題修理大夫源兼頼は、祖
公が遥拝の遺跡たるを以て旧殿を創立せしめ、
天文年中小築川建真範、當國へ乱入の際奥焚に
罹かりし為、慶長5年出羽守最上義光の臣里見
越後に命じて之を再建せしむ。現今の社殿は、
宝永2年9月15日元上ノ山城主松平中務少輔
信通が修造する所。明治5年8月在川東郷19
ヶ村の郷社に列せらる神威跡灼真燈の鏡の曇り
なく、神真永く世に輝く抑本宮域所在の大字名
を宮脇、又は村名を宮生村と稱し来るも遠き昔
より當八幡宮の鎮り座はすに基因するもの也。
  神社御事歴
 肇基 寛治 7年8月15日
 創立 正平11年8月15日
 再建 慶長 5年8月15日
 修造 宝永 2年9月15日
   昭和43年4月15日 氏子総代



手水舎です

石灯篭です

説明版があります
  土岐灯籠の由来
 寛永5年(1628)に上山藩主として着任さ
れた土岐頼行公は、宮脇の正八幡宮と若宮八幡宮
を領内鎮護の神として崇敬なされた。
 同18年、頼行公は、三代将軍家光の若君誕生
を祝賀し、幕府の認可を受けて、御社の神輿を二
日町御仮屋に渡御し、天下泰平、武運長久、五穀
豊穣を祈願し、その御神札を幕府に献上する大祭
典を催した。これは今も上山の秋祭りとして継承
されている。
 昨年7月、東京港区内の土岐家旧上屋敷跡が改
造されることになり、同家19代寛光氏のご厚意
で、庭園内の石灯籠6基と七層石塔1基が上山土
岐会に寄贈された。
 これは江戸時代中期の風格を持つ貴重なもので
あり、同会は上山市並びに上山郷土史研究会と協
議して、「土岐灯籠」と命名し、土岐家と縁の深
い当神社に燈籠1基を寄進された。
 よって氏子一同協賛を得て境内に建立し、当神
社の興隆を祈願するものである。
    平成16年4月15日
      撰文  佐竹徳太郎
      宮脇八幡神社氏子一同



拝殿です

本殿は覆屋の中です

目的のケヤキは境内南東隅県道沿いに在ります

県道に出て南側から見ました

南東側から

東側から見上げました、目通り幹囲6,1mの巨木です

境内南西隅には大きな切株が見られました

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山形県南陽市、長岡「国指定史跡 稲荷森古墳」です!!

2019-10-29 06:31:50 | 遺跡・史跡
長岡地区は、南陽市役所の南東約1kmのところ

南陽警察署の東側の南北に通る道路に案内板が出ています

道路を西に入って赤湯小学校の南側を道なりに進むと

綺麗に復元された?稲荷森古墳が見えて来ます

古墳の東側に駐車場が整備されています




案内板です


大きな前方後円墳が見えて来ます

史跡稲荷森古墳の石碑です

前方部です

後円部です

南西側から

西側の接合部から墳丘に登ってみました

前方部です

後円部です

接合部の面が段築一段目です


後円部南東斜面です


段築二段目です

後円部頂上です

方位版が有ります


北側の建物は赤湯小学校です

後円部頂上より小さな前方部を見ました

段築の三段目です

西側には、刈り取り前の田圃が黄金色でした

国指定史跡 稲荷森古墳
1、指定 昭和55(1980)年5月24日
2、所在 南陽市長岡1175番地 他
3、指定事由
   昭和9年の発見後、緒調査の結果、東北地方
  有数の規模を持ち、日本海側では北限の卓越し
  た古式の前方後円墳と判明し、東北古代史を解
  明するうえで重要な位置を占める。
4、古墳の寸法 全長     96m
        後円部の直径 62m
        前方部に長さ 34m
        後円部の高さ 9.6m
        前方部の高さ  4m
5、指定地面積  10,182.7㎡



稲荷森古墳の造り方説明です
 稲荷森古墳は、今までの4回の発掘調査により
つくり方やおおよその年代、保存が良い古墳であ
ることなどがわかりました。
 1600年以上も前に、これほど大きな古墳を
つくることができた首長(王)の権力は相当なも
のです。

稲荷森古墳の整備説明です
 昭和62、63年度に、史跡整備のために南陽
市教育委員会が行った発掘調査や諸調査に基づき
、平成元年度から同4年まで保存と活用を目的と
した整備工事が行なわれました。
 墳丘は保存状態が良好なため部分的修復にとど
め、全体としては現状保存をめざし、また自生植
物により墳丘斜面を保護しています。


南陽市内の主な古墳時代の遺跡の説明です

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山形県高畠町、安久津「安久津八幡神社」(県指定文化財)です!!

2019-10-28 06:11:22 | 文化財・寺社
安久津地区は、高畠町役場の東約2kmのところ

国道113号線を東へ進むと、右側に道の駅たかはたが在ります

すぐ先の左側(北側)に安久津八幡神社が鎮座します

参道は蛭沢側を渡った南側から始まっているようです

大きな赤い一ノ鳥居は南に500mも先に有ります

駐車場は参道西側に有りますが、道の駅たかはたを利用しました



大きな一ノ鳥居です、川の南側に建ちます

安久津八幡神社です

参道を進みます

ニノ鳥居です

鳥居の脇に置かれている「じじばば石」は、かつての石鳥居の柱のようです

山形県指定重要文化財は阿久津八幡宮、本殿、舞楽殿、三重塔です

境内の案内板です

参道右手の三島池です

池の北側に鳥居が見えます

岩駒稲荷です

厳島神社の祠は斜めになっています

参道西側の三島池の中島に三重塔です

説明版です
   安久津八幡神社と三重塔
 安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860)に
慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前
九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡
八幡をこの地に勧進したとされていますが、定かではあ
りません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿
弥陀信仰が八幡信仰に変わって行ったとも考えられます
。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代に
は「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広
大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、宗徒頭千殊院
をはじめ十二坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫
として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3
年(1263)「出羽国屋代庄八幡宮」で修行する能海
・湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して
入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語
っております。
 三重塔は、本来寺院伽藍の一つですが、明治の神仏分
離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災な
どにより寺院が失われたため、三重塔のみが残りました
。方三間、銅板葺(当初杮葺、後瓦葺)で、三島池の中
島に建つ、置賜地方唯一の層塔です。三重塔は最初、寛
永二年(1625)に米沢の鈴木十左衛門、高畠の鈴木
平右衛門を施主として建てられましたが、寛政二年(1
790)に烈風により倒れたため、寛政5年(1793
)から伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁として再建に
着手し、同9年(1797)に完成したものです。当時
の祝宴の盛大さは、小郡山武田家文書などからうかがい
知ることができます。
  山形県指定有形文化財「八幡神社三重塔」
    昭和30年8月1日 指定
          高畠町教育委員会



手水舎です

参道の中央に舞楽殿が建って居ます、参道からは横を見ている形になります

東から、こちら側が正面です

説明版です
  舞楽殿と安久津延年
 石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向い
東向きに建つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間
の宝形造、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあ
り、屋頂には石造の路盤と宝珠が置かれます。舞楽
殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋
の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室
町末期のものと考えられています。
 本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会
、法要などに舞われたといわれています。安久津で
は9月15日の秋の例大祭で、神社に奉納されます
。それ故地元では長い間「神楽舞」として継承され
、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。舞は、
「振鉾式(燕舞式)」「拝舞」「三躰舞」「太平楽
」「眺望楽」「蛇取舞」「姥舞」の七曲が伝えられ
、「振鉾式」と「姥舞」の二曲を舞師が、他の五曲
を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚
児舞」とも呼ばれます。舞は、舞師である大地権大
夫家に、一子相伝の世襲制のもと、44代にわたり
代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡
熊野社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指
導していました。安久津延年は、比較的古式をとど
めている舞として、昭和63年に町指定無形民俗文
化財として指定され、平成5年には国の「記録作成
等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択され
ています。
 山形県指定有形文化財「八幡神社舞楽殿」
     昭和30年8月1日 指定
 高畠町指定無形民俗文化財「安久津延年」
     昭和63年3月18日 指定
            高畠町教育委員会




正面には子育て地蔵尊が向かい合っています

地蔵尊の北側の石碑です

説明書きが在ります
  山中神明宰
 当地屋代郷一帯は、宝暦・明和年間水害旱害、冷害
で大不作でした。それに天明3年の大凶作で餓死者が
出る程の不況でした。この民苦と窮状を察して、当地
代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き施米とし
て郷土の村民を救いました。代官幕府へ上申のため、
江戸に旅立つ時一切の責任は我にあり我もし帰らずば
、念佛一遍も唱えてほしいと申されました。山中代官
の民情対する至誠は幕府当局を動かして免租の恩命さ
え下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、
竹森村、深沼村の村民が感激を後世に遺すべくの報恩
碑です。



石畳の参道を進みます

参道中ほどの石碑です

少し先には耳の神様です

狛犬です、カエルみたいな顔です

茅葺の拝殿です



本殿も茅葺です

説明版です
  安久津八幡神社本殿
 安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく
火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記
録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札な
どの記録から、明応9年(1500)伊達尚宗により社
殿が再建された記録を最古として、七度焼失し、その度
ごとに再建されてきました。現在の本殿は、寬保3年(
1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏9代重定の
代、宝暦5年(1755)に再建されたものです。三間
社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗といいます。棟の両
端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な
形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が
優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指
定有形文化財に指定されました。
 もともと本殿は、現在地の北、八幡山中腹に近いとこ
ろにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿
などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や
山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在してい
ます。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、
いずれも横穴式石室を有する7世紀後半から8世紀にか
けての円墳です。本殿の左手裏に見ることができる古墳
は、鳥居町3号墳、4号墳です。
  山形県有形文化財「八幡神社本殿」
       昭和3年8月1日 指定
            高畠町教育委員会



拝殿前に御神木の杉です、目通り幹囲4m程でしょうか

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長野県筑北村、坂北「刈谷澤神明宮の杉樹叢」です!!

2019-10-27 06:17:21 | 巨樹・大木
坂北地区は、筑北村役場の南東約1kmのところ

国道403号線を南へ間もなく東へ入る道路に鳥居が見えます

鳥居をくぐり、JR篠ノ井線の踏切りを越えると

道なりに進んで刈谷澤神明宮が西向きに参道を開いて鎮座します

南側の道路を進むと社務所南側に駐車場が有りますので利用させて頂きました


参道入口です、大鳥居が見えます、一の鳥居のようです

篠ノ井線の踏切りを超えます

境内入口の幟支柱が見えて来ます

境内への参道入口です

白い鳥居が二の鳥居でしょうか

手水舎です

説明版です
  刈谷澤神明宮 御由緒
鎮座地 東筑摩郡筑北村坂北239番地
御祭神 天照皇大神 豊受皇大神 
    天手力男命 天萬崗栲幡千幡比賣命
祭日  歳旦祭         1月1日
    祈念祭(お田植え祭)  3月9日
         (長野県無形民俗文化財)
    新氏子祈願祭      6月下旬
    例祭         9月27日
    大祓 除夜祭    12月31日
  申年毎式年遷宮斎行
由緒 白鳳年間(奈良時代)に勧進されたと
  伝承される
   中世には青柳氏が信仰し、保護する
   天正11年(1583年)上杉氏と
  小笠原氏の合戦で打破
   本殿、元禄3年(1690年)再建
   拝殿外建造物 享保2年(1717
  年)再建
氏子区域 江戸期会田組の内、坂北郷12
      ヶ村の惣社
     本城地区4ヶ村(乱橋村・西条
      村・東条村・大沢新田村)
     坂北地区6ヶ村(刈谷澤村・中
      村・青柳町村・竹場村・仁熊
      村・別所村)現在の東山区・
      昭和町区・向原区を加える
     麻績村の2ヶ村(野間村・桑関
      村)
境内 社地3919坪
   樹齢六百年余りの杉をはじめ多数繁茂
     平成21年3月吉日
          筑北村教育委員会

参道は杉並木になっています



参道北側に境内社が並びます

冠者大神です

事比羅社です

・影社です

天満社です

天野社です

飯綱社は少し奥にあります

二階建ての建物は舞殿でしょうか

参道の門の様な建物です

拝殿の向かい側(南側)の建物です

額が掲げられています

拝殿脇に杉の大木が並びます

拝殿前参道から見ました

拝殿です


本殿の手前に随身像がいらっしゃいます
    


注連縄の巻かれた御神木が一番太い ようです


手前の杉も十分な巨木です
     

宗像社と八幡宮です    

木々の間にも境内社が在ります

拝殿東側の大木です

拝殿向かい側の建物の東側の大木です

帰り際に駐車場脇の社務所と拝殿向かい側の建物の間にも大木が在ります

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長野県生坂村、小立野「平七社のケヤキ」です!!

2019-10-26 06:12:03 | 巨樹・大木
小立野地区は、生坂村役場の南約3kmのところ

国道19号線の下生野歩道橋の所に案内板が有ります

犀川の右岸(東側)に平七社が鎮座します

境内に車を止める事が出来ました




地区の案内図です


鳥居前からケヤキを見ました



平七社拝殿です

本殿は高い所の覆屋の中です

説明版です
平七社 本殿・棟札【村指定文化財】
  慶安4年(1651)の検地帳に、「七社大権現、
 社領畑1町5畝」とある。天神七代を祀る古社で、祭
 神は「国常立神(クニノトコタチノカミ)」である。
  昔は今より下段の沢近くにあったが、明治になって
 現在の場所に上げた。沢の名前を天神沢という。
  本殿は天明6年(1786)木曽福島上田村の齋藤
 仙左衛門の作で優れた建築である。内には明治32年
 奉納の俳句画が26面掲げられている。祭礼は秋に船
 に人形を飾って引き盛んであったが、平成元年に廃止
 された。
天神坐像【村指定文化財】
  境内社である天神社の祭神として祭られている。像
 高29cm、寄木造、玉眼、二百年以上前の神像彫刻
 として生坂では最も優れる。
ケヤキ【村指定保存樹木】
  周囲5m、高さ20mの大ケヤキがある。
 平成23年3月  生坂村教育委員会 


社殿の裏側にケヤキの巨木が在ります

天神様です

説明版です
 当時の小立野村内の天神様は各同姓、
隣組等で祀られ、穀物の生育、蚕繭等の豊作
を願い、鎮守はそれぞれの地区により管理信
仰されていた。しかし文明開化の明治政府に
なると神仏分離令による廃仏毀釈が発令され
一村一社に統合が勧められた。
 明治8年小立野村を含め4村が合併し生坂
村が誕生した。ここに祀ってある天神様は、
当時の小立野村内各地にあったものを一同こ
こに集められ祀られたと思われる。


社務所の裏側から見ました、合体木のようです

北側道路から

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長野県生坂村、小立野「乳房イチョウ」(県指定)です!!

2019-10-25 06:09:50 | 巨樹・大木
小立野地区は、生坂村役場の南約3kmのところ

国道19号線の下生野歩道橋の所に案内板が有ります

犀川の右岸(東側)に平七社が鎮座します

南側の観音堂の入り口の「乳房イチョウ」が在ります

平七社境内に車を止めさせて頂きました




歩道橋のところに「乳房イチョウ1,3km」の案内板が出ています

地区の案内板です、道路から一段下に神社や観音堂が有ります

上野道路から「乳房イチョウ」が見えます


北側の坂道を下って参道入口の赤い橋を渡ります

平七社です

平七社境内から乳房イチョウが見えて来ます

観音堂です

説明版です
乳房堂【村指定文化財】
  観音堂として元禄11年(1698)の書上帳
 にものり、本尊の聖観音坐像は像高約1mの小仏
 で少々傷んでいる。
  須弥壇は南陸郷中村の専光寺から明治初年に移
 された。お祭は昔から4月に雲龍寺から坊様が来
 て行い、他村からも大勢お参りに来て盛大に行わ
 れたが、現在は村内のみである。
木造菩薩形仏頭【村指定文化財】
  高さ19cmの室町時代の仏頭。元禄11年(
 1698)の書上帳に「観音堂、本尊聖観音坐像、
 御長3尺、行基菩薩御作」とある仏像の頭である。
石仏群30基【村指定文化財】
  庚申塔4基、緒供養塔6基、馬頭観音5基、如
 意輪観音2基、無縫塔8基、常夜燈、烏八旧(う
 はっきゅう)、石幢形地蔵、天然記念物碑など元
 禄8年~昭和7年までの各種石造物が並び、中で
 も烏八旧は松本地方では珍しい。
   平成23年3月  生坂村教育委員会

*烏八旧・烏八臼などと云われ、墓標・板碑の上の
 方に「烏八旧」や「烏八臼」と文字書きされたも
 のです


目的の乳房イチョウです

説明版です
  乳房イチョウ
    県天然記念物
     指定 昭和40年4月30日
1、周囲は根元10,5m、目通り8,3m、樹高
 35m、枝張り東西29m、南北27m、推定樹
 齢800年の雄樹で松塩築地方では最大のイチョ
 ウである。
1、柱瘤(乳房)凡そ25本がたれ、最大は長さ2
 ,3m、つけ根の周囲1m。
1、伝説、170年ほど前観音堂が火災で焼失した
 時、イチョウの樹から御光がさし人々は恐ろしく
 て近ずけなかった。
  焼けた観音様がイチョウに乗り移ったのだとい
 う。
1、信仰、産後乳の出ない産婦が観音様へ祈願し「
 何年の女乳汁を授けさせ給え、大願成就のお礼参
 りには、乳の絵馬、木綿で作った乳房、燈明など
 を奉納します」と誓い、たれている乳房を宮本紙
 で包み、水引きで結び、根元の下枝を折って家へ
 持ち帰り、一握りの長さに刃物で切らずに折って
 煎じ、煎汁を何回も飲むと母乳が出るので有名と
 なり、乳房観音と呼ばれるようになった。
1、奉納された絵馬が堂の内外に31枚残る。木綿
 の乳房は昭和7年には柵、樹の枝、堂の内外に6
 00個もあった。
1、観音堂は鎌倉時代からあったらしいが、現在の
 堂は江戸末期の建築で間口三間、奥行三間半、格
 天井の96面のある鶴の絵は美濃国恵那郡の近藤
 助次郎の優れた作品。
1、お祭りは4月16・7日で遠近からの参拝者が
 多かった。
1、堂と絵馬は平成元年に村の補助金により、柵、
 堂、庫裏の大改修並びに環境整備を行なう。
   平成11年9月
     長野県教育委員会 生坂村教育委員会



立派な「乳房観音公孫樹」の石碑です

南側から

西側から

こちらは昭和の説明版です、幹周が7mとなっています


南側の路地から見上げました

では、平七社に行きましょう


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長野県大町市、美麻大塩「静の桜(大塩のイヌザクラ)」(県指定)です!!

2019-10-24 06:27:13 | 巨樹・大木
美麻大塩地区は、大町市役所の北東約5kmのところ

県道394号川口大町線を東へ登って行きます

県道497号線との交差点の東に「静の桜展望公園」が有ります

公園前道路脇に車を止めさせて頂きました




県道交差点の案内標柱です




公園入口です

公園の中央付近に目的の桜の巨木が在ります


長野県天然記念物 大塩のイヌザクラとなっています


北側から、弱ってしまっているようです

東側から

説明版です
  長野県天然記念物
    大塩のイヌザクラ
     昭和37年7月17日指定
 イヌザクラはバラ科・サクラ属の落葉
高木である。本州北部から四国・九州の
山地または丘陵地に自生し、本県では特
に木曽地方に多く見られる。
 太さの割に高さが低いのが特徴であり
、また全体に臭気がある。
 別名をキソザクラ、クソザクラ、ヘッ
ピリザクラなどと呼んでいる。
 この樹は、幹まわり8m余り、枝下3
mで四方に枝を伸ばし、太さの割に高さ
は20mにすぎず、イヌザクラのもつ特
徴を良く表している。
 このような巨木は他では見られないも
のであり、本県最大のものとして県天然
記念物に指定された。
 地元では、かつて静御前がこの地を通
つた時についてきた杖をここにさしたも
のが根づいたとし「静の桜」と呼んでい
る。
 おそらく、昔から霊木として大切にさ
れてきたために、このような伝説を生ん
だものであろう。
         長野県教育委員会

北アルプスと静のサクラの絵のこんな案内が有りました


前の道路脇に「高札」が有ります

高札の内容です

説明版です
 美麻村宝(歴史資料) 文化財指定第11号
  名称 高札(にせ金札・毒薬札)
説明 
 江戸時代に奉行名で、大塩の高札場に掲げられたもの。
○ 毒薬札は正徳元年5月(1711年)のもので、毒薬や
にせ薬の販売を禁止する。もし違反すれば、その罪は重
 い。にせ金銀の販売を停止する。すべてにせ物を造って
 はいけないなどが記載されている。
○ にせ金札は天保10年頃(1839)のもので。内容は
 近頃奥羽二国で、にせ金をつくって売り捌いた者が有る
ので、怪しいものがあれば申し出ること。褒美をくれる
 と言うもの。(ここに示した高札は復刻版である)

昭和54年9月3日  美麻村教育委員会

では、次へ行きましょう
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長野県大町市、美麻上の平「若栗のアオナシ」(市指定)です!!

2019-10-23 06:07:53 | 巨樹・大木
美麻上の平地区は、大町市役所の北東約6kmのところ

県道497号線の青木平で県道393号線を東へ

坂道を登り切ったところに広場が有ります

広場の北東側にアオナシの大木が在ります

広場の北側には高知彰徳神社が鎮座します

前に車を止めさせて頂きました





正面に大木が目に入ります

高知彰徳神社です

社殿です

前の広場(境内ではないようです)に大きな石碑が有ります

石碑の後にあるのが目的のアオナシの大木です

南側から

東側から

北側から、目通り幹囲4,2mの大木です

庚申塔もありました

では、次へ行きましょう
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長野県大町市、美麻二重宮村「水上神社の大杉」(市指定)です!!

2019-10-22 06:17:26 | 巨樹・大木
二重宮村地区は、大町市役所の北東約6kmのところ

県道394号線から県道497号美麻八坂線を北へ

宮下バス停近くで東へ入ると水上神社が鎮座します

境内入口から鳥居の脇を通って境内に車を止めることができました

参道入口です

水上神社です



参道鳥居です

目的の大杉です

説明版です
 美麻村宝(天然記念物)指定第2号
   名称 水上神社の大杉
説明
 杉の木は山地にはえる日本特産のスギ科の
常緑高木で幹は直立し、葉は針状で密生して
いる。材木は建築・造船・器具製造などに用
いられる。
 この大杉は和銅年間(127年前)に八王
子大明神として祭祀され、のち水上神社と改
めたがその御神木として植えられ成育したも
のと推定され、慶長年間(380年前)に一
度被雷し、根幹部に損傷あるも、直幹の太さ
、木の高さともよく杉の特色をあらわしてお
り、このような巨木は近隣にその比をみない
。(昭和44年県指定解除)
樹令 約750年 胴廻り7,5m余
高さ50m余
  昭和53年1月18日
         美麻村教育委員会

東側の石段から

北東側境内から

北側境内から見ました

西側から

舞殿です

もう一段高い所に拝殿です

本殿ですが覆屋の中なので良く見えませんね

本殿の説明版です
 美麻村宝(建造物)文化財指定第13号
  名称 水上神社本殿
説明
 この社は、和銅年間(710年前後)に
八王子大明神祭祀と伝えられ、棟札によれ
ば、この本殿は享保4年9月(1719年)
に大工頭棟梁清兵衛により再建となってい
る。規模は高さ3m80cm・建坪4,9
8㎡一間社流造りで、保存もよく、彫物が
見事である。
   昭和54年3月9日
         美麻村教育委員会
 

拝殿前から見下ろしました

水盤です

本殿東側の境内社です

こちらは下の境内の境内社です

出hあ、次へ行きましょう
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長野県大町市、美麻青具「旧中村家住宅」です!!

2019-10-21 06:26:35 | 文化財・寺社
美麻青具地区は、大町市役所の北北東約12kmのところ

県道31号長野大町線で山の中を辿って

県道33号線との交差点が「青具」信号です

信号の南西側に、国指定重要文化財旧中村家住宅が在ります

あいにく休館日でしたので、塀の外から撮影させて頂きました

車は門の前の駐車スペースに止める事が出来ました




旧中村家住宅です

納屋の様な建物ですが土蔵だそうです

文化財標柱です

説明版です
 国指定重要文化財
   旧中村家住宅 二棟
  平成9年12月3日指定
 主屋 桁行25,5m 梁間10,9m
    寄棟造 茅葺 南西隅もんぎち附属
 土蔵 土蔵造 桁行10,8m 梁間7,3m
    二階建 切妻造 茅葺 正背面軒柱付
 住宅の旧所有者である中村家は、江戸時代初めの
慶長19年(1614)に上方からここに来て帰農
定住したと伝えられ、初代彦右衛門は、慶安3年(
1650)の松本蕃の検地で持高12石5斗余の本
百姓となっている。二代目庄右衛門はそのころ青具
村の組頭をしており、ついで三代目佐五右衛門も正
徳二年(1712)に同村の庄屋に任ぜられ、以後
の代々もたびたび正屋など村役人を務め、当主まで
13代を数える。
 現在の主屋は、元禄11年(1698)3月、二
代目庄右衛門とその子佐五右衛門の代に、隣村千見
村真面の大工九平によって建立されたことが中村家
の年代記で、県内現存の建立年代が明確な民家では
最古である。また間口14間・奥行6間・建坪84
坪(約278㎡)の大きさは当時の民家としては屈
指である。栗・桂材を多用しているため、300年
の風雪にもよく耐えてきた。間取りは、間口の下手
半分が土間と馬屋で、土間の一部を土座(土間の上
に直接に茅・筵を敷いた床)とし、上手半分が居間
・寝間・客間に使われ、居間の床も建立後ほぼ35
年間は土座で、その後今のように板の間になった。
居間と客間の間や奥座敷の外側に一間幅の「ゆりか
」(入側のなまり)がついたり、奥座敷の床の間が
妻側を向くのは古い形式である。
 土蔵hあ、安永9年(1780)3月、六代目武
左衛門運備の代に隣村佐野村の大工政右衛門らによ
って建立されたことが、年代記・普請帳ならびに土
蔵入口の裏白と呼ばれる漆喰塗の防火戸の表に書か
れた墨書銘で明らかで、県内現存の建立年代が明確
な土蔵でへ古い方に属し、構造も素朴で古風である
。間口6間・奥行4間の建物で、栗の側柱を三尺間
隔に立て、外側は中塗り仕上げの土壁、内側は栗の
厚板の落し込み壁とする。屋根は置屋根で、その扠
首尻に軒支柱を立てて屋根の荷重を支えている。当
初は屋敷入口近くに主屋と向かい合って建てられた
が、昭和48年に道路拡幅のため現位置へ曳き移転
された。
 このように主屋・土蔵は民家建築上極めて貴重で
あるため、旧美麻村では中村家から敷地とともに譲
渡を受けて保存修復工事を行い、現状のように復元
整備された。今後は建物の保存と活用に一層心掛け
たいの願っている。
  平成18年3月    大町市教育委員会

では、次へ行きましょう



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富山県黒部市、宇奈月町明日「法福寺の明日の大桜」(県指定)です!!

2019-10-20 10:20:37 | 巨樹・大木

参道の仁王門が見えて来ます

仁王門です、明日山の額と新西国第十二番札所の札があります、車道は仁王門を避けて法幅寺境内まで続いています


仁王門脇のお地蔵様です

説明版です
  法福寺

  明日の大桜




登って来た参道が直角に左に曲がって境内です、駐車場は参道を上がって来た右側に有ります

お地蔵様が並びます

お地蔵様の後(東)側には用水路の分水施設のようです、池の中には弁天様でしょうか

鐘楼です

南側から

本堂です

本堂の東側に目的の大桜が在ります


南西側から近付いて見ました

西側から

文化財標柱です

説明版です
 



東側から

北東側から

南東側から

では、次へ行きましょう
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富山県魚津市、三ヶ「洞杉群」洞杉入口~出口です!!

2019-10-19 10:24:07 | 巨樹・大木
三ヶ地区は、魚津市役所の南東約18kmのところ

県道132号線を片貝川を遡ります

片貝川第二発電所を過ぎて、県道を右に外れてしばらく行くと

広い駐車場の有る所で先は通行禁止になっています

ここに車を置いて歩いて行きましょう、洞杉群までは2,5kmとなっています

林道を辿って洞杉群入口まで来ました


広場の説明版を確認しましょう

洞杉群の説明版です

案内板です

洞杉群への入口です、最大洞杉口から行きましょう

先ずは擬木の階段を登ります

木道の入口には熊除けの鐘が在りますので、派手に鳴らしました

木道は平ではないので注意しましょう

突然正面に大きな洞杉が

左に回り込むように木道を進むと大岩の上に載っているのが解かります

最大の洞杉です

東側に回り込みます

幹の一部分です

岩の上に載った部分です


更に奥へ行きます

こちらの洞杉も岩の上に載っています

左に回り込みます

次の洞杉です

木道が下りになりました

左手の藪の中にも数本の洞杉の幹が見えます

藪の中ですので幹の大きさは確認できません

木道右手の洞杉です

回り込んできました

大岩の上に載っています、これでお終いのようです

木道を進みます

岩の間を抜けて

小さな沢を超えると

出口です

洞杉群入口へ出て来ました

では、林道を戻り、次へ行きましょう

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富山県魚津市、三ヶ「洞杉群」南又谷駐車場~洞杉群入口までです!!

2019-10-18 06:23:07 | 巨樹・大木
三ヶ地区は、魚津市役所の南東約18kmのところ

県道132号線を片貝川を遡ります

片貝川第二発電所を過ぎて、県道を右に外れてしばらく行くと

広い駐車場の有る所で先は通行禁止になっています

ここに車を置いて歩いて行きましょう、洞杉群までは2,5kmとなっています

ここから先は通行止めです


トイレの有る広い南又谷駐車場です

案内板を確認しましょう

舗装された快適な林道を歩きます

分かれ道も舗装された方へ、洞杉の案内板もあります

橋が見えて来ます

小沢谷橋です

砂防ダムを勢い良く水が落ちています

左から水が出ているようです

林道わきにモリアオガエルの案内板が有ります、足元の泥濘に注意です

道路脇の杉の大木です

また橋を渡ります

蛇石橋です

蛇石入口です、杉の大木が在ります

龍石(蛇石)説明版です
 片貝川の龍石(蛇石)の由来





龍石祠です

祠は龍石神社です

説明版です
  龍石神社創祀

  御祭神


龍石(蛇石)を見に行きましょう

河原がすぐそこです

河原に出ます

龍石(蛇石)です

特徴的な、岩脈の入った岩です

持参していたサーモスと比較しても、あまり大きくありません

洪水のような水流でも流されないのは、土砂に埋まった部分が大きいのかもしれませんね


洞杉までは後1,4kmです

行きましょう、洞杉まで1,3kmです

またまた橋です

大又橋です

沢の流れは急です

カーブのところの岩の上に大きな洞杉が在ります

沢に架かる橋の上から見ました、目通り幹囲約6,0mだそうです

これが橋ですが、今は使われていないようです

橋の上から沢の上流を見ました、雨が続いて流れが急に成っている様です

上流側林道から岩の上の洞杉を見ました


南又林道1号線入り口の分岐です

洞杉エリア自然観察路ルート図です、洞杉入口まで500mです

急な林道を進みます、アブが沢山飛んでいます(夏の時期には虫よけ必携です)

洞杉群入口の「広場の洞杉」が見えて来ました、目通り幹囲約11,0mの杉です

林道奥側から見ました


洞杉群への入り口です

長く成りましたので、明日に続きます
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石川県羽咋市、飯山町「飯山神社のスダジイ」です!!

2019-10-17 06:18:55 | 巨樹・大木
飯山地区は、羽咋市役所の東約5kmのところ

国道159号線に出て北へ進み邑知小学校前をスギ飯山川を渡り

最初の変形十字路を右(東)へ坂道を登って行きます

正面に飯山神社が西向きに鎮座します

境内入口前には、かつての邑知町役場跡が広場になっています

石段の上に大きな関井が有ります

説明書きが有ります
 邑知町歴代町村長
  初代   梅野栄吉
  二代   山本九左衛門
  三代   浜田正栄
  四代   浅野茂昭
  五代   畑中栄松
  六代   福田要吉
 古代わが邑知の里は、四千年にさかのぼる中川縄文遺跡
をはじめ、福水圓山古墳群などが物語るように祖先開創の
ところで、千年の昔、源瞋が著す「倭名類聚鈔」に既に、
邑知郷と記録されているのが、わがふるさとの地なのであ
ります。源平の古戦場と伝える戦場ヶ端の一角に立てば、
七十五ヶ村と称せられた邑知平野が展開します。
 邑知潟新開の吉野彦助をはじめとする、先覚者によって
開発された、この広大な平野の美田は現代に引き継がれ、
いま新たに大型圃場整備事業の実施によって、より高度に
郷土の生活を向上あせようとしています。
 降って明治政府の創立により、北邑知、中邑知、若部の
三村を誕生させましたが、教育面では飯山高等小学校を軸
として、三村融合の実を挙げてきたのであります。
 昭和8年5月15日、全ての利害を超えて新たな邑知村
が発足以来二十三年、その間、世相の変遷に伴う哀歓や苦
楽を共にしつつも、常にこの役場は邑知人士の大きな拠り
所としての役割を果たしてきたのであります。
 昭和31年9月30日、国の大方針に従って二町二村の
大同合併が行なわれて新生邑知町は新町発展の過程の中に
その名を消してしまいました。
 昭和33年7月1日、羽咋市となってから早や市制二十
周年を迎えるに当り、その記念事業の一環として、邑知地
区民と郷党出身各位の協力により、かつての邑知町役場玄
関の位置にこの碑を建立し、邑知町役場、の名を掲げ以て
邑知人士の和合と将来の団結発展への道標たらしめようと
するものであります。

ここに車を止めさせて頂きました


境内入口の鳥居です

随身門です

長い石段を上ります

手水舎です

参道右手に注連縄の巻かれた御神木が目的のスダジイです

参道から大きな石灯篭の蔭にスダジイです

参道から離れて見ました北東側から

拝殿脇東側から、目通り幹囲5,0mの巨木です

狛犬です

拝殿です

拝殿の屋根には虎の様です

本殿は覆屋の中です

本殿後方にはケヤキの大木です

境内端のケヤキの大木です

境内社です

では、次へ行きましょう

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