天宮神社は、森町役場の北東約1kmの岡の上に鎮座します
役場前の道を東へ、森小学校東側の道路を北へ進むと
天宮神社の参道石段前に出ました
石段前の道路脇に
車を止めさせて頂きました
参道入口です
縣社 天宮神社です
説明版です
天宮(あめのみや)神社
祭神 田心姫命 たごりひめのみこと
瑞津姫命 たぎつひめのみこと
市杵姫命 いちきしまひめのみこと
由緒 当社の創始は、社伝によれば欽明天皇(509~571)の御代に、筑紫の国から宗像三神を勧請し祀った勅願所で、舞楽十二段は文武天皇の慶雲2年(705)京から中村連綾足が神主として着任して奉納したと伝えられ(中村乗高「社伝系伝抜書」)以来今日まで伝承されてきた。舞楽は左の舞(唐楽・小国神社)と右の舞(高麗楽・天宮神社)で一対をなし、共に国指定の重要無形民俗文化財となっている。
相殿には熊野神、素戔男命、大己貴命が祀られており、御神木竹柏(なぎ)の大樹は熊野信仰との関係が考えられる、県指定天然記念物である。
旧社領は五百石であったが、時代の流れにより後に百五十石となり後に五十石となる。
現在の社殿は元禄10年(1697)12月、徳川綱吉公の造営で大棟梁は甲良宗賀、奉行は横須賀城主の西尾忠成公であった。本殿及び拝殿は県指定文化財である。
境内に残る神宮寺(古は梵台院)の建物は、神仏習合時代の名残である。
因みに境内一帯は、縄文時代中期から中・近世に至るまでの遺跡で多くの石器・土器・社殿の瓦などを出土している。
例大祭 4月の第一土・日曜日.
境内案内図を確認しましょう
石段を上がると直ぐに案内板が有ります、平成30年9月30日の台風24号で倒壊した一の鳥居が有った所です、その他に境内の木々60本以上に倒木の被害が有った災害復旧の寄付の御願いです
二の鳥居です
すぐ先の右手に天宮神社稲荷社があります
稲荷社の祠です
参道石段を上がって来ました
手水舎です
舞殿です
拝殿です
幣殿です
本殿です
説明版です
県指定文化財
昭和31年5月24日指定
天宮神社本殿・拝殿及び棟札
天宮神社は、由緒書によれば人皇29代欽明天皇の御代筑紫国宗像三神を勧請し、文武天皇慶雲2年(705)に社殿を造営したと伝えられ、同国一宮小國神社とは金胎両部(密教用語で金剛界・胎蔵界)の一社であるという。
社殿(本殿・拝殿)の造営は、天正17年(1589)に徳川家康が寺田右京亮を奉行となし、幕下棟梁福島新左衛門・一宮大工高木五郎左衛門父子によって完成した。
(高木家文書)その後、徳川家光霊屋をはじめ信州善光寺等を手掛けた名匠で、近世日本建築史上特筆される人物であり、元禄10年の修造に当たっては、小國神社修造にも同様に携わったが明治の火災によって焼失し、数少ない匠の足跡を当社によって伺い知ることができる。
本殿 檜皮葺、三間社流造り 間口4.2m 奥行2.7m
内部は外陣内陣に分かれ、内陣は三室三座に仕切られている。蟇股も用いず木鼻なども型を守り、妻飾も虹梁扠首組で古式を重んじ簡素で和様色が強い。
拝殿 桟瓦葺、入母屋造り 間口5.5m 奥行9.0m
廻縁が付き内部には仕切りはない、本殿と同時の造営と言われる。
棟札 栂材で厚さ1.8cm長さ110.5cmである。
森町教育委員会
森町文化財保存会
天宮神社の新しい説明板です、御祭神に関して詳しく書かれています
ナギの木への案内板です
拝殿東側に目的のナギノキです
南西側から
説明版と御神木指定証です
県指定文化財
昭和29年1月30日指定
天宮神社のナギ
樹高は18m、枝張り9m、樹齢一千年余、といわれる御神木で天宮神社が代29代欽明天皇の御代に九州の宗像神社の神霊を迎え大氏神として祀ったのを紀念して本宮から苗木を持参してここに植えたものと伝えられる。
ナギ(竹柏)はマキ科の常緑林で、本州南部以南に分布し高さ20mにもなる。この木は雄株で、花期は6月、種子は10月に熟して10~15mmの球形となる。庭木にもするが、材は家材として使われ、樹皮からはタンニンがとれる。
森町教育委員会
森町文化財保存会
東側から、目通り幹囲4.0mの大木です
北側から、大きな幹に傷がはいり幹の内部が洞になっています
西側から
ナギの案内が他にもあります
ナギの南側に天宮神社末社です
ナギの東側の井戸は天宮神社の元水源の天之真名井です.
ナギの北側の多賀社です
拝殿西側の若いナギは雌木です
境内西側駐車場前に大壇石塔です
すぐ先に女陰石です
説明版
山郷地蔵山の大壇石塔と女陰石
山郷地蔵山(当所の西約300mの地点にあった)は、この地域の祭祀の場で、黒山ノ一宮本宮山を北方に望む聖地空間の中心であり、この山が、水分の神(雨乞いの・止雨をおがむ神)を拝する場所でもあった。天宮神社(小國神社と金胎両部の関係)は、九州宗像三女神(海上安全)を祀る神社で、水運(太田川の船行と天宮の津)の安全を祈る神として知られ、大きくみれば、両者の信仰は、水のもたらす農業の豊穣や交易の繁栄を祈ることを根底とした宮の祭りであった。
この大壇の石塔(遠江国の)と如意宝珠石(女陰石)は一対をなくすもので、江戸初期に構奉された万物成就の造形的遺物である。陰と陽の交わりは、生命の存続であり、人間社会は勿論、全ての生物の原点である。古代には、粒は米粒のことであり、つまりは陰核を意味し、「御飯粒を粗末にすると目が潰れる」といった。また「菩薩様(小國鹿園菩薩・天宮菩薩)に嫌われると生きていることが出来ない」などといわれ、粒は、天宮神社の神であり仏(菩薩)であった。こうした意味からも、この男根を模した石塔と女陰石の交わりによって生まれる、田圃の米と世継ぎの子供は全く尊いものであり、日本人の社会の源であることが理解されるものである。
大壇と男根状石塔及ぶ女陰石は、山郷地蔵山が開発によって消滅したのでここに移祭したものであるが、当初に設定したことには大きな意味がある。それは、4月のい「法事」(例祭)に神輿(神体)が奥宮(本殿)から下って御旅所に神幸するが、この時、この男根状石塔の陰刻仏大日如来(天宮菩薩)と天宮の神が東西に並び、神仏の融合がはかられる、これによって万物の豊穣が祈願され、「法事」いわれる舞楽法会の本来の意味が理解されるのである。
大壇は山郷地蔵山に存在した山郷一号墳(天宮祭祀の豪族の墓か)の石室の石(天宮砂岩で太田川流域の多くに用いられている)をもって大壇保全のために再利用したものである。天宮砂岩は、近世にいたるまで石塔などに用いられた原材料で、天宮の津から栰などで太田川を流し、各所に運ばれたようである。
なお、この移築作業については、塚本建設株式会社のご支援をいただいたものである。
平成10年2月24日
森町教育委員会
意味深いですね~
では、次へ行きましょう