会津平野のど真ん中に、かつて巨大な城が有りました
それが、神指城です
蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年会津の領主となった
上杉景勝が、重臣の直江兼継に命じて築城させた城です、
慶長5年3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったといわれています、
縄張は、本丸と二の丸からなる連郭式平城で、それぞれ壕と土塁が取り囲む構造になって
いました、このような形の縄張りを持つ城は、山形県の米沢城が代表的です。
面積は本丸だけでも56千m2、二の丸を含めた全域で50万m2もあり、会津若松の鶴ヶ
城をはるかに凌ぐ規模の壮大な城でした、欅の木のある土塁跡は、二の丸の北東隅に当た
ります。
この土地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の南東隅に位置し城や城下
町の拡張が難しかったのに対して、盆地の中心の平坦地で、築城地として適していたため
と考えられています。
しかし、建築半ばであった神指城も、徳川家康の会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化
により、工事は中断されます、そして、関が原の合戦後の慶長6年には、上杉家は米沢3
0万石に転封となって、神指城は完成を見ないまま廃城と成りました。
このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
昭和22年に、米軍機の空中写真に、四角い形で土塁がまだ残されていたことが確認でき
ます、現在その大部分が失われてしまっていることは、残念です。
本丸跡も車で一回りしましたが、
本丸跡も土塁が確りしていますが、
見るに耐えない状態になっています
(翌日、武家屋敷の売店で若松市の観光課の人たちが
会津観光のアンケートを録っていましたので
神指城が観光地では無いことと、発掘、復元、再開発を依頼しました)
大きなケヤキのある所は、城の北東の端です
米軍の航空写真のような
城の全体が見たいものです