ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県神栖市、息栖「東国三社・息栖神社」です!!

2024-12-16 06:30:37 | 文化財・寺社
 ここからは2024年12月12日の取材分です

 息栖地区は、神栖市役所の西約4kmのところ

 神栖市役所南側の国道124号線を西北西へ向かいます、約900mでガソリンスタンドの手前を左(南西)へ入ります

 約1.9kmの交差点を右(西北西)へ、約1.6kmで一時停止を斜め右(北西)へ、県道260号神栖外環道です

 約500mで左手に「東国三社 息栖神社」の案内板がありますので信号を左(南西)へ入ります

 左手は息栖神社の境内地です、約200mで左手の案内板を左に入ると「ニノ鳥居」前の駐車場です 

 参道のニノ鳥居です

 振り返ると道路の先に一の鳥居は常陸利根川に面して建っています

 東国三社息栖神社社號標です

 水郷筑波国定公園特別地域説明版です
 自然の景観と環境を保護するために、この区域は、自然公園法に基づく「特別地域」に指定されています。
 特別地域内で、工作物の設置や木竹の伐採、指定植物の採取など、景観や自然生態系に影響を与えるような行為を行う場合には、県知事の許可が必要となります。
 自然保護と環境美化のため、皆様のご協力をお願いいたします。
   水郷筑波国定公園指定植物一覧(34科124種)  昭和56年3月23日告示
     以下略ですが、ランなどの草本類が多数を占めています

 境内案内図です

 参道右手に昭和39年7月の息栖神社造営碑です

 説明版です
   息栖神社
 息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を大同2年、右大臣藤原内麿の命に依り、現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
 史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑條、授常陸国 正六位上於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは、息栖神社の事とされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)
 古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
 祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
 江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関蓮を物語っていると思われる。
 社殿は享保元年に建替えられたたが、それが昭和35年10月消失し、昭和38年5月に新たに完成した。
 末社(高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮)
      中略
    令和5年3月  神栖市教育委員会

 鳥居を入ると左手には稲荷神社です

 石燈籠の並ぶ参道を進みます

 手水舎です

 説明版です
   息栖神社の由緒について
 息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし、天鳥船・住吉三神を相殿の神として祀られており、古くから国史にも見え(三代実録に書かれてある於岐都説神社)がいまの息栖神社です。
 鹿島・香取・両神宮と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社です。
 岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御麗格の高い神で、鹿島・香取の大神と共にその先頭に立たれ国土の経営にあたられた。
 天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護の御霊格が高く、古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。
 (住吉三神)は海上守護・漁業関係の御霊格が高い三柱の神様である。
 このように五柱の神々を祀られているので、古くは息栖五所明神とも称された。
    以下略

 神門です

 説明書きです
   おきすの津(港)と碇
  大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ   (柿本人麿)
  今よりはぬさとりまつる船人の 香取の沖のに 風向うなり (藤原家隆)
 広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)とよばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
 徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷地帯・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。
 これらの長距離輸送には、当然大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。
 この碇はそうした祈りを込めて、息栖の神に献納された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。
 けらども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と坂東(関東)との間にたって、物資輸送に励まれた船人の、遠い昔を偲ぶ手掛かりとなっている。
     *帆柱ぞみをつくしなる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)
          神栖市教育委員会

 参道左には

 力石と

 芭蕉の句碑です

 参道右手に境内社(説明版の末社)が並んでいます、左に4社合祀(鹿嶋神社・伊邪那岐神社・高房神社・奥宮)と右に5社合祀(香取神社・手子后神社・八龍神社・江神社・若宮)で祀られています

 石碑が並びます、新し石碑には「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる 」の藤原時朝の歌です

 更に東側に歌碑です、右側に諦如法師、左に稱佛法師の歌が彫られています

 説明版です
   息栖ゆかりの歌碑
 鎌倉時代に編さんされた「新和歌集」(藤原為氏撰)の中には、息栖周辺を詠んだ歌が収められています。
 その歌の表題は、「藤原時朝、鹿島のおきす社にまいりて彼社僧に十首歌すヽめ待ちける」とあり、次の歌は、そのうちの一首です。
   *海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきは心なりけり  理然法師(息栖神宮寺僧)
 なお「息栖の歌」とは別に「新和歌集」には、渡り鳥「ほととぎす」の歌があります。
 この三つの和歌は、藤原時朝が、鹿島詣での際、歌仲間と船中で十首詠んだうちの三首です。
   *鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる         藤原時朝
   *われのみを待ちつる暮を郭公(ほととぎす)またたか為に鳴てすくらん  諦如法師
   *里とをき山のすそのヽほととぎすたか為になく初音成らむ        稱佛法師
 ☆新和歌集十巻
 和歌。鎌倉時代に藤原為氏の撰した私撰集。「新式和歌集」「宇都宮打聞新式和歌集」ともいわれ、正嘉2年(1258)11月1日から正元元年(1259)8月15日前後までの間に生立したといわれています。
 ☆藤原時朝(笠間時朝)
 鎌倉時代の歌人で、勅撰集にも選ばれており、三十三間堂をはじめ、各地の寺院に奉仏、納経をしています。
 また、常陸国笠間荘の領主となり笠間氏を称し、初代笠間城主となりました。
     平成15年3月   神栖市教育委員会・神栖市歴史民俗資料館

 拝殿です


 本殿です

 拝殿北側には、旧社殿で使われていた礎石です

 次は、境内の木々を見て行きましょう





 2024・12・12・07・10
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岩手県宮古市、山口第4地割「黒森神社」(市指定文化財)です!!

2024-11-16 12:36:35 | 文化財・寺社
 山口第4地割地区は、宮古市役所の北役3kmのところ

 宮古市役所南側の国道106号線を東へ、約1.1kmの「築地」信号を斜め右(東南東)の久慈方面へ、国道45号線です

 道成りに国道45号線を約2.9kmで「三陸道⇒」の標識に従って、宮古病院前の信号を右(東)へ

 右にカーブして国道45号線の上を越えて、約1.3kmで「左折先 幅員狭小 大型車通行不能」の看板を左(東へ)に入ります

 すぐ先約100mの交差点を左(北)へ、先ほど通った道路の下をくぐって道成りに坂道をのぼって行きます

 
 約500mで説明版です
   黒森山案内図
 解説(1)
 黒森山は神奈備系神体山(低山・優美・分水嶺)で、二千年前から、閉伊全域の信仰の対象とされて来た山である。
 平安~鎌倉期に神仏習合の影響をうけ、本地仏聖観音として定着し、人の世の苦難救済の本願所となった。
 室町期にその権現として獅子頭が奉納され、農閑期には毎年豊作を祈念して村々を巡業した。
 現在二十数頭の獅子頭が保存(大半が県指定有形文化財)されていることは全国的にも珍しい。
 元文4年(1739年)迄は、文字通り黒森で、直径1m~4mの巨杉巨松等が百数十本あった。
 義経・弁慶主従が黒森の滝で三年三月の行をした伝承もこのあたりから生まれたものであろう。
 真言密教の祈願社として南部藩主から篤く崇敬されてきた。
   岩手県指定有形文化財  獅子頭(権現さま)16頭 昭和58年12月13日指定
   岩手県文化財指定    黒森神楽         昭和62年 3月   指定
   宮古市指定文化財    黒森神社本殿       平成 2年 7月19日指定
 解説(2)
 黒森山内図は、資料に基き(一部伝承)作製したものである。
 黒森山は、旧参道を登り、いたこ石から「古黒森」に至る道中が素晴らしい。
 「古黒森」は、黒森祭神の始まりの場で、古墳と推定される。後年御本殿旧殿跡、現社殿へと移転した。
 現社殿は、嘉永3年(1850年)の建立。
 記号1、坂井戸で口を漱ぎ、2、いたこ石(結界石)より先が神域(女人禁制となる)
 (イ)観音堂(ロ)御本社跡(古黒森より移転)(ハ)鐘楼(二)本殿(移転三度目)(ホ)コリュウシンノウ堂(へ)稲荷堂(ト)不動明王堂(チ)薬師堂(薬師水)(リ)千年杉跡(ヌ)護摩堂(ル)白山堂(ヲ)祖母杉(ワ)藩公腰掛石(カ)蚊龍の滝跡(ヨ)祖父杉(タ)一本杉跡
     平成3年6月吉日

 左の道を進みます

 約300m「黒森神社前」の広い駐車場にはいりました

 黒森神社入口です

 説明版です
   三陸ジオパーク
     黒森神社  漁業・交易の守り神
 黒森神社のある黒森山は、宮古湾を航行する漁業者などの目印ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として漁業者や地域の人々の信仰を集めてきました。
 ここに伝わる黒森神楽は、正月になると巡業し、祈禱の舞を演じます。
 社殿は、平成2年(1990)に市の有形文化財、神楽は、平成18年(2006)に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

 祠の中に「いたこ石」です

 祠の右脇に説明版です
   イタコ石
 当時、黒森神社は女人禁制のお山であった。
 何処よりか行脚の巫女来り、女人禁制の当山に登ろうとす。
 麓より銭橋をかけて登りしが、村人その下山の遅きを怪みて尋ねしに、このいたこ石の所にて銭橋絶え、草履を残して行方不明となりしかば、村人憐みてこ処に石碑を建立せしものなりと。
 ●慶安3年(1651年)造立。
 ●1尺8寸の石碑、文字などは流れて見えず。
 ●銭橋、道に銭をしきて渡ること。
 ●旧道峠より昭和50年移す。
 ●平成6年5月吉日、祠を建てる。

 説明版です
   黒森山環境緑地保全地域
 「地形・地質」 この地域は、山口川の一・・水系に属し、やや樹枝状の水系パターンを示し、地形的にはやや急峻で、壮年期に属する小起伏山地を示す。
 地質的には、宮古花崗岩体に属しする閃雲花崗閃緑岩より成るが、全般に著しく風化が進んでいる。
 「植生」 この地域は、スギ・モミ・カヤの大木からなる神社林と11年生から33年生までのスギを主体としたアカマツ・カラマツの人工造林に覆われ、所々にモミの群生がある。
 特にモミが自生化し、わが国の太平洋側における北限となている。
 「野生動物」この地域には、哺乳類では、特別天然記念物のニホンカモシカをはじめ、ホンドキツネ・ホンドタヌキ・ホンドテン等。
 鳥類では、ヒガラ・コゲラ・キジバト・ホオジロ・ウグイス・ホトトギス等。
 昆虫類では、ダビドサナエ等数多くの種類がせいそくしている。(ダビドサナエとは、小型のトンボで、日本特産種であり,本州・四国・九州に分布する)
 「歴史的遺構」 黒森山は、古くは深山幽谷の観を呈しており、閉伊一円の人々から親しまれ崇敬されてきた霊場であった。
 現在、黒森神社にある金石文には建武元年の鉄鉢、貞治元年の梵鐘、文明17年の獅子頭等があり、この神社が古く由緒ある社寺であることを物語っている。
 「保全」 この地域で、一定規模以上の行為(建物その他の工作物の建築、宅地造成その他の土地の形質変更、鉱物土石の採取、水面の埋立干拓、木材の伐採)を行う場合は、その旨をあらかじめ(30日前までに)市役所を経由し、岩手県知事に届け出なけらばなりません。
       昭和60年1月18日指定   岩手県

 参道を進みます

 鳥居です、三ノ鳥居でしょうか

  手水鉢です

 境内東側に神楽殿です

 拝殿前です

 前の本殿跡です

 拝殿です

 本殿です

 有形文化財標柱です

 説明版です
   宮古市指定有形文化財(建造物) 平成2年7月19日 指定
     黒森神社本殿
       年代 江戸時代 嘉永3(1850)年
 黒森神社を擁する黒森山(標高310m)は、かつて一山が巨木に覆われ、鬱蒼として昼なお暗い山であったと言われています。
 黒森山は宮古湾で漁をしたり、航海する際の「当て山」(目当て)となったことから、旧盛岡藩閉伊郡の中でも代表的な神社として信仰を集めました。
 黒森神社は、「黒森山大権現社」「黒森観音」などと呼ばれ、地元の修験者(山伏)が修行する神仏習合の霊山でもありました。
 黒森神社の権現様(獅子頭)を奉持して巡行を行う、黒森神楽(国指定重要無形民俗文化財)は、この本殿前で神おろしの権現舞を舞って旅立ちます。
 現在の本殿は、嘉永3年に再興されたもので、「黒森山御普請始終之留」(市指定文化財)によると、本殿の造営は、宮古代官所が主体となり、江戸の廻船問屋や宮古・鍬ヶ崎の漁業関係者、管内の村々から金品が寄進されたことがわかります。
 精巧で堂々とした造りに美麗な彫刻を施し、当地方でも随一の歴史的建築物と言えます。
          平成21年9月1日    宮古市教育委員会

 山神社です

 本殿西側の白山堂です

 稲荷神社(稲荷堂)です

 境内社が並びます

 お不動さま(不動明王堂)です

 薬師堂です

 薬師堂の前には薬師水です、
 薬師の水は、祖父杉・祖母杉を源としている。往古山伏の禊の滝(蚊竜の滝)があったと伝えられ、現在に至るまで、薬師水(アルカリ性)として愛されています。

 長く成ってしまいましたので続きとさせて頂きます、次は「黒森神社のカヤとモミ」です



 2024・10・18・08・10

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宮城県気仙沼市、赤岩上羽田「羽田神社」です!!

2024-11-03 18:45:47 | 文化財・寺社
 赤岩上羽田地区は、気仙沼市役所の南西約10kmのところ

 気仙沼市役所前の県道26号線を西南西へ出ます

 道成りに約1.9kmで「リアス・アーク美術館⇒」の標識に従って横断歩道橋のある信号を右(西南西)へ

 約1kmで国道45号の交差点を過ぎると県道65号線です

 道成りに坂道を緩く登って行った約6、3kmで道路右手に「羽田神社」の案内板がありますので右(西北西)へ入ります

 約700mの交差点で左(西)へ、ここにも案内板があります

 約200m左に廻り込む様に進んだところの案内板を右(西)へ

 坂道を上って鳥居前です

「羽田神社」社務所前の駐車場の入りました
 *2023年6月11日取材の最後に寄りましたが、強い雨の為取材を諦めて埼玉に帰ったのでリベンジの機会となりました

 羽田神社社號標です

 手水舎です
 
 神輿舎です

 大きな社務所です

 社務所前の案内図です、山頂を廻るお山がけコースがあるようですが祭典日以外は登れないため、今回は目的の社殿前の杉までです
   羽田神社お山がけ
     重要無形民俗文化財
 平成12年12月27日文部科学大臣より重要無形民俗文化財に指定され同時に官報に掲載された。
 *お山がけ道程 総計2130m、お山がけ祭典旧8月15・16日、祭典日以外登れません
 *毎年旧暦の8月15日は中秋の名月(十五夜)です。2024年の中秋の名月は9月17日(火)でした

 羽田神社の由緒とお山がけ説明石碑です
   羽田神社とお山がけ
 羽田神社創建の年代は詳らかではないが、今から凡そ1300年前奈良時代開創になるものといわれている。
 その後、平安時代大同元年(806)、田村将軍利成卿により再建され、二柱の神霊を羽田山に安置して、住民の平安を祈ったといわれるが、300年近く経過するうち荒廃し、建久3年(1192)豊後の住人豊後守緒方維義が再興された。
 祭神は月読命・倉稲魂命・大己貴命を祀り、もとは波多権現・羽田山大権現と称し、本吉北方の総鎮守として尊崇された。
 お山がけは、何時頃始まったか不詳であるが、7歳男子の息災成長を祈る祭りである。
 当日(旧8月15日・16日)7歳児は、白い浄衣に鉢巻をしめ、御注連をかけ新しい竹の杖をつき、1合目の祓川で身を清め、険しい坂道を登り途中早馬神社他を巡拝しながら10合目奥の院に至る(約1時間)、奥の院では、神主を先頭にお鉢廻り(周回)を3回廻った後、祈願を行う。
 この登拝には、あまさを断ちきるため、親子の同行を許さず、父親以外の人が付き添う。
 女人の登拝は禁制で、7歳女子の祈願は拝殿にて行う。
 下山後は、各家に於いて親族・近隣が集い祝宴が催されろ。
       羽田神社 宮司  尾形公夫

 一ノ鳥居を潜ります

 東南東向きの急な参道石段を進みます

 ニノ鳥居です

 平成15年の三陸南地震被害復興工事の竣工記念碑です
     竣工記念碑
 平成15年5月26日三陸南地震により、境内亀裂  参道石段の損壊被災。
 災害改修奉賛会を結成、之を修復竣工を後世に伝える。
   工事費一金 19711000円也
   奉参者 氏子崇敬者 1074件
      平成16年11月 吉日  羽田神社三陸南地震災害改修奉参会  

 綺麗な御影石の石段ですが、少し段差が大きいのが気に成りました

 神門が見えて来ます

 神門です

 右側には天王社です

 左側には水神社です

 水神社の南側には馬頭観世音の石碑や供養塔などが並んでいます

 赤い実は、テンナンショウの実ですね

 更に参道石段を上ると社殿が見えます

 社殿です

 長く成りそうなので、続きとさせて頂きます<m(__)m>


 
 2024・10・16・09・20
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宮城県南三陸町、入谷水口沢「入谷八幡神社」です!!

2024-11-01 06:48:00 | 文化財・寺社
 入谷水口沢地区は、南三陸町役場の北西約6kmのところ

 南三陸町役場西側の道路を北北東へ、約400mで左(西北西)へ、道成りに進みます

 約2.1kmで信号を右(北北西)へ、国道398号線です

 約3.5kmで入谷区民館の案内板のある信号を右(北東)へ

 約300mで斜め右の「入谷八幡神社」の門柱の間を北へ入ります

 正面に石段が見えますので、石段前を右から回り込む様に坂道を上がると


 広い駐車場(元入谷中学校の校庭)の北側に鳥居が見えます

 一ノ鳥居は石鳥居です、体育館と公民館の間が入谷八幡神社の参道になっています

 ここから前回の続きです

 八幡神社のお詣りしましょう

 中段の左手に手水舎です

  東向きに稲荷神社です

 右手奥に西向きに御堂です

 説明版です
   八幡神社由来   創立年月日  白鳳年間
 白鳳年間の創杞と伝ふ、文治4年源義経奥州に下りし時、祈願成就の御礼として醍醐山凰恩院に御使者を遣わし、男山八幡宮より空海御自筆の額1面、金の幣3本、平安城の刀1振りを奉り、長継坊萬福という僧御下向勧請したもので、当時八幡山萬福院と号した(文治5年閏4月28日と記し奉納)。
 その後、天正年中兵のため焼失を恐れ、辰巳の方ひ小社を建て、百姓阿部と言うもの一時移し奉り、今ここを元八幡と云ふ。
 中古兵火のため焼失したが空海自筆額1面を存し、霊元天皇寛文4辰年領主中村出雲社殿を造営、社領を献じ、後、宝暦2年、法印興静社殿境内を修築、伊達家の尊崇篤く、社領を献じ、近隣郷の民尊崇の中心となり、明治42年境内整備維持方確定共進指定社となる。
 昭和20年11月3日社殿(拝殿・幣殿)を改築す。
     八幡神社御祭神  誉田別命・足仲彦命・気長足姫命
       昭和61年10月 吉日

 さらに石段を上がります

 三ノ鳥居です

 石灯籠の台石でしょうか、拝殿はもう一段上です

 拝殿です

 本殿覆い屋です
 
 拝殿前には「ゆめ多幸鎮 オクトパス君」です

 説明版です
     合格祈願
   ゆめ多幸鎮「オクトパス君」
 平成23年3月11日発生した東北地方太平洋沖地震と、その直後に発生した大津波は、たくさんの尊い命を奪い去り、生涯忘れることのできない大惨事となりました。
 その一方で、全国の多くの方々からご支援や励ましをいただきました。中でも震災直後から継続的にご支援いただいた大正大学様から、この度、一日も早い復興を願ってブロンズ像の「オクトパス君」をゆめ多幸鎮として寄贈されました。
 南三陸町は、水産物が豊かで、西の明石・東の志津川と言われるほどのタコの名産地でもあります。
 「オクトパス君」は、そのタコをモチーフにした町の人気キャラクターです。
 机に「置くと」試験に「パス」するということから合格祈願の文鎮が有名ですが、タコは古来より縁起がよい生き物とされており、受験生及び地域に多くの幸が吸い付くよう願いが込められています。
 また、この「オクトパス君」を撫でてあげると、ご利益が増すと言われています。
    平成23年11月9日   南三陸復興ダコの会

 長く成ってしまいました、次へ行きましょう




 2024・10・15・14・30
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岩手県紫波町、二日町向山「源頼朝縁の走湯神社と高水寺」です!!

2024-10-23 06:35:04 | 文化財・寺社
 二日町向山地区は、紫波町役場の北東約2kmのところ

 志波町役場東側の道路を北へ出て、約100mの一時停止を右(東)へ進みます

 約300mのアンダーパスでJR東北本線・新幹線を越え、約600mで「⇐盛岡・国道4号線」の標識に従って左(北)へ

 約300mで左に勝源寺の逆ガシワ(国指定)を見て、すぐ先の「城山入口」信号を右(東)へ

 坂道を緩く上って約400m「吉兵衛舘跡⇒」の看板の先で左(北)へ、約700mで右手に

 立派な鳥居が有りますが高水寺です

 まずは、直ぐ北側の走湯神社から、鳥居です
 
 社號標です

 高水寺と走湯神社の吾妻鏡の説明版です
   二日町鹿踊発祥の地
     平泉、鎌倉、南部藩関連の神社
 今日(頼朝は)陣岡を発たれた。
 今まですでに7日間、ここに逗留された。
 ところで高水寺(こうすいじ)の鎮守は(伊豆の)走湯権現(そうとうごんげん)を勧請したものであるが、傍にもまた小さな社があり大道祖といった。
 これは(藤原)清衡が勧請したものである。
 この社の後に大きな槻の木があった。
 二品(源頼朝)はこの樹の下に立つと、走湯権現に奉納すると称して、上矢の鏑二つを射立てられた。
     文治5年(1189)9月11日   現代語訳 吾妻鏡より

 石段を上がって走湯神社の境内へ行ってみましょう

 手水舎です

 参道から左鍵の手に曲がって西向きに拝殿です

 本殿屋根です

 境内社の道祖社と稲荷神社の相殿です

 もう一つの境内社は諏訪神社です

 こちらは左から天満宮、八幡宮、八坂神社です

 庚申塔に金毘羅山、湯殿三山の石碑です

 南側の高水寺へ行ってみました

 石段を上がると宝物庫です

 本堂です

 説明版です
   岩手県指定文化財
     木造十一面観音立像
 「吾妻鏡」の文治5年(1189年)9月9日の記録によると、当時この地にあった高水寺には、称徳天皇の勅願になる1丈の観自在菩薩像が安置されていたという。
 この十一面観世音は、その後身と伝えられている。しかし、これに至るまでの経緯については定かでない。
 藤原末期の作と推定される一木造りの秀作で、昭和35年12月24日に岩手県の有形文化財に指定された。
 当国33番のうち7番の札所として、近郷の信仰を集めている。 

 では、次へ行きましょう


 

 2024・9・13・10・05

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岩手県花巻市、東和町谷内2区「丹内山神社の文化財」です!!

2024-10-13 12:35:02 | 文化財・寺社
 東和町谷内2区は、花巻市役所の東南東約16km、花巻市役所東和総合支所の南東約7kmの所です

 花巻市役所東和総合支所西側の県道43号線をJR釜石線の線路を潜って南西へ

 約300mで国道283号線(土沢バイパス)の信号を左(東南東)へ、遠野方面へ進みます

 道成りに約4kmで右(南西)へ猿ケ石川を上瀬橋で渡って直ぐ左(南東)へ

 約1.6kmで、道路右手に赤い「丹内山神社」の大鳥居(一ノ鳥居)です

 約1.1kmで「丹内山神社表参道」の石鳥居(ニノ鳥居)が有りますが車で神社まで行けるようなので行ってみましょう

 約400mで丹内山神社前の駐車場に入りました、参拝客の車が数台止まっています


 西向きに参道入口です

 参拝案内です、参拝順路が記されていますが、逆に回ってしまいそうです

 「じい杉の根」があります

 ここからが前回「丹内山神社じい杉の根」の続きです

 境内社は、左から安産神・疱瘡神と、木の陰になって雲南神の祠です

 弓場石です、源義家がこの石の上で弓を射た場所跡とされています

 参道右手に境内社は、八幡社と賀茂神社の二社一棟造りです
 八幡神社、康平5年・1062年に八幡太郎(源)義家が勧請したものと賀茂神社・加茂次郎(源)義綱(義家の弟)が勧請したものです、源頼義(義家・義綱の父)が東征の際に宿陣し、朝敵追討を祈願したと伝えられています

 石段を上がります

 玉垣の中央に「肌石」です、丹内山神社七不思議、その3、肌石には昔から、雪が積もらないと伝えられています

 手水鉢です、丹内山神社七不思議その4、この手水鉢はどんな旱天でも水が乾くことがないと伝えられています、この日も水が溜まっていました

 赤い鳥居は四ノ鳥居です

 石段を上がると神門です

 社殿(本殿)です





 見事な彫刻です

 説明版です
   丹内山神社について
 この神社の創建年代は、約1200年前、上古地方が開拓の祖神、多邇知比古神を祭神として祀っており、承和年間(834~847)に空海の弟子(日弘)が不動尊象を安置し、「大聖寺不動丹内大権現」と称し、以来、神仏混淆による尊崇をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。
 さらに、明治始めの廃仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。
 この本殿は、現存の棟札によると、文化7年(1810)に再建されたもので、盛岡南部利敬公の代、当時の別当は小原和泉實吉であり、棟梁には中内村の吉重郎、脇棟梁に八重郎・宇助が造建にあたったことが知られる。
 この建造物の特徴として、本殿の内陣には、権現づくりの厨子が据えられており、正・側面の外壁一面に中国の古事や古事記・万葉風の彫刻、脇障子は唐獅子と牡丹が彫刻されている。
 県内の社寺建造物の内では彫刻装飾優位の建物で、当時の地方大工の力量を知ることのできる貴重なものであり、平成2年(1990)5月に県指定有形文化財(建造物)となっている。
 また、本殿の左側山頂付近の経塚(県指定史跡)から全国でも数個しかないと云われる影青四耳壷(白磁無紋の壷・北宋の花瓶)、湖州鏡、中国古銭、経筒など(県指定文化財)が出土しており、平安時代末期頃からの地域の優れた文化の跡が偲ばれます。
           東和町教育委員会

 石への登り口に手水が流れています


 御神体の石です

 説明版です
   アラハバキ大神の巨石(胎内石)
 1300年以前から当神社霊域の御神体として古くから大切に祀られている。
 地域に信仰の地として栄えた当社は、坂上田村麿、藤原一族、物部氏、安俵小原氏、南部藩主等の崇敬が厚く領域の中心的祈願所であった。
 安産・受験・就職・家内安全・交通安全・商売繁盛等の他、壁面に触れぬようくぐりぬけると大願成就がなされ、又触れた場合でも合格が叶えられると伝えられている巨石である。

 丹内山神社七不思議、その1、唐獅子です、障子の唐獅子をなめると居眠りしないと伝えられています

 丹内山神社七不思議、その2、つららです、神社境内の建物につららが下がらないと伝えられています

 では、次へ行きましょう




 2024・9・12・15・00
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岩手県花巻市、膝立観音山「八坂神社と円万寺観音堂の文化財」です!!

2024-10-09 18:34:00 | 文化財・寺社
 膝立観音山地区は、花巻市役所の西北西約7kmのところ

 花巻市役所南西側の「花巻市役所前」信号を西へ、約250mで「花巻駅・県道103号線⇒」の標識に従って右(北北西)へ

 約200mの信号を左(西)へ跨線橋で東北本線を越えます、約400mで信号を右(北北西)へ

 約500mで信号を左(西お)へ、西大通です、約5.2kmで信号を右(北北東)へ、県道37号線です

 約500mで左側に八坂神社の鳥居があります

 鳥居の足(土台)には鳥居の貫上の額束にあった懸額が置かれています

 八坂神社社號標です

 円万寺観音堂寺号標です

 鳥居を潜って西へ

 頂上まで700m(標高差約100m)の参道(車道)つずら折りの坂道を上って行くと駐車場に入りました

 境内案内図です

 もう一枚は「円万寺観音山展望地鳥瞰図」です

 新奥の細道の説明版です
    湯治場のみち
 このコースは、チベット学の権威多田等観の一燈庵がある円万寺観音堂を起点とする、全長11.2kmの自然歩道です。
 大きな鳥居を抜け、整然として田園地帯を行くと、森林浴と川のせせらぎを満喫できる林道が始まります。
 林道終点の別れ道で少し足をのばすと、縁結びなどで知られる金勢神社があります。
 つづら折りの道を下り、豊沢川の渓流を渡ると、露天風呂で有名な大沢温泉があります。
 約4時間の自然と語りあえるコースです。

 神楽殿です

 説明版です
    岩手県指定無形民俗文化財
      円万寺神楽
 花巻に伝承されている神楽は、山岳信仰の基づく修験者集団によってもたらされた、山伏神楽がその主流をなしており、どの伝承経路から早池峰岳神楽系、円万寺神楽系、和賀大乗神楽系に大別される。 
 円万寺神楽は古くから、観音信仰を背景に栄えた湯口地区の円万寺(花巻市膝立字観音山)を拠点に、早池峰神楽、和賀大乗神楽とほぼ同時期に伝えられたとされている。
 かつて修験者たちは毎年霞(縄張り)の村々を巡回し、悪魔払い、火伏の権現舞を行なったといい、現在、権現舞はもとより、式六番の舞、多数の狂言等を演目として伝承している。
 また、北松斎公にまつわる伝承もあり、鳥谷崎神社祭礼で演じられるなど密接な関係がうかがわれる。
 七拍子による繊細で優雅な舞振りを特徴とする格式ある神楽である。
 ◇演目(式六番)鳥舞・千歳翁舞・三番叟・八幡舞・山の神舞・岩戸舞・
         鞍馬・天女・稲荷舞・五穀舞・鐘巻・三韓・蕨折・橋懸け・曽我・天王舞・権現舞・狂言数番
 ◇上演時期   地区神社祭礼・地区の祝事等  
      昭和36年7月  花巻市指定
      昭和49年2月  岩手県指定   花巻市教育委員会

 「染滝盥水」の手水舎です

 八坂神社拝殿です

 本殿です

 説明版です
    八坂神社
 村社  膝立第一地割郷村社地鎮座
 祭神  須佐男命
 創立  大洞2年(807)3月17日
 現在地は、元円満寺馬頭観世音境内にして、明治維新廃仏毀釈の際、本尊を山下の草堂に遷し、本社を矢川より奉遷し祭祀したるものにして、創立年月は即ち元円満寺観音の縁記によりたるものなり。
 祖母杉之記社内のあり、以て其縁由を知り得べし。(大正7年刊 湯口村誌抜粋)
 由緒  蝦夷征伐のためにこの地方にやってきた坂上田村麿が、大同2年(807)持仏の観音をまつったのが円万寺観音堂だといわれている。
 廃仏毀釈のため、明治5年(1872)円万寺観音堂の本尊を山の麓の草堂に移し、観音堂にそれまで円万寺の矢川というところにあった八坂神社を奉遷し、部落の氏神として崇拝した。
 廃仏毀釈もおさまったので本尊を観音堂に復させ、明治41年(1908)本殿、拝殿を新築し今日い至っている。(昭和41年花巻市教育委員会刊 花巻市史・神社篇抜粋篇)
     観音堂
 現在の観音堂は、嘉永4年(1851)の建造で、昭和38年(1963)の秋に萱葺き屋根を亜鉛メッキ銅版葺きに葺き替えをしていたが、40余年も経過し、各所が破損したので、平成17年(2005)6月全面葺き替えをして現在に至っている。
 また、建造以来150余年経過して風雨にさらされた外部建具が損傷していたので、さる篤志家の寄進により、平成15年(2003)4月、全面新調された。
     本尊
 御本尊は、坂上田村麿が大洞2年(807)に勧請した馬頭観音で、近郷近在の人々の篤い信仰を集めていたが、明治初年に起きた廃仏毀釈の運動を避けて、太田の清水寺に移し匿ってもらった。
 その後、廃仏毀釈の運動が終息してから、麓に草堂を建立し、明治12年(1879)7月14日に清水寺から御本尊を奉遷したと伝えられていた。
 しかし、その後、いつの頃からか御本尊の所在が不明となっていた。
 そのことを聞いた多田等観は、非常に悔しんでチベットのダライ・ラマ第13世法王か請来し、殊のほか大事にしていた千手千眼十一面観音像を昭和22年(1947)4月8日に観音堂の御本尊として寄贈奉安した。
 また、平成4年(1992)9月13日には、八坂神社宮司の佐藤家が、同家に伝わる観音像を観音堂に遷座し、多田等観が寄贈の観音像とともに須弥壇に祀られている。
 この佐藤家から遷座の観音像は、岩手県立博物館では銅造十一面観音座像懸仏で、室町時代(1392~1573)の制作であると説明している。
     平成23年(2011)7月14日   八坂神社 観音堂

 宝物庫の様です

 説明版でです
   花巻市指定有形文化財(歴史資料)
     正慶の碑(正慶元年)  材質 安山岩 法量 高さ140cm、幅58cm
    指定年月日  昭和35年5月7日
    所在地    花巻市膝立字観音山 八坂神社境内
 この碑は、正慶元年(1332)の紀年紀が刻まれた碑で、この地方の領主が戦死者供養のために建立したと推定されています。
 碑面には、梵字や蓮華座が刻印され、彫りは雄渾で明瞭ですが、文字部分は彫りが浅く、風化が進み判読しにくくなっています。
 明治の初め頃、八坂神社を矢河の地(現・花巻市円万寺矢川)から観音山の現在地に移した際に、この石碑も一緒に移したといわれ、もとは正慶2年の碑と同じ場所にあったものと考えられていっます。
 正慶元年は北朝の年号で、南朝年号の元弘2年に当たり、当寺花巻地方では北朝の勢力が優勢であったことを示す一資料であり、また花巻地方にある古い石碑の一つです。
 花巻市の歴史を知る上で手がかりとなる貴重な有形文化財です。
         花巻市教育委員会     

 円万寺観音堂です

 観世音碑です

 阿弥陀堂です

 鐘楼です

 梵鐘です

 説明版です
   梵鐘と鐘楼
 この梵鐘は、応仁の頃(1467~69年)円満寺にあった梵鐘が持ち去られた事蹟に基づいて、その復元と太平洋戦争までの戦没者の慰霊をしようとの遠大な目的で、昭和24(1949)年に多田等観が発願し、当時の湯口村民の賛同と近隣町村有志の浄財をも寄せられて新鋳された梵鐘です。
 鍾銘の正面には、チベット文字とその下に漢字で、「観其音声皆得解脱」とあります。
 これは観音経にあることばで、「この鐘の音を聞けば 皆安らかな境地に至りますよ」という意味です。
 そして鍾銘の最後のところは漢詩で「余韻は嫋嫋として山川に散満す 萬霊は怳忽す 孰れか涅槃を疑はんや」と結んでいますが、この鐘の音は、正によろずの霊をして、とりとめなくうっとりさせてくれるよい音色です。
 この鍾銘の撰文は、その往時、早稲田大学の漢字の教授であった川田瑞穂によるものですが、川田は昭和20(1945)年8月15日に玉音放送されて「終戦の詔書」草案にかかわったことで知られる有数の漢学者であります。
 鐘楼は、昭和25(1950)年に地元円万寺、膝立の有志の献材と地元以外の奉仕者も加わって完成した鐘楼でありましたが、建築後47年の歳月が経つうちに柱の腐食が進みましたので、平成9(1997)年9月に円万寺、膝立地区民の賛同による浄財と多田等観の遺族に寄進等によって改築したものです。
       平成9年9月      円万寺観音山を守る会

 長く成りましたので続きにさせて頂きます、次は「円万観音堂の祖母杉」です




 2024・9・12・10・40

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岩手県奥州市、水沢日高小路「日高神社」(重要文化財)です!!

2024-10-01 13:59:00 | 文化財・寺社
 水沢日高小路地区は、奥州市役所の南西約500mのところです

 奥州市役所東側の大手通りを南へ進みます、約300mの「武家屋敷駐車場」の直ぐ先を右(西)へ

 約500mで日高神社境内です

 北側に広い駐車場が有ります

 日高神社社號標です

 由緒書きです
   御由緒
 當社は未の妙見宮と尊崇之国土鎮護の神とす祭神は、天御中主大神を主神として7神を合祀す。
 人皇第52代 嵯峨帝 弘仁元年(810)奥州三所の一つとして勧請せらる。
 第70代 後冷泉帝 天喜年中(1053~1058)源頼義、義家親子、勅令を奉じて安倍貞任、同宗任を當地にて討つ決戦するや、俄かに浦然たる豪雨の為に陽光覆はれ、雌雄を決せんとするも日没の如くにして相見ゆること能はず、両公當社に至り神殿に弊を奉じて天候の快復せられしことを祈念す。
 時余にして豪雨も去り霧天散じて陽光燦として輝く、両公再び戈を交え斯にして大勝を得たり。時に未の刻なりこしより、未の妙見宮と云う。
 後、嘉應年間(1169~1171)に至り藤原秀衡公社殿を再建し、降って寛永元年(1624)伊達政宗公及び水澤城主留守宗利公共々に信仰篤く、社殿を改築す。
 明治4年(1871)膽澤(胆沢)総社として郷社に列せられ地方の崇敬殊・他篤く、偉人才子輩出の因なしたり。
 境内に瑞山神社在り、祭神は、奥州総奉行従4位左近将監伊澤四郎家景公並びに水澤城主宗利公及び代々の祖霊を祀る。
     祭日   日高火防祭  陰暦正月22日
          例祭     陽暦4月22日

 鳥居です

 ふるさと名所50景「日高神社と杜」です

 ここからが前回「日高神社の姥スギと大杉」の続きです


 日高神社は南向きに鎮座します、拝殿です

 本殿の屋根が見えました

 県指定有形文化財日高神社本殿の標石です

 国重要文化財日高神社本殿の標石です

 境内社です、大黒様が沢山並んでいます

 西側にも並びます

 説明版です
   御神徳と御由緒
 祭神 大山作神 中津島姫神
 例祭 毎年 4月2日
 五穀の神、酒の神、水の神、又、交通(海上)の神として尊ばれており、中津島姫命は弁才天として尊ばれています。
 生きるものをグヒグヒと伸ばす神として、京都の松尾大社(官弊大社)の分霊として大町橋の際に(高豊の西口のところ)お祀りしておりました。
     以上

 東向きに瑞山神社の鳥居です

 瑞山神社社殿です

 岩手県指定有形文化財 瑞山神社(祖霊社)の標石です

 説明版です
   瑞山神社と11人の殉死者
 日高神社境内にある瑞山神社は留守氏代々の祖霊社である。
 14世紀半ば、留守氏が高森城(仙台市岩切)に居たころ、岩切の志波彦神社境内に一社を建立し、初代伊沢家景以来の霊を祀り、保栄堂と称した。
 留守氏はその後遷城をくり返し、曲折を経て、寛永6年(1629)伊達氏家臣として水沢を所領し、このとき岩切から当地に保栄堂を遷し、先祖代々の祖霊社とした。これが瑞山神社である。
 領主は宗利で、水沢留守氏の初代である。社号「瑞山」は家景を瑞山公と称したことにちなむ。
 宗利は近世城下町、水沢のまちの基礎を築いた人として高く評価されているが、寛永15年(1638)8月15日に逝去、同社に納められた。
 同月28日、家臣8人が主君に従って殉死した。8人は死に先立つこと数日、決別の宴を催し、辞世の句を詠んで所感を述べたという。8人も同社に合祀されている。また宗利の勘気にふれ、他国にいた浪人3人も12月3日追殉死した。
 いま、同社の北、西、南にある五輪塔がこの墓である。
 瑞山神社は間口1間(1.21m)×奥行き1間(1.16m)、高さ2.5mの木造家形厨子で、同じく勾欄付き木造壇上に載る。屋根は入母屋造り、こけら葺き。全面に彩色を施し、黒漆と金泥を主としている。垂木の木口は装飾金具を付け。総体的に江戸時代初期の手法が見られ、昭和47年10月27日に岩手県指定有形文化財に指定されている。
 同社の南には2代宗直の墓がある。
        水沢市

 北側の五輪塔です

 西側の五輪塔です

 南側の五輪塔で、社殿の周りを囲んでいます

 太刀洗川戦場跡の石碑です

 氏子宮です

 筆塚と祠は稲荷社でしょうか

 では、次へ行きましょう




 2024・9・11・12・40
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岩手県一関市、大東町鳥海小山「興田神社」です!!

2024-09-26 18:31:18 | 文化財・寺社
  大東町鳥海小山地区は、一関市役所の東北東約27km、一関市役所大東支所の北西約6kmのところ

 一関市役所大東支所前から南西へ出て、約300m砂鉄川の橋のところの丁字路を右(西北西)へ、県道10号線です

 道成りに約5.8km「一関市立興田小学校」西側の十字路を左(南西)へ

 約500mのゴミ集積所の所を右(北北西)へ坂道を上ります

 約700mで丁字路を右(東)へ

 間も無く左手に興田神社が南東向きに鎮座します

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 文化財説明版です
   興田神社の指定文化財
  岩手県指定有形文化財(工芸品)
     銅鰐口
      所在地   一関市大東町鳥海字小山
      年代    鎌倉時代(14世紀)
      指定年月日 昭和49年(1974)2月15日
 この鰐口は、鋳銅製両面式で裏面に鍍金を施し、表面の撞座に五弁撞蓮華文が配され、鋳出し銘には「元徳2年壬申3月1日施主平重村」とあることから、制作年代は元徳2年(1330)とかんがえられますが、壬申は正徳元年(1332)となることから、そのいずれかと推察されます。
 撞座には破れがあるものの、意匠は鎌倉時代の図案が見られ、形式も古様を呈しており、在銘の鰐口としては本県最古のものといわれています。
  岩手県指定有形文化財(工芸品)  
     金銅製前立
      所在地   一関市大東町鳥海字小山
      年代    南北朝時代(14世紀)
      指定年月日 昭和59年(1984)5月1日
 この前立ては、高さ70cm、最大張97.2cmで、銅版前立に鍍金を施した左右対称の2枚の角形を、立会雲を唐草風に毛彫りされた中央部受座金具に挿入固定した半月形を呈しています。
 社伝によれば、源頼義が前九年合戦の勝利を謝して安部貞任着用の前立を奉納した、あるいは天正18年(1590)に和賀氏は落居の際に当社に奉納したものと伝えられていますが、調査により南北朝時代の作と判明しています。
 

 参道石段上には隋身門です

 随身門を潜ると右手上に鐘楼です

 更に参道石段を上がります

 手水場です

 拝殿です


 本殿です


 社殿の見事な彫刻です



 本殿右手には境内社が並びますがお名前が分かりませんでした

 石碑や石祠も並びます

 北東側の石段を下ると、社務所前には神楽殿(舞殿)です

 水盤です 

 では、境内のスギを見て行きましょう




 2024・9・11・06・25
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岩手県一関市、舞川大平「儛草(もくさ)神社」です!!

2024-09-24 06:31:00 | 文化財・寺社
 舞川大平地区は、一関市役所の北東約7kmのところ

 一関市役所南側道路を東南東へ、約200mで信号を左(北)へ、県道260号線です

 約1.3kmの「陸前高田・猊鼻渓・県道14号線⇒」の標識に従って右(東)へ、直ぐに跨線橋となって東北本線をこえます

 約1.6kで東北新幹線の高架を潜り、約1.3kmで北上川を棚の瀬橋で渡ります

 道成に北上川の河岸段丘上へと上がっていった約2kmで左手(西側)の県道14号線への取り付け道路へ

 約200mで右(北)へ、県道14号線です、道成りに2.4kmで「舞川1区公民館入口」看板を反対の右(東北東)へ

 約500mで道路左手に「儛草神社表参道黒門址」です

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 ここ標高約115mから舞草神社の社殿の建つ標高約265mまで北へほぼ一直線の登りに成ります、約20分ほどで行けそうなのでストックを持って歩いて行ってみました(神社前まで車で行くことも出来ます) 

 儛草神社の社號標です
 
 「儛草神社表参道黒門」の標柱です

 参道に入ると大きな庚申碑です

 参道(山道)を進みます

 大きな石がゴロゴロしています

 石段が現われました

 ところどころに石段が有ります

 また歩きづらい参道です

 スギ並木の間を進みます
 
 途中で林道が横断しています

 大岩を巻く様に進みます

 一向に先がわかりません

 日向は暑くて汗が吹き出します、この日も32度を超えていますが、日陰は風が吹きあがってい一息付けました

 ようやく鳥居が見えました

 隋身門です、ここまで25分かかってしまいました

 儛草神社来歴説明版です
   儛草神社 来歴
 養老 2年  718 羽場白山岳に白山妙利社勧請  祭神 菊理姫命
            陸奥県県多治見直人建立と伝える
 延暦18年  799 吉祥山に馬頭観音勧請 坂上田村麻呂東夷征伐の折
            祈願の為 吉祥山東城寺を建立する
 嘉祥 3年  850 慈覚大師東北巡陽の折り吉祥山に錫杖を止め多羅葉の
            木にて4尺2寸の聖観音像を彫刻安置しと伝う
 仁寿 2年  852 往時東山 舞草 小字穴の倉に鎮座する稲倉明神社
            舞草神に従五位下を授かる
 延長 5年  927 既に延喜式神名帳に登載の舞草神社である
 承平 元年  931 白山社跡近くに金鋳神社跡がある 舞草安房以来 
            二神を深く信仰してその守護により 無双の名剣を
            代々約300年間に亘り作り続けたと伝えている
 天正 2年 1574 吉祥山白山寺野火の為に堂塔社炎上す
 文禄 元年 1592 吉祥山一山の堂社宇僧坊同年3月12日野火為炎上する
            神社直属の三枝祢宜これを深く嘆き御霊を穴の倉に
            鎮座する稲倉神社に遷座して稲倉明神と称える
 寛永19年 1642 王子吉祥山は羽場村なるもお村直しの令により
            羽場村の一部を合併して舞草村と相成る
 寛保 3年 1743 御上より稲倉明神に舞草神社稲倉大明神の神号を賜る
 明治 2年 1869 神仏混淆禁止令により吉祥山東城寺より聖観音像
            並びに仁王像を別当宅地内の大悲閣内に安置する
 明治 4年 1871 同村穴ノ倉鎮座の稲倉大明神社より10月26日
            御霊を当観音堂地に遷座延喜式内舞草神社と称える
 明治 9年 1876 当年9月17日舞草神社三間四面の堂 炎上
            隋身門を残し焼失する
 明治39年 1906 舞草神社本殿 拝殿落成
 大正 2年 1913 同村川岸鎮座の熊野神社を合祀
 昭和12年 1937 本拝殿改築する
     祭神 伊邪那岐尊 白山姫神 倉稲魂命 熊野大神
     祭日 歳旦祭 4月17日 8月17日
            延喜式内 舞草神社  
      
 隋身門西側には舞草鍛冶遺跡の石碑です

 説明版です
   舞草鍛冶遺跡
 日本刀の完成にあたって、欠くことができなかった奥州の刀剣、それが舞草刀(もくさとう)です。
 鉄落山(てつおちやま)と別称される白山岳を有するここ舞草はそのふる里と考えられています。
 舞草鍛冶の活躍は、京都・観智院に伝わった現存最古の銘尽(めいじん)をはじめとする数多くの刀剣書、また、説話集や物語など、古くは平安時代から語りついでいます。
 この鍛冶遺跡のを目指し、岩手大学や一関市教育委員会は地元と一体となって発掘調査を実施し、これまでタタラ跡や鞴の羽口、鏃、おびただしい鉄滓の発見など数々の成果を上げています。
 今後はより一層の解明が進むものと期待されています。
     平成15年3月   一関市教育委員会

 隋身門を潜って石段を上がります

 石段の中段左に神馬舎です

 拝殿です


 本殿です

 社務所前に鐘楼です

 石塔が並びます

 長く成りましたので「続き」にします、次は「儛草(もくさ)神社」の木々を紹介しましょう

 
 
 
 2024・9・10・13・25
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岩手県一関市、山目舘「配志和神社(市指定有形文化財)と境内社」です!!

2024-09-21 07:18:37 | 文化財・寺社
 山目舘地区は、一関市役所の北約1kmのところ

 一関市役所南側の道路を西へ、約150mの信号を右(北)へ

 約750mで道路左手に配志和神社参道入口が南東向きに出ています

 参道脇の道路を登って行って白鳥神社手前の駐車場に入りました

 前回「配志和神社の夫婦杉」の続きです

 手水鉢です、石段を上がります

 拝殿です

 拝殿軒下の額です

 本殿です

 説明版です
   一関市指定有形文化財(建造物)
     配志和神社社殿
  所在地   一関市山目字舘
  年代    江戸時代
  指定年月日 昭和61年(1986)7月1日
 配志和神社本殿は「延喜式内神名帳」にも記載される延喜式内社で、磐井郡二座のうちの西岩井・流の総鎮守神として、崇められきました。
 はじめ磐座山に鎮座して火石輪と呼ばれ、後に始和大明神、穂志波社梅森明神、蘭梅明神(梅の宮)、刃蔵社とも呼ばれました。
 配志和神社に改めたのは延長5年(927)で中世に現在地に移されて今日に至っています。
 宝暦風土記(1763)によると、その創建は日本武尊が蝦夷征伐の際に、高皇産霊尊・瓊瓊杵尊・木花開耶姫命の三神を祀り戦勝祈願したことといわれ、その三神が祭神とされています。
 「県社配志和神社略記」によると、本殿は養和元年(1181)、拝殿は正徳元年(1711)に改築されたとされていますが、現在の社殿は拝殿と本殿を幣殿でつなぐ複合社殿であり、江戸時代の特色が見受けられます。また、拝殿二手先組、化粧屋根裏構架、本殿欄間彫刻といった構造手法も非常に優れており、当地方の信仰や社寺建築の歴史を知るうえでも貴重な建築物です。
        平成28年10月  一関市教育委員会

社殿北側に境内社が並びます、まずは愛宕神社です

 説明板です
   愛宕神社
 火神過遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る。
 誕生の時に母神が火傷のためにお隠れなさったので、仇児の神と、また火産霊神(ほむすびのかみ)とも称される。
 社殿の経緯は不明であるが、江戸時代の配志和神社々殿造立に相次いで建立と推定される。
 昭和10年の修理記録が一部残る。平成23年の大地震で損傷激化し、同25年から同27年にかけて屋根葺替、縁床浜床張替、階造替等の修繕を行い、天神社側の雨打線の競合から配志和神社側に3尺移転し基礎を鹿の子建から一部亀腹とした。

 天神社です

 説明板です
   末社 天神社
     御祭神  菅原道真公(天満大自在天神)
     御神徳  学問 詩歌 書道 合格 雪冤 降雨
 菅原道真公は学問に秀で、政治家として異例の出世をしたが、妬まれて大宰府に左遷され不遇の中に亡くなった。
 その後、都に落雷などの天災が頻発したため、管公の御霊として恐れられ、天満大自在天神として祀られるようになった。
 配志和神社には管公左遷の折に、御子敦茂公が当地に流され、父の帰洛を願って社殿を修造し観音像を祀り、蘭麝梅を植えたという伝承がある。
 蘭麝梅は全山に繁茂して、馥郁たる香りを放ち、この山を乱梅山と呼ぶようになった。

 天神社の裏側には「硯が池」です、天神様と慕われる菅原道真公大宰府に左遷され御子敦茂公が当地に流された折この池の水にて硯の墨を擦ったと伝えられる。

 御名前がわかりませんでした

 南向きに産神祠(山の神)です、中には祠と石仏が祀られています

 説明板です
   産神祠
 山神又は山の神とも言う。
 木花開耶姫を祀る。
 天孫瓊瓊杵尊の妃となり火中で出産し安産又女性の守り神とされる。
 お産の時に枕を借り、産後は焚き上げて、新枕二つを返す。

 神明社です

 説明板です
   神明社
 天照皇太神を祀る。
 配志和本社に祀る瓊瓊杵尊の祖母神。
 八百万神の中で最も尊い神とされる。

 社殿面から太い方のスギを西側から見上げました

 細い方のスギです

 境内から南へ出てみると「蘭梅山いこいの森案内図」がありました

 では、次へ行きましょう




 2024・9・10・09・50
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栃木県矢板市、長井「寺山観音寺とシユウカイドウ」です!!

2024-09-17 06:30:50 | 文化財・寺社
 長井地区は、矢板市役所の北西約6kmのところ

 矢板市役所東側の旧関谷街道を北へ進みます

 約1.1kmで信号を斜め右(北)へ、県道30号線です

 約700mの「下太田」信号を左(西)へ、県道272号県民の森矢板線です

 約700mで「東北自動車道」の隧道を潜ります

 道成に約2.7kmで「寺山観音寺⇒」の案内板を斜め右上への道路へ進みます
 
 道成りに約2.7kmで「観音寺」前に出ました、シユウカイドウ開花中です

 境内を右に廻った先に広い駐車場が有ります

 車を置いて、南側の観音寺参道入口へ戻って来ました

 説明版です
   寺山緑地環境保全地域
    1、位置    矢板市長井
    2、面積    3.12ha
    3、指定年月日 昭和51年1月31日
 この地域は、寺山観音を中心としたすばらしい緑地です。
 寺山観音寺は与楽山大悲心院観音寺といい、養老4年(720)高原鬼人退治の折、藤原房前が祈願して霊験を感じ、聖武帝の御代に建立したと伝えられている由緒あるお寺です。
 境内林はこの寺に相応しく樹齢250年を超えるみごとなスギ林で、緑の美しさ、すばらしさを私達に教えてくれます。
          栃木県

 もう一枚説明版です
   寺山観音寺
 神亀元年(724)に行基菩薩が剣ヶ峰のふもとに法楽寺を建立し、千手観音と両脇侍を安置したのが興りといわれています。
 延暦22年(803)雷火により寺は焼失しましたが、観音堂は安泰でした。
 現在地に移転したのは、大同元年(806)と伝えられ、徳一上人が七堂伽藍を建て、尊像と御堂も移したといわれています。
 その後、塩谷氏代々の祈願寺として知行地一千石を寄進、塩谷氏滅亡後は宇都宮城主代々の祈願寺となりました。
 住職は毎年正月15日に拾万石格式の駕籠に乗って祝賀に登城するのが恒例でした。
 本尊の千手観音は秘仏で、60年に一回だけ開帳されます。
   文化財
 国指定重要文化財  木造千手観音坐像
           木造毘沙門天立像
           木造不動明王立像
 県指定重要文化財  銅造大日如来坐像
           木造行縁僧都坐像
           木造二十八部衆立像
           銅造千手観音坐像
           木造風神雷神像
 矢板市指定文化財  掛盤膳
           角型四ツ足香炉
           飲食器
 県指定天然記念物  イチョウ

 参道を進みます

 太鼓橋を渡ると右手に弁財天です

 さらに参道を進みます、シユウカイドウが満開状態で綺麗ですね

 手水舎です

 山門が見えて来ます、参道はシユウカイドウで一杯です

 山門の仁王門(楼門)です

 仁王門を潜ると正面に本堂です

 「やいたの建物十」(歴史的・伝統的)
   寺山観音寺(観音堂・楼門)
     平成9年11月1日指定 矢板市市民の日時実行委員会の標柱です

 説明版です
   観音寺境内の文化財について
国指定重要文化財 木造千手観音坐像及び両脇侍像  3軀
 本尊千手観音坐像は、カヤの一木造で、像高93.6cm。
 千手は観音の救いの手の及ぶ範囲の広大であることを象徴したもので、普通には左右に各19臂で、正面中央に4臂、合わせて42臂で、本像の場合もこれである。
 本像は、初めから漆箔も施されず、彩色も加えられていない希に見る素木の像である。
 高く秀でた眉、こころもち伏せた切れ長の抑揚ある瞼、やや尖った鼻梁、切れの深い口元、その表情は後世に見る観音の温和、優美な慈悲相とは大いに異なり、極めて知的で意志的であり、迫ってくる威力は恐ろしさを感じさせる程神秘的でさえある。
 本像の制作年代は、台座、光背の形制からすると鎌倉時代に足を踏み入れているようである。
 脇侍は、不動明王と毘沙門天で鉈彫像で、制作年代は藤原末期から鎌倉初期のものである。
     (昭和25年8月29日 指定)
栃木県指定有形文化財(彫刻) 木造二十八部衆像  28軀
 本像は、観音堂の中に安置され、本尊の木造千手観音の眷属として祀られているものである。
 構造は、寄木・彫眼・首さしこみ、両腕は肩と肘と手首の3ヶ所で矧いでいる。
 神母女の背面の龕の中に銘板があり、永享13年(1441年)3月24日との銘があることから、室町時代初期の制作であることが知られる。
 この時代のものとしては作も優れており、像高も平均80cmと比較的大きく、また県内でも28軀全部が揃っているのも珍しい。
     (昭和50年10月24日 指定)
栃木県指定有形文化財(彫刻) 木造行縁僧都坐像   1軀
 本像は、像高84cm、袈裟を纏い両眼を円らに開き正面を凝視し、如意を持っていたものらしく、右手を胸元にあげ拳をつくり、左手をその下に添うようにあげて端座ずる、寺山観音寺の別当にして、法相の僧、行縁像である。
 鼻梁太く、眼窩少し落ち、眉迫り。口を固く結んだ丸顔の相貌には、個性がうかがわれ、その表情には、性格の謹厳さと、意志の強靭さとが感じられる。
 胎内の背面には、墨書銘があり、それによると制作年代は、正治2年(1200年)とされ、鎌倉時代初期のものである。
     (昭和50年10月24日 指定)
栃木県指定有形文化財(彫刻) 銅造大日如来坐像   1軀
 本像は、像高110cm、台座88cmで、観音堂の東側に露仏として安置されている。
 銘文に記されているように、本件佐野市天明において鋳造されたものであり、鼻梁の過大、胸の張りの乏しさ等があるものの、全体的にはまとまっている。
 制作年代は、江戸時代後期であり、当時の大日如来像としては数少なく、また天明鋳物の仏像としても貴重である。
     (昭和50年10月24日指定)
     栃木県教育委員会・矢板市教育委員会

 観音堂前西側の水子地蔵尊です、周りにもシユウカイドウが満開です   

 虚空蔵尊堂です

 説明版にあった、栃木県指定文化財の銅造大日如来坐像です

 五輪塔と宝篋印塔です

 稲荷神社です


 本堂北東側の林の中から駐車場廻もシユウカイドウが満開です

 では、「観音寺のイチョウ」を見ましょう


 

 2024・9・4・15・10
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高知県高知市、天神町「潮江天満宮」です!!

2024-08-11 06:31:33 | 文化財・寺社
 天神町は、高知市役所の南約500m、鏡川の南側です

 高知市役所南側の国道56号線を東へ

 約400mの「大橋通交差点」信号を右(南)へ

 約400mで鏡川を天神大橋で渡ります

 渡り切って直ぐ右手に有料駐車場の「天神橋パーキング」がありますので車を止めました

 *天神橋パーキング入口脇に「天神のクスノキ」が有ったのですが、写真が撮れていませんでした

 駐車場の南側、競輪場「りょうまスタジアム」の東側に東向きに天満宮が鎮座します

 潮江天満宮が東向き参道入口で鎮座します

 潮江天満宮社號標です

 案内書きです
   天満宮右(通称潮江天満宮)
 御祭神 菅原道真公
     高視朝臣
     北の御方
 相殿神 天穂日命
     大海津見命
 祭日  春大祭 古式菜種祭     2月25日
     例大祭 夏祭        7月22日
     秋大祭 神幸祭 内街地区 11月18日
             潮江地区 11月19日
     朔日祭           毎月 1日
     月次祭           毎月25日

 鳥居の並ぶ参道を進みます

 参道が斜め左に曲がります

 手水舎です

 神門は北向きです


 境内に入って「寝牛」像です

 西方向へ参道を進みます

 拝殿です

 本殿です

 境内社です、手前から白太夫社・若栄社・年主宮などが並びます

 では、次へ行きましょう


 

 2024・6・13・13・40
 
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徳島県阿波市、市場町切幡観音「国指定重要文化財 切幡寺大塔」です!!

2024-07-09 06:30:34 | 文化財・寺社
市場町切幡観音地区は、阿波市役所のすぐ東側の地区です、切幡寺は北東約1kmのところから山の上へ長い石段を上ります

 阿波市役所の東側道路を南へ、直ぐの信号を左(北東)へ、県道139号線です

 約400mで「⇐10番札所 切幡寺700m」の標識に従って左(北)へ

 道成りに約400m坂道を上っていくと

 仁王門の先に駐車場があります

 長い石段を上って、本堂と大師堂にお参りしました

 本堂の西側の高い所に大塔の屋根が見えます

 大きな説明版が有ります
   「切幡寺大塔」概要
 ■名称    切幡寺大塔
 ■指定分類  国重要文化財
 ■指定年月日 昭和50年6月23日
 ■構造形式  五間二重塔婆
 ■寸法    間口・奥行 初重 10.000m
         〃    二重  4.848m
 ■高さ    総高       24.168m
 重要文化財「切幡寺大塔」は、慶長12年(1607)豊臣秀頼が大阪・住吉大社神宮寺再興時に東西二基の塔を建立したが、明治初頭、神仏判然令により神宮寺が廃寺となった為、当院がその「西塔」を買い受け、明治6年から15年(1873~1882)にかけて現在地に移築した。 
 西塔の完成年代は定かではないものの実肘木や須弥檀等に桃山時代の特色が見られる。
 昭和50年6月23日には、現存する唯一の二重方形塔婆で移築による改造も少ないことから、国の重要文化財に指定された。
 切幡寺大塔は、二重を方3間とするのに対し、初重を方5間とすることから大塔と呼ばれる。
 軒は初重・二重とも二軒繁垂木で、組物は初重が出組、二重は四手先組とする。
 内部は、初重では各柱通りの交点すべてに円柱を建て、入側柱通りに切目長押を廻してこれより外を外陣、内側は長押分床を一段高くして内陣とする。
 天井は内・外陣とも小組格天井であるが、四天柱内は折上げて内々陣とし、須弥壇を置く。
 須弥壇奥の来迎壁以外に内壁はないが、各陣境に内法長押と垂壁を廻すことで、それぞれの空間を分けている。
 二重は側柱を円柱・四天柱を角柱とし、心柱を含めすべての柱は初重入側柱上に組まれた柱盤に建ち、四天柱より外側に床板を張る。
 側廻りは初重・二重とも各面中央間を弊軸構え板戸両開き、他の間を連子窓とするが、初重の正面だけは両脇間も弊軸構え板戸両開きとして正面性をもたせている。
 外部は初重・二重とも四周に切目縁を廻し、二重には跳高欄が付き、屋根頂上にな多宝塔形式の宝鎖付相輪を飾る。

 須弥壇奥の来迎壁には「宝池の画」と桃山時代の代表的な絵師である狩野山楽(1559~1635)筆と認められている「猊座文殊画」は画面の左半に伏している大きな獅子の背上で、左手に柄の長い如意をとり、右手に経巻をもった文殊が立ち膝の姿で腰掛け、顔は静的な表情としている。
 画面の右下には教えを請おうとする童子が描かれ、その上には文殊の表情とは対照的に、炎のように大きく揺らめく獅子の尾を描き、獅子の動きを表現するとともに、画面全体に緊張感をもたせている。
 このような表現の非常に豊かな画法は、山楽の特徴の一つである。
 「宝池の画」は、絵の作製途中で下図を直し、全体の構図を変更した痕跡があり、おそらくは当時の画工が山楽の指導のもとに描いた作品と思われる。

 急な石段を上ります

 不動堂です

 大塔はもう一段上です

 大塔です

 南西側から

 説明版です
   国指定重要文化財 切幡寺大塔
 この大塔は元、徳川家康の勧めに依り、豊臣秀吉の増進菩提のため慶長12年(1607)豊臣秀頼が大阪・住吉大社神宮寺に建立したものである。
 明治初頭、同寺が神仏判然令により廃寺となったため、明治6年(1874)当山第45世住職天祐上人が買い受け、ここに解体移築したが同上人の時代には初重部のみ仕上がり、続いて智堪上人が二重部を仕上げ、完成に10年を要した。
 その特徴は、五間四面にして、初重と二重との間が方形をなす大塔である。
 今日この形式の遺構は本邦唯一であり、国指定重要文化財たる所以である。総高24.168m。
     指定 昭和50年6月23日

 南側から

 南西側から

 では、納経所に寄って次へ行きましょう



 2024・6・8・11・25
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徳島県鳴門市、大麻町板東広塚「阿波一の宮大麻比古神社」です!!

2024-06-27 12:30:04 | 文化財・寺社
 大麻町板東広塚地区は、鳴門市役所の西約10kmのところ

 鳴門市役所の西側の国道28号線を南西へ進みます、約1kmの「大津町吉永」信号を右(西北西)へ、県道12号川北街道です

 約9.4kmの「徳島学院」の標識に従って右折車線に入ると信号の先に「阿波一の宮大麻比古神社」の案内板が有ります

 約300mの高松自動車道の高架を潜ってすぐを左(西)へ

 約300mで右(北)へ曲がると赤い大鳥居です

 大麻比古神社社號標です

 道成りに石灯籠が並ぶ参道を進んで約700mで赤い欄干の祓川橋です

 石鳥居です、鳥居を潜った境内が駐車場に成っています

 境内案内図で確認しましょう

 幅の広い石段を上がります

 右手に手水舎です

 古神札納所です

 拝殿が見えてきます

 説明版です
   阿波一宮 大麻比古(おおあさひこ)神社神社由緒
 御祭神 大麻比古大神 猿田彦大神
 由緒 社伝によると、神武天皇の御代に天太玉命(大麻比古大神)の子孫である天富命が勅令により肥沃の地を求めて全国各地を巡り、阿波国に到り麻や楮を育て麻布・木綿を作り、殖産興業の基を築き、当国の国利民福を進めた。
 太祖である天太玉命(大麻比古大神)を阿波国の守護神としてこの地にお祀りした。
 猿田彦大神は、大麻山の山頂にお祀りされていたが、後世に当神社に合祀された。
 延喜式神名帳には「名神大」と記され、また平安中期には朝廷より「阿波国一宮」と、当国内で第一の地位と称えられた。阿波・淡路両国の総氏神として崇敬された。
 第56代清和天皇貞観元年(859)には、朝廷より神階・従五位を賜り、以後順次進階し、第114代中御門天皇享保4年(1719)に正一位を賜った。
 当国代々の国司・領主・藩主の厚い崇敬を受け、社殿の造営や祭費の献上や神田・山林が寄進された。
 明治6年(1873)6月13日国弊中社に昇格した。また、明治13年(1880)1月には、3年の月日をかけ国費をもって本殿・拝殿以下諸舎の造営が行われた。
 祝詞殿・内外拝殿は、昭和45年(1970)8月に県内外の氏子崇敬者の浄財によって造営。昭和58年(1983)6月に社務所・昭和59年(1984)7月には参集殿が竣工した。
 平成14年(2002)7月には、祓川橋の架け替え・参道石灯籠・駐車場舗装工事など境内整備工事が進められた。同年12月に2代目大鳥居が朱塗りも鮮やかに建立した。
 令和4年(2022)10月には令和御大典奉祝記念事業として御社殿群御屋根葺替及び改修工事が県内外の方々の御奉賛により、銅版御屋根が竣工した。

 拝殿です


 本殿です

 本殿西側の豊受社です

 山神社です

 中宮社です


 左奥へ進むと「心願の鏡池」と「めがね橋」です

 説明版です
   心願の鏡池
 第1次世界大戦のさなか、中国青島(チンタオ)の戦いで捕虜になったドイツ兵士約千人が大正6年から9年にかけて、異郷の地坂東俘虜収容所に過ごした。
 ドイツ兵士達が、遠い祖国を偲びながら一日も早く故国に帰れることを願いつつ当神域を散策し、記念のため境内に池を掘ってメガネ橋を配し、小谷にドイツ橋を架けた。
 坂東の地で、日々を送った兵士達は、地元の人々と国境を越えた暖かい友情で結ばれ、今も尚、日独友好の灯をともし続けている。
 以来七十有余年を経て、この度当神社では、神池を拡張し、メガネ橋の周辺を整備して、「心願の鏡池」と命名した。
     平成4年3月吉日  阿波国一の宮 大麻比古神社社務所
    めがめ橋
 ドイツ橋と共に現存する一つで、本殿裏の心願の鏡池に架けられている。
 完成はドイツ橋より少し前の大正8年4月(1919)である。
 全長4.3m、全横1.2m。撫養石製、石積二重橋。

 奥宮 峯神社遥拝所です

 ドイツ橋へ行ってみましょう

 ドイツ橋です

 説明版です
   ドイツ橋
 第1次世界大戦当時、近隣の坂東俘虜収容所で捕虜生活を過ごしていたドイツ兵士が、地域との自由な交流の中で地元への感謝の気持ちを込め、母国の優れた土木技術を生かし、大正6年6月から大正8年6月までに10の橋を造った。
 木橋が6橋、石橋が4橋で、現存するドイツ橋は同8年6月に神社境内の丸山公園に造った最後の石橋である。
 今では日独両国の友情の架け橋とされている。
 県の史跡(平成16年1月)に指定されている。全長9m、全横2.1m、高さ3.2m、撫養石(和泉砂岩)製、総重量約195トンの石積アーチ橋。


 下流側からドイツ橋です

 もう一枚の説明版です
    ドイツ橋
 第1次世界大戦の際、中国の青島で捕虜となったドイツ兵953人が、大正6年から9年までの間、大麻町桧の坂東捕虜収容所に収容されていました。
 この間地元住民との間に”国境を越えた人間愛と友情”がめばえ、高い水準のドイツ文化が伝えられました。
 バターやチーズの製法、博覧会の開催、楽団による演奏会等地元の発展に大きく貢献しました。
 帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし近くで採れる和泉砂岩を使ってドイツ橋が造られました。
     四国のみち  環境庁 徳島県

 奥宮へのルートですが、ここまでにします

 戻って、次は境内の大楠です
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