きょうのおひるは、ちょっと凝りました。厚揚げとナスのみそ味炒め、ちょっとしょうがも加えて、もう絶品に仕上がりました。ご飯は、ちょっと贅沢に赤飯を用意しました。148円の赤飯の素(3人前)を米2カップに加えて炊飯、小豆タップリノ赤飯が完成です。同時にニンジンのグラッセとカボチャの煮物。ミズナをサラダ代わりに、用意万端です。とはいえ、おひるは私一人の食卓。しかし、たべたかったものを全部こしらえて、もう満足満足。赤飯にパラッとふり塩した赤飯は、うーん、最高です。サンテレビの『善徳女王』を鑑賞しながら、ゆっくりとおひるを堪能したのだ。
保育園行事での子供に同情
「これみなさい。これも親が何も教えてやらないから…」
怒るように言うおばあちゃんの顔をマジマジと見る。さらに、弱ったなって表情の妻をふり返り、頭をかく。
実は保育園の音楽会の話題。4歳になる娘がカスタネットをたたく役に回っている。ほかにはピアノ、大太鼓、木琴、シンバルなどがある。
おばあちゃんに言わせれば、カスタネットは何もできない子らがやらされるもの。そして、何も出来ないのは、日ごろの親の姿勢がなってないからだとの論法。
しかし、この考えにはどうも付いていけない。カスタネットをたたくのは別にわが娘だけではなし、園児の大半が回されるはず。とすれば、彼らも何もできぬ仲間にならざるを得ない。
どちらにしろ、最近の保育園は全く行事が多すぎる。運動会や音楽会を手始めに、○○発表会ってのが次々とある。その都度色分けされてしまう園児の立場に同情の思いは強い。
失敗しては親に叱られ、軽い役に回されては、親や保護者家族らのタメ息を聞かされる。
いやはやこれでは子供の心がスクスク育つべくもない。学校にあがればいや応なく成績レースに巻き込まれる運命。だから、せめて保育園の段階では、もっとおおらかに育ててやりたいものだ.
(神戸・1987年12月8日掲載) )
「これみなさい。これも親が何も教えてやらないから…」
怒るように言うおばあちゃんの顔をマジマジと見る。さらに、弱ったなって表情の妻をふり返り、頭をかく。
実は保育園の音楽会の話題。4歳になる娘がカスタネットをたたく役に回っている。ほかにはピアノ、大太鼓、木琴、シンバルなどがある。
おばあちゃんに言わせれば、カスタネットは何もできない子らがやらされるもの。そして、何も出来ないのは、日ごろの親の姿勢がなってないからだとの論法。
しかし、この考えにはどうも付いていけない。カスタネットをたたくのは別にわが娘だけではなし、園児の大半が回されるはず。とすれば、彼らも何もできぬ仲間にならざるを得ない。
どちらにしろ、最近の保育園は全く行事が多すぎる。運動会や音楽会を手始めに、○○発表会ってのが次々とある。その都度色分けされてしまう園児の立場に同情の思いは強い。
失敗しては親に叱られ、軽い役に回されては、親や保護者家族らのタメ息を聞かされる。
いやはやこれでは子供の心がスクスク育つべくもない。学校にあがればいや応なく成績レースに巻き込まれる運命。だから、せめて保育園の段階では、もっとおおらかに育ててやりたいものだ.
(神戸・1987年12月8日掲載) )
保育園行事での子供に同情
「これみなさい。これも親が何も教えてやらないから…」
怒るように言うおばあちゃんの顔をマジマジと見る。さらに、弱ったなって表情の妻をふり返り、頭をかく。
実は保育園の音楽会の話題。4歳になる娘がカスタネットをたたく役に回っている。ほかにはピアノ、大太鼓、木琴、シンバルなどがある。
おばあちゃんに言わせれば、カスタネットは何もできない子らがやらされるもの。そして、何も出来ないのは、日ごろの親の姿勢がなってないからだとの論法。
しかし、この考えにはどうも付いていけない。カスタネットをたたくのは別にわが娘だけではなし、園児の大半が回されるはず。とすれば、彼らも何もできぬ仲間にならざるを得ない。
どちらにしろ、最近の保育園は全く行事が多すぎる。運動会や音楽会を手始めに、○○発表会ってのが次々とある。その都度色分けされてしまう園児の立場に同情の思いは強い。
失敗しては親に叱られ、軽い役に回されては、親や保護者家族らのタメ息を聞かされる。
いやはやこれでは子供の心がスクスク育つべくもない。学校にあがればいや応なく成績レースに巻き込まれる運命。だから、せめて保育園の段階では、もっとおおらかに育ててやりたいものだ.
(神戸・1987年12月8日掲載) )
「これみなさい。これも親が何も教えてやらないから…」
怒るように言うおばあちゃんの顔をマジマジと見る。さらに、弱ったなって表情の妻をふり返り、頭をかく。
実は保育園の音楽会の話題。4歳になる娘がカスタネットをたたく役に回っている。ほかにはピアノ、大太鼓、木琴、シンバルなどがある。
おばあちゃんに言わせれば、カスタネットは何もできない子らがやらされるもの。そして、何も出来ないのは、日ごろの親の姿勢がなってないからだとの論法。
しかし、この考えにはどうも付いていけない。カスタネットをたたくのは別にわが娘だけではなし、園児の大半が回されるはず。とすれば、彼らも何もできぬ仲間にならざるを得ない。
どちらにしろ、最近の保育園は全く行事が多すぎる。運動会や音楽会を手始めに、○○発表会ってのが次々とある。その都度色分けされてしまう園児の立場に同情の思いは強い。
失敗しては親に叱られ、軽い役に回されては、親や保護者家族らのタメ息を聞かされる。
いやはやこれでは子供の心がスクスク育つべくもない。学校にあがればいや応なく成績レースに巻き込まれる運命。だから、せめて保育園の段階では、もっとおおらかに育ててやりたいものだ.
(神戸・1987年12月8日掲載) )
美人の視線で決意した
「えっ?お前、まだたばこも喫わんのか?まだ子ども(ガキ)やのう」
勧められた煙草を無理に喫ってむせ、涙を流して苦しむ姿を面白げにちゃかす老人たち。なるほど煙草は大人の証明のひとつなのかと納得させられた日である。
以来、大人の集まりに加わるたびに、さほど好きでもないのに、カッコづけもあって無理に煙草をくわえるようになった。もう20数年前の、村の道普請に村内の高校生中学生が駆り出されるのが普通だったころの思い出だ。
社会に出てからは、今度は一人前の男の証しとなった。職場の仲間との付き合いの必須条件はたばこと酒と異性の話題で決まり。しゃべっていても手に煙草がないと、どうも間が持たない。気軽に勧められたのを断ると変な奴と見られてカドが立つ。そこで内心やけくそ気味にスパスパやってみせる。おかげでくわえ煙草が習慣になった。一日にひと箱のペースがだんだんと増えた。
『嫌煙権』がマスコミで市民権を持ち始めても、「そんなの関係ない!」と無関係を決め込む仲間の中にいた。
ところがついに、根っから好きでもなかった煙草とおサラバする時が来た。それもなんともたわいない理由からだった。
通勤途中の列車の中、いつも通りに煙草をくわえた。紫煙をくゆらしながら、何気なく視線を走らせた左隣。一瞬ドキッ!固まってしまった。かわいい女性の非難めいた視線と出合ったのだ。
即座に目を逸らしたものの、頭の後方に厳しい視線を感じる。あわてて煙草を握りつぶして灰皿に捨てた。駅に着くまで、まさに針のムシロ状態。しかも親指にヤケドのオマケ付き。とにもかくにも冷や汗ものの場面だった。
だが不思議にそれから煙草に手が出なくなった。もともと好きじゃないせいもあったのだろうが、友人にいくら勧められても、苦笑いで誤魔かした。その結果喜ぶべきか悲しむべきか、ついに禁煙が実現した。
昨今間接喫煙が問題になっている。喫う人と喫わない人の間の議論は喧々囂々と決して噛み合わない。
考えてみれば、わたしの場合、昔は喫煙加害者、いまは間接喫煙をこうむる被害者の立場。だから、どちらの意見もよく理解できる。
喫いたくないものを喫わされる。これはつらいし有害性も気になる。かといって米国のある州が実行した全面禁煙は、いささか横暴すぎる。あえて愛煙家の良識ある気配りに期待するしかないのかも知れない。
でも現実は、禁煙指定の車輛内で堂々と喫煙している人をよく見かける。実に不謹慎そのもの。歩きながらの一服。後に続く歩行者への奇襲攻撃に他ならない。
煙を吐き出すばかりで、もっての外の偽愛煙家。車の窓からポイ、歩きながらポイ、電車待ちの足元にポイ。目に余る最悪のマナーだ。
いかに道徳観念が鈍くなったご時世でも、こんな非常識は許されるはずもない。ただ問題は、それが喫煙者本人にとって非常識ではなく、日常性になっているから始末が悪い。
もっとせっぱつまった気持ちで、最善の気配りの発揮を、愛煙家に望みたい。それが喫煙者と非喫煙者の共存につながるはずだから。
ところで、わたしに禁煙のきっかけを作ってくれたあの美人を、その後数回、同じ列車内に見かけて驚いた。外国たばこをスマートにふかしている姿を拝見したからだ。ん?と頭をひねってみたものの、それが現実だった。
なにはともあれ、わたしに禁煙を促して(?)くれた彼女に感謝しておこうか。
(朝日・1987年9月3日掲載)
「えっ?お前、まだたばこも喫わんのか?まだ子ども(ガキ)やのう」
勧められた煙草を無理に喫ってむせ、涙を流して苦しむ姿を面白げにちゃかす老人たち。なるほど煙草は大人の証明のひとつなのかと納得させられた日である。
以来、大人の集まりに加わるたびに、さほど好きでもないのに、カッコづけもあって無理に煙草をくわえるようになった。もう20数年前の、村の道普請に村内の高校生中学生が駆り出されるのが普通だったころの思い出だ。
社会に出てからは、今度は一人前の男の証しとなった。職場の仲間との付き合いの必須条件はたばこと酒と異性の話題で決まり。しゃべっていても手に煙草がないと、どうも間が持たない。気軽に勧められたのを断ると変な奴と見られてカドが立つ。そこで内心やけくそ気味にスパスパやってみせる。おかげでくわえ煙草が習慣になった。一日にひと箱のペースがだんだんと増えた。
『嫌煙権』がマスコミで市民権を持ち始めても、「そんなの関係ない!」と無関係を決め込む仲間の中にいた。
ところがついに、根っから好きでもなかった煙草とおサラバする時が来た。それもなんともたわいない理由からだった。
通勤途中の列車の中、いつも通りに煙草をくわえた。紫煙をくゆらしながら、何気なく視線を走らせた左隣。一瞬ドキッ!固まってしまった。かわいい女性の非難めいた視線と出合ったのだ。
即座に目を逸らしたものの、頭の後方に厳しい視線を感じる。あわてて煙草を握りつぶして灰皿に捨てた。駅に着くまで、まさに針のムシロ状態。しかも親指にヤケドのオマケ付き。とにもかくにも冷や汗ものの場面だった。
だが不思議にそれから煙草に手が出なくなった。もともと好きじゃないせいもあったのだろうが、友人にいくら勧められても、苦笑いで誤魔かした。その結果喜ぶべきか悲しむべきか、ついに禁煙が実現した。
昨今間接喫煙が問題になっている。喫う人と喫わない人の間の議論は喧々囂々と決して噛み合わない。
考えてみれば、わたしの場合、昔は喫煙加害者、いまは間接喫煙をこうむる被害者の立場。だから、どちらの意見もよく理解できる。
喫いたくないものを喫わされる。これはつらいし有害性も気になる。かといって米国のある州が実行した全面禁煙は、いささか横暴すぎる。あえて愛煙家の良識ある気配りに期待するしかないのかも知れない。
でも現実は、禁煙指定の車輛内で堂々と喫煙している人をよく見かける。実に不謹慎そのもの。歩きながらの一服。後に続く歩行者への奇襲攻撃に他ならない。
煙を吐き出すばかりで、もっての外の偽愛煙家。車の窓からポイ、歩きながらポイ、電車待ちの足元にポイ。目に余る最悪のマナーだ。
いかに道徳観念が鈍くなったご時世でも、こんな非常識は許されるはずもない。ただ問題は、それが喫煙者本人にとって非常識ではなく、日常性になっているから始末が悪い。
もっとせっぱつまった気持ちで、最善の気配りの発揮を、愛煙家に望みたい。それが喫煙者と非喫煙者の共存につながるはずだから。
ところで、わたしに禁煙のきっかけを作ってくれたあの美人を、その後数回、同じ列車内に見かけて驚いた。外国たばこをスマートにふかしている姿を拝見したからだ。ん?と頭をひねってみたものの、それが現実だった。
なにはともあれ、わたしに禁煙を促して(?)くれた彼女に感謝しておこうか。
(朝日・1987年9月3日掲載)