ミサワホーム社長 竹中宣雄 構成=新田理恵 撮影=向井渉
若手ビジネスパーソンが集まる第2回「わかやま未来会議」。講師に招かれたミサワホーム社長の竹中宣雄氏は、「私の場合、弟(竹中平蔵氏)の方が有名で……」と切り出し、「私は優秀ではありません。失敗ばかりしてきた」と自嘲気味に振り返りつつも、そう思うがゆえに、がむしゃらに仕事と向かい、営業マンから社長に上り詰めた叩き上げエピソードを披露してくれた。
夜7時から0時までにアポ3件の猛烈営業
社長をめざして会社に入られる方もいらっしゃいますが、私は社長になろうなんて考えたことがありませんでした。とにかく、毎月与えられた責務をどう果たしていくか。そればかり考えてやってきたと思います。ただ、そのおかげで営業成績はすごく上がりました。
売っていたのは普通の戸建て住宅です。今、営業担当者が売る平均は年間4棟ぐらいでしょうか。私が入社した昭和47年当時は高度成長期でいい時代だったのかもしれませんが、新人時代、3年半で100棟売りました。
住宅の営業というのは、夜の7時から12時くらいまでがゴールデンタイムです。ご主人が帰ってこないと商談が進みませんから。私は毎晩3件のアポイントを頂戴するようにしました。7時から9時に1件、9時半から11時ぐらいに1件、11時半から午前1時までにもう1件。午前1時までいたらお客様に迷惑だろうと思うかもしれませんが、そうじゃないんです。住宅は一生に一度の買い物。 お客様は命がけの気持ちで話を聞いてくれるんです。
私がとった営業手法は、“気づかれないうちに、断りづらくしてしまう”こと。お客様のために、そこまで一生懸命やる。例えば、土地をひとつ紹介するにも、日経新聞でいうと最終ニュースの載る14版が配達されるエリアかどうかまで気を配ってあげなきゃいけない。「そんなこと考えてくれるのは竹中さんだけだ」と思ってもらえますから。
でも、そうした情熱や執着心のために、心に火を灯すマッチを持ち続けられる人って、実は少ないんです。人間はマンネリ化してしまうからです。幸い私は課長の仕事を覚えたと思ったらすぐ次長になり、その後、販売会社にて初めて名刺に「代表取締役」と入った37歳の時まで、速いポジションの変化で仕事に携わってきましたので、マンネリ化する暇がありませんでした。ポジションが変わらなくても自分で仕事の環境を変えて、アーリー・スモール・サクセス(早期の小さな成功)を連ねることでマンネリ化を回避することが大事だと思います。
仕事ができるうちに、全力投球せよ!
新人時代は長野県松本で勤務し、東京に戻ってきて、29歳で一戸建てのミサワホームを建てました。
26歳で結婚した時は貯金が一銭もなく、結婚式の費用も父親に出してもらいました。それからわずか3年後の29歳でなぜ家が買えたのか? 振り返ってみたら、答えは簡単でした。忙しすぎて、お金を使っている暇がなかったんです。結婚してから松本で営業をしている間、飲み屋でお酒を飲んだことは1回もありません。だって、毎日午前1時まで営業ですから。なぜそこまでやったのかというと、「自分は人様より能力がない」と思っていたから。そういう風に仕事をしていこうと心に決めていたんです。
これまで働いてきて思うのは、「やるべきことは早くやってしまう方がよい」ということ。今までは、20年間親に面倒をみてもらい、40年間働いて、20年間余生を送るという、“2・4・2”だと言われてきました。でも、寿命が延びているので皆さんの場合は100歳まで生きる心づもりが必要。つまり“2・4・4”になります。しかも、年金受給額は減ってくる。ですから、働いている40年の間に起承転結を作っていかないと、あとで後悔することになります。
これから、どんどん日本経済は厳しくなります。ごく普通のご夫婦に、定年退職後の65歳から85歳までの間、お2人が健康で過ごせたとしていくら使いますか? と質問すると、答えの平均は1億円でした。富裕層の方に同じ質問をしたら、平均は1億8000万円。すごい金額ですよね。ですから、そういう将来を念頭において仕事をしていくこと。“2・4・4”となっても充実した老後を過ごせる態勢を目指して、仕事ができる間に全力投球してもらえたらと思います。
若手ビジネスパーソンが集まる第2回「わかやま未来会議」。講師に招かれたミサワホーム社長の竹中宣雄氏は、「私の場合、弟(竹中平蔵氏)の方が有名で……」と切り出し、「私は優秀ではありません。失敗ばかりしてきた」と自嘲気味に振り返りつつも、そう思うがゆえに、がむしゃらに仕事と向かい、営業マンから社長に上り詰めた叩き上げエピソードを披露してくれた。
夜7時から0時までにアポ3件の猛烈営業
社長をめざして会社に入られる方もいらっしゃいますが、私は社長になろうなんて考えたことがありませんでした。とにかく、毎月与えられた責務をどう果たしていくか。そればかり考えてやってきたと思います。ただ、そのおかげで営業成績はすごく上がりました。
売っていたのは普通の戸建て住宅です。今、営業担当者が売る平均は年間4棟ぐらいでしょうか。私が入社した昭和47年当時は高度成長期でいい時代だったのかもしれませんが、新人時代、3年半で100棟売りました。
住宅の営業というのは、夜の7時から12時くらいまでがゴールデンタイムです。ご主人が帰ってこないと商談が進みませんから。私は毎晩3件のアポイントを頂戴するようにしました。7時から9時に1件、9時半から11時ぐらいに1件、11時半から午前1時までにもう1件。午前1時までいたらお客様に迷惑だろうと思うかもしれませんが、そうじゃないんです。住宅は一生に一度の買い物。 お客様は命がけの気持ちで話を聞いてくれるんです。
私がとった営業手法は、“気づかれないうちに、断りづらくしてしまう”こと。お客様のために、そこまで一生懸命やる。例えば、土地をひとつ紹介するにも、日経新聞でいうと最終ニュースの載る14版が配達されるエリアかどうかまで気を配ってあげなきゃいけない。「そんなこと考えてくれるのは竹中さんだけだ」と思ってもらえますから。
でも、そうした情熱や執着心のために、心に火を灯すマッチを持ち続けられる人って、実は少ないんです。人間はマンネリ化してしまうからです。幸い私は課長の仕事を覚えたと思ったらすぐ次長になり、その後、販売会社にて初めて名刺に「代表取締役」と入った37歳の時まで、速いポジションの変化で仕事に携わってきましたので、マンネリ化する暇がありませんでした。ポジションが変わらなくても自分で仕事の環境を変えて、アーリー・スモール・サクセス(早期の小さな成功)を連ねることでマンネリ化を回避することが大事だと思います。
仕事ができるうちに、全力投球せよ!
新人時代は長野県松本で勤務し、東京に戻ってきて、29歳で一戸建てのミサワホームを建てました。
26歳で結婚した時は貯金が一銭もなく、結婚式の費用も父親に出してもらいました。それからわずか3年後の29歳でなぜ家が買えたのか? 振り返ってみたら、答えは簡単でした。忙しすぎて、お金を使っている暇がなかったんです。結婚してから松本で営業をしている間、飲み屋でお酒を飲んだことは1回もありません。だって、毎日午前1時まで営業ですから。なぜそこまでやったのかというと、「自分は人様より能力がない」と思っていたから。そういう風に仕事をしていこうと心に決めていたんです。
これまで働いてきて思うのは、「やるべきことは早くやってしまう方がよい」ということ。今までは、20年間親に面倒をみてもらい、40年間働いて、20年間余生を送るという、“2・4・2”だと言われてきました。でも、寿命が延びているので皆さんの場合は100歳まで生きる心づもりが必要。つまり“2・4・4”になります。しかも、年金受給額は減ってくる。ですから、働いている40年の間に起承転結を作っていかないと、あとで後悔することになります。
これから、どんどん日本経済は厳しくなります。ごく普通のご夫婦に、定年退職後の65歳から85歳までの間、お2人が健康で過ごせたとしていくら使いますか? と質問すると、答えの平均は1億円でした。富裕層の方に同じ質問をしたら、平均は1億8000万円。すごい金額ですよね。ですから、そういう将来を念頭において仕事をしていくこと。“2・4・4”となっても充実した老後を過ごせる態勢を目指して、仕事ができる間に全力投球してもらえたらと思います。