民主党代表選を制し、第95代、62人目の首相に指名される野田佳彦氏。陸上自衛官を父に持ち、「地盤(支持組織)、看板(知名度)、カバン(選挙資金)」の“3バン”とは無縁のまま、松下政経塾の門をたたいた。派手さはない。だが泥臭く、粘り腰で、代表選では海江田万里氏をひっくり返し、40人近い同塾出身議員のなかで初めて首相の座をつかむ。
「政治家は命懸けなのよ」。幼少期の1960年10月、当時、社会党委員長の浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂での演説中に刺殺されたとき、母から聞いた言葉を今も覚えているという。3年後、ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺のニュースで「政治家は怖い仕事なんだ」との思いを強くした。
ジャーナリスト志望だったが、政治を志したのは早稲田大学在学中。卒業する1980年に松下政経塾が開校することを知り、第1期生として22歳で飛び込んだ。千葉県議を経て日本新党から国会議員に初当選したのは36歳のときだった。
挫折はすぐに訪れた。96年、新進党に移った2度目の衆院選では105票差で落選。惜敗率99.9%。新進党は比例代表との重複立候補を原則として認めていなかった。4年近い浪人生活で、野田氏を救ったのは「50人の中小零細企業のおやじさんたち」からのカンパだった。新進党解党後、民主党に入り、2000年、国政に返り咲いた。
■仕えやすい上司
権力をめざしたのも早かった。02年、当選2回で代表選に名乗りを上げ鳩山由紀夫、菅直人両氏らに対抗。「2年で政権を取れなければ議員を辞める」と断言し、鳩山氏を「攻撃能力に欠ける」、菅氏を「包容力が足りない」と切り捨てた。
05年の代表選後に国会対策委員長として「偽メール事件」に直面、引責辞任した。08年の代表選では自ら意欲を示しながらもグループ内の意見集約を優先したことで賛否が割れ、推薦人20人を集められず撤退を余儀なくされた。ボトムアップ型の手法には「優柔不断」との評がつきまとう。
今回の代表選ではいち早く「ポスト菅」へ始動。政権構想を載せた月刊誌論文を、発表前に与野党幹部や経済界関係者に渡した。しかし、当初は若手議員などの支持が広がらず、前原氏から「勝てる体制なんですか」と詰め寄られ、支援を拒否された。党重鎮の渡部恒三氏が「当選圏から外れている」とこぼすなど、一時は泡沫(ほうまつ)候補扱いもされた。
勝利の原動力は松下政経塾出身者だった。野田氏は彼らの兄貴分。陣営には野田グループ以外の塾出身者も詰めかけた。樽床伸二元国会対策委員長(3期生)と玄葉光一郎政調会長(8期生)は側面支援に回った。
「仕えやすい上司」とは財務省内で定着した評価。第一に財政政策にブレが少ない。第二は省議にあまり口を挟まない。国会答弁の直前に秘書官が背後からメモを入れても慌てず読み上げるという。官僚メモをそのまま読んでも野党から棒読みと批判されない姿は「橋本龍太郎氏以来だ」と同省幹部は語る。「財務省べったり」と一部で批判されるゆえんでもある。
財務副大臣、財務相を務めるなかで経済界とのパイプも築いた。経団連の米倉弘昌会長とは普段から電話で連絡を取り合う。2月には「いずれあなたの時代が来ますから」と声をかけられた。
■若さ戦後3番目
性格は真面目で、ライバルとされてきた前原氏と比べても行動、発言ともに慎重だ。4月末には会食した日銀幹部に「菅首相は本当にダメですよ」と言われても黙っていた。周辺には「それでもオレは支えるしかないんだよ」とこぼした。
30日に首相に指名されれば千葉県選出では初。戦後に限ると就任時54歳3カ月は、安倍晋三52歳、田中角栄54歳2カ月に次いで3番目に若い。
「アイデアリズム・ウイズアウト・イリュージョン」(幻想なき理想主義)。ロバート・ケネディ元米司法長官の言葉を政治信条とする。ユーモアを交えた演説にも定評がある。18日の演説では自民、公明両党との大連立の必要性を主張し、「101回でもプロポーズしたい」と言って聴衆を沸かせた。
「政治家は命懸けなのよ」。幼少期の1960年10月、当時、社会党委員長の浅沼稲次郎氏が日比谷公会堂での演説中に刺殺されたとき、母から聞いた言葉を今も覚えているという。3年後、ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺のニュースで「政治家は怖い仕事なんだ」との思いを強くした。
ジャーナリスト志望だったが、政治を志したのは早稲田大学在学中。卒業する1980年に松下政経塾が開校することを知り、第1期生として22歳で飛び込んだ。千葉県議を経て日本新党から国会議員に初当選したのは36歳のときだった。
挫折はすぐに訪れた。96年、新進党に移った2度目の衆院選では105票差で落選。惜敗率99.9%。新進党は比例代表との重複立候補を原則として認めていなかった。4年近い浪人生活で、野田氏を救ったのは「50人の中小零細企業のおやじさんたち」からのカンパだった。新進党解党後、民主党に入り、2000年、国政に返り咲いた。
■仕えやすい上司
権力をめざしたのも早かった。02年、当選2回で代表選に名乗りを上げ鳩山由紀夫、菅直人両氏らに対抗。「2年で政権を取れなければ議員を辞める」と断言し、鳩山氏を「攻撃能力に欠ける」、菅氏を「包容力が足りない」と切り捨てた。
05年の代表選後に国会対策委員長として「偽メール事件」に直面、引責辞任した。08年の代表選では自ら意欲を示しながらもグループ内の意見集約を優先したことで賛否が割れ、推薦人20人を集められず撤退を余儀なくされた。ボトムアップ型の手法には「優柔不断」との評がつきまとう。
今回の代表選ではいち早く「ポスト菅」へ始動。政権構想を載せた月刊誌論文を、発表前に与野党幹部や経済界関係者に渡した。しかし、当初は若手議員などの支持が広がらず、前原氏から「勝てる体制なんですか」と詰め寄られ、支援を拒否された。党重鎮の渡部恒三氏が「当選圏から外れている」とこぼすなど、一時は泡沫(ほうまつ)候補扱いもされた。
勝利の原動力は松下政経塾出身者だった。野田氏は彼らの兄貴分。陣営には野田グループ以外の塾出身者も詰めかけた。樽床伸二元国会対策委員長(3期生)と玄葉光一郎政調会長(8期生)は側面支援に回った。
「仕えやすい上司」とは財務省内で定着した評価。第一に財政政策にブレが少ない。第二は省議にあまり口を挟まない。国会答弁の直前に秘書官が背後からメモを入れても慌てず読み上げるという。官僚メモをそのまま読んでも野党から棒読みと批判されない姿は「橋本龍太郎氏以来だ」と同省幹部は語る。「財務省べったり」と一部で批判されるゆえんでもある。
財務副大臣、財務相を務めるなかで経済界とのパイプも築いた。経団連の米倉弘昌会長とは普段から電話で連絡を取り合う。2月には「いずれあなたの時代が来ますから」と声をかけられた。
■若さ戦後3番目
性格は真面目で、ライバルとされてきた前原氏と比べても行動、発言ともに慎重だ。4月末には会食した日銀幹部に「菅首相は本当にダメですよ」と言われても黙っていた。周辺には「それでもオレは支えるしかないんだよ」とこぼした。
30日に首相に指名されれば千葉県選出では初。戦後に限ると就任時54歳3カ月は、安倍晋三52歳、田中角栄54歳2カ月に次いで3番目に若い。
「アイデアリズム・ウイズアウト・イリュージョン」(幻想なき理想主義)。ロバート・ケネディ元米司法長官の言葉を政治信条とする。ユーモアを交えた演説にも定評がある。18日の演説では自民、公明両党との大連立の必要性を主張し、「101回でもプロポーズしたい」と言って聴衆を沸かせた。