大学のキャンパス公開に参加した受験生がナゾを持ち込んだ。「小、中、高校は児童や生徒が減っているのに、大学生だけ増えているそうです」。探偵の松田章司は「少子化なのに変だ」とつぶやくと小学生の伊野辺詩音を連れ調査に出た。
2人は文部科学省で資料を集めた。学校基本調査(各年5月1日現在)によると、4年制以上の大学生の数は1983年からほぼ一貫して増加。一時的に2006年から2年連続で前年を下回ったが、08年からは再び3年連続で伸びた。一方、小学生は82年、中学生は87年、高校生は90年から減少傾向を続けている。
12年春入社に向けた合同企業説明会で話を聞く大学生(東京都文京区)
「高卒者の職場が減り、就職できずに進学する人が増えています」。雇用に詳しい日本総合研究所の山田久さん(47)が説明した。厚生労働省によると、この春の高卒者への求人数は20万人弱で90年春卒の約15%にすぎない。高卒者を多く受け入れてきた製造業は80年代以降の円高で相次ぎ生産拠点を海外に移し、各社は事務部門をIT(情報技術)で合理化した。
東京大学教授で労働経済が専門の玄田有史さん(46)は「産業構造が変わり、より高い知識や技術を持つ労働者が求められる結果です。大学数も増えています」と指摘した。昨年の大学数は778校で大学生が増え始めた83年より7割増えた。短期大学からの転換なども相次いだ。
東京都教育庁のデータで都立高の98年3月卒と10年3月卒の大学進学率(短大など含む)を比べると商業高は7%から26%、工業高は5%から21%に伸びた。
文科省の全国資料では昨年の大学への進学率は51%と90年の2倍。この間、高卒者のうち就職する人の割合は半分以下の16%に下がった。「2人に1人が大学に進むのね」。感心する詩音に章司も「『大学の大衆化』だ。高等教育を受ける人の割合が高まるのは良いと思うよ」とうなずいた。
推薦入学など拡大
これを聞いた人材紹介のリクルートエージェント(東京都千代田区)の海老原嗣生さん(46)は首を横に振った。「そうとは言い切れません。従来は進学しなかった層が大学生になることで波紋も広がります」
海老原さんによると、大学は定員確保のため論文や面接によるAO(アドミッション・オフィス)、推薦など学力試験を原則課さない“特別選抜”での合格者を増やした。いまでは全新入生の半数近い。学力不足の合格者も多く、大学が補習を受けさせるケースもある。「だから企業は新卒者を採用する際、慎重に能力を見極めようとします」
就職難で留年
この春の大卒者の就職率は97年3月卒を対象にした調査開始から最低の91%(厚労省)。石油危機が起きた70年代にも大卒の就職難が社会問題となったが、当時の大卒はまだ少数派だった。大卒が大量供給されるいまとは事情が異なる。
「就職難でわざと留年する大学生も増えました。本学のように単位取得など要件を満たしても卒業を延ばせる制度を設ける大学が増え、容易になりました」。成蹊大学教務部長の秋庭正典さん(52)は明かした。10年の全国の大学生数は約289万人。前年比の伸びは約4万人で09年の4倍だった。増加分の多くは留年や大学院進学とみられる。就職活動では、たとえ留年しても新卒の方が既卒よりも有利とされるからだ。
成蹊大は学生の納付金を4年生時の半額に抑え半年以上の卒業延期を認める。この制度を利用した学生は今年3月の卒業予定が68人でリーマン・ショックが起きる前の08年3月卒予定の2倍。青山学院大学では同様の制度を今年3月卒業予定の250人が使った。
一方、企業は海外対応を進め、国内の新卒だけでは業務ができないと考え始めた。青山学院大には昨秋、企業から「上海出身の中国人女性で英語と日本語もできる留学生はいませんか」という問い合わせがきた。11年度に外国人の採用を増やす企業は多いようだ。
三菱総合研究所の酒井博司さん(48)は「大学の大衆化が国の競争力に影を落とし始めました」と言う。スイスのビジネススクールIMD(経営開発国際研究所)が公表する国際競争力ランキングを決める一項目「大学教育」で、日本は今年、調査対象の59カ国・地域中の49位だった。「高等教育機関の役割を果たせない大学が増えています」
最後に訪ねた就職情報会社ディスコ(東京都文京区)の恩田敏夫さん(67)が2人に話した。「企業で本当に求められるのはコミュニケーション能力をはじめとする社会人としての基礎力です。これを身につけるため大学では授業を活用するだけでなく、様々な経験を重ねることが大事です」
報告を聞いた依頼人の高校生は喜んだ。「選ばなければ入れる大学はたくさんある」。これを横目に詩音はかばんから夏休みの宿題を取り出した。「もう始めるの?」と驚く章司に平然と答えた。「就職できずに留年は嫌です。いまから勉強して力をつけないと」
(編集委員 加賀谷和樹)
<ケイザイのりくつ>大卒賃金、高卒より30~35%高く
一橋大学准教授の川口大司さん(40)によると、同年代の賃金は大卒の方が高卒よりもおおむね30~35%高い。それだけ大卒の生産性が高いと企業が期待するためだ。仮に高卒で4年間働いても収入は計1千万円前後にとどまり、4年遅れて社会に出る大卒を生涯賃金で上回ることも難しいのが実情だ。
こうした賃金格差が大学進学率の上昇につながると説明する専門家は多い。だが、日本企業にも学歴や年齢でなく役割や成果によって賃金を決める動きが広がってきた。川口さんも「同じ大卒の間で賃金格差が拡大する可能性が高い」と指摘する。
[日経プラスワン2011年7月23日付]
2人は文部科学省で資料を集めた。学校基本調査(各年5月1日現在)によると、4年制以上の大学生の数は1983年からほぼ一貫して増加。一時的に2006年から2年連続で前年を下回ったが、08年からは再び3年連続で伸びた。一方、小学生は82年、中学生は87年、高校生は90年から減少傾向を続けている。
12年春入社に向けた合同企業説明会で話を聞く大学生(東京都文京区)
「高卒者の職場が減り、就職できずに進学する人が増えています」。雇用に詳しい日本総合研究所の山田久さん(47)が説明した。厚生労働省によると、この春の高卒者への求人数は20万人弱で90年春卒の約15%にすぎない。高卒者を多く受け入れてきた製造業は80年代以降の円高で相次ぎ生産拠点を海外に移し、各社は事務部門をIT(情報技術)で合理化した。
東京大学教授で労働経済が専門の玄田有史さん(46)は「産業構造が変わり、より高い知識や技術を持つ労働者が求められる結果です。大学数も増えています」と指摘した。昨年の大学数は778校で大学生が増え始めた83年より7割増えた。短期大学からの転換なども相次いだ。
東京都教育庁のデータで都立高の98年3月卒と10年3月卒の大学進学率(短大など含む)を比べると商業高は7%から26%、工業高は5%から21%に伸びた。
文科省の全国資料では昨年の大学への進学率は51%と90年の2倍。この間、高卒者のうち就職する人の割合は半分以下の16%に下がった。「2人に1人が大学に進むのね」。感心する詩音に章司も「『大学の大衆化』だ。高等教育を受ける人の割合が高まるのは良いと思うよ」とうなずいた。
推薦入学など拡大
これを聞いた人材紹介のリクルートエージェント(東京都千代田区)の海老原嗣生さん(46)は首を横に振った。「そうとは言い切れません。従来は進学しなかった層が大学生になることで波紋も広がります」
海老原さんによると、大学は定員確保のため論文や面接によるAO(アドミッション・オフィス)、推薦など学力試験を原則課さない“特別選抜”での合格者を増やした。いまでは全新入生の半数近い。学力不足の合格者も多く、大学が補習を受けさせるケースもある。「だから企業は新卒者を採用する際、慎重に能力を見極めようとします」
就職難で留年
この春の大卒者の就職率は97年3月卒を対象にした調査開始から最低の91%(厚労省)。石油危機が起きた70年代にも大卒の就職難が社会問題となったが、当時の大卒はまだ少数派だった。大卒が大量供給されるいまとは事情が異なる。
「就職難でわざと留年する大学生も増えました。本学のように単位取得など要件を満たしても卒業を延ばせる制度を設ける大学が増え、容易になりました」。成蹊大学教務部長の秋庭正典さん(52)は明かした。10年の全国の大学生数は約289万人。前年比の伸びは約4万人で09年の4倍だった。増加分の多くは留年や大学院進学とみられる。就職活動では、たとえ留年しても新卒の方が既卒よりも有利とされるからだ。
成蹊大は学生の納付金を4年生時の半額に抑え半年以上の卒業延期を認める。この制度を利用した学生は今年3月の卒業予定が68人でリーマン・ショックが起きる前の08年3月卒予定の2倍。青山学院大学では同様の制度を今年3月卒業予定の250人が使った。
一方、企業は海外対応を進め、国内の新卒だけでは業務ができないと考え始めた。青山学院大には昨秋、企業から「上海出身の中国人女性で英語と日本語もできる留学生はいませんか」という問い合わせがきた。11年度に外国人の採用を増やす企業は多いようだ。
三菱総合研究所の酒井博司さん(48)は「大学の大衆化が国の競争力に影を落とし始めました」と言う。スイスのビジネススクールIMD(経営開発国際研究所)が公表する国際競争力ランキングを決める一項目「大学教育」で、日本は今年、調査対象の59カ国・地域中の49位だった。「高等教育機関の役割を果たせない大学が増えています」
最後に訪ねた就職情報会社ディスコ(東京都文京区)の恩田敏夫さん(67)が2人に話した。「企業で本当に求められるのはコミュニケーション能力をはじめとする社会人としての基礎力です。これを身につけるため大学では授業を活用するだけでなく、様々な経験を重ねることが大事です」
報告を聞いた依頼人の高校生は喜んだ。「選ばなければ入れる大学はたくさんある」。これを横目に詩音はかばんから夏休みの宿題を取り出した。「もう始めるの?」と驚く章司に平然と答えた。「就職できずに留年は嫌です。いまから勉強して力をつけないと」
(編集委員 加賀谷和樹)
<ケイザイのりくつ>大卒賃金、高卒より30~35%高く
一橋大学准教授の川口大司さん(40)によると、同年代の賃金は大卒の方が高卒よりもおおむね30~35%高い。それだけ大卒の生産性が高いと企業が期待するためだ。仮に高卒で4年間働いても収入は計1千万円前後にとどまり、4年遅れて社会に出る大卒を生涯賃金で上回ることも難しいのが実情だ。
こうした賃金格差が大学進学率の上昇につながると説明する専門家は多い。だが、日本企業にも学歴や年齢でなく役割や成果によって賃金を決める動きが広がってきた。川口さんも「同じ大卒の間で賃金格差が拡大する可能性が高い」と指摘する。
[日経プラスワン2011年7月23日付]