日本の年金制度で老後の生活は大丈夫なのか。法政大学の小黒一正教授は「年金財政の健全性をチェックする主な指標として所得代替率という値が利用されているが、この定義にはいくつもの重大な問題点がある」という。フリー編集者の落合龍平氏が聞いた――。
現役世代も他人事ではない年金の大幅引き下げ
「悪い円安」と「物価上昇」が話題だが、庶民にとって「生活苦」につながる、もう1つの重大な変化が起きているのをご存じだろうか。
それは「年金支給額の引き下げ」である。
2022年4月から、公的年金の支給額は0.4%引き下げられている。「マクロ経済スライド」の発動こそ見送られたものの、引き下げはこれで2年連続。しかも、14年の0.7%に次ぐ「大幅引き下げ」だった。
「年金が下がっても、影響を受けるのは高齢者だけ」
「高齢者はもらい過ぎだからむしろもっと下げたほうがいい」
内心そう思っている現役世代も、中にはいるかもしれない。だが、現役世代もいずれは年金を受け取る側になる。年金が減り生活を支えられなくなれば、その「ツケ」は現役世代にもいずれ回ってくる。
政府の「財政検証」は正しいのかを「検証」
少子高齢化が進み、年金引き下げが続く中、年金制度が本当に維持できるのか。国民がそう不安に思うのも当然だ。朝日新聞が20年に行った世論調査によると、「年金制度に不安」とした人は、現役世代の72%にも上る。
年金制度が維持可能かどうかを、5年に1度検証する仕組みがある。それが「財政検証」だ。
直近の「財政検証」は2019年に行われている。この年、「老後資金2000万円が不足」とした金融審議会の報告書を、当時の麻生大臣が前代未聞の「受け取り拒否」し、大きな話題となった。
その「19年度財政検証」において、公的年金は今後も持続可能という結論になっている。だが、本当にその説明は正しいのだろうか。
『2050 日本再生への25のTODOリスト』(講談社+α新書)を刊行した小黒一正法政大教授によると、「財政検証」には「政府による数字のゴマカシ」の疑念があるという。
「財政検証では、年金財政の健全性をチェックする主な指標として、『所得代替率』という値を利用しています。制度上、『所得代替率』とは、モデル世帯が受け取る年金額が、現役世代(厳密には現役男性)の所得の何パーセントにあたるかという数字として定義されています。所得代替率が50%を割った場合、給付水準や負担のあり方を含めて、制度の見直しを行うことが法律で定められています。
所得代替率はそうした重要な指標なのですが、この所得代替率の定義が『巧妙』であり、できる限り高い値として算出されるように定義している形跡が見えかくれするのです」(小黒教授)
「モデル世帯」の年金額は上位2割の富裕層
19年度の「財政検証」では、インフレ率や賃金上昇率などの予測を基にした6つのケースごとに、将来の「所得代替率」をはじき出しているという。
その大部分において、所得代替率は「減少はするものの50%以上を維持」となり、これこそが、政府・厚労省が「公的年金は今後も大丈夫」と主張する大きな根拠となっている。
しかし、小黒教授によると、その数字の算出方法が問題なのだという。
「公的年金の所得代替率は、『モデル世帯』の年金額を基に算出しています。ただ、この『モデル世帯』の選び方が問題なのです。
14年度の『モデル世帯』の年金額は、夫が年間約186万円(=月額15.5万円)、妻が年間約78万円(=月額6.5万円)、合計約264万円(=月額22万円)となっています。
しかし、厚生労働省の『年金制度基礎調査 平成24年』によると、150万円未満の年金しか受け取っていない男性は40.4%もいます。200万~250万円の年金を受け取る男性は19.8%しかおらず、『モデル世帯』といいながら、一部の裕福な世帯を例に挙げて議論しているのです」(小黒教授)
「夫が終身雇用、妻は専業主婦」はもはやモデルではない
しかも、「モデル世帯」の定義にも疑問があるという。
「『モデル世帯』とされているのは、『夫は40年間働いたサラリーマン、妻は40年間ずっと専業主婦』という世帯です。しかし、現実を見れば、もはや、これが『モデル世帯』ではないことは明らかです。
雇用の流動化が進み、年功序列で定年まで働くケースは減っています。また、女性の社会進出も進み、共働き世帯が増えています。
そんな中、夫が終身雇用、妻が専業主婦という世帯を『モデル世帯』とするのは、現実的に無理があります。もっと現実に即した『モデル世帯』を設定すべきです」(小黒教授)
「数字のトリック」はこれだけではない。小黒教授によると、そもそも「本当の所得代替率はもっと低い可能性がある」というのだ。
「所得代替率は、年金支給額が、現役世代(厳密には現役男性)の所得の何パーセントかを示す指標です。所得代替率が50%とは、現役世代の所得の約半分の額の年金をもらえる、という意味です。
つまり、所得代替率とは、『年金額を現役世代の所得で割ったもの』です。ただ、この計算方法にも、かねてより『重大な欠陥』が指摘されているのです」(小黒教授)
所得代替率が実際よりも高い数字になるトリック
「所得代替率」は、図表1の計算によって求められる。分母に「現役男性の平均収入」、分子には「年金の支給額」が入っている。
ここで注目されるのが、「手取りか総額か」という問題だ。図表1の分母にあたる「現役男性の平均月収」は、「手取り」、すなわち税・社会保険料を払った後の金額が入っている。
一方、分子の「年金の支給額」は、なんと税・社会保険料を支払う前の金額、つまり「総額」なのである。
要するに、分母は少なめに、分子は多めにして、割り算の結果がより大きくなるように仕組まれている、ということだ。これでは当然ながら、所得代替率は実際よりも高めに出てしまう。
問題はこれだけにとどまらない。
「分母と分子の世帯人数が異なっていることも大きな問題です。分母は『現役男性1人の平均月収』ですが、分子は『夫と妻の2人』になっています」(小黒教授)
なんと、2人分の年金と、現役世代1人の所得とを比べているという。所得代替率の定義なのだが、これが計算方法としておかしいのは子供でもわかる。こうした「数字のトリック」が堂々とまかり通っているというのは、驚きを禁じ得ない。
「どう経済成長しても年金は破綻しない」は本当か
「19年度財政検証」では、将来の経済成長率に基づいて、6つのケースを提示している。今後日本が経済成長すればするほど、公的年金制度の財政的な安定性も増す。
ただ、もし今後経済成長率が低下すれば、すぐ年金制度が破綻するというのでは困る。そのため、財政検証では、経済成長率が最良のケース(ケースI)から、最悪のケース(ケースVI)まで、6パターンを検討し、そのいずれにおいても年金制度は破綻しないと結論づけている。
だが、小黒教授によると、この分析も「希望的観測にすぎない」というのだ。
「6つのケースは、『TFP(全要素生産性)上昇率』や『物価上昇率』といった、いくつかのパラメータの組み合わせとして表現されています。
表は、6つのケースそれぞれが前提としたTFP上昇率と、そのTFP上昇率が過去30年に出現した割合、および、そのTFP上昇率が将来継続する確率をまとめたものです。6つのケースの確率は、図表2の3行目だと思ってください。
ケースIとIIが出現する確率はほぼゼロ、ケースIIIでも19.1%しかありません。つまり、ケースIやケースIIといった『高成長』ケースが実現する確率はほとんどない、ということになります」
政府と厚労省がひた隠しにする「本当の所得代替率」
ところで、日本の本当の所得代替率はどのくらいなのだろうか。
小黒教授によると、その数字は政府・厚労省の数字よりも「かなり低い」という。
「分母と分子を『税・社会保険料支払い前の総額』にそろえ、分子を『夫と妻』でなく、『夫1人』で計算してみます。
分母の『現役男性の平均収入』は、額面で月額43.9万円(年収約527万円)。一方、分子の『年金額』は、夫1人の額面で月額15.5万円です。この結果、所得代替率は、35.3%となります。
次に、分母と分子をともに『税・社会保険料支払い後の額』で、分子を『夫1人』で計算してみます。
現役世代の平均収入は月額35.7万円、分子は夫1人が医療などの社会保険料を月1万円支払うとして、月額14.5万円。この場合の所得代替率は40.6%となります。
いずれも、政府算出の所得代替率より低い水準です」(小黒教授)
OECDの計算でも日本の所得代替率は3~4割程度
ちなみに、OECDは加盟国の所得代替率のランキングを発表している。その数字も、小黒教授の主張を裏付けているという。
「OECDの所得代替率は、日本の所得代替率と定義が異なり、ある個人が老後に受け取る年金額が、現役時代の平均年収の何パーセントにあたるかという数字として計算します。実は、この計算方法が世界標準なのですが、OECDの計算では、日本の所得代替率は、税・社会保険料支払い前で35.1%、税・社会保険料支払い後で40.4%と、ほぼ私の計算と一致しています。また、日本の所得代替率がOECD加盟国の中でワーストクラスという点にも注意が必要だと思います」
つまり、現役時代の3~4割程度しか年金がもらえないというのだ。
より良い年金制度にするために国民全体で議論を
ただでさえ現役世代の実質賃金は年々減少を続けている。その減った賃金のうちの3~4割で、果たして老後の生活が成り立つのだろうか。
もっとも、小黒教授によると「政府・厚労省ばかりを責められない」という。
「所得代替率の計算方法は、法律(国民年金法平成16年改正法附則第2条)で定義されています。厚労省としては『決められた定義の通りにやっている』だけとも言えます。もちろん、この計算方法が本当に国民のためになるのか、より深い議論が求められるべきではありますが。
より良い年金制度にしたいという願いは政府・厚労省も当然持っています。しかし、政府・厚労省としても、さまざまな問題により、身動きが取れなくなっているというのが現状です。
高齢世代と現役世代から真逆のニーズを突き付けられ、一方では増税も難しいなど、政府・厚労省は手足を縛られた状態です。根本的な問題解決のためには、国民全体でもっと議論を深め、合意形成を図る地道な努力が必要でしょう」
年金について、一人ひとりの国民が、そろそろ真剣に考えるべき時期が来ているようだ。
---------- 小黒 一正(おぐろ・かずまさ) 法政大学経済学部教授 1974年、東京都生まれ。97年京都大学理学部物理学科卒業。同年、大蔵省入省、2005年財務省財務総合政策研究所主任研究官、08年世界平和研究所研究員、10年一橋大学経済研究所准教授を経て、15年4月より現職。著書に『日本経済の再構築』『薬価の経済学』『財政学15講』など。 ----------
---------- 落合 龍平(おちあい・りゅうへい) フリー編集者 通信系出版社、新聞系出版社を経て独立。経済・ビジネス・ノンフィクション書籍の編集のほか、ビジネス系WEB媒体の編集を中心に活動。大手WEB媒体を中心にライターとしても活動中。 ----------