カウンセリング・マインドを生活と仕事に活かす
● 私のカウンセリング・マインド
私は、カウンセリングをしたことも、受けたこともありません。でも、カウンセリングは、大学に入って心理学を勉強しはじめてからずっとなにかと興味を持ち、ひそかに?、いくつかの技法やその精神(カウンセリング・マインド)を自分の心の管理と仕事と対人関係を良好に保つために活用してきました。おかげで、なんとか「ここまでこれた」とさえ思うこともあります。
余談になりますが、その嚆矢はフロイトです。
当時の学生、自分も含めてほとんどが、授業そっちのけで好きなことをやっていました。自分は、勉強では、フロイトの精神分析でした。夢中で、全集をむさぼり読みました。4年間、どの先生からも、フロイトの「フ」の字もでなかった記憶があります。でも、自分には強烈なインパクトがありました。
さて、そのカウンセリング・マインドって「自分にとって」どんなものだったのかを、あらためて、この1文を書くために考えてみました。内省力、共感力、そして、会話力の3つが出てきました。それぞれについて、やや懐古談風になりますが、自分の体験も踏まえながら書いてみたいと思います。
●内省力
心が乱れているその時や心が活発に活動しているときは、あまり内省することはありませんが、心穏やかなときの振り返り内省、あるいは今現在の内省、さらに少し先の内省をすることを習慣づけてきました。
落ち込んだときは、内省もしんどい作業になりますが、それでも習慣になってくれば、冷静さを取り戻せるきっかけにもなりますし、それが自分の心の深読みへと誘ってくれたように思います。
さらに、なによりの賜物は、それが心理学の授業の貴重な素材になったことです。もちろん、かなり脚色して話すことにはなりますが。
●共感力
共感というほど大げさではなく、ただ、目の前の人の心に思いをはせることができるようになれました。これによって、相手の心を自分の心のごとく見つめることができるようになりました。ただ、これができるようになったのは、かなり年をとってから、50歳代になってからのような気がします。
大学での若者相手の教育という仕事ですから、若いころは、つい教え導くことのほうを優先してしまい、自分目線の厳しい言動をしてしまいました。それはそれで教育的にはあり、だとは今でも思っていますが、およそカウンセリング・マインドとはほど遠いものになります。
それが次第に、相手目線に立てると同時に、相手の言動、気持ちを受け入れることもできるようになりました。それには、まったく個人的な体験ですが、妻が精神を病むようになったことが契機になりました。どう考えても理不尽な言動と付き合ううちに、やはりあるところまでは、それをそのまま受け入れることが必須であることに気づかされました。
自分(I)で自分(me)を知る仕方を相手の知るのに投影して理解するのがいわば研究者的な理解の仕方であるのに対して、相手がどう自分を理解しているかをいったん自分の理解の枠組として取り込んでそれを使って相手を理解する共感的な理解ができるようになったのです。
●会話力
会話力には、ざっくり分けると、事実ベースのやりとりと気持ちのやりとりとがあります。前者をレポート(report)トーク、後者をラポール(rapport)トークと区別することがあります。
研究者にとっては、レポート・トークのほうが大事になります。そこでは、伝える内容の信頼性と充足性、さらにわかりやすさに配慮することになります。しかし、研究者が教員になると、とたんに、学生相手のトークが求められます。そうなると、レポート・トークだけでは十分ではありません。学生との親密で情緒的な関係づくりには、ラポール・トークのほうにも留意する必要があります。
これも若い頃の話になってしまいますが、学生との年齢がそれほど離れていないときには、ラポールがほとんど無意識のうちにとれていたように思います。しかし、自分の子どもが成長してだんだん心理的に離乳をしはじめる40代になると、自分の子どもも含めて若者の心がわからなくなってきます。したがって、次第に心理的にも疎遠な関係になってきます。
そんなとき、カウンセリングにおける人間関係づくりに重要とされるラポール・トーク、さらには、傾聴の考え方や技法は、非常に助かりました。
レポート・トークでは、教員と学生の間では、どうしても教員側からの情報の一方的な垂れ流しになります。学生は消化不良を起こします。それが双方の学びの緊張感を高めることも、若い頃には確実にありました。しかし、だんだん年齢が離れるにつれて、それが権威主義的な関係になってきてしまいます。そんなときに、ラポール・トークや傾聴の技術は、新たな学生との関係づくりに大変役立ちました。