Q2・8「心の働きがすべて因果的に決まってしまうというのは、なんとなく窮屈な感じがするのですが」---目的的説明
因果的説明は原因が与えられれば結果は決まってしまいます。因果論は、決定論ですから、窮屈に感じるのは当然です。
しかし、日常的な説明とは違って、サイエンスとしての心理学における説明は、他の自然科学と同じで、因果的な説明が基本ではあるべきだと思います。原因を操作する実験ができないときでも、モデル(理論)の世界では因果的に考えることが基本になっています。
たとえば、
・幼児期の親の虐待(原因)が、青年期の不安定な性格を作り出した(結果)
・勉強の仕方(原因)は、テスト成績に影響する(結果)
・強度のストレス(原因)が引き金になって統合失調症を発病した(結果)
いずれも、馴染みのある説明です。この因果的説明をより強固なものにしたいという心理学研究者の強い思いが、実験や調査などを使った実証研究へとへと向かわせます。
しかしながら、人は物ではありません。目的をめざして努力する存在です。生き残るための戦略を駆使する存在でもあります。
人にこんな特性があるのに、それを因果的枠組だけでとらえようとすれば、無理が生じます。見えるものも見えなくなってしまう恐れがあります。心理学がつまらないものになってしまいます。
というわけで、人の心や行動を説明するときには、因果的説明だけでなく、目的的説明もなされることになります。たとえば、
・幼児がかわいいのは、親から愛情を引き出す(目的)ためである
・人を助けるのは、人としての種の存続をはかる(目的)ためである
こうした説明は特に、進化論的説明と呼ばれています。今、進化心理学がはやりだしていますので、このたぐいの説明があちこちで行なわれるようになると思います。ただし、サイエンスとしての心理学の説明とは用心深く使う必要はあります。
***図 因果的説明と目的説明 別添
どんなときに目的的説明が使われるかと言うと、科学的な人間研究の背景になる人間観を問題とするとき、あるいは、それに派生するグランドセオリー(研究者をガイドする大きな思考の枠組)を作り出すときです。
なお、目的的説明は科学的説明としては「用心深く」使うといいましたが、その理由の一つには、目的的説明には、「オールマイティ説明(なんでも説明できる)」になりがちということがあります。これについては、後述する動機論的説明のところでさらに考えてみます。
もう一つの理由としては、目的的説明の妥当性を実証できないことがあります。
説明の妥当性を補強する「証拠」を挙げることはできますが、それは、研究者が積極的にデータを「作り出す」実証とは異なります。したがって、都合のよい証拠だけしか挙げられないことが多くなります。そもそも反証可能な形で仮説が提出されないことが多いのです。
目的的説明は、この両面性、つまり、「わかるけど嘘っぽい」というが特徴です。
なお、次のような説明は、見かけは目的的説明のようですが、実は、心の内面を考えれば、因果的です。心理学では、このタイプの説明が多くなります。
・ペットを買った(結果)のは、生活を楽しむためである(目的)
・殺人をおかした(結果)のは、お金を取るためである(目的)
つまり、生活を楽しもうという目的(意図)を心の中にもったことが原因になって、ペットを買うという結果が起こった、と考えればよいのです。目的そのものは時間的に後にきますが、目的を「意図した」のは行為の前で、しかも、それが行為に影響しているのですから、まぎれもなく因果的です。心理学では、行為の意図を動機と呼ぶところから、これは、特に、動機論的説明と呼びます。
犯罪調査において犯罪の動機解明が必須なのも、動機が原因となって、犯罪が発生した、という因果的説明をしなければ、裁判にならないからです。
この動機論的な説明にも、実は、やっかいな問題が隠されています。したがって、科学的な説明としては際物(きわもの)です。
一つは、目的や意図という心の世界が、行為という物理的な世界を規定するとする前提への疑問です。
私たちの日常的な感覚としては、心身症(心が原因で起こる身体症状)を持ち出すまでもなく心が身体や行動に因果的に影響していることは十分に実感しています。それが、動機論的説明を許容する一つの根拠になっていますが、突き詰めて考えると、完全には納得できないところもあります。動機と行為との間は思った以上に距離があるからです。殺したい(動機)と思っても、実際に殺す(行為)までには、大変な距離があります。
動機論的説明の際物性その2は、安易に動機を説明に使うと、「そうしたいから(意図)、そうした(結果)」というオールマイティ(almighty)な説明、つまり「全知全能の神がそうさせた」という説明になってしまいがちなところです。
「なんでも説明するものは、何も説明していないと同じ」なのです。試しに、あなたの行為を動機論的に説明してみてください。見事に説明ができてしまうはずです。
実際に、心理学の歴史の中でも、本能論という形で、この類の説明がなされたことがあります。ある行為が起こったとき、それはそうしたいという本能があったから、だと言うのです。 行動主義は、こうした際物性を避けるために、外的に観察可能な行動と操作可能な物理的世界にだけ因果的説明を求めました。結果として「心のない」心理学を作り上げてしまったのですが、科学論としては、実にすっきりしたものになっています。
動機論的説明のもう一つの問題は、動機を行為の原因となりうることを認めたとしても、、後づけ説明、俗に言う結果論の誤りをもたらしがちなことです。
後付け説明とは、事が起こってから、その原因を推測して因果的な説明を組み立てるものです。事故原因の追及や紛争発生の原因などのような社会的、歴史的な事象のほとんどは、このタイプ説明になります。
動機論的説明では、人の行為が起こったあとで、それは、どんな動機で起こったのかを探ることになります。まさに、後づけ説明をすることになります。
後付け説明には、事故調査のよう因果的関係が物的な証拠として存在するところでさえ、説明の誤りリスクがあることが知られています。
これに加えて、動機論的説明では、動機と行為との間をつなぐ糸が細く長いために、さらに誤るリスクを高めることになります。
野球解説者が、三振したプレーを、「ホームランをねらいすぎましたね」ともっともらしく解説するようなことがよくあります。
この解説(説明)が本当に正しいかは、打者に聞いてみないとわかりません。でもそうかもしれないと思わせてしまうところに、後付け説明の危うさがあります。