月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

琵琶湖・沖島の神社と白鬚神社の研究

2019-01-14 09:52:21 | 祭と民俗の旅復刻版 社寺考

 

 

 はじめに

 このページは、管理人・山田貴生の滋賀県近江八幡市のラジオ局・B-WAVEでのゲスト出演に際してつくったものです。内容は、かねてから研究していた沖島と白鬚神社の関係についての中間報告となっていますが、時間がない中での突貫工事的なレポート作成により、誤字脱字・事実誤認など、多々の不備があるかと思いますが何卒ご容赦くださいますようよろしくお願い申し上げます。ただ、大筋の内容に関しましては、琵琶湖、及び日本を巡る宗教文化の研究に一石を投じるかもしれない(?)と、期待しています。

 その真偽はともあれ、内容的には、そこそこ面白いものになっているかと思いますので、最後までお付き合いしていただくと幸いです。

 後々、写真などをアップしていくので、末永くよろしくお願いしますね。

 この文章より後は、「である調」に変わります。

 ほぼ文章の書き終わりに際して・白鬚神社から島町の奥津島神社にかけての直線は、他にも考えている人がいることが分かりました。(TT;

 

沖島の神 

1 信仰の島・沖島

 日本最大の湖である琵琶湖。この湖は古来より、平安、奈良、大津の都と東国を結ぶ交通の要所として重視されてきた。その琵琶湖には多景島や竹生島等の景勝の地として名高い湖島を擁する。そして、本論の主題の一つとなる日本で唯一つの人が住む湖島・沖島もまた琵琶湖に浮かんでいる。

 沖島はもともと無人の島であり、その当時から神の宿る島として人々の信仰の対象ともなっており、歌人たちがその威容を称えてきた。かつては、奥島、おいつ島などと呼ばれていたようである。

 また、「神の島」の名残は、奥津嶋神社の社殿がその存在を伝えている。

社殿にいわく、奥津嶋神社は延喜式神名帳に記載された、いわゆる式内社であり、福岡県の宗像大社に鎮座する、多紀理姫神を祀っているという*1。

では、式内社でもある奥津嶋神社とは、いかなる伝承をもつ神社なのだろうか。

 

*1 奥津嶋神社案内板、『大嶋神鎮座記』、『近江国與地志略』

 

2 大嶋神鎮座記に残る伝承と、陸の奥津嶋神社

  奥津嶋神社の鎮座伝承として残っているのが、『大嶋神鎮座記』である。残念ながら、この記録は途中までしか残存していないという。少し長くなるが、非常に興味深い記述であるので、奥島に鎮座するまでの部分を揚げておく。

 

 大嶋神□<□内はおそらく「社」の字が入ると思われる。>

 あわうみのくに①津田の庄にいつきまつ□(る)御神ハ②大國主の御神、多□比米の御神、③奥□(津)島姫の御神、事代主の御神たちなり、このく□(に)津田の庄にとしふるくすみ<歳古く住み>、①しらひけ(白鬚)の御□(神)の御すへなりとて、いのちもなかさ(「き」か)おきな(翁)ありて、川わ得のつちいしといへる②いは(巌)のうへにて、つり(釣)りてあそふ事をすきたりしか、ある夜はるか□④(き)たのか□(た)をくしま(奥島)の杉のはやしにひかりかゝ□(や)けるを見たり、おうな(嫗)<「おきな(翁)」が「おうな(嫗)」に変わっているが、文脈上判断すると、「おきな」が正しいと思われる。>あやしと思ひ、あし原を□(か)きわけてひかりをたすねさくるに、けたかきい□(く)たりもの神、杉の木末にいまして、⑤われハむなかたの主なり、このミつうみ(湖)のけしきよく□をりく<同音附。「をり」を繰り返して「をりをり」と読む>遊ひたりしに、いまはか□るましとのたまい(宣)しゆへ、おうなをほいによろこ(喜)ひ、かなたこなたとよきところをもとめ、いつきたりしにのちに□□<「をく」の字が入ると思われる。>しまの宮の神とはなれり

 

 注()は、『大嶋神鎮座記』を所収している『神道大系 近江国編』につけられていたもの。<>、○数字、色付けは、管理人。

 

ここでは、赤字の○数字の箇所について考察していく。

①津田の庄というのは琵琶湖上の沖島ではなく、琵琶湖沿岸・近江八幡市の島町(津田のすぐ隣)に位置する神社も奥津嶋神社とよばれており、これを指すものと考えられる。そこに挙げられている②大国主の神は、奥島に鎮座しているとされる多紀理姫神を妻にする。この多紀理姫神は、後に④きたのかたをくしま(島町の奥津島神社の北方にある沖島のこと)鎮座するとされる⑤むなかたのあるじ・三女神の中、宗像・沖の島に鎮座する長女の神である。『嶋神鎮座記』という名称を考えると、もしかしたら、むなかたのあるじは、後述する宗像・大島に鎮座する湍津姫神なのかもしれない。

島町の奥津島神社は大嶋神社ともよばれているが*2、大嶋は宗像三女神の中の次女の湍津姫神が鎮座する宗像の大嶋を現すと考えられ、神名帳に記載されている奥津島神社と大嶋神社は異名同体的な性質を持っていると考えてられよう。となると、②大国主の神と並んで記載されている③奥津島姫神というのは宗像・沖の島に鎮座する多紀理姫ととらえることもできよう。

むなかたのあるじが、果たして長女の多紀理姫神をあらわすのか湍津姫神の神をあらわすのかは分からない。ただ、島町の大嶋神社・奥津島神社と沖島の奥津島神社という、宗像系の神が琵琶湖にも鎮座した伝承が残っているということが伺える。また、宗像の女神は航海の安全を司る神でもあり、同じく航海の安全が渇望された琵琶湖に勧請されたのも意味があることといえるだろう。

 

3 宗像・三女神の描く直線

 前述した宗像の姫神は、記紀神話に記されている三姉妹の神である。この宗像三女神は、素戔鳴尊の剣を噛み砕き、天照大神が息を吹きかけたことにより生まれた女神である。その中の長女・多紀理姫神は沖の島に、湍津姫神は大島に、市杵島姫神は九州本土の辺津宮に鎮座した。

 朝鮮半島に面した海に位置する港と島に位置した、三女神の使命は、皇孫を鎮護することという。また、航海の安全を司る道主の貫の神であったことも伺える。

 この宗像三女神が位置する沖の島、大島、辺津宮は一直線に並んでいる。また、辺津宮はまっすぐと北西の大島とその向こうの沖の島の方向を向いているのである。このことを考えると、三女神の神社により、まっすぐのラインをつくる作業が古代の人によって行われていたことが伺える。


大島に位置する宗像大社の湍津宮 湍津姫神を祀る。

 
 宗像大社辺津宮 市杵島姫神を祀る。

  

4 琵琶湖にも描かれる直線

 前述の通り、宗像三女神は、その本拠地・宗像の地において、北西から南東にかけて一直線に並んでいる。では、その「むなかたのあるじ」を勧請した沖島の奥津島神社と、島町の奥津島神社・大島神社の位置関係はどのようになっているのだろうか。

 地図のように、二つの神社は宗像の例と同様に、真北より少し西の方角から、真南より少し東の方角にかけての直線を形成している。その直線が意図的なものであることを示すかのように、沖島の奥津島神社は、真南より少し東の方角に位置する島町の奥津島神社を向いているのである。

 この位置関係からも、琵琶湖の安全を司る神としての性質をもつ宗像の神が、琵琶湖沿岸にも鎮座しているということが伺える。

 そして、この直線はさらに奥まで続いていたのである。

 

白鬚の神

これより『大嶋神鎮座記』につけた○数字は、特に指定がない限り青文字をさすものとする。

1 奥津嶋神社ライン延長線上の神・白鬚 –釣りの後の鎮座-

 二つの奥津島神社が成す直線を沖島からさらに延ばすと、高島郡の白鬚神社に突き当たる。

 白鬚神と同体とされる猿田彦神も、道中安全の神とされることから、ここも宗像の神と共通する。

 この白鬚神社は、近江の厳島と呼ばれるように水中鳥居が名物となっている。この白鬚神社の社殿と水中鳥居もまた、沖島の方向を向いており、二つの奥津島神社及び、大嶋神社の直線を意識したものと考えることができよう。二つの奥津島神社・大嶋神社の鎮座に関わったのが、「①しらひけ(白鬚)の御□(神)の御すへ」であるということからもわかる。

ところで、「①しらひけ(白鬚)の御□(神)の御すへ」が、宗像の神が奥島に鎮座する際にしていたことは、「②いは(巌)のうへにて、つり(釣)りてあそふ事」である。そして、白鬚明神自身が現在の地に鎮座する際にしていたことも、『白鬚神社縁起』によれば、「釣りをたれあそひたまふ」ことである。何れも鎮座の予兆としての釣りが行われるところが興味深い。

ただ、宗像神の沖島への鎮座は、白鬚神の子孫が釣り糸をたれた後におきたことであるから、白鬚神の鎮座より後のことになる。宗像神は巫女的な性質も持つ神であることを併せて考えると、宗像神の沖島への鎮座は、白鬚神の末裔が祖先神である白鬚神を祭るために行われたものであると考えることができる。

  

2 白鬚と水尾

 島町の奥津島神社から白鬚神社までの直線をさらに延ばすと、今度は水尾神社にいきつく。

 水尾神社の祭神は、一説に猿田彦神*3といわれており、猿田彦神と同体とされる白鬚神と共通する。また白鬚神社近くの長谷寺の「長谷寺縁起絵巻」において、本尊である観音像を刻む依木を運ぶ際にそれを守護するのは、白鬚の老翁(三尾明神)である*4。さらにその依木は、水尾神社を擁する三尾山の木であるという。三尾山から水尾神社の境内を通り琵琶湖にかけて、水尾川という川が流れていたという。この川を隔てて、水尾神社は河南の社と河北の社に分かれていた*5。このように、水尾神社は、長谷寺を介しても白鬚神社との結びつきが非常に強くなってくることがわかる。


宗像湍津宮の織女社。


 宗像湍津宮横の牽牛社。

*3 『近江国與地志略』による。社伝では磐衝別命となっている。

*4 大和巌雄「志呂志神社・白鬚神社 –白神信仰と秦氏-」『秦氏の研究』(大和書房)1993

*5 『近江国與地志略』

 

3 福岡県宗像大島の七夕を髣髴とさせる水尾神社

水尾神社の祭神は猿田彦神とされているということを前述したが、これは、水尾川を隔てた河南の社に鎮座していた。一方、河北の社には猿田彦神の妻である天細女神が鎮座していたという*6。

川を隔てた夫妻で連想するのが、天の川で隔てられた牽牛と織女の七夕信仰である。

水尾・白鬚を奉祭していると考えられる沖島と島町の宗像神の本場・宗像大島の地において、七夕の信仰が見られる。宗像の大島に鎮座する宗像大社湍津宮内に織女宮が位置し、境内を流れる小川を挟んで川の向こうに牽牛宮が位置するのである。

水尾神社における川を隔てた夫婦の位置関係は、宗像の七夕信仰を髣髴とさせる。

そして、島町において奥津島神社だけでなく、大島神社の名ももつのは、宗像において川を隔てた夫婦の位置関係がつくられた七夕信仰が大島においても、水尾神社同様に行われていたからなのだろう。

 

*6 *5に同じ。

結論

 島町の大島神社・奥津島神社から、沖島の奥津島神社、そして白鬚神社、水尾神社と一直線に並んでいた。また、島町の大島神社・奥津島神社、沖島の奥津島神社は、白鬚神の末裔が釣り糸をたれたことに鎮座していることから、白鬚神を祭る巫女としての役割を宗像の神に託して両神社に鎮座していると考えられる。さらに、それを示すかのように、宗像の大島と同様に、七夕を模した河を隔てた夫婦の神殿の配置を髣髴とさせる配置が水尾神社で行われていた。 

 

番外1:白鬚と新羅

 大和巌雄氏によると、白鬚はシラキに通じる名前という。つまりは、白鬚神は渡来系の神であると考えられている。詳細は半月城氏のサイトにて。

 

番外2:福岡県宗像神が崇める神 

 滋賀の宗像神の直線は白鬚にいきついた。では、沖の島はどうなるのだろうか。

 『日本書紀』の一書において素戔鳴尊が天下ったとされるソシモリの山の候補地・伽耶山(古くは牛頭山)に行き着く。

琵琶湖の例にしろ、宗像の例にしろ、皇孫をいつき祭るはずの宗像神が半島系の神を祀るかのように位置しているのは興味深い。また、上で挙げた『大嶋神鎮座記』において、奥島の神は帝を遠慮なく病に伏せさせる。

 参考文献・金道允「伽耶から出雲まで」(島根県日韓親善協会連)1995 

 

番外3:京の都・内裏の上の紫野の山、出雲・上のスサノオと下のアマテラス

 京の都において北極星たる天皇は、都の東西の中心・北側に自らを北極星にみたてて内裏を構えていた。そして、その裏に位置するのが、紫野の山。ここに祀られていたのが、牛頭天王、あるいは大国主の命といわれている。北極星たる天皇の地に何故、皇統からはずれたものが祀られたのかに疑問が残る。

また、ソシモリ山候補の伽耶山と関係が深い出雲の地においても、多くの神社が上宮に素戔鳴尊、下宮に天照大神を祀っている。記紀神話の皇祖神天照大神と皇統から外れた素戔鳴尊の序列が逆さまになる現象は、何ゆえなのだろうか?

 
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-リンク-

  本ページ管理人は、気に入らない人間を「テロリスト」として逮捕できる共謀罪に断固反対します。
 巷で「世紀の悪法」と呼ばれる法律について。
  
 B-WAVE 79.1FM
  
管理人が出演した滋賀県近江八幡市のFMラジオ局。月曜日5時からの<僕らの町暮らし>というコーナーに出演。

 半月城通信
  半月城さんのサイト。日韓史の膨大な歴史コラム。

 
宮澤賢治 「やまなし」 の研究  
  本ページの兄弟ページ。アイヌ語による、クラムボン、イサド、かぷかぷ、「私の青い幻燈」の考察。
                             
                         
                     
      
2001-2007年頃ジオシティーズウェブページ「社寺考」『祭と民俗の旅』ID(holmyow,focustovoiceless,uchimashomo1tsuなど)に掲載。
2019年本ブログに移設掲載。写真の移設が自動的にできなかったため、随時掲載予定。


                     

                     
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