かなり遅くなっての七月号です。 遅れた理由は、この記事からお察しくださればと思います^_^;
今年、京都祇園祭は、大きな節目を迎えます。元来二度にわたり行われていましたが、近代化による交通渋滞などの事情により一度にまとめられていた山鉾巡行。今年からお神輿のお渡り・先の祭、お戻り・後の祭のそれぞれの日に二度行われることになりました。そして、幕末の禁門の変で焼失して以来休み鉾となっていた後の祭りの大船鉾(凱旋船鉾)が、今年から復活しました。
先の祭と後の祭に参加する山鉾はそれぞれ異なっていますが、共通する点があります。それが、後を行く船型の鉾が行くことです。そして、いずれも神功皇后の新羅遠征を表しています。先の祭の船鉾が神功皇后が新羅に攻めて行く時の船で、後の祭の凱旋船鉾が、新羅から戻る時の船です。 船に乗る神様達を見ると、神功皇后、竹之内宿禰、龍神(一説によると安曇の磯良)、となっています。
↑修復中の大船鉾
↑現行の船鉾(前祭)
↑江戸時代の船鉾絵図(前祭)、模写・管理人
では、他の地域の神功皇后遠征物はどのような物があるのでしょうか。 ここでは、日本最古の書物と言われる「古事記」(倉野憲司校注、岩波書店 1963)を中心にその場面を見ていくことにします。
1彫刻・高覧掛けで好まれる? 神功皇后の御懐妊の場面
↑西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台欄間彫刻。
神功皇后御懐妊
西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台の欄間彫刻には神功皇后ご懐妊の場面が狭間彫刻の場面として描かれています。古事記には
「故、その政(まつりごと・ここでは遠征中)未だ竟へ(おえ)ざりし間に、その懐妊(はら)みたまふが産(あ)れまさむとしき。すなわち御腹を鎮めたまはむとして、石を取りて御裳の腰に纏(ま)かして、筑紫の国に渡りまして、その御子は生(あ)れましつ。故、その御子の生れましし地(ところ)を號(なづ)けて宇美といふ。」
と、遠征中は生まれないように石を腰に巻き、筑紫に帰ってきたところで応神天皇を生んだようです。
狭間・欄間(以下・欄間)彫刻ではどちらかといえば、後述する遠征時のものよりも、比較的帰還後のものが好まれているのでしょうか。確かに、欄間彫刻では、後述する遠征時の図柄は困難なのかもしれません。
同様に一続きの刺繍ができない高覧掛けでも、遠征時の図柄は難しいのか、帰還後の図柄が好まれているようです。
↑姫路市松原八幡神社妻鹿屋台旧高覧掛け 応神天皇を抱く神功皇后
2神宮皇后三韓征伐物の水引き刺繍
●海の者達の助け
まず、はじめに自分が大きな誤解をしていたことを告げねばなりません。というのは、播州や大阪のだんじりの「神功皇后三韓征伐物」というのは、特に地元に根ざした伝説がない限り、三韓軍と対峙している場面とばっかり思っていたからです。
ですが、古事記によると、
「故、その御船の波瀾(なみ)、新羅の国に押し騰り(あがり)て、既に国半(くになから)に到りき。国王(こにきし)、畏惶(かしこ)みて奏言(まを)しけらく、『今より以後(のち)は、天皇の命(すめらのみこと)の隨に(まにまに)、御馬甘ひ(みまかひ・馬を飼育する部民)として-中略-仕へ奉らむ。』」
と神功皇后の船を乗せた波が国の半分まで覆うのを見た新羅王は戦わず降伏したとされており、両軍が合間見えることはありませんでした。
では、神功皇后一行と対峙している、龍とその一行は何を表すのでしょうか。よく見ると、お魚さん達がいます。「古事記」で新羅に着く前の場面を見てみましょう。
「軍(いくさ)を整へ船雙めて(なめて)度り(わたり)幸で(いで)ましし時、海原の魚、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風(おひかぜ)大(いた)く起こりて、御船浪の従にゆきき。」
お魚さん達が、協力してくれたことが分かります。そのお魚さん達を統率するのが龍宮の主であることから、このような図柄が生まれたのでしょう。
↑大阪市姫島神社の旧だんじり幕
↑大阪市姫島神社の旧だんじり幕の海の者
↑神戸市本住吉神社西区旧だんじり(神戸市立東灘図書館内 住吉だんじり史料館の展示)
↑神戸市本住吉神社西区旧だんじり幕の海のもの
●龍王より干満二珠を得る
播州というか、三木でも、この三韓征伐や応神天皇を題材にしている屋台があります。
実は、私が助っ人として担がせて頂いている岩壺神社滑原屋台、御坂神社東這田、2台の屋台がそうだったと思っていたのですが、実は四面ともうまく撮れているものがありませんでした(T T;
そして、東這田は、三韓征伐物じゃないみたいです(T T;。
三木市大歳神社(大宮八幡宮には祭の2日目に宮入)の平田屋台も、三韓征伐の水引き幕をつけています。上記のだんじり2作品と違い、龍宮側は龍王のみになっています。これは、平田屋台が神崎郡より購入してきたものということが理由になっていると思われます。というのは、神崎郡では水引き幕をたくしあげて使用しており、刺繍もそれを見越して作られていたため、人物を縫うスペースが限られていたことによると思われます。
↑三木市大歳神社(大宮八幡宮には祭の2日目に宮入)の平田屋台
三韓征伐の水引幕のうち、龍神
ところで、「古事記」「日本書紀」には海の者の助けは記述されていますが、龍宮を意味する記述をみつけることはできません。にも関わらず、上にあげた三韓征伐ものでは、いずれも龍宮があり、龍王らしき男が、珠を今から神功皇后に渡そうとしている場面が共通しています。この珠は何なのでしょうか(ちなみに日本書紀では、神功皇后が遠征前に豊浦津で拾ったとされています。)。
そこで、本来なら鎌倉時代成立の「八幡愚童訓」あたりを参考にしたいのですが、残念ながら手元に資料がありません(後に確認したところ、下の斜線部分は大よそ共通していました)。ので、嘉永元年(1848)石清水祠臣清原敬直が記した「男山考古録」(昭和35年『石清水八幡宮史料叢書一』岩清水八幡宮社務所発行に所収)を参考にどのような伝説が残っているのかを見ていきます。この書物は、石清水八幡宮境内の祭神などにまつわる説話を、作者が集めて研究したものと言えます。
かっこよく文を引用したいところですが、煩雑なのでざっくりいうことにします。
実は、この珠は干満二珠と言われ、伝承などによると満潮にしたい時用と干潮にしたい時用の二つの珠と言われているそうです。
この珠を住吉明神が安曇磯良を使いに出して、龍神に珠を請い手に入れた
等の説話が残っているとか。
ですが、船鉾、各屋台、だんじりの水引きでは、龍神は珠を手渡ししています。
安曇磯良と龍神を同体とする考えによるものなのか、龍神の手渡しの方がデザイン上都合が好いのかはわかりません。
↑船鉾の龍神・安曇磯良
絵では珠は一つだが、現行の船鉾の珠は二つに分かれている。
↑大阪市姫島神社旧だんじり幕 すでに龍神より珠を得た状態を描いている!?
もしかしたら、龍宮側にも珠があと一つ残っている・・・かも??
↑神戸市本住吉神社西区旧だんじり幕。珠は一つ。
●異色? 三韓より帰還後の神功皇后
下の写真は現行の神戸市本住吉神社・西区だんじの模型の幕ですが、実物も同じ図柄の物をつけています。少し異色の場面と言えそうです。上の本住吉神社西区旧だんじり幕が、遠征時に仁愚皇后が珠を受け取る場面であるのに対して、西区の現行の幕は、帰還した皇后がその珠を住吉の神に納める場面だそうです(本住吉だんじり資料館の解説板より)。
「日本書紀」「古事記」はもちろん、「八幡愚童訓」にはこの話は残っていませんでした。が、「男山考古録」には、これを想起させる記述が残っていました。
「住吉舊記云、尊入海宮得潮涸珠、潮涸珠、而後萬事如意、故號如意明神、俗謬稱子卯神、或稱子亥神、此本住吉境地也」
と、本住吉の地で珠を得たという話も残っているそうです。本住吉神社の伝説に、神功皇后が住吉の神に珠を帰還後捧げたなどの説話が残っているのかもしれません。
↑神戸市本住吉神社西区だんじり(現行)模型用の水引幕
(神戸市立東灘図書館内 住吉だんじり史料館の展示)
実物を縮小した図柄のため、実物も同じ図柄を使用している。
↑上の写真の神功皇后と住吉大神を拡大。神功皇后が住吉大神に珠を渡そうとしているのがわかる。
まとめ
1 だんじり太鼓台での水引幕では遠征時、特に、龍神から干満二珠をもらう場面が好まれる。
2 欄間彫刻や高覧掛けでは、懐妊の場面など横長になりすぎない図柄が好まれる。
3 多くの説話では安曇磯良が龍神に珠を請い、珠を得るという筋書きであるが、水引き幕では龍神からの手渡しがほとんど。
4 船鉾では珠が2つになっているが、水引き幕では一つに省略されているものもある。
5 だんじりの水引き幕では海のものがたくさん描かれるが、平田屋台では龍神のみと簡略化されている。平田屋台の購入元では幕をたくし上げて使われており、製作もそれを見越してなされていた。よって、刺繍スペースが十分に取れなかったことによるものと思われる。
*下大市八幡神社の神職さまの御厚意を賜り、現在休止している太鼓台を見学させていただきました。
この太鼓台の欄間彫刻は、太鼓台を神戸から購入した時に、新たに作られたものと思われます。
写真の神功皇后御懐妊の場面を正面に据え、他三面は全て源平物でした。これは、下大市八幡神社が源氏の氏神である石清水八幡を勧請したことに端を発する場面設定だと考えられます。
↑西宮市下大市八幡神社下大市太鼓台
編集後記
今年から京都祇園祭山鉾巡行は、前後の祭にわかれました。この大きな大きな祭を支えているのは、多大な出資をされている方や、伝統工芸の職人さんだけではありません。演奏や組み立てを担う技術者の存在があってこそ、祭は続きます。このような技術を軽視した場合、祭の質は、容易に落ちて行きます。 その技術は、単純なところでは、縄を丈夫に縛る技術であったり、曳き手や担ぎ手の調子を狂わせないリズム感であったりします。
もちろん、祭だけで地域が成り立つわけでなく、背に腹変えられぬ状況で、祭文化が衰退よを余儀無くするのは仕方ないことかもしれません。しかし、祭のことを大切に思い金を惜しむことがなくとも、これらの技術の価値に目をむけないと、その投資は必ず焦げ付きます。このような祭りをする人の技術の価値を理解しないでいると、祭の衰退はもちろんのこと、それに伴い地域も衰退していくでしょう。
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