では、ここから、かねてから言っていたムカデの当て字の一つ「呉公」について考えていきましょう。
その前に、俵藤太のムカデ退治伝説が所収されている「太平記」について説明します。太平記は年から年の間におきた、鎌倉末期から南北朝中期までの約五〇年間の争乱を描いた軍記物語です。
その中でムカデ退治や逆賊の系譜など、過去の逸話を取り上げ、当事者たちと
比較することで物語を盛り上げる用法もとられています。
では話を本題に戻しましょう。
「呉公」の漢字は、「本草綱目」にあるようにムカデが「太呉川」に生息することから、呉に生きる虫として、「虫呉虫公」となり、そこから虫編を省略したものであると考えられます。
呉公をそのままの漢字の意味でとらえると、呉の公(きみ、王・君)であり、呉
の国の偉い人とか、呉の国の王様であると考えることができます。奈良時代から伝わる仮面演劇・伎楽で使われる面の中に呉公面というものがあり、それは呉の国の王様になっております。
その呉公と呼べる人物に関連する物語が、太平記にも所収されています。
それが「呉越戦の事」です。この話は、紀元前5世紀に起こった呉と越の間の戦についての物語です。この「呉越戦の事」は、官軍方の武士児島三郎高徳という人が詠んだ歌の説明として、その歌の次の段に所収されています。
まずは、「呉越戦の事」を書く要因となった、官軍方の武士・児島三郎高徳の逸話「備前国住人児島三郎高徳主上を奪ひ奉る事」の内容を見ていきましょう。
忠君の楠正成らが自害したとの報を聞き、南朝(官軍側の朝廷)が陥落され、後醍醐天皇は北朝側の軍に捕らえられてしまっています。
そんな絶望的な状況の中高徳は一族を集めて言いました。
「みなはどう考えるのか。道を志す人、仁徳のある人は、その身を犠牲にしても仁義を尽くすといわれている。衛国の懿公が北狄(蛮族)に殺されたのを見て、その臣の弘演という者は、それを見るに忍びず、主君の肝を自らの腹を割ってその中に収めた。亡き君主の恩に報いたのだ。
-(中略)-
さあ、諸君、さらわれた帝を敵軍から奪い返そうではないか。たとえ屍を戦場にさらす事になったとしても、その名を子孫に伝えようではないか。」
こうして、軍を率いた高徳であるが、後醍醐天皇をつれている敵軍と会うことなく、ちりじりになってしまった。
しかし、高徳はただ一人、後醍醐天皇の宿を訪ねたが、やはり敵軍には取り合ってもらえません。
そこで、高徳は、庭の柳の皮をめくり、後醍醐天皇への歌を彫ったのでした。
<天莫空勾践
時非無范蠡>
(天よ呉王夫差に捕らえられた越王勾践(こうせん)のような帝のお命をむなしく殺さないでほしい。范蠡(はんれい)のような忠臣が出ないとも限らないのだから。)
この詩の写しを読んだ後醍醐天皇は頼もしくお思いになりました。
しかしながら、逆賊側の兵士たちはこの詩の意味を理解する事ができなかったようです。
この段では、官軍側の後醍醐天皇と忠臣・高徳や楠正成の関係を古代中国の王と忠臣の関係に位置づけています。一つは、高徳がたとえ話に用いた衛国の懿公と弘演、もう一つが後醍醐天皇に送った歌の中の越王勾践(こうせん)と范蠡(はんれい)です。
官軍側が衛国の懿公とすると、逆賊側は北狄(蛮族・「狄」は「えびす」とも読み、蛭子に繋がり朝廷にまつろわぬ神の象徴に繋がる。)になります。そして、官軍側の後醍醐天皇を「越王勾践」とすると、逆賊側が、これから話す「呉王夫差」すなわち「呉公」となります。
では、「太平記」のもう一つの「呉公」といえる「呉王夫差」とはどんな人物なとして描かれているのでしょうか?「呉越戦の事」はかなり長いのでダイジェストで見ていきましょう。
かつてから押したり引いたりの戦をしていた呉と越の国ですが、とうとう呉王夫差は越王勾践を捕らえる事に成功しました。
そして、越王勾践の処遇に関しては、結束の固い越軍の叛乱への恐れと、他国から一目おかれ貢物が増えるかもしれないという期待から、越王を臣下にすることとなりました。
それから月日は流れ、呉王夫差は正体不明の病に倒れます。それを医者が診たところ、
「まだ絶望的な状況ではない。体内から出た(尿と一緒に出る)結石の味を報告してもらえれば、治療できるだろう」
とのことでした。
そして、その役を買って出たのが越王勾践でした。
そのおかげで呉王夫差の病は止み、褒美として越王勾践は越への帰還を許されたのです。
それからまた月日は流れ、大層美しい越王の妃を呉王夫差が欲しているとの旨を呉の使者が伝えました。それに応じて妃は呉に連れて行かれました。
妃の色香におぼれる夫差。
君臣の諌めも聞かず、とうとう諌め伍子胥を処刑にしてしまう始末です。
その眼は希望通り呉の東門の鉾にかけられました。
その情報を聞いた越の忠臣・范蠡は、二十万の大軍を率いて呉に攻め入ります。
そして、呉はとうとう陥落しました。
越王は呉王夫差に情けをかけようとしましたが、范蠡は「あなたが呉王の二の舞になる」と主張し、夫差を捕らえました。
そして、それを見ていたのは、伍子胥の眼でした。三年の月日閉じなかったその眼が、呉王夫差の敗北をじっと見ていたのです。
そして、呉王夫差は首を跳ねられてしまったのです。
このように、色香に迷った呉王夫差は、越王勾銭に討ち殺されてしまいます。
この物語は、色香に迷う愚かな呉王夫差を、越の忠臣范蠡・の助言で討ち取る
物語といえるでしょう。
さて、前述のように、越王勾銭と范蠡が後醍醐天皇と高徳、正成の官軍側になるとしたら、呉王夫差すなわち呉王夫差、すなわち呉公は逆賊側になります。
側となります。
その呉王夫差の人物像は、好色で欲張りな愚か者として描かれています。
また、呉王夫差の臣下・伍子胥(これも呉公といえる)の眼が腐らず、3年間開いたままだったというところは、逆賊・将門の首が腐らなかったという逸話に共通します。
そして、「高徳の詩が分からない逆賊、呉王夫差の愚かさを見ると、逆賊は今も昔も愚かなもの」という図式を印象づけています。
将門とムカデは俵藤太で繋がっていました。
そして、ムカデと呉王夫差、呉の臣下伍子胥は「呉公」の漢字でつながります。将門と呉公も「晒された眼が腐らない逸話」で繋がりました。
「太平記」のムカデは、逆賊の代表格である将門と愚か者の代表格である呉王夫差のつながりをより強く印象付ける役割を背負っていたといえるのでしょう。
とはいえ、「太平記」においては「官軍」は敗れてしまいます。
これは、ムカデが太平記で持っていたと考えられる別の意味「自然の猛威」。これの前には官軍も太刀打ちできないという事を太平記では言っているのかもしれません。
これでムカデ・ヤスデシリーズは完結しました。
で、後一回だけ続きます。
次回は参考文献と、太平記における 逆賊将門-ムカデ-呉王夫差の関連図をアップする予定です。
「昨日亡くなった母方祖父のご冥福を祈って 南無釈迦牟尼佛」
その前に、俵藤太のムカデ退治伝説が所収されている「太平記」について説明します。太平記は年から年の間におきた、鎌倉末期から南北朝中期までの約五〇年間の争乱を描いた軍記物語です。
その中でムカデ退治や逆賊の系譜など、過去の逸話を取り上げ、当事者たちと
比較することで物語を盛り上げる用法もとられています。
では話を本題に戻しましょう。
「呉公」の漢字は、「本草綱目」にあるようにムカデが「太呉川」に生息することから、呉に生きる虫として、「虫呉虫公」となり、そこから虫編を省略したものであると考えられます。
呉公をそのままの漢字の意味でとらえると、呉の公(きみ、王・君)であり、呉
の国の偉い人とか、呉の国の王様であると考えることができます。奈良時代から伝わる仮面演劇・伎楽で使われる面の中に呉公面というものがあり、それは呉の国の王様になっております。
その呉公と呼べる人物に関連する物語が、太平記にも所収されています。
それが「呉越戦の事」です。この話は、紀元前5世紀に起こった呉と越の間の戦についての物語です。この「呉越戦の事」は、官軍方の武士児島三郎高徳という人が詠んだ歌の説明として、その歌の次の段に所収されています。
まずは、「呉越戦の事」を書く要因となった、官軍方の武士・児島三郎高徳の逸話「備前国住人児島三郎高徳主上を奪ひ奉る事」の内容を見ていきましょう。
忠君の楠正成らが自害したとの報を聞き、南朝(官軍側の朝廷)が陥落され、後醍醐天皇は北朝側の軍に捕らえられてしまっています。
そんな絶望的な状況の中高徳は一族を集めて言いました。
「みなはどう考えるのか。道を志す人、仁徳のある人は、その身を犠牲にしても仁義を尽くすといわれている。衛国の懿公が北狄(蛮族)に殺されたのを見て、その臣の弘演という者は、それを見るに忍びず、主君の肝を自らの腹を割ってその中に収めた。亡き君主の恩に報いたのだ。
-(中略)-
さあ、諸君、さらわれた帝を敵軍から奪い返そうではないか。たとえ屍を戦場にさらす事になったとしても、その名を子孫に伝えようではないか。」
こうして、軍を率いた高徳であるが、後醍醐天皇をつれている敵軍と会うことなく、ちりじりになってしまった。
しかし、高徳はただ一人、後醍醐天皇の宿を訪ねたが、やはり敵軍には取り合ってもらえません。
そこで、高徳は、庭の柳の皮をめくり、後醍醐天皇への歌を彫ったのでした。
<天莫空勾践
時非無范蠡>
(天よ呉王夫差に捕らえられた越王勾践(こうせん)のような帝のお命をむなしく殺さないでほしい。范蠡(はんれい)のような忠臣が出ないとも限らないのだから。)
この詩の写しを読んだ後醍醐天皇は頼もしくお思いになりました。
しかしながら、逆賊側の兵士たちはこの詩の意味を理解する事ができなかったようです。
この段では、官軍側の後醍醐天皇と忠臣・高徳や楠正成の関係を古代中国の王と忠臣の関係に位置づけています。一つは、高徳がたとえ話に用いた衛国の懿公と弘演、もう一つが後醍醐天皇に送った歌の中の越王勾践(こうせん)と范蠡(はんれい)です。
官軍側が衛国の懿公とすると、逆賊側は北狄(蛮族・「狄」は「えびす」とも読み、蛭子に繋がり朝廷にまつろわぬ神の象徴に繋がる。)になります。そして、官軍側の後醍醐天皇を「越王勾践」とすると、逆賊側が、これから話す「呉王夫差」すなわち「呉公」となります。
では、「太平記」のもう一つの「呉公」といえる「呉王夫差」とはどんな人物なとして描かれているのでしょうか?「呉越戦の事」はかなり長いのでダイジェストで見ていきましょう。
かつてから押したり引いたりの戦をしていた呉と越の国ですが、とうとう呉王夫差は越王勾践を捕らえる事に成功しました。
そして、越王勾践の処遇に関しては、結束の固い越軍の叛乱への恐れと、他国から一目おかれ貢物が増えるかもしれないという期待から、越王を臣下にすることとなりました。
それから月日は流れ、呉王夫差は正体不明の病に倒れます。それを医者が診たところ、
「まだ絶望的な状況ではない。体内から出た(尿と一緒に出る)結石の味を報告してもらえれば、治療できるだろう」
とのことでした。
そして、その役を買って出たのが越王勾践でした。
そのおかげで呉王夫差の病は止み、褒美として越王勾践は越への帰還を許されたのです。
それからまた月日は流れ、大層美しい越王の妃を呉王夫差が欲しているとの旨を呉の使者が伝えました。それに応じて妃は呉に連れて行かれました。
妃の色香におぼれる夫差。
君臣の諌めも聞かず、とうとう諌め伍子胥を処刑にしてしまう始末です。
その眼は希望通り呉の東門の鉾にかけられました。
その情報を聞いた越の忠臣・范蠡は、二十万の大軍を率いて呉に攻め入ります。
そして、呉はとうとう陥落しました。
越王は呉王夫差に情けをかけようとしましたが、范蠡は「あなたが呉王の二の舞になる」と主張し、夫差を捕らえました。
そして、それを見ていたのは、伍子胥の眼でした。三年の月日閉じなかったその眼が、呉王夫差の敗北をじっと見ていたのです。
そして、呉王夫差は首を跳ねられてしまったのです。
このように、色香に迷った呉王夫差は、越王勾銭に討ち殺されてしまいます。
この物語は、色香に迷う愚かな呉王夫差を、越の忠臣范蠡・の助言で討ち取る
物語といえるでしょう。
さて、前述のように、越王勾銭と范蠡が後醍醐天皇と高徳、正成の官軍側になるとしたら、呉王夫差すなわち呉王夫差、すなわち呉公は逆賊側になります。
側となります。
その呉王夫差の人物像は、好色で欲張りな愚か者として描かれています。
また、呉王夫差の臣下・伍子胥(これも呉公といえる)の眼が腐らず、3年間開いたままだったというところは、逆賊・将門の首が腐らなかったという逸話に共通します。
そして、「高徳の詩が分からない逆賊、呉王夫差の愚かさを見ると、逆賊は今も昔も愚かなもの」という図式を印象づけています。
将門とムカデは俵藤太で繋がっていました。
そして、ムカデと呉王夫差、呉の臣下伍子胥は「呉公」の漢字でつながります。将門と呉公も「晒された眼が腐らない逸話」で繋がりました。
「太平記」のムカデは、逆賊の代表格である将門と愚か者の代表格である呉王夫差のつながりをより強く印象付ける役割を背負っていたといえるのでしょう。
とはいえ、「太平記」においては「官軍」は敗れてしまいます。
これは、ムカデが太平記で持っていたと考えられる別の意味「自然の猛威」。これの前には官軍も太刀打ちできないという事を太平記では言っているのかもしれません。
これでムカデ・ヤスデシリーズは完結しました。
で、後一回だけ続きます。
次回は参考文献と、太平記における 逆賊将門-ムカデ-呉王夫差の関連図をアップする予定です。
「昨日亡くなった母方祖父のご冥福を祈って 南無釈迦牟尼佛」
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