月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

346.平田と○○ -地名を考える-(月刊「祭御宅」2021.05.15号)

2021-05-22 20:22:57 | 民俗・信仰・文化-地名-

●平田という地名について考える
 以前、平田屋台についてあれこれ調べた記事を載せたところ、全国約一億数千万人中何名かが見てくださるという好評を賜りました。今回は、平田という地名について偶然気づいたことがあったので、それを記事にしていきます。


↑屋台蔵完成式の日 2015年

●江戸時代の大宮八幡宮氏子域ざっくり解説

 平田という地名を考えるために、大宮八幡宮の氏子域をざっくり見ていきましょう。
 江戸時代の美嚢郡三木町は岩壺神社の氏子域ともいえる上五町とその地方(じかた)、大宮八幡宮氏子域ともいえる下五町とその地方(じかた)、前田、高木などに分かれていました。
 上、下五町は、美嚢側の東南である岩壺神社、大宮八幡宮がある町屋の集中区域、地方(じかた)は、岩壺、大宮八幡両神社から美嚢川の対岸にある田園域にあたります。前田は宮側に飛び地であったので、宮の前の田という意味でしょうか。高木村は大宮八幡宮の御旅所所在地です。

 地方は加佐、平田、大村で、平田、大村が大宮八幡宮の対岸域で能をみるための桟敷席があるなど下五町側の地方で、加佐は岩壺神社の対岸域にあることから上五町の地方と言えるでしょう。そして、地方三村は、現在でも金剛寺では年交代で鬼追いを挙行しています。大宮八幡宮の神宮寺である月輪寺、金剛寺ともに法道仙人開基とつたわる真言宗寺院です。同じ系統の寺院が町側、地方側にあるとも言えそうです。

 

●金剛寺ご奉仕域としての平田と、「山」

 現在は住宅地などに生まれ変わっていますが、平田は、まさしく「平」地に「田」んぼが広がっていた土地でした。


↑平田の屋台蔵と平田屋台 平坦な土地が広がっているのが分かります。

 そして、平田は大宮八幡宮の地方(じかた)であり、金剛寺で鬼追いなどをご奉仕する地域であることは上で述べました。
 
 ↑金剛寺鬼追い(2019年 当番大村)

 江戸時代の過去帳では滑原、跡部など、奉仕域でない地域はフルネームで記されていました。しかし、金剛寺の奉仕域である平田、大村、加佐は江戸時代の過去帳では、それぞれ村名や町名を全て記さずに「平、大、加」と一文字で表されていました。そして、もう一文字「山」の文字も記されていたのです。

 ご住職のお話によると、これは現在の小野市の「山田」だそうです。平田という地名は、対となる山田があってこその地名だったようです。

編集後記
 平田の名前について、金剛寺の過去帳の表記から考えました。しかし、この記事で分かったのは平田という村のほんの一部についてです。大宮八幡宮の祭の一日目、地元の大歳神社でどのような祭をしているのか、田んぼは、、、、新住民と旧住民は、、、、などなど管理人は同じ市内の祭りでありながら知らないことがほとんどであることに気づかされました。

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345.電飾悲喜交々 -米田新の自前電飾取り付け- (月刊「祭御宅」2021.5月14号)

2021-05-22 17:30:55 | 屋台・だんじり・神輿-衣装、周辺用具、模型-
●近年購入の高砂市米田天神社米田新屋台
米田新屋台は姫路市の屋台を近年購入しました。神輿屋根屋台なので、神紋を変更し、祭に備えていますが、まだ、新型コロナウイルスの影響で祭には出せていないとのことです。今日(2021.05.22)電飾の取り付けしているところにお邪魔しました。
分かっているようで分かっていなかった神輿屋根屋台のメンテナンスの大変さの一端を垣間見てきました。





 
●名工松本義廣の立体的な彫り
狭間の彫り師は川原啓秀のものが入っています。松本義廣の作品は赤穂浪士の場面で、より奥行きがあるように見せるために、奥の人物はかなり小さく、手前の人物は大きく彫られています。このての遠近法は西洋的手法といえるのかもしれません。
 
 
●げんのつな
祭りのときはサラシをまいていて分からなかったのですが、ターンバックルを使っているところもけっこうあるそうです。
↑サラシをまいたげんのつな。姫路市浜の宮天満宮天神屋台
 
↑米田新屋台のサラシをまいていない状態のげんのつな。ターンバックルを使っています。
 
●電飾取り付けの苦労
豆電球から発光ダイオードへ
そして、電飾のとりつけは、かなりの労力を擁するそうです。プロの方に約150から250ほどの電飾をとりつけると、三桁万円になるとのことで、自らの取り付け作業をしていました。
もともとは従来の豆電球を使用していたのを購入を期に発光ダイオードに替えたそうです。豆電球だとトラックのバッテリーを積んでも祭期間に取り替えが必要だったのが、発光ダイオードだと前夜祭から三日間でももつそうです。
↑以前の所有者か米田新の先代屋台で使用していた豆電球。
 
橙色系統の発光ダイオード
とはいえ、発光ダイオードは多くは青白い光でそれだと電飾にあわないので、橙色系統のものを買ってきたそうです。管理人は、別のところでも発光ダイオードで橙色のものを使用するようになったという話しも聞いたことがあり、主流となりつつあると言えそうです。
違う種類のものがまじったり、明るすぎたり、くらすぎたりするだけで、バランスがおかしくなるので、大阪日本橋の電気街に足を運び、丁度いい案配の同じ製品を大量にそろえたそうです。管理人が見学したときにテストとして、路盤の電飾をつけて見せてくれました。テスト用の電源としては、模型電車のNゲージ用のものが丁度いいそうです。
 




繋ぎ方あれこれ
電源→電球3つ→電源を1グループにして、並列繋ぎでつないでいきます。こうすることで、万が一、どこかの配線がつかなくなっても、別のところは電気がきえなくてすむそうです。
灰色の線が目立たないように、金色のテープを巻いて金具の色にあわせたり、金具の裏に隠したりと、繋ぐのは非常に労力をともないます。先代の屋台は昇り総才が箱打ちで金具の間に隙間があったので、まだ取り付けやすかったそうですが、今のは総打ちで隙間がなく取り付けが大変だそうです。今から半年ほどかけて、祭に合わせて取り付け作業を行っていくとのことです。




編集後記
平屋根屋台文化で生きる管理人にとっては、屋台の電飾はあまり馴染みのないものでした。なので、その取り付けには膨大な労力をともなうことも知りませんでした。そこにある並々ならぬ苦労の一端を垣間見ることができました。
取り付けの情報を教えてくださったM氏、見学と掲載の許可を賜った屋台関係者の皆様に感謝申し上げます。
 
赤穂浪士の狭間の彫り師を松本義廣としていましたが、川原啓秀のものでした。間違いを指摘してくれたu君に感謝。




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344.「引月」の地名由来 ー韓国地名由来ー(月刊「祭御宅」2021.5月13号)

2021-05-21 19:41:33 | コリア、外国

●今の段階では管理人は知らない「引月」の地名由来
 韓国の全羅南道を旅行しているときに、バスで通るのが引月・イヌォル・인월という停留所です。いつもは通りすがりで、そのまま別の場所に行ってしまうのが今までの旅行のパターンでした。しかし、漢字で書いたら「引」と「月」。

 何か由来がありそうな気配がします。
 ということで、韓国語の勉強を兼ねてググってみることにします。

↑引月市街

↑引月小学校

↑引月小学校の校門。

●引月の由来
 「南原文化大典」に引月の地名の由来がありました。かいつまんで話すとおおよそ下のようなお話です。

-----

李成桂将軍が外敵のアジバルドを討伐するための陣をこの地に敷いた。苦戦の後、勝利を手中にしつつあった。が、日は沈み敵の行方がわからなくなった。

李成桂は月が出るように天に祈った。すると、東より明るい月が登り、アジバルドを逃さずに討ち取ることができた。

これによりこの地を引月とよぶようになった。

----

日本にはこれに少しばかり似た話がありましたね。

●平清盛日招き

それが平清盛の日招き伝承です。 音戸の瀬戸の開削工事で、日が沈んでしまったのを扇の一ふりで招き戻し、その日のうちに工事ができたと伝わります。

沈んだ日を呼び戻してて工事を終わらせた日本の伝承、沈んだ日を見送って月を引き込んだ韓国の伝承。少しばかり違いがありましたが、明かりを欲したことと、お互いの国を向いていたことは共通します。

 

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343.オリンピックイヤーのノーモア○○(月刊「祭御宅」2021.5月12号)

2021-05-20 19:52:06 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●「ノーモア」で何を思い浮かべますか?
 きっとノーモアウォー、ノーモアヒロシマナガサキ、ノーモアヒバクシャと思い浮かべるでしょう。
 管理人もそうですし、もちろん、お国(=既得権益者)のためになんとやらなぞの百億倍以上大切な言葉だとも思ってます。
 しかし、これら以外にも「ノーモア」をつけるべきものがあることに、またまたパソコンの写真整理中にみつけました。2010年の写真を見ていきましょう。

●岐阜県の宝蔵寺のノーモア

  意外な「ノーモア」は、岐阜県の宝蔵寺にありました。

 

  左側の女性的な石像は観音様でしょうか。
  その右側に「祈る ノーモア ○○○○○○」とありますが、あえて伏せます。
 

 中にはこのような展示もあったみたいですが、もう記憶にはありません。

 


不動明王もいました。

実は、関ヶ原の寺院です。

書かれていたのは、「ノーモア 関ヶ原合戦」でした。

「ノーモア 関ヶ原の合戦」

 この合戦以来、我が国は国を二分するようなことは起きていません。
 当たり前のようにかんじている、国内を自由に行き来出来る幸せを大切にしたいものです。
 こちらの記事 (goo.ne.jp)や、管理人が撮った上の不動明王の建物である慰霊堂の解説によると昭和39年9月(文章を見ると旧暦の可能性もあります)、東京オリンピックの年に創建されたもののようです。

 9月が新暦ならばオリンピックの直前、旧暦ならば真っ最中の創建と言う可能性もあります。その年、時期にあわせて、日本の復活の象徴としたのかもしれません。
 希望に満ちたかの時に、ノーモアヒロシマ、ノーモアウォーなどとともにノーモア関ヶ原をねがって安置されたお不動さん。オリンピックアゲインを隠れ蓑に、ウォーアゲイン、格差アゲインをももくろむ人たちをかのお不動さんは、どのような目でみているのでしょうか。

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342.子が南に!? 十二支配置の方向は? (月刊「祭御宅」2021.5月11号)

2021-05-20 02:13:47 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●屋台などに好まれる十二支柄

屋台で十二支が好まれるのはこの記事でも触れました。

宮入するときの方角や、屋台前面を南とみなして十二支の方角があうように作られていることが多いようです。管理人も、屋台の新調等で意見を求められた時はそうなるように提案してきました。
今すぐに写真は出てこないのですが、神社でも方角にあわせて配置されているのをみたことがあります。
●加西市九会の稲荷神社





しかし、必ずしもその方角と一致している神社ばかりではないようです。それが、加西市九会にある稲荷神社の本殿です。ちなみに屋台・神社彫刻研究家のSさんのご教示によると、彫刻師は屋台の彫刻も手掛けている人物のもので、彫刻に銘が入っている写真を見せていただきました。また、明治後半につくられたという当時の石碑の存在も教えていただき、管理人も本殿裏でみてきました。
十二支は本殿に向かって左側面から後面、右側面にかけて、一面に四種類ずつ、計十二種類・十二支の動物の彫刻が配置されています。






三面に十二支?
本殿は東側(約30°南側)を向き、正面には十二支は配置されないで、残る三面に十二支が配置されています。
それぞれの配置は下の①のようになっています。ほぼ南側に北側の「子」が配置されています。
②のように子を北側に配置するならば、下のような配置になるはずです。東側になるはずの辰が南に来てしまいます。
③のようにすればおおよその方角はあいますが、子の次の丑は角を曲がらないといけません。
書物通りの配置??
結局、九会の稲荷神社は、左側面から子丑寅卯・・・の順に並んでいました。この並び方では方角は合いません。ではこの並び方は、全く意味のないものでしょうか?
 そんなことはありません。現在の並び方は、まさしく書物通りの配置であるといえます。
 このブログのように現在の日本語は左から右への横書きも使われています。しかし昔は右から左への縦書きのみでした。一行一文字の場合、右から左へ移動する横書きのように見えます。
から福田山

九会の稲荷神社の十二支の彫刻は外側についています。なので見る人は外側から内側を見ます。これを開くと、一行一文字の書物を右から左へ読むように、十二支の彫刻を順番通りに眺めることができるのがわかります。
九会の稲荷神社の本殿は、十二支の彫刻の書物を外向きに巻きつけたものだといえるでしょう。
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341.何の写真? スマホの所在不明写真を調べていく(月刊「祭御宅」2021.5月10号

2021-05-18 19:32:17 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●スマホの写真を整理しないと。。。。
 管理人が学生の頃は、36枚撮りの写るんですが1000円ほどするわ、現像にもお金がかかるわで、とる写真を厳選しなければなりませんでした。なので、比較的記憶にも残りやすく、整理が遅れても、どこの場所かをおもいだすことができました。

 現在はスマホの普及で、写真をパシャパシャ手軽に取れるようになりました。しかし、整理しなければ膨大な量でどこの何の写真かが分からなくなります。スマホにある時は地図と連動しているので何の写真かを調べる手がかりになるのですが、パソコンに保存したものだと地図情報が分かりません。(実は分かるのかもしれませんが、管理人は知りません)。

 こんな時代の中で管理人にもワケワカメな3年ほど前の真が出てきました。それが下の二枚です。


↑奉納された古代米と狛犬が写っています。馬の銅像が右後ろに。


↑こちらは奉納されたゴボウ。右側に破魔矢が写っているのでどこかの神社であることが分かります。

●日付から調べる

 まずは、多くの人がするであろう、日付から調べるという行為をしました。幸いパソコンに移動しても撮影日の情報は残っていて、プロパティで調べると、2018年1月4日でした。

「そういえば、この二枚の写真のすぐ前は神戸市須磨区妙法寺の鬼追いの写真だった。」
こんなことを考えて、早合点、妙法寺の近くの神社に違いないと、「神戸市、須磨区、妙法寺」でグーグルマップで検索しました。出てきたのは八幡神社、五社神社ですが、上の写真に近いものは出てきませんでした。。

・あれ、妙法寺の鬼追いは1月3日

 よくよく見ると妙法寺の鬼追いは1月3日でした。ということは、1月4日に撮ったこの写真は別の物。。。。この記事をかきはじめたときの計画では、妙法寺付近の〇〇神社という結論を期待したのですが違いました。
 ということで写真からもう一度考えてみることに。
 ごぼうと赤米を奉納しています。「ゴボウ、米、正月、奉納、神戸」で調べてみました。しかしよくよく考えると、1月3日は神戸市の妙法寺に行ったのですが、次の日は神戸に行ったのかどうかもわかりません。期待したような答えは出ませんでした。

●奉納者の地名

 ゴボウと古代米を奉納された方の住んでいる地域が書いてありました。「南僧尾」、「中山」ググったら出ると思いますが、これは神戸市北区淡河の地名です。おそらく、淡河八幡神社の氏子だとおもい検索すると、同じ馬の銅像がうつった写真がヒットしました。二枚の写真は淡河八幡神社の正月(2018年1月4日)の様子だということがわかりました。


編集後記の代わりに

-間違いからの思わぬ発見-

 間違えて妙法寺付近のことを調べたけど、期待した答えは出ませんでした。だからしっかり、写真の整理をしましょうよと言いたかったのですが、実は、調べる中で面白いものをみつけてしまいました。近いうちにこれらのことを書いてみたいと思います。

「無駄骨をおることになるから整理しましょう」というのは、半分あっています。

 が、思わぬ発見に出くわすのは、このような間違いからであることが多いのも経験上分かってきました。

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340.神社奉納の祭礼絵馬を見るときの注意(月刊「祭御宅」2021.5月9号)

2021-05-17 19:21:58 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

・この祭礼絵馬はどこに掲げられている?
 

 この祭礼絵馬を見ると、祇園祭であることが分かります。左から先頭は長刀鉾、次は傘鉾(多分綾傘鉾、もしかしたら四条傘鉾かもしれません。)、その後はおそらく芦刈山、そして右上の唐破風の鉾は菊水山であると考えられます。


↑長刀鉾



↑綾傘鉾


↑菊水鉾

 この祭礼絵馬は、祇園祭が行われる京都の八坂神社(祇園社)にかけられているもの、、、、ではありません。

 この絵馬があるのは、なんと広島県、安芸の宮島。厳島神社本殿むかって左手にある旧阿弥陀堂・現在の千畳閣に掲げられています。文字が読めなかったので、誰がどのような意図をもっていつ奉納したのかは分かりませんでした。





●宮島の祇園祭絵馬が教えてくれること
 さて、日々祭りのことをあれやこれやと考える祭オタクや、研究する人に対して、「これ気いつけなはれや」と宮島の祇園祭り絵馬が教えてくれることがあります。この絵馬を見れば多くの人が、「祇園祭」だとわかるはずです。宮島にも山鉾があったと考える人はいません。

 しかし、他地域の資料が少ない神社ではどうでしょうか。絵馬を見て、即その神社の昔の祭礼風景だと早合点してしまわないようにしたいものです。この国では、他神社の祭の絵馬を掲げる習慣があるということを念頭におかねばなりません。

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339.大中小の内ゴマ祭車両(月刊「祭御宅」2021.5月8号)

2021-05-16 19:25:26 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-

●内ゴマの地車(だんじり)

祇園祭の山鉾などは、車輪が外側についており、横幅は狭く、車輪の直径は大きくなっています。バランスがとりやすいうえに、直進しやすいという利点はあります。ですが、車輪の幅が狭いために、無理に方向転換をすると車輪を傷めてしまうので、滑りやすい竹を敷いて辻では方向転換をします。


↑京都祇園祭の山鉾

逆に大阪や岸和田の地車の特徴の一つとしては、車体の内側に車輪がついている内ゴマであることがあげられます。
内ゴマの特徴としては、
①車輪が中心近くにより方向転換がしやすい。
②①の引きずりながらの方向転換などもあるので、車輪は横幅が広く、作られている。
③車体中央部に近い部分に車輪をつけるので、部材や人がいる場所に車輪があたらないように、車輪の直径は小さくなる傾向にある。
といったことがあげられます。

 内ゴマの祭車両と言っても、地域によって、大きなものから小さなものまであります。今回はその大中小それぞれのものを見ていきましょう。ひとまずは、播州の人にとっても身近なだんじりから見ていきます。

●中 地車(だんじり

 下地車と呼ばれる岸和田に分布するものは、後梃子がついています。また、近年では上だんじりとよばれるだんじりにも後梃子がついているものもみられるようになりました。


↑大阪市巽神社正覚寺地車

 

●「大」長浜の曳山

 下の写真は大阪府吹田市の国立民族学博物館の曳山です。大型ではあるものの、かなり地車に近いものになっています。長浜市曳山博物館 (曳山紹介)の側面図を見ると、後ろ側の左右に梃子がついていることが分かります。内ゴマと梃子の相性がいいことが分かります。後ろに地車と同じくのぼりが指されているのが興味深いです。

 屋根が二段構造になっていることなどなどについて書こうとおもったのですが、近々発売される
日本だんじり文化論: 摂河泉・瀬戸内の祭で育まれた神賑の民俗誌 | 森田 玲 |本 | 通販 | Amazon
を見る方が、理解は深まると思われるので、そこには触れません。

 ↓三枚の画像 国立民族学博物館の曳山

 

 

↑国立民族学博物館の曳山の梃子(後側を撮影したと思うのですがさだかではありません。。)

 

●小 丹後半島の「太鼓台」
 丹後半島で「太鼓台」と呼ばれる曳き車も内ゴマです。

 伊根町の宇良神社のものは幟がつくと、小型の地車を思わせます。

 

 運行時には幟をはずし、宇良神社につくと、やりまわしのようなこともしていました。

 

 

 宮につくと太鼓を横にして、舞をまうための太鼓を演奏する台、まさしく「太鼓台」になります。

 宮津市の籠神社のものは、2010年に訪れたときはまだ新しく、梶内だんじり製のふだがついているのを見ましたが写真ではとれませんでした。

 

●大中小内ゴマ祭車両の共通点

 ①後ろの梃子で舵をとったり、方向転換したりする。
 ②後ろ側に幟のようなものを立てることが多い。

編集後記
 上だんじりと、下だんじりの区別することになる文章をあらためました。
 間違いを指摘してくれたDくん、いつもありがとうございます。

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338.加西市の日原大工?の作品とその傾向(月刊「祭御宅」2021.5月7号

2021-05-16 15:23:19 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 管理人が三木市吉川町若宮神社御先だんじり(屋台)の調査を依頼されたときに、祭とは関係ない周辺事項の調査(要するにオマケ)として提出したものをもとにして、この記事を作成しました。なお、日原大工の作品が加西市のどこにあるかは、全て、よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』から知りました。

 加西市上万願寺の東光寺と、三木市吉川の東光寺の二つの東光寺がこの記事では出てきますが、ここでは(加西市)東光寺、(吉川)東光寺と区別をつけることにします。

●日原大工

 三木市吉川町大沢を拠点に活動していた宮大工です。江戸時代の作品が三木市内だけでなく、近畿一帯に残っています。また、大沢は若宮神社の筆頭座ともいわれる大澤座の拠点です。日原大工の末裔の方にお話しをお伺いしたところ、宮座には入っていなかったそうですが、地元の若宮神社の楼門を作るなど、若宮神社の祭にも何らかの影響力を有していたと思われますが、管理人の調査では分かりませんでした。

●吉川近隣の日原大工の作品

 新しいもので18世紀で、19世紀のものは市内では見つけることが出来ませんでした。管理人が見いだした傾向では、欄干の擬宝珠に時代ごとに特徴がありました。ざっくり言うと、時代が古いほど葱の花のがくのようなものがついており、時代が下るほどがくのような物はなく、金具がついたものが多くなっています。

A(吉川)東光寺鐘楼堂 藤原朝臣日原左衛門尉光政 享保3年(1718)

B 淡河八幡神社本殿 棟梁大沢日原武兵衛 宝暦2年(1752)

●加西市の日原性の大工の作品

 (加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)、若一神社拝殿 天保十五年(1844)、下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)、磯崎神社天保六年(1835)、千山寺本堂 文化四年(1807)と、加西市内で日原の名字をもつ建物は19世紀以降のものに限られていました。では、その作品はどのような特徴があるのでしょうか。

A 欄干

(加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)


下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)


千山寺本堂 文化四年(1807)

上記の欄干を見ると、三木市内の18世紀までの丸い柱ではなく、四角柱の柱に角ばった擬宝珠が削り出されているという特徴がありました。

B 彫刻

そして、日原性の大工の作品かどうかは分からないのですが、同じ境内の別の建物は下のような彫刻のある建物が見られました。

千山寺 


磯前神社随神門


編集後記

 日原大工そのものについて知りたければ、現・三木市文化財保護審議委員会委員を務めていらっしゃる藤田均氏らを中心とする よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』2014 をご覧ください。三木市立図書館の吉川分館で見ることが出来ます。

 

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337.韓国仏甲寺の中はトムとジェリーの世界!?(月刊「祭御宅」2021.5月6号

2021-05-14 20:58:20 | コリア、外国

今回は、韓国の寺院彫刻の特徴をざっくり見たあと、韓国の全羅南道霊光郡仏甲寺の彫刻を見てみましょう。

●写実的な彫刻、仏像の塗り直しはあまりしない日本

 日本の彫刻はもちろん完全に写実的だというわけではないですが、韓国と比べると写実的でディフォルメ的要素が少ないといえます。

 仏像の色を塗り直すところは少数派です。

●ディフォルメ的要素が大きい韓国

ディフォルメ的要素が大きいと言えるでしょう。

仏像は金色を保ちます。

屋外に顔、屋内に尻尾と一続きになっています。

動物たちがおっかけっこ

 仏甲寺の御堂の中を龍や動物がかけめぐる構成になっています。追っかけっこをしているようにもみえます。なんとなくトムとジェリーの世界に迷い込んだようにも見えてきます。

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