お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

透明な自分

2009年10月30日 | 仏教
 かって、無差別殺傷事件を起こした青年が自分を表現したのが、
 「透明な存在」

 彼は、誰も自分の存在に気づいてくれない・・・という意味で、そう表現した想像します。
 孤島に一人の孤独感より、大勢の人々の中での孤独感が、より強く、つらいもの。
 
 愛されることが幸せであるのは、当然ですが、
憎まれるってことも、まだ相手に「自分」という存在を認められているだけマシで、
 何の対象にもならず、気づかれず、
「無視」され続けるというのが、一番悲しいことなんだと思います。

 しかし、「透明な存在」と、言った彼こそ
昨日、ご紹介したように

 「透明」どころか、最も「自分濃度が高い」人だったのでしょう。

 「自分がもてたい」「自分が注目されたい」自分が 自分が・・・

 果たして、そう思う「自分」は 他者のことを無視せず、人の痛みを想像することがあったのか・・・

 「自分濃度が高い」と、より一層、自分も周囲も傷つくのでありましょう。

 そう言う意味で、仏教・・・目指すところは、自分の濃度を薄めること・・・
 その究極が、「透明な自分」(自己執着からの開放)
 
 それは、自分が消えてなくなるってことではなく、
他と共にあること、自他の境がないこと である と味わっております。
コメント (8)
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