保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

頼政塚発見!京都を歩く・亀岡編

2005-04-04 09:28:17 | シリーズ・京都を歩く
京都から国道9号線を西に向かい、老ノ坂峠の
トンネルを出ると、私はっちんが住む、亀岡の
街が眼下に広がってきます。

この国道9号線を街の中心部へ進めていくと
「頼政塚」という看板のかかった交差点が
目に付きます。

この「頼政塚」とは、平安末期の武将・源頼政のことで
その首を葬ったと伝えられる墓が亀岡にあります。

NHK・大河ドラマ「義経」をご覧になっている方も多いと
思いますが、頼政とは丹波哲郎さん演じる源氏の長老で、
平家の驕りを戒めようと、全国に散らばった源氏の決起を
促したことが露見したことで、平清盛に討たれてしまう。

しかし、この頼政の挙兵を契機して、源頼朝や木曾義仲ら
全国の源氏一門が決起するなど、各地で源平の戦いが本格化し、
時代を動かす先駆けとなりました。

頼政塚は、国道9号線・頼政塚の交差点より、南に徒歩で10分程の
小高い丘の頂上にひっそりと今も祀られています。

頂上から亀岡の街が見渡すことができるこの丘は、
もともと高貴な人の古墳だと云われています。


源頼政は長治元年(1104年)、父は源仲政、母は藤原友実の娘の
間に生まれました。

1156年(保元元)の保元の乱では後白河天皇に属し、
1159年の平治の乱では義経らの父・河内源氏の源義朝に
属するも、源氏嫡流として独自の行動をとり、
平清盛陣営に参加しました。
この功績より頼政は、1178年(治承2)には従三位を授けられます。

別名の源三位頼政の名はこの従三位から来ています。

平治の乱で源義朝は敗れ、河内源氏は四散しますが、
その中において頼政は、唯一、源氏として存在し、
1180年に後白河法皇皇子の以仁王の令旨に従い、
伊勢平氏の平清盛一族打倒の最初の挙兵を行うも敗れ
宇治の平等院釣殿で自刃して果てます。

その頼政の首を家来が持ち帰り、当時の領地であった
この亀岡の地に葬ったと云われています。

頼政は鬼退治や土蜘蛛退治で有名な源頼光の玄孫にあたり、
弓術などの武芸にも優れ、夜な夜な怪鳴を発して、高倉天皇を
悩ました鵺(ぬえ)を退治したことで、亀岡・矢田の地を賜りました。

*写真は頂上にある頼政の首塚です。
 塚裏は今、つつじヶ丘小学校になっており、
 我が愚息も学んでおります。