保津川下りの船頭さん

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了以の晩年を見続けた大悲閣に残るもの・・・

2006-08-01 17:57:15 | 京都情報
京都・嵐山の中腹、静寂に包まれる禅宗の山寺・大悲閣千光寺。

200mはあるつづら折の坂を登りきった所に境内がある。

大悲閣の寺院名称である千光寺とは、元々嵯峨中院の嵯峨釈迦堂清涼寺近く
にあった千光寺の名跡を、角倉了以が今の位置に移して創建したものだ。

暴風雨で倒壊した本堂の代わりを務める客殿(月見台)。
ここに木造作りの了以像が安置され、今も保津川下りの船の通航を見守っている。

この像は国宝級の価値があるもので、海外の美術展や博覧会にも展示されている。
眼光鋭く口を強く閉じ、片膝を立て手には開削で使ったツルハシが握られている。
この荒瀬の開削に賭けた了以の意志の強さを表している像だ。

客殿の天井と鴨居の間には「了以翁300年忌」の時の様子が絵になって飾ってある。
僧侶と神主が共同で法要を執り行ったのか両者が先頭に立ち、
身内や関係者、一般参列者の長い行列が続いているのがわかる。

参列者は大堰川を船で上がり、大悲閣まで行った様子が描かれている。
倒壊前の本堂が建っているのがわかる。この立派な絵画を見てると
約100年前の了以の法要がとても盛大に執り行われたことが窺える。
今、大悲閣を思うとなんとも寂しい限りだ。

殿内にはまだまだ貴重な品物が見受けられる。
その一つ角倉一族を日本国有数の豪商にした「角倉朱印船」の絵画だ。
角倉朱印船は当時の貿易商朱印船の中でも、最多17回の渡航回数を誇る。
主に安南国(ベトナム)との貿易をすすめ、金銀や絹織物や屏風、
陶芸、漆器などの物資を運んだ。
朱印船貿易は難破や海賊の被害なども多くリスクの大きい事業だったが、
1回の渡航で今にして8~10億円もの巨利を得ることができたので
リスクに見合った魅力的なビッグビジネスだったのだ。
了以はこの朱印船で得た巨利を資本基盤にして保津川や高瀬川などの
河川開削事業を手がけるようになったといわれる。
鎖国制度がひかれるまでの朱印船貿易の隆盛は京都の伝統工芸品の発展に
大きく影響を与えたといわれる。了以の子・素案はのちに徳川家光の
命を受け清水寺の復建事業にも着手している。この功績を讃える
「角倉朱印船」の大きな絵馬が今も清水寺に奉納されている。

そして!この「葵の御紋」が付いた位牌いったい??
ええぃ~控えおろう~この紋所が目に入らぬか!

「東照大権現!」そうこの位牌こそ初代将軍・徳川家康公の位牌なるぞ!
皆の者、家康公の位牌の御前である、頭が高い!控えおろう~
となったかどうかは知らないが、徳川家康公の位牌がこの大悲閣にある
ことはあまり知られていない!

これだけでも当時、了以がどれだけ家康に近い人物であったかを窺わせる品物だ!
了以が天下の徳川幕府を支えた影のスポンサーであったことは想像に難くない。

晩年、了以はこの大悲閣に隠居し、保津川開削で犠牲になった無名の人達と
天下人・徳川家康の菩提を一緒に弔いながらその生涯を終えたことは
実利主義の冷たい実業家ではなかった!という了以の人となりを表している
様な気がしてならない。

京都市内を見下ろし俗世間から解き放たれた空間が広がる大悲閣。

日本有数の大金持ちになった成功者角倉了以。
その晩年、この大悲閣で俗世の欲から解き放たれた了以の心には
一体なにがどの様な思いが去来していたのであろうか?