核兵器時代の幕をあけたのは、天才物理学者として有名な
アルベルト・アインシュタインだ。
彼が1905年に発表した「特殊相対性理論」で原子エネルギーの公式を明確にした。
その後、ドイツの物理学者オット・ハーンとシュトラスマンによりウラン235に
中性子を当て核分裂を起こし、原子のエネルギーが取り出す実験に成功し、
アインシュタインの理論を証明した。
これが原子爆弾の誕生の歴史だ。
当時、原子力研究の先頭を走っていたのは、ヒットラー率いるドイツの
物理学会であった。彼の執拗なユダヤ人迫害で命の危機を感じたアインシュタインら
ユダヤ系の科学者はドイツを脱出し、アメリカに亡命していた。
そしてそのアメリカで「悪魔の様なナチスドイツが原爆を完成させる前に、
正義の味方・アメリカが原子爆弾を完成させなければならない」との
原子爆弾作成を求める手紙を当時アメリカ大統領ルーズベルトに送っている。
ルーズベルトはこの手紙を元に、原爆の開発計画に着手、多額の予算を投入した。
これが有名な「マンハッタン計画」だ。
そしてこの計画は「日本の広島」に原爆を投下することで完成をみたのだ。
アメリカ指導階層はこの計画を遂行する国として、すでに降伏は
時間の問題であり、和平交渉も求めていた日本に決定した。
そして彼らはたいして良心的呵責も感じることなく、この大量殺戮兵器を
非戦闘員の一般市民に目掛けて投下したのだ。
なぜ、彼らはこの残忍な殺戮方法を同じ人間に向かって遂行したのか?
これから論じる見解はただアメリカ一国の指導者の責任追求ではないことを
まずご理解して頂きたい。この問題の本質はヨーロッパ・アメリカを代表する
西欧文明思想の深層心理に求めたいと思う。
人類史上初めてで唯一の原爆投下。
それは我々日本人が‘白人’ではなかったからだ!
我々は神に最も近いと信じられる‘白人’ではなく劣った‘黄色人種’だからだ。
当時のいや、今でもそうかもしれないがヨーロッパやアメリカの支配的階層は
明らかにその様に信じて、近代合理主義に裏付けられた西欧文明を作ってきた。
その文明の本質は、生存競争こそ進歩の基盤であり、生物の進化の歴史は
生存競争によって‘強者が弱者を選別し淘汰’してもいいのだ
という自分勝手な 虚像の論理に裏打ちされている。
神に選ばれし白人は欧米先進諸国は‘劣った東洋の人種である日本人を
選別して淘汰してもいい、それが必然だ、と信じるからこその行動なのだ。
この説は原爆製造の引き金を引き、生涯その懺悔の念とともに生きた
物理学者 アルバート・アインシュタインも回顧録に書いている。
アインシュタインは言う。
「ダーウィンの進化論にある生存競争説とそれに関連した淘汰の論理は
競争社会の奨励を権威化するものとして多くの人々に引用されてきた。
このことが諸個人に破壊的な経済競争という戦いが行われるのは必然的だ
ということをえせ科学的に証明しようとした。しかし、それはまちがいです」と。
生物の進化の歴史は生存競争で進化したのでは断じてない。
人以外の生物にとっては種の維持と繁栄が個々の個体にとっての生存の第一義である。
生存競争の縮図の様に紹介されるアフリカのジャングルでは
ライオンとシマウマが仲良く同じ泉で水を飲んでいる風景をよく見かける。
ライオンは空腹になるとシマウマを捕らえ食糧とする。
しかし、これは劣ったシマウマがライオンに食われるので断じてない。
ライオンは空腹時にたまたま隣りにいた運の悪かったシマウマを食べたに過ぎない。
けして足の遅い劣ったシマウマが食べれらた訳ではない。
この行為はライオンという種の存続の為であり、またシマウマの種の存続でもある。
けして絶滅させるようなものではない。
そして食糧として必要以上の殺戮は一切行わない。まして同種の中での
些細な争いはあっても、意味のない殺戮など皆無だ。
このことは人間以外の生物の常識である。
しかし人は生存競争の論理を正当化して正義と進歩の名のもとに
その価値観は確立され、今度は自分が淘汰されるのではないか?という
恐怖感がさらに争いを過酷なものへと押し上げているというのが
今の世界の現状だ。
人は原子のエネルギーを手に入れ、それを同胞の「人」に使用するという
禁断の果実を食べてしまった。
そのことは西欧文明が頑なに信じていた生存競争に勝つ事が
人の進歩の基盤であり幸せへの道なのだという論理の崩壊を
意味することに気が付かねばならない。
これからの生存競争に勝利者など存在しない。
あるのは一切の破滅のみだ。
人は自国のエゴや自らのエゴから開放され、全て争いをやめ,
ともに共生できる道を探っていかねばならない。
それ以外に尊厳ある生存を確立する道はない。
2回にわたり書き込んだこの文章は、原爆被害者及び戦争被害者
また今もなお続いている紛争の被害者の方たちに対し、
生存競争を信じて生きてきた自分自身への反省と懺悔の念を表したものだ。
広島の原爆平和資料館に掲げてあった一文を紹介して終わりたいと思う。
‘人類の尊厳と敬愛は、いかなる破壊力にも動じることなく、
惨禍を克服し尊敬と平和のうちに国家と国家を結ぶ’
アルベルト・アインシュタインだ。
彼が1905年に発表した「特殊相対性理論」で原子エネルギーの公式を明確にした。
その後、ドイツの物理学者オット・ハーンとシュトラスマンによりウラン235に
中性子を当て核分裂を起こし、原子のエネルギーが取り出す実験に成功し、
アインシュタインの理論を証明した。
これが原子爆弾の誕生の歴史だ。
当時、原子力研究の先頭を走っていたのは、ヒットラー率いるドイツの
物理学会であった。彼の執拗なユダヤ人迫害で命の危機を感じたアインシュタインら
ユダヤ系の科学者はドイツを脱出し、アメリカに亡命していた。
そしてそのアメリカで「悪魔の様なナチスドイツが原爆を完成させる前に、
正義の味方・アメリカが原子爆弾を完成させなければならない」との
原子爆弾作成を求める手紙を当時アメリカ大統領ルーズベルトに送っている。
ルーズベルトはこの手紙を元に、原爆の開発計画に着手、多額の予算を投入した。
これが有名な「マンハッタン計画」だ。
そしてこの計画は「日本の広島」に原爆を投下することで完成をみたのだ。
アメリカ指導階層はこの計画を遂行する国として、すでに降伏は
時間の問題であり、和平交渉も求めていた日本に決定した。
そして彼らはたいして良心的呵責も感じることなく、この大量殺戮兵器を
非戦闘員の一般市民に目掛けて投下したのだ。
なぜ、彼らはこの残忍な殺戮方法を同じ人間に向かって遂行したのか?
これから論じる見解はただアメリカ一国の指導者の責任追求ではないことを
まずご理解して頂きたい。この問題の本質はヨーロッパ・アメリカを代表する
西欧文明思想の深層心理に求めたいと思う。
人類史上初めてで唯一の原爆投下。
それは我々日本人が‘白人’ではなかったからだ!
我々は神に最も近いと信じられる‘白人’ではなく劣った‘黄色人種’だからだ。
当時のいや、今でもそうかもしれないがヨーロッパやアメリカの支配的階層は
明らかにその様に信じて、近代合理主義に裏付けられた西欧文明を作ってきた。
その文明の本質は、生存競争こそ進歩の基盤であり、生物の進化の歴史は
生存競争によって‘強者が弱者を選別し淘汰’してもいいのだ
という自分勝手な 虚像の論理に裏打ちされている。
神に選ばれし白人は欧米先進諸国は‘劣った東洋の人種である日本人を
選別して淘汰してもいい、それが必然だ、と信じるからこその行動なのだ。
この説は原爆製造の引き金を引き、生涯その懺悔の念とともに生きた
物理学者 アルバート・アインシュタインも回顧録に書いている。
アインシュタインは言う。
「ダーウィンの進化論にある生存競争説とそれに関連した淘汰の論理は
競争社会の奨励を権威化するものとして多くの人々に引用されてきた。
このことが諸個人に破壊的な経済競争という戦いが行われるのは必然的だ
ということをえせ科学的に証明しようとした。しかし、それはまちがいです」と。
生物の進化の歴史は生存競争で進化したのでは断じてない。
人以外の生物にとっては種の維持と繁栄が個々の個体にとっての生存の第一義である。
生存競争の縮図の様に紹介されるアフリカのジャングルでは
ライオンとシマウマが仲良く同じ泉で水を飲んでいる風景をよく見かける。
ライオンは空腹になるとシマウマを捕らえ食糧とする。
しかし、これは劣ったシマウマがライオンに食われるので断じてない。
ライオンは空腹時にたまたま隣りにいた運の悪かったシマウマを食べたに過ぎない。
けして足の遅い劣ったシマウマが食べれらた訳ではない。
この行為はライオンという種の存続の為であり、またシマウマの種の存続でもある。
けして絶滅させるようなものではない。
そして食糧として必要以上の殺戮は一切行わない。まして同種の中での
些細な争いはあっても、意味のない殺戮など皆無だ。
このことは人間以外の生物の常識である。
しかし人は生存競争の論理を正当化して正義と進歩の名のもとに
その価値観は確立され、今度は自分が淘汰されるのではないか?という
恐怖感がさらに争いを過酷なものへと押し上げているというのが
今の世界の現状だ。
人は原子のエネルギーを手に入れ、それを同胞の「人」に使用するという
禁断の果実を食べてしまった。
そのことは西欧文明が頑なに信じていた生存競争に勝つ事が
人の進歩の基盤であり幸せへの道なのだという論理の崩壊を
意味することに気が付かねばならない。
これからの生存競争に勝利者など存在しない。
あるのは一切の破滅のみだ。
人は自国のエゴや自らのエゴから開放され、全て争いをやめ,
ともに共生できる道を探っていかねばならない。
それ以外に尊厳ある生存を確立する道はない。
2回にわたり書き込んだこの文章は、原爆被害者及び戦争被害者
また今もなお続いている紛争の被害者の方たちに対し、
生存競争を信じて生きてきた自分自身への反省と懺悔の念を表したものだ。
広島の原爆平和資料館に掲げてあった一文を紹介して終わりたいと思う。
‘人類の尊厳と敬愛は、いかなる破壊力にも動じることなく、
惨禍を克服し尊敬と平和のうちに国家と国家を結ぶ’