保津川下りの船頭さん

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広島、長崎にみる原爆投下の意味するもの。其の弐

2006-08-10 17:43:34 | 船頭の目・・・雑感・雑記
核兵器時代の幕をあけたのは、天才物理学者として有名な
アルベルト・アインシュタインだ。
彼が1905年に発表した「特殊相対性理論」で原子エネルギーの公式を明確にした。
その後、ドイツの物理学者オット・ハーンとシュトラスマンによりウラン235に
中性子を当て核分裂を起こし、原子のエネルギーが取り出す実験に成功し、
アインシュタインの理論を証明した。

これが原子爆弾の誕生の歴史だ。

当時、原子力研究の先頭を走っていたのは、ヒットラー率いるドイツの
物理学会であった。彼の執拗なユダヤ人迫害で命の危機を感じたアインシュタインら
ユダヤ系の科学者はドイツを脱出し、アメリカに亡命していた。

そしてそのアメリカで「悪魔の様なナチスドイツが原爆を完成させる前に、
正義の味方・アメリカが原子爆弾を完成させなければならない」との
原子爆弾作成を求める手紙を当時アメリカ大統領ルーズベルトに送っている。

ルーズベルトはこの手紙を元に、原爆の開発計画に着手、多額の予算を投入した。
これが有名な「マンハッタン計画」だ。

そしてこの計画は「日本の広島」に原爆を投下することで完成をみたのだ。

アメリカ指導階層はこの計画を遂行する国として、すでに降伏は
時間の問題であり、和平交渉も求めていた日本に決定した。
そして彼らはたいして良心的呵責も感じることなく、この大量殺戮兵器を
非戦闘員の一般市民に目掛けて投下したのだ。

なぜ、彼らはこの残忍な殺戮方法を同じ人間に向かって遂行したのか?

これから論じる見解はただアメリカ一国の指導者の責任追求ではないことを
まずご理解して頂きたい。この問題の本質はヨーロッパ・アメリカを代表する
西欧文明思想の深層心理に求めたいと思う。

人類史上初めてで唯一の原爆投下。

それは我々日本人が‘白人’ではなかったからだ!

我々は神に最も近いと信じられる‘白人’ではなく劣った‘黄色人種’だからだ。

当時のいや、今でもそうかもしれないがヨーロッパやアメリカの支配的階層は
明らかにその様に信じて、近代合理主義に裏付けられた西欧文明を作ってきた。

その文明の本質は、生存競争こそ進歩の基盤であり、生物の進化の歴史は
生存競争によって‘強者が弱者を選別し淘汰’してもいいのだ
という自分勝手な 虚像の論理に裏打ちされている。

神に選ばれし白人は欧米先進諸国は‘劣った東洋の人種である日本人を
選別して淘汰してもいい、それが必然だ、と信じるからこその行動なのだ。

この説は原爆製造の引き金を引き、生涯その懺悔の念とともに生きた
物理学者 アルバート・アインシュタインも回顧録に書いている。

アインシュタインは言う。
「ダーウィンの進化論にある生存競争説とそれに関連した淘汰の論理は
競争社会の奨励を権威化するものとして多くの人々に引用されてきた。
このことが諸個人に破壊的な経済競争という戦いが行われるのは必然的だ
ということをえせ科学的に証明しようとした。しかし、それはまちがいです」と。


生物の進化の歴史は生存競争で進化したのでは断じてない。
人以外の生物にとっては種の維持と繁栄が個々の個体にとっての生存の第一義である。

生存競争の縮図の様に紹介されるアフリカのジャングルでは
ライオンとシマウマが仲良く同じ泉で水を飲んでいる風景をよく見かける。

ライオンは空腹になるとシマウマを捕らえ食糧とする。
しかし、これは劣ったシマウマがライオンに食われるので断じてない。
ライオンは空腹時にたまたま隣りにいた運の悪かったシマウマを食べたに過ぎない。
けして足の遅い劣ったシマウマが食べれらた訳ではない。

この行為はライオンという種の存続の為であり、またシマウマの種の存続でもある。
けして絶滅させるようなものではない。

そして食糧として必要以上の殺戮は一切行わない。まして同種の中での
些細な争いはあっても、意味のない殺戮など皆無だ。

このことは人間以外の生物の常識である。

しかし人は生存競争の論理を正当化して正義と進歩の名のもとに
その価値観は確立され、今度は自分が淘汰されるのではないか?という
恐怖感がさらに争いを過酷なものへと押し上げているというのが
今の世界の現状だ。

人は原子のエネルギーを手に入れ、それを同胞の「人」に使用するという
禁断の果実を食べてしまった。

そのことは西欧文明が頑なに信じていた生存競争に勝つ事が
人の進歩の基盤であり幸せへの道なのだという論理の崩壊を
意味することに気が付かねばならない。

これからの生存競争に勝利者など存在しない。

あるのは一切の破滅のみだ。

人は自国のエゴや自らのエゴから開放され、全て争いをやめ,
ともに共生できる道を探っていかねばならない。

それ以外に尊厳ある生存を確立する道はない。

2回にわたり書き込んだこの文章は、原爆被害者及び戦争被害者
また今もなお続いている紛争の被害者の方たちに対し、
生存競争を信じて生きてきた自分自身への反省と懺悔の念を表したものだ。

広島の原爆平和資料館に掲げてあった一文を紹介して終わりたいと思う。

‘人類の尊厳と敬愛は、いかなる破壊力にも動じることなく、
 惨禍を克服し尊敬と平和のうちに国家と国家を結ぶ’

広島、長崎にみる原爆投下の意味するもの。

2006-08-10 01:09:09 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今日9日は61年前、長崎に原子力爆弾が投下された日である。
午前10時40分から行われた記念式典には小泉首相はじめ政府の要人も出席して、
あの悲劇を繰り返さない‘平和への誓い’を宣言した。

この6日には広島の平和記念公園でも同様の平和記念式典が開かれ、
日本の夏は毎年、反戦の思いを強くする熱い夏となる。

自分は先日、市の企画で広島を訪れた。

その時、あの場所で確かに感じた原爆犠牲者の声が、今度はブラウン管の中
から甦り語りかけてくる気がした。
以来、脳裡を離れない彼ら被害者の声無き声、内なる心の叫びが
この文章を書く動機にもなっている。

61年前、広島や長崎の原爆被害者の方々は、何故あんなにも
惨たらしい死に方をしなければならなかったのか?

毎年、式典で献花が捧げられる原爆死没者慰霊碑には
「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませんから…」という言葉が刻まれている。
明らかに懺悔の念を言葉に表した文面だが、この文面からは大事な主語が
抜けていることに容易に気がつく。過ちを繰り返さない主体は一体誰なのか?
おそらく原爆投下の加害者であるアメリカ一国のみを指したものではないとは思うが、
この様な人類史上最も残虐な大量殺人を受けた場所ですら主語をぼかさねば
ならないところにこの「平和祈願」の無力感を感じずにはいられない。

一体、広島と長崎の原爆投下が意味するものは何だったのか?
日本人は否、人類はこの本質をしっかり見定める必要があるのではないか。
この努力もせずに「平和や反核」」を叫んで感傷に浸っていても
無力感や空しさを胸から取り払うことはできないであろう。

今や広島と長崎の原爆投下は「アメリカの対日戦争勝利」には不必要であった
というのは良心的な歴史家の常識になりつつあるという。
ドイツの敗戦後、唯一残った日本であったが、相次ぐ戦線での敗北で、
制空権も制海権もアメリカに奪われ、3月の東京空襲を皮切りに
日本の都市は無防備状態となり、全国の主用都市は連日B29の焼夷弾攻撃に
さらされていた。
日本海軍は壊滅し瀬戸内海をアメリカの潜水艦が大きな顔して潜航するような
末期的状況下に追い込まれていた。そんな状況下で原爆は投下されたのだ!

ここに驚くべき資料がある。
トルーマン大統領記念図書館で発見された彼自身の日記がそれだ。

その日記によると「7月7日、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンにより
ポツダムで会談が持たれた際、スターリンが日本の天皇が和平を求めた
電報を送っていたことを伝えた」「しかしその和平電報は握り潰すことに決定した」
とある。
広島原爆平和資料館のパンフレットには「ソ連の影響力を高める前に
早期終戦に持ち込むため使用した」と説明されている。

この説は国際法違反である大量殺戮兵器である原爆を使用した
アメリカのプロパガンダとして正当性を掲げる定説となっている。
戦争を終了させるため仕方なしの作戦であったと。

だが一歩譲ってこの意見を肯定したとするとして、では広島に原子爆弾を
投下したあと、無条件降伏の回答を待たず3日後に何故、長崎に2発目の
原子爆弾を投下しなければなかったのか?
これに対する明確な答えは見つからないであろう。

敗北が決定し、天皇は和平交渉電報を打っているにもかかわらず
日本に対し原子力爆弾を使用した本当の理由は別にあったのである。

広島と長崎に使用された原子爆弾の種類は異なっていた。
長崎はプラトニウム239爆弾というすでにニューメキシコ州で実験済みの
爆弾だったのに対して広島には濃縮ウラン235爆弾という未使用な爆弾であり
これは実験の為の投下だったのである。

広島原爆が投下された時間「8時15分」も広島市民が
もっとも外へ出て仕事などをしている時間を入念にリサーチして、
外出している人への被害効果を測る最悪の人体実験だった。

幾ら戦争時とはいえ、こんな惨たらしい行為を
同じ人間がたいして良心の呵責も感じずにできるものなのか?

では何故、彼らはそれが出来たのか?

その思考の本質について次回以降、深く探っていきたいと思う。