保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

今日の水戸黄門にナイチンが出演します。

2006-08-14 06:55:34 | 船頭
今日14日放送の「水戸黄門」第4話に
ナイチンこと内藤和也さんが出演されます。

内藤さんは自分たち浜田省吾ファンにつくる
「浜省の会」のメンバーで、会のムードメーカー的存在。

浜田省吾さんを語らしたら朝までも語るといわれる熱い男です。

今回の役どころは歩荷人足役で、話の最初と最後の方に
登場されます。セリフもある役付きなのでオープニングの
歌の時、名前もテロップで流れる予定。

ナイチンはとても個性豊かな俳優さんで、時代劇での存在感はバッチリ!

保津川下り400年記念の「時代劇ショー」の時もその
個性をいかんなく発揮し、会場が笑いの坩堝とかしたのは記憶に新しいところ。

また、只今レンタル中の「実録新撰組完結編」にも伊藤一派かたの隊士役で
出演されるなど、活躍されておられます。

このブログをご覧の皆様、また全国の浜省ファンも皆様、
内藤和也さんの勇姿を是非、ご覧下さいね。

いよいよ‘お盆’です!

2006-08-13 08:43:42 | 船頭
昨日、京都は37℃を越える猛暑でした。

天気も好天に恵まれて、お盆初日となった保津川では朝から
大勢のお客さんがお越しになり、一日で80艘の船が流れました。

昼以降、夕立ち空になり、少し客足が鈍りましたが、
お盆シーズンとしては順調なスタートを切れたのでは
ないかと思っております。

運航状況も特に目立った混雑も無く、良好な流れとなりました。

予想では14,15、16日の3日間がピークとなるのでは?
と考えております。

これらの日は朝10時以降、かなりの混雑が予想されますので、
少し待ち時間が出る可能性があります。

スムーズな乗船を希望される方は、朝10時までに
お越しいただくことをオススメします。

いよいよ保津川の‘お盆’やってきます!

2006-08-11 08:22:11 | 船頭
いよいよ今日,明日頃から、世間はお盆休みに突入です。

保津川下りでも毎年、この時期は大勢のお客さんがお越しになり
私達船頭も連日、忙しい日々を過ごすことになります。

会社や学校等が休日となるこの時期、予約の数自体は少ないものの、
ご家族連れや友達同士のお客さんが大勢お越しなり、平均で
一日100艘をこえる船が保津川を流れて行くのです。

最近の来客者傾向としては14日、15日あたりが最も混み合い、
少し待ち時間が出てくるかもしれないです。

その前後は例年、案外スムーズな運航状況となっているようですので
待たずに乗りたい方は、これらの日にお越しいただくことをオススメします。


京都洛西の人気のコースである「トロッコ列車と保津川下り」

嵐山から出発する嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車も混雑が予想されますので
乗られる方は事前に空き席情報を確認の上、行枯れるのがいいと思います。

トロッコに空きがない場合は、保津川下りまでJR電車か車をご利用下さい。

電車ならJR山陰線で嵯峨嵐山駅から亀岡行きもしくは
園部行きの普通電車に乗って、3つ目の駅「亀岡駅」で下車して下さい。

時間して約13分ほどです。

亀岡駅でも保津川下りの乗車券を販売しておりますが、
ここは行列が出来易いので少しでも早く乗りたい方は、
すぐ乗船場までお越し頂く方が早く申し込みできることもあります。

またトロッコ並びにJRでセット券をお買い求め下さった方も、
必ず遊船受付で申し込み手続きをして下さい。

暑さも厳しいお盆の時期、自然の涼風とできたての酸素マイナスイオンを
一杯浴びる爽快な川下りをお楽しみ頂きたいと思っています。

広島、長崎にみる原爆投下の意味するもの。其の弐

2006-08-10 17:43:34 | 船頭の目・・・雑感・雑記
核兵器時代の幕をあけたのは、天才物理学者として有名な
アルベルト・アインシュタインだ。
彼が1905年に発表した「特殊相対性理論」で原子エネルギーの公式を明確にした。
その後、ドイツの物理学者オット・ハーンとシュトラスマンによりウラン235に
中性子を当て核分裂を起こし、原子のエネルギーが取り出す実験に成功し、
アインシュタインの理論を証明した。

これが原子爆弾の誕生の歴史だ。

当時、原子力研究の先頭を走っていたのは、ヒットラー率いるドイツの
物理学会であった。彼の執拗なユダヤ人迫害で命の危機を感じたアインシュタインら
ユダヤ系の科学者はドイツを脱出し、アメリカに亡命していた。

そしてそのアメリカで「悪魔の様なナチスドイツが原爆を完成させる前に、
正義の味方・アメリカが原子爆弾を完成させなければならない」との
原子爆弾作成を求める手紙を当時アメリカ大統領ルーズベルトに送っている。

ルーズベルトはこの手紙を元に、原爆の開発計画に着手、多額の予算を投入した。
これが有名な「マンハッタン計画」だ。

そしてこの計画は「日本の広島」に原爆を投下することで完成をみたのだ。

アメリカ指導階層はこの計画を遂行する国として、すでに降伏は
時間の問題であり、和平交渉も求めていた日本に決定した。
そして彼らはたいして良心的呵責も感じることなく、この大量殺戮兵器を
非戦闘員の一般市民に目掛けて投下したのだ。

なぜ、彼らはこの残忍な殺戮方法を同じ人間に向かって遂行したのか?

これから論じる見解はただアメリカ一国の指導者の責任追求ではないことを
まずご理解して頂きたい。この問題の本質はヨーロッパ・アメリカを代表する
西欧文明思想の深層心理に求めたいと思う。

人類史上初めてで唯一の原爆投下。

それは我々日本人が‘白人’ではなかったからだ!

我々は神に最も近いと信じられる‘白人’ではなく劣った‘黄色人種’だからだ。

当時のいや、今でもそうかもしれないがヨーロッパやアメリカの支配的階層は
明らかにその様に信じて、近代合理主義に裏付けられた西欧文明を作ってきた。

その文明の本質は、生存競争こそ進歩の基盤であり、生物の進化の歴史は
生存競争によって‘強者が弱者を選別し淘汰’してもいいのだ
という自分勝手な 虚像の論理に裏打ちされている。

神に選ばれし白人は欧米先進諸国は‘劣った東洋の人種である日本人を
選別して淘汰してもいい、それが必然だ、と信じるからこその行動なのだ。

この説は原爆製造の引き金を引き、生涯その懺悔の念とともに生きた
物理学者 アルバート・アインシュタインも回顧録に書いている。

アインシュタインは言う。
「ダーウィンの進化論にある生存競争説とそれに関連した淘汰の論理は
競争社会の奨励を権威化するものとして多くの人々に引用されてきた。
このことが諸個人に破壊的な経済競争という戦いが行われるのは必然的だ
ということをえせ科学的に証明しようとした。しかし、それはまちがいです」と。


生物の進化の歴史は生存競争で進化したのでは断じてない。
人以外の生物にとっては種の維持と繁栄が個々の個体にとっての生存の第一義である。

生存競争の縮図の様に紹介されるアフリカのジャングルでは
ライオンとシマウマが仲良く同じ泉で水を飲んでいる風景をよく見かける。

ライオンは空腹になるとシマウマを捕らえ食糧とする。
しかし、これは劣ったシマウマがライオンに食われるので断じてない。
ライオンは空腹時にたまたま隣りにいた運の悪かったシマウマを食べたに過ぎない。
けして足の遅い劣ったシマウマが食べれらた訳ではない。

この行為はライオンという種の存続の為であり、またシマウマの種の存続でもある。
けして絶滅させるようなものではない。

そして食糧として必要以上の殺戮は一切行わない。まして同種の中での
些細な争いはあっても、意味のない殺戮など皆無だ。

このことは人間以外の生物の常識である。

しかし人は生存競争の論理を正当化して正義と進歩の名のもとに
その価値観は確立され、今度は自分が淘汰されるのではないか?という
恐怖感がさらに争いを過酷なものへと押し上げているというのが
今の世界の現状だ。

人は原子のエネルギーを手に入れ、それを同胞の「人」に使用するという
禁断の果実を食べてしまった。

そのことは西欧文明が頑なに信じていた生存競争に勝つ事が
人の進歩の基盤であり幸せへの道なのだという論理の崩壊を
意味することに気が付かねばならない。

これからの生存競争に勝利者など存在しない。

あるのは一切の破滅のみだ。

人は自国のエゴや自らのエゴから開放され、全て争いをやめ,
ともに共生できる道を探っていかねばならない。

それ以外に尊厳ある生存を確立する道はない。

2回にわたり書き込んだこの文章は、原爆被害者及び戦争被害者
また今もなお続いている紛争の被害者の方たちに対し、
生存競争を信じて生きてきた自分自身への反省と懺悔の念を表したものだ。

広島の原爆平和資料館に掲げてあった一文を紹介して終わりたいと思う。

‘人類の尊厳と敬愛は、いかなる破壊力にも動じることなく、
 惨禍を克服し尊敬と平和のうちに国家と国家を結ぶ’

広島、長崎にみる原爆投下の意味するもの。

2006-08-10 01:09:09 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今日9日は61年前、長崎に原子力爆弾が投下された日である。
午前10時40分から行われた記念式典には小泉首相はじめ政府の要人も出席して、
あの悲劇を繰り返さない‘平和への誓い’を宣言した。

この6日には広島の平和記念公園でも同様の平和記念式典が開かれ、
日本の夏は毎年、反戦の思いを強くする熱い夏となる。

自分は先日、市の企画で広島を訪れた。

その時、あの場所で確かに感じた原爆犠牲者の声が、今度はブラウン管の中
から甦り語りかけてくる気がした。
以来、脳裡を離れない彼ら被害者の声無き声、内なる心の叫びが
この文章を書く動機にもなっている。

61年前、広島や長崎の原爆被害者の方々は、何故あんなにも
惨たらしい死に方をしなければならなかったのか?

毎年、式典で献花が捧げられる原爆死没者慰霊碑には
「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませんから…」という言葉が刻まれている。
明らかに懺悔の念を言葉に表した文面だが、この文面からは大事な主語が
抜けていることに容易に気がつく。過ちを繰り返さない主体は一体誰なのか?
おそらく原爆投下の加害者であるアメリカ一国のみを指したものではないとは思うが、
この様な人類史上最も残虐な大量殺人を受けた場所ですら主語をぼかさねば
ならないところにこの「平和祈願」の無力感を感じずにはいられない。

一体、広島と長崎の原爆投下が意味するものは何だったのか?
日本人は否、人類はこの本質をしっかり見定める必要があるのではないか。
この努力もせずに「平和や反核」」を叫んで感傷に浸っていても
無力感や空しさを胸から取り払うことはできないであろう。

今や広島と長崎の原爆投下は「アメリカの対日戦争勝利」には不必要であった
というのは良心的な歴史家の常識になりつつあるという。
ドイツの敗戦後、唯一残った日本であったが、相次ぐ戦線での敗北で、
制空権も制海権もアメリカに奪われ、3月の東京空襲を皮切りに
日本の都市は無防備状態となり、全国の主用都市は連日B29の焼夷弾攻撃に
さらされていた。
日本海軍は壊滅し瀬戸内海をアメリカの潜水艦が大きな顔して潜航するような
末期的状況下に追い込まれていた。そんな状況下で原爆は投下されたのだ!

ここに驚くべき資料がある。
トルーマン大統領記念図書館で発見された彼自身の日記がそれだ。

その日記によると「7月7日、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンにより
ポツダムで会談が持たれた際、スターリンが日本の天皇が和平を求めた
電報を送っていたことを伝えた」「しかしその和平電報は握り潰すことに決定した」
とある。
広島原爆平和資料館のパンフレットには「ソ連の影響力を高める前に
早期終戦に持ち込むため使用した」と説明されている。

この説は国際法違反である大量殺戮兵器である原爆を使用した
アメリカのプロパガンダとして正当性を掲げる定説となっている。
戦争を終了させるため仕方なしの作戦であったと。

だが一歩譲ってこの意見を肯定したとするとして、では広島に原子爆弾を
投下したあと、無条件降伏の回答を待たず3日後に何故、長崎に2発目の
原子爆弾を投下しなければなかったのか?
これに対する明確な答えは見つからないであろう。

敗北が決定し、天皇は和平交渉電報を打っているにもかかわらず
日本に対し原子力爆弾を使用した本当の理由は別にあったのである。

広島と長崎に使用された原子爆弾の種類は異なっていた。
長崎はプラトニウム239爆弾というすでにニューメキシコ州で実験済みの
爆弾だったのに対して広島には濃縮ウラン235爆弾という未使用な爆弾であり
これは実験の為の投下だったのである。

広島原爆が投下された時間「8時15分」も広島市民が
もっとも外へ出て仕事などをしている時間を入念にリサーチして、
外出している人への被害効果を測る最悪の人体実験だった。

幾ら戦争時とはいえ、こんな惨たらしい行為を
同じ人間がたいして良心の呵責も感じずにできるものなのか?

では何故、彼らはそれが出来たのか?

その思考の本質について次回以降、深く探っていきたいと思う。

明日7日は「保津川花火大会」です!

2006-08-06 23:58:49 | 京都情報
亀岡夏のビックイベント「保津川花火大会」
が7日(月曜日)に保津川橋畔で開催されます。

今年で55回を数える歴史のある亀岡市の保津川花火大会は
「世界平和」の祈り込めた火の祭典でもあります。
花火当日に亀岡西山にあるの平和祈念塔で採火された
「永遠の平和と繁栄」を願う炎を平和の火パレードとして
保津の河原まで運び、その炎を使って花火を打ち上げます。

当日は市外からも大勢の見物客がお越しになられます。

花火打ち上げ会場は私の仕事場である保津川下りの乗船場から
2~300m上流の右岸側。
周辺には50件以上の屋台・夜店もでてとても賑やかに花火大会を盛り上げてくれます。


保津川の花火は、秋田や長野などの著名な花火職人が作る中でも、
厳しく選定された特選芸術玉なども打ちあげられます。

この芸術玉が見れるのは日本でも数ヶ所、関西では亀岡だけとのこと。

少し遠方の方でも、態々亀岡まで来て見る価値は十分満足して頂けるものと思います。

もちろんお約束のスターマイン、連射斜め打ちなどお楽しみ花火も目白押し!

会場はJR亀岡駅北へ徒歩なら約10分程です。

花火が点火されるのは午後8時から。

関西の花火大会でも大規模の約7000発の花火が夏の保津川の空を彩ります。

午後7時には周辺の道路は通行止めになります。

当日は電車、バス等の公共交通を利用していただきたいとのことです。
 
もし車で来られる際はお早めに亀岡入りされることをオススメします。

荒天なら中止になりますが、少しの雨なら決行します。

中止の場合は9日になります。
それでは皆さん、花火を楽しみましょう!

保津川の水上屋台家族が「日曜ビックバラエティー」で紹介

2006-08-04 23:56:58 | 京都情報
保津川下りの名物といえば嵐山近くになるとやって来る水上屋台です。

乗られたお客さんは皆さん一度は遭遇されたことと思います。

でも、あの水上屋台の家族ってどんな生活をされてるのでしょう?

その水上屋台を営んでおられる「嵐山琴ヶ瀬茶屋」の細川暉夫さん、佳介さん
親子が、6日(日)にテレビ東京の「日曜ビックバラエティー」の出演されます。

番組では、ふるさとの川とともに生きる元気一家の暮らしぶりと、
川と人々のふれあいを紹介し「家族の絆」に焦点を当てるドキュメンタリー。

今回、6軒の家族が紹介されるそうで
細川さんは「川とともに生きる・・・京都保津川・唯一の水上屋台家族」と
いうコーナーに、一家で営む水上屋台という仕事ぶりや家族の暮らしぶり
などを「踊る大捜査線」の秋山副署長役で人気の俳優斉藤暁さんが
レポートされます。

撮影は約1週間続けられたそうで、早朝からの仕込みから幼いお子さんを
幼稚園に送った後、船に乗り屋台を手伝われる奥様の奮闘記なども
紹介され、川で生きるという日常に密着した作りになっている模様です。

また保津川の船頭も数名友情出演するかも?

大堰川(保津川)で水上屋台を営む細川さん親子は、先日紹介した
「大悲閣・千光寺」へ続く大堰川南畔の小道沿いに茶店「嵐山琴ヵ瀬茶屋」
も営業されており、実はそちらのお店が本店なのです。

細川さんのお茶屋さんでは鮎など新鮮な川魚料理も食べることができ、
街道を散策される人たちの休息所としても人気スポットとなっています。

細川さん親子が営む「嵐山琴ヵ瀬茶屋」はただのお茶屋さんではないのですよ~
実は息子の佳介さんで4代目となる嵐山でも100年も続いている
由緒あるお茶屋さんで、お茶屋がある嵐山「琴ヵ瀬」という場所は、
平安の昔、平清盛がこの地で琴を奏でたという云われある所なのです。

お茶屋の中央には今も琴滝という滝の水が落ち、夏でも涼しい
嵐山でも有名な避暑地なのです。

そんな細川さん親子、一家の暮らしぶりとは?家族の絆とは?
川という自然に生きる同志として、とても興味のあるところです。

このブログをお読みの皆様も、是非、ご覧になられてはいかがでしょうか?

「日曜ビックバラエティー」
8月6日(日曜日)PM8:00~PM9:48分
テレビ東京系6局(テレビ大阪)独立局5局で放映
「ふるさとの川大好き元気家族・京都保津川の唯一の水上屋台家族」


『鴨川納涼』に桂川流域ネットワークが展示で参加。

2006-08-03 23:17:37 | 保津川エコ・グリーン委員会
京都には夏の風物詩と呼ばれるものが数多くありますが、
鴨川畔に組まれる「鴨川納涼床」もその一つ。

その納涼床が立ち並ぶ鴨川の景観・美観を守ろうと
「鴨川を美しくする会」が「鴨川納涼」イベントを開催されます。

今年は5日(土)6日(日)の二日間。

その「鴨川納涼」に「桂川流域ネットワーク」の展示ブースが設置されます。

「桂川流域ネットワーク」は2003年に京都を中心に開催された
第3回世界水フォーラムの成果と志を引き継ぎ、桂川流域を舞台に
水とのふれあいとコミュニケーションの機会をつくる為、提案と行動を
行っているNPO団体で、私も個人的に参加させて頂いている。

この度「鴨川納涼」の主催者のご厚意で「桂川流域ネットワーク」の
これまでの環境活動報告をパネルや図で紹介する展示ブースを設置できる
運びとなりました。

「鴨川納涼」は京都市、京都府の積極的な後援もうけているビックイベント。
このイベントで、桂川の環境保全にも意識を向けて貰らえればとても嬉しいです。

イベントでは鴨川美化・府民運動・環境保全・環境美化・京の川づくり
鴨川美化無線局・低公害車展示・第3回世界水フォーラム・
救援・いけ花展示・ふれあい交番などブースを設けた啓発コーナや
特設ステージでの各種催しも開催されるので、
この週末は「鴨川納涼イベント」に是非、お越し下さい。

第33回 『鴨川納涼』開催

日 時:平成18年8月5日(土) 午後5時~10時
          6日(日) 午後4時30分~9時30分
    ※両日共雨天中止
      雨天による開催は両日共午前11時と午後4時に決定
会 場:鴨川三条大橋~四条大橋西岸河川敷き

1・啓発コーナー
鴨川美化・府民運動・環境保全・環境美化・京の川づくり
鴨川美化無線局・低公害車 展示・第3回世界水フォーラム
救援・いけ花展示・ふれあい交番・他
2. イベントコーナー(特設ステージ)
3. バザーコーナー
4. 府内市町村特産品展示即売コーナー
5. 全国県人会によるふるさと産品展示即売
6. 京の夏まつり・友禅流しファンタジー

*イベント内容は変更もあるようです。    




保津川開削400事業のHPがリニューアル

2006-08-02 09:30:30 | 船頭
亀岡市と市内外の有志でつくる「保津川開削400周年記念事業実行委員会」
のホームページがこの度、リニューアルされました。

保津川の歴史からイベント内容まで、まさに「保津川の全てがわかる!」
ホームページとして刷新されました。

角倉了以翁の功績、保津川の恵みに感謝し、我々の最終目標である
「世界遺産」登録を目指して活動する「400周年実行委員会」の
全貌が今明らかになる!
そんなホームページです。

このホームページを通して「市民並びに全国の保津川ファン、亀岡ファン」
の皆様と活発な交流ができればこんなにステキなことはないですね。

残り半年、これからいよいよ各種イベントが動き出します。

「保津川開削400周年事業」に皆様のご支援、ご協力のほど
これからもよろしくお願い申し上げます。

保津川400周年記念事業実行委員会HP

了以の晩年を見続けた大悲閣に残るもの・・・

2006-08-01 17:57:15 | 京都情報
京都・嵐山の中腹、静寂に包まれる禅宗の山寺・大悲閣千光寺。

200mはあるつづら折の坂を登りきった所に境内がある。

大悲閣の寺院名称である千光寺とは、元々嵯峨中院の嵯峨釈迦堂清涼寺近く
にあった千光寺の名跡を、角倉了以が今の位置に移して創建したものだ。

暴風雨で倒壊した本堂の代わりを務める客殿(月見台)。
ここに木造作りの了以像が安置され、今も保津川下りの船の通航を見守っている。

この像は国宝級の価値があるもので、海外の美術展や博覧会にも展示されている。
眼光鋭く口を強く閉じ、片膝を立て手には開削で使ったツルハシが握られている。
この荒瀬の開削に賭けた了以の意志の強さを表している像だ。

客殿の天井と鴨居の間には「了以翁300年忌」の時の様子が絵になって飾ってある。
僧侶と神主が共同で法要を執り行ったのか両者が先頭に立ち、
身内や関係者、一般参列者の長い行列が続いているのがわかる。

参列者は大堰川を船で上がり、大悲閣まで行った様子が描かれている。
倒壊前の本堂が建っているのがわかる。この立派な絵画を見てると
約100年前の了以の法要がとても盛大に執り行われたことが窺える。
今、大悲閣を思うとなんとも寂しい限りだ。

殿内にはまだまだ貴重な品物が見受けられる。
その一つ角倉一族を日本国有数の豪商にした「角倉朱印船」の絵画だ。
角倉朱印船は当時の貿易商朱印船の中でも、最多17回の渡航回数を誇る。
主に安南国(ベトナム)との貿易をすすめ、金銀や絹織物や屏風、
陶芸、漆器などの物資を運んだ。
朱印船貿易は難破や海賊の被害なども多くリスクの大きい事業だったが、
1回の渡航で今にして8~10億円もの巨利を得ることができたので
リスクに見合った魅力的なビッグビジネスだったのだ。
了以はこの朱印船で得た巨利を資本基盤にして保津川や高瀬川などの
河川開削事業を手がけるようになったといわれる。
鎖国制度がひかれるまでの朱印船貿易の隆盛は京都の伝統工芸品の発展に
大きく影響を与えたといわれる。了以の子・素案はのちに徳川家光の
命を受け清水寺の復建事業にも着手している。この功績を讃える
「角倉朱印船」の大きな絵馬が今も清水寺に奉納されている。

そして!この「葵の御紋」が付いた位牌いったい??
ええぃ~控えおろう~この紋所が目に入らぬか!

「東照大権現!」そうこの位牌こそ初代将軍・徳川家康公の位牌なるぞ!
皆の者、家康公の位牌の御前である、頭が高い!控えおろう~
となったかどうかは知らないが、徳川家康公の位牌がこの大悲閣にある
ことはあまり知られていない!

これだけでも当時、了以がどれだけ家康に近い人物であったかを窺わせる品物だ!
了以が天下の徳川幕府を支えた影のスポンサーであったことは想像に難くない。

晩年、了以はこの大悲閣に隠居し、保津川開削で犠牲になった無名の人達と
天下人・徳川家康の菩提を一緒に弔いながらその生涯を終えたことは
実利主義の冷たい実業家ではなかった!という了以の人となりを表している
様な気がしてならない。

京都市内を見下ろし俗世間から解き放たれた空間が広がる大悲閣。

日本有数の大金持ちになった成功者角倉了以。
その晩年、この大悲閣で俗世の欲から解き放たれた了以の心には
一体なにがどの様な思いが去来していたのであろうか?