創作日記&作品集

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空弥(くうや)

2008-07-27 11:29:49 | 創作日記
 奈良県○○郡××村にある△△寺は開創以来千三百有余年の由緒ある寺である。山の奥にあり、訪れる人は希だ。県道から、急な山道を1Km程上がる。道幅は狭く、観光バスは入れない。車の行き違えにも難儀する。慣れない者はよく車輪を落とすが村人は難なく上がって行く。普段はすれ違う車は希だ。春は山つつじが美しい。△△つつじと呼ばれる。△△寺の本尊は重要文化財である薬師如来である。秘仏であり、一般の人は見ることは出来ない。本堂、大師堂、木造天部形立像(てんぶぎょうりゅうぞう)も重要文化財である。寺には住職夫婦と次男の空弥が住んでいる。長男は京都にいる。大学生である。親の代は家も人も多かった。今は老人ばかりの過疎の村になった。檀家も減った。住職は跡継ぎのことを言ったことがない。長男は宗教に無関心で京都の大学で法律家を目指している。それはそれでよいと住職は思う。只、次男に空弥と名づけたのは、少しはその期待があったからだ。平安中期の僧である空也上人。畏れ多いので也は弥にした。般若心経を幼い兄弟に教えた。兄は直ぐに覚えたが、空弥は覚えなかった。兄より幼いせいだろうと思っていたが、空弥は今も覚えていない。成績もよくない。一日中ぼんやりとしていることが多い。住職は空弥の高校進学を止めさせて、寺で使おうかと思った。妻は猛反対だった。寺の住職はあなたで終わる。この寺には誰も住まなくなる。
「本尊はどうする」
「国の重要文化財ですから、国が考えるでしょう。私は今でもこんな不便なところは嫌ですよ。空弥は町の高校に入れて私もついて行きます」
 その日はそれで終わったが一週間程して妻は具体的な案を持ってきた。空弥は農業高校に入れる。そこしか無理らしい。一家でU町に引っ越す。適当な空き家がある。家賃は心付けで良い。あなたはそこからバスで寺に通う。
「健康のためにもバスの方が良いわよ」
「サラリーマンのように寺に通うのか」
 庭を眺めながら、住職は独り言のように言った。下宿を探している中学の先生がいて、夜は大丈夫。
「何の先生」
「体育」
「如来様は秘仏」
「大丈夫よ。興味がないみたい。それに空手三段。却って安心よ。お昼はお弁当をつくるわ。それにパートにも出たいし」
「パート」
「家の経済をあなたは知らないのよ。京都のお金だって、大変なのよ」
 考えておくと言って、本堂へ行った。如来様はいつものように静かに佇んでいらっしゃる。合掌して頭を下げ、座った。背中に気配を感じて振り向くと、空弥がいた。いつ入ってきたのだろう。気づかなかった。
「何か用か」
「はい」
 近くに来て、薬師如来に合掌して頭を下げた。住職が言葉を促すと、
「仏様はいらっしゃるのですか」
と、言った。
「彼岸は在るのですか」
 空弥の目は澄んでいる。そして、一途な光が宿っていた。住職は簡単に答えられないと思った。
「お父様は仏様を見たことがあるのですか」
「空弥」
 と、住職は静かに呼びかけた。
「はい」
 と、空弥は応えた。
「四国八十八カ所を巡ってみるか」
 と、言った。住職は一度巡った。彼は仏様に会わなかった。だが、空弥は会うかも知れない。如来様のお顔を見る時、なぜか懐かしい気がしていた。空弥の顔に如来様の面影を感じた。静かに沈黙の世界を見ておられる。それが死の世界。彼岸の世界だろう。生きている限り見ることの出来ない世界だろう。だが、会うことは出来るかも知れない。一瞬の風のように。
 一番札所までの旅費を持って空弥は出て行った。遍路装束に金剛杖、菅笠の出で立ちだった。

 町での新しい生活にも慣れた。今年も、山つつじが美しく咲いた。朝のお勤めを済ませ、山を巡った。一月経ったが、空弥からの便りはなかった。その夜は、先生が学校の宿直で、住職は久しぶりに寺に泊まった。いつもは日が暮れるまでに山を下りるので、ふと、夜の山つつじが見たいと思った。納戸から提灯を取り出し出かけた。満開のつつじの中を歩いた。いつの間にか知らない道を歩いていた。提灯の明かりが必要ないほどあたりは明るかった。空弥の背中が一瞬見えた。
「空弥!」
 と、呼んだ時、我に返った。見上げると、如来様のお顔があった。

 蝉が鳴き始めた頃、空弥は帰ってきた。頬が痩けて、菅笠、遍路装束はぼろぼろだった。住職は何も聞かなかった。空弥も何も言わなかった。