創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

石原慎太郎×斎藤環 「死」と睨み合って  2016年文学界10月号

2016-10-20 15:35:42 | 読書
石原さんは「水」を見ると心が落ち着くという。
1962年堀江謙一さんはヨットによる太平洋単独横断を成功させた。
周りが全て「水」の中で彼が感じたのは深い孤独ではなかったか?
死への恐れはなかった。
いや、「水」そのものが「死」ではなかったか?
自分が「在る」ことは「無い」と等しい。
「心が落ち着く」というのは一種の「死」との同化のように思えて仕方がない。

失われた言葉の断片 1

2016-10-20 08:41:42 | 創作日記
昔書いた小説を推敲しながら連載します。

失われた言葉の断片
 
 僕はずっと何かを思い出しかけていた。捉えがたい韻律、失われた言葉の断片。(中略)。思い出しかけていた物は意味のつてを失い、そのままどこかに消えてしまった。永遠に。 
 「グレート・ギャッビー」スコット・フィッツジェラルド・村上春樹訳
 
 1
 
 会社は朝の九時から始まる。八時四十五分に会社に入る。門の守衛室の前を通り、ビルの入り口でカードを通す。女子ロッカーで制服に着替える。いくつかの部屋を通って、商品開発部2に入る。「おはようございます」が飛び交う。席についてコンピューターの端末に電源を入れる。「カチリ」。小さく端末に「おはよう」と言う。端末が立ち上がるまでに、机の上を濡れティシュで拭く。終わるとティシュはゴミ箱に捨てる。IDとパスワードの入力画面になっている。素早く入力する。朝一番の決まり切った手順。
 商品開発部2は辞書課と関数電卓課に分かれている。部屋の区切りはない。机が固まっているだけだ。それぞれの課に主任がいる。関数電卓課にはS主任。辞書課にはお局(つぼね)。ただ一人の女性の主任だ。商品開発部1にも二人の主任がいる。四人の主任の上に部長がいる。たった一人の管理職だ。
 商品開発部2の仕事はバグ取り。すなわち、プログラムのチェックだ。プログラムそのものをチェックするのではない。そんな技能も私達にはない。関数電卓課はマニュアルに従って、関数電卓に実際の数式を入力し、答合わせをする。不正解を見つけたら、商品開発部1で修正する。辞書課の仕事は知らない。ただ、分厚い辞書を引いたりしている。以外とアナログなのだ。
 商品開発部1も2も社員は数名だ。商品開発部1のプログラマーも商品開発部2の私達(プログラミングは出来ない)もほとんどが派遣社員だ。
 私は関数電卓科に五年いる。古株だ。人の出入りが激しい。ほとんど二、三年で辞めていく。仕事を覚えるには時間がかかるから派遣先が変わる人は希だ。ここの会社でしか通用しない仕事だ。だからいくら仕事が出来ても、会社を変われない。一番古いのは山下さん。子供が二人いると聞いた。
 私は誰ともプライベートでは付き合わない。まあ、仕事場以外でも友達はいないけれど。仕事の愚痴。誰と誰とがつきあっているとか。人事の噂。芸能ゴシップ。ニュース。つまらない事ばかりだ。ニュースはNHKの夜の九時でまとめてみる。新聞はとっていない。安倍晋三内閣発足。私には関係がない。只、あの高い声が嫌いだ。孤独な管理職、部長とよく似ている。激すると、トーンが高くなる。声がうわずってくると、「ああ、こらあかんわ」だ。誰も引き時だと知っている。理由をつけて逃げ出す。
 処女も何年か前に、ゆきずりの男にあげてしまった。邪魔だったから。何にも感じなかった。避妊には細心の注意をした。ゆきずりの子供なんてしゃれにもならない。動物的な行為に、愛とか恋とか言うのが嫌だった。身体の上を男が過ぎ去っていった。ああ、こんなものかと思った。一種の儀式だった。男とは二度と会わない。顔も忘れた。
 仕事は嫌いでも好きでもない。一人でやることが多い仕事だから、私に向いていると思う。「やり甲斐」の面から見れば全くない。スパッと真空だ。時間を切り売りしている。昇級も出世も無縁だ。五年間で時給が五円上がった。不安定な仕事だ。明日から来なくてもいいよと言われれば、明日から失業する。京大出の人もいる。いや、いた。
 一つ仕事をあげれば一つ関数電卓が世の中に出る。誰が使っているのか全く分からない。それでもバグは出る。最悪、回収。それが重なれば首が飛ぶ。幸い私は頭がよいからそんな事態にはならない。本当かと自分で突っ込みを入れる。つまらない仕事でも食べるために働かなければならない。資格も才能もない私に仕事があることを感謝しなければならない。自分の結婚なんて他人事みたいだ。だけど、結婚はすごいことだと思う。特に子供ができるということがすごい。死は不思議ではないけれど、誕生は不思議だ。父母が寝て、私が生まれた。どこからが私なのだろう。元を辿れば精子と卵子だ。私は私の卵子をせっせと一月(ひとつき)に一回流している。男はいらないが子供は欲しいと言っていた社員がいたけど、分かる気がする。でも、今の私はどちらもいらない。

 Kさんと挨拶する。
「おはよう」
「おはよう。村瀬さん、三丁目の夕日見た」
「見てへん」
「絶対見た方がええ。ほんま泣いた」
「そう」と私。
 Kさんは社員さんだ。身長は百六十㎝ぐらい。私よりも低い。だけど部分、部分は大きい。頭も、手も、多分足も。体重は七十㎏はあると思う。身体が規格外なのだ。液晶生産工場の見学に行った時、どの手袋も入らなかったらしい。だから、硝子越しに外から見学した。宇宙服みたいな服を着て、外から見ていたって。宇宙遊泳でもやりそうだった。外からなら、普段着で見られたのにと、S主任が笑っていた。
 黒い縁の眼鏡をかけている。
 私はKさんの二年先輩だ。入社してきた頃、Kさんは社内いじめにあった。鈍くさいと男子社員は言い、女の派遣は体臭がすると言った。体臭を言ってきたのが口臭のきつい女だったので笑ってしまった。私には、鈍くさいと言うより、一つ一つを確実に重ねていく人のように思えた。気転とかは後についてくるタイプなのだ。その印象は当たっていた。
 四人の主任と部長が集まって一週間に一回会議を開く。残業はつかない。私達は「馬鹿ちょん」と呼んでいた。
「馬鹿ちょんでKさんの体臭が問題になったんやて」
 広報係が言ってきた。体臭を議題にする会議なんてなんだろう。残業がつかないのは当然だ。
「部長がS主任にKさんに話せと命令したんやて」
 部長の切り札は問答無用の命令だ。団塊はこれだから嫌われる。
 S主任は気の小さい人だし、部長は嫌なことを彼に押しつける。私は部長が嫌いだ。部長を好きなのは、お局(つぼね)だけだ。最年長の女性社員で、美人だ。部長のスパイでもある。彼女にはスパイだという意識がない。キャリアウーマンという意識しかない。アホな女が頭の切れるOLを演じているのだ。
 課の全員が部長を嫌っている。だが管理職がこの部署では彼一人というのも現実だ。特に派遣は彼の意向でやめさせられることもある。でも、ゴマをする派遣はいない。ゴマをすれば社員や、派遣から自分がはじき出される。そちらの方が辛い。
 S主任は、いつもの歯切れの悪い話し方で、「言いにくいことやけど、君のためでもあるし、裏でこそこそ言われるのも嫌やろ」と、長い沈黙の後、話し始める。
 Kさんは背の高いS主任の前に、上品に手を膝の上に置いてぽっんと腰掛けていたのだろう。
 次の日から、ロッカーで上半身裸になって、身体を拭き始めたという。当然私は見たことがないけれど。酒を飲むと、財布からなにから持っているものを手当たり次第なくしてしまうらしい。通勤のために買った高額な自転車も、鍵を失ってしまった。そんなことは仕事がうまくいくようになってから聞かないから、多分いじめが原因だったのだろう。私の知っているKさんは静かに、ニコニコしながらお酒を飲む人だ。
 Kさんは喜怒哀楽を表に出すことがほとんどない。でも無表情ではない。人と話す時はニコニコしている。あわてる時はあわてる。それ以外はボーとしている。とにかく寡黙な人だ。
 Kさんは多趣味だ。映画鑑賞。スーパー銭湯。うんちく。
「近鉄の南大阪線と他の近鉄線は線路の幅が違うんですよ。なぜなら、最初の目的が関西本線と提携して……。だから他の線に乗り入れが出来ない」
 なるほどと感心する。阿倍野橋から出る電車は吉野駅で行き止まりだ。大阪線や京都線から来る電車は八木駅や橿原神宮駅で乗り換える。「それがどうしたん」と突っ込みを入れない。「へぇ、ほんま」と感心する。Kさんの笑顔がとびっきりだからだ。
 中でも一番の趣味は野球観戦だ。甲子園のチケットを何枚も私に見せた。ちょっと得意げでもあった。甲子園に女の同僚と一緒に行くこともある。
 一人で福岡ドームに出かけたり、神宮球場に行くこともあるそうだ。
 今ではKさんは誰にでも好かれている。悪口を言う人はいない。

 今年の四月、芦屋川の堤防で偶然Kさんを見かけた。ふとその気になって、満開の桜を見に来たのだ。西宮の夙川は混むから、こちらに来た。桜が好きだ。この時期は出来るだけ沢山の桜を見て歩く。桜宮、大阪城、神戸、京都。同じ場所は行かない。桜の期間は短い。あっという間に過ぎる。
 その日も、ゆっくりと桜を見上げながら歩いた。もう少しすると散るだろう。だから、次の休みには桜はない。満開の桜が好きな私には、今年、最後の桜だった。
 Kさんは五、六人の男の人と河原でバーベキューを囲んでいた。私の知っている人は誰もいない。その人達は野卑な感じがした。笑い方も嫌だった。酔い方も下品だ。Kさんだけが上品で浮いているような気がした。いつものようにニコニコ笑っている。大声で「六甲おろし」を歌っている。Kさんは歌わない。野球観戦仲間なのだろう。なぜか、見てはいけないものを見てしまった気がした。声もかけずにそっとその場を離れた。しばらく肉のにおいが体から離れなかった。
 この日のことは誰にも言わなかった。Kさんにも言わなかった。忘れようと思った。だが、いつまでも心の隅に残っている小さな棘のように忘れることはなかった。
 Kさんは大勢の人に囲まれながら、親しそうに肩を叩かれながら、散っていく桜みたいにとても孤独なように思えた。
To be continued