創作日記&作品集

作品集は左のブックマークから入って下さい。日記には小説、俳句、映画、舞台、読書、など…。そして、枕草子。

日本語のために 日本文学全集 30池澤夏樹=個人編集

2016-10-23 10:22:17 | 読書
かなり手強い本を買ってしまった。
帯びに「祝詞、アイヌ語、琉歌、憲法など「日本語」の多様性を明示した画期的なアンソロジー」とある。
「日本語のために」という言葉も意味深である。
私は本を二種類に分けている。手元に置いておきたい本と、読めば用が済む本である。
この本は、前者であると思った。
アマゾンに頼むとすぐに来た。
開けて見て少し後悔した。
だけど、知らないことが一杯詰まっていそうだ。
それにひと月で2刷発行している。
「日本語」についての関心が高い証拠だ。
ふと、気になった。「日本語」の読みは「にほんご」それとも「にっぽんご」。そもそも「にほん」か「にっぽん」か。
どちらも正しいというのがいかにも日本語らしい。

失われた言葉の断片 4

2016-10-23 09:16:00 | 創作日記
連載小説 失われた言葉の断片 4 

 ロッカー・ルームは異様な雰囲気だった。泣いている子もいる。阪神ファンで、仕事が終わると、応援グッズに身を固め、球場に直行するような子だった。Kさんと気があった。一緒に行ったこともあった。Kさんは通勤服のまま、静かに応援していたという。その子を慰めているのは一番古株の山下さんだ。他の人は黙々と着替えていた。後から入ってきた人は異様な雰囲気に声を潜める。
「どないしたん? Kさんが見つかったん?」
 聞かれた子が首を振る。
「見つかったけど、死んではった」
「うそ」
「自殺やて」

 机の前に腰掛け。いつものようにコンピューターのスィッチを押した。肩に人の手を感じた。振り向くとお局の顔があった。
「昨日はごめんね。せや、もう、今日やってん」
 お局の目尻に涙が一筋流れた。きれいな涙だった。結局私は泣かなかった。社員と派遣の間にはこんな差異もあるのだろうか。泣けなかった自分が悲しかった。

 部長から事の経緯が説明された。昨日はS主任とお局に任せきりだった。プライドの高い男だ。そんな仕事は自分がするものではないと思っている。でも、最後の仕切は自分がする。
「九州大分県大分市Kキャンプ場でK君が自殺しました。昨日の午後八時頃です。首つり自殺です。自殺サイトで知り合った男が自殺幇助罪で逮捕されました。過去に同じ事をしています。二度目だそうです。その男の通報で分かりました。ご遺体は大分市で荼毘にふされ、広島の実家で密葬するとのことです。その前に大分大学で司法解剖されます」
 事実を並べれば、こういう事なのだ。一昨日、「これサーティワンで買(こ)うてきてん」と言った人が解剖。口の中にアイスクリームの味がよみがえってきた。全員が悲痛な思いで聞いた。重苦しい空気に部屋が包まれた。
「誰かお葬式に」
 お局が言った。
「密葬だと言っているでしょ」
 部長の声が高くなった。
「でも」
「かえって迷惑ですよ。日時も聞いていないんですよ」
「広島まで旅費も大変ですが」
「お金の問題ちゃう」
 けちな男がついに切れた。

 十月四日(水)
 夜。ネット検索をした。検索を繰り返していると、ヒットした。全国紙の地方欄に載っていた。自殺幇助がニュースなのだろう。集団自殺も自殺サイトもニュースにはならないありふれた出来事になったのだろう。このニュースも全国版では載らなかった。事実だけを伝える素っ気ない文章だった。

 三日、大分市、無職、有賀満容疑者(四十四)を自殺ほう助容疑で逮捕。十月二日午後五時ごろ、インターネットの自殺サイトで知り合った大阪市内の男性会社員(三十)が自殺するのを知った上で、ひも様のものを渡し、大分市KのK山キャンプ場で自殺させた疑い。有賀容疑者はキャンプ場まで行ったが自殺を思いとどまった。(大分東署調べ)
      M新聞 二〇〇六年十月四日

 Kさんの自殺から二週間余が過ぎた。職場は落ち着きを取り戻した。というより、表面上、Kさんはきれいさっぱり忘れ去られた。 Kさんの机、ロッカーは父親と妹が整理した。父親は噂通りに快活だった。製薬会社のMR(医薬情報担当者)だから、職業柄からだろうか。でも、一番大声で喋っているのは不自然だった。大きな会社だとか、すごいコンピューターの数だとか、北朝鮮の核実験だとかいわば雑談だった。離れている私の席からもよく聞こえた。紙袋に必要な物を入れた。いらない物の方がはるかに多かった。
「いらない物はこちらで処分しますから。なあ、S君」
 部長が言った。S主任は返事をしなかった。小さな抵抗。父親は恐縮し、皆さんにと言って、もみじ饅頭を一箱置いていった。賞味期限の前日にお局が掃除のおばさんにあげた。
 Kさんの机には花が飾られたが、それも枯れ、昨日誰かが捨てた。今日、M君がKさんのコンピューターのキーボードをたたいていた。
 最後まで残っていたロッカーの名札を外したのはお局だった。Kさんのことをかけらも知らない派遣が一人やって来た。
 かくして社員が一人減り、派遣が一人増えた。

 空はすっかり秋らしくなった。昼は屋上で、一人でパンを食べた。ここから、エイと飛び降りたら死ねるのだ。入ってくる電車にエイと飛び込んでも死ねる。死ぬ場所はいたる所にあるのだ。私は時々落ちる夢を見る。落ちる危険のある場所にいる。不安定な場所にいる。落ちたら大変だと思っている。結果、きまって落ちる。落ちていく。その時目を覚ます。夢でよかったと思う。だけど、落ちる私はとても気持ちがよい。すーっと何もかもがなくなる。私が存在しているために私と一緒に存在していたものがみんななくなる。会社も通勤電車も、アパートも、奈良の家も、奈良の家で飼っている猫のミミも。みんななくなる。
 また、Kさんのことを思い出した。出来事ではない。彼がいた空間というか、彼が占めていた場所というか。それはパソコンであったり、甲子園の一塁側であったり、休憩室であったり、椅子であったり、芦屋川のバーベキューであったりした。どこにもKさんは永遠に失われている。モノクロのテレビを見るようだった。
「なぜあなたは死んだのですか」
 さまざまな場所にそっと問いかけてみた。楽しいことがいっぱいあるように見えても、実際は何もなかったのかも知れない。反対かも知れない。楽しいことの究極に死があったのかもしれない。秋の空をぼーと眺めながら思った。
 たくさんの憶測が飛んだが、苦悩を自殺の原因とするものが殆どだった。「うつ病」という憶測もあった。変人。「変わっていたからなあ」。自殺幇助の男を糾弾する同僚もいた。Kさんはふらふらとついて行ったのだ。あれは殺人だ。どれもがもっともらしいが、やはり推測にすぎないと思う。
 社員の精神衛生についての通達も回ってきた。「悩み相談室」が出来るらしい。専門のカウンセラーが一人常駐するという。そこでの秘密は守られる。



「Kさんに借りていたCDがあるのです」
 昼休みに用意しておいた嘘をS主任に言った。S主任は意味が分からないというような顔をした。この人は本当にタレントのそのまんま東によく似ている。そのまんまだ。クスリと笑った。
「何がおかしいねん」
「いいや、べつに」
 手を顔の前で振った。
「CDを妹さんに返そうと思うので」
「ああ、そういうこと。ちょっと待ってね。あった、あった。これが妹さんの名刺」
「コピーしてもええですか」
「個人情報に気いつけてな」
 気の小さい主任はつけ加えた。

 妹の名前は「久実(くみ)」。会社は梅田にあった。四時に早引きをした。時給だから遠慮しない。地下鉄で梅田に出かけた。この時間なら座れた。時差出勤、そんな言葉もあった。群れて通勤することもないのに。
 会社は直ぐに分かった。でかいビルだ。何をしている会社だろう。アポなしで入った。
「Kさんに面会したいのですが。S社の」
「庶務のKでございますね。S社の方」
 さすが世界のS社。名前も言わないのに取り次いでくれた。単なるアホな受付かも知れない。化粧の濃い女だ。つけまつげがめっちゃ長い。目を閉じるごとにパタパタと音をたてそうだ。まつげが電話をかける。
「直ぐに降りてくるとのことでございます。あちらでお待ち下さい」
 長椅子を手で示した。拍子抜けするほど簡単だった。十分ほど待つと声をかけられた。彼女は私服に着替えていた。
「お待たせしました」
 颯爽としている。ピンクのスーツもよく似合っていた。化粧気は殆どない。素敵だと思った。
「外に出ましょう。ちょっと飲みたいなあ」
 何年来の友達のように彼女は言った。並ぶと私より少し背が高かった。スタイルがとても良い。
 二人は黙って歩いた。
「私の行きつけのところでいいですか?」
「ええ」
 私は頷いた。

 梅田のショットバーに入った。
 店内に静かなジャズが流れていた。扉を開くと、三階まで吹抜けとなった開放的な空間が現れた。
「簡単な食事も出来るのよ」
 席に着くと、彼女が言った。
「パスタが美味しいの。村瀬玲さん」
「どうして私の名前を知っているの」
「直感。それとS社の方って聞いて、兄が消さなかったメールの人だと思った。それ以外考えられなかった。あなたのメール以外を消した後も、メールや電話が入ったけれど、お兄ちゃんには何にも出来なかった。死んでいたんだもん」
 ボーイが注文を取りに来た。メニューを私に渡そうとする彼女に言った。
「お任せするわ」
「それじゃカニのパスタ。カニは大丈夫?」
「大丈夫というより好物」
「お酒も大丈夫というより好物?」
「そのとおり」
 顔を合わせて笑った。一番安いシングルモルトウイスキーを選んだ、それでも七百円。昼食二日分。彼女も同じのと言った。
「ストレートで」
「かしこまりました」
 ボーイは慇懃な礼をした。私は少し疲れる場所だと思った。
「お仕事は忙しそうですね」
 久実は言った。
「適当にやってます。派遣だから、いつでも辞められる。すると私と同じのが送られてくる」
「そうね。私も派遣よ。いいかしら」
 私が頷くと、彼女は煙草に火をつけた。
「母は会社に迷惑をかけたのじゃないかと心配しています。私は聞かなくても分かりますが」
「それは大丈夫です。仕事は確かで、ミスがなかった。信頼されてました」
「ありがとう。母に伝えます。社員の代わりもいますよね」
「誰にでも代わりはあります。でも自分にかわりはありません」
「そうね」
 彼女は言った。
「Kさんはみんなに好かれていたから、悪く言う人はいません」
 私の言葉に彼女は無反応だった。そんなことは分かっていますという風に。ウイスキーが運ばれてきた。氷を入れて溶けるのを待った。氷の山が崩れる。軽くグラスを振るとカラン、カランと気持ちの良い音を立てた。ここは別世界だと思った。
「私と兄が兄妹だと言ったら、みんなびっくりする。でもこのあたり似てるんですよ」
 髪の毛を掻き上げて額を出した。
「ね、ね」
 私は笑いながら、ウィスキーを飲んだ。普段シングルモルトなんて飲めない。だから、出来るだけゆっくり飲んだ。
「父の仕事関係で、随分いろんなところで住んだ。北海道から、沖縄まで。兄は随分いじめられたわ。あんな感じだから、いじめやすいのね。特に中学はひどかった」
 私は子供の頃のKさんを想像する。
「母も知らない土地で淋しかったんだと思う。その頃母はブランドに凝っていた。子供達はつぎはぎの服を着ていてもね」
 久実は私より速いピッチで飲んだ。飲み干すと、タイミング良くボーイが現れる。
「同じの」
「かしこまりました」
「あなたちっとも酔わないね」
「酔ったことがない」
「お酒がかわいそう」
 ちょっと首をかしげた。もてるだろうなあ、いや、案外もてないかも知れない。男にとって少し怖いと、思う。
「父はひどいことを言ってた。二人の顔が入れ替わっていたら大変だったなんて。兄は、そうや、そら大変やって。アホや。私の顔を心配してやんの」
 少しろれつが回らない。それがとても可愛い。彼女はグラスを回した。ウイスキーの琥珀色がグラスに美しく流れた。
「私と兄はいつも一緒だった。遊ぶのも喧嘩するのもいつも兄とだった。短期間しかいない土地では友達はできなかった。「新しいお友達です」と、担任の先生に紹介されて、転校するときは、空席が一つ増えるだけだった。きっと私がいなくなったのを誰も気づかなかったと思う。兄は私がいじめられた時、本当に怒った。あんなに怒った兄を見たのはそれが最初で最後だった。私は兄を嫌だと思ったことが一回もない。本当よ。大阪に来てから一度も会わなかったけれど、いつも私の中にいた」
 久実は窓の外に目をやった。夜景の中に彼女の横顔が浮かんでいた。
「兄が死んだ時、私の体の半分がなくなったような気がした」
 彼女が、小さく言った。
「私はお兄ちゃんのことなら何でも知っている。一人でしていたのも知っている。ぶっというんこをして流し忘れたのも知っている」
 窓の中の自分に語りかけるように言った。そして、笑った。とてもチャーミングな、しかし、今まで出会ったことのない淋しい笑みだった。
「私は時々私って何(なん)だろうと考えることがあるの。村瀬さんはない? 私が生きているのはとても不思議。私はアメーバーみたい」
 少し考えて、「あるよ」と小さくこたえた。屋上で考えていた。私って何(なん)だろう。ほかのところでも考えたことがある。それは私を不安にさせた。他人のことのようにわかっているようでわからない説明できないものを含んでいる。私が生きているということはとても不思議なことなんだ。アメーバーみたいに。ただ日常の雑事にまぎれると跡形もなく消えてしまう。久実の唐突な言葉はしっかりと私に届いた。
 
 ピアノの演奏が始まった。小さな音を紡ぎ出し、少しずつ、少しずつ大きくなった。軽やかなメロディーになり、音は高く、早くなった。ピアノ演奏を見ていた視線を戻すと、久実は眠っていた。あどけない顔が悲しい旅のささやかな休息のようだった。私はボーイに視線で合図をした。

「ごちそうさま。でも、もう会わないね私たち」
 彼女が言った。私は頷いた。
「ありがとう」
 私は言った。
「ありがとう。さようなら」
 久実は足もとをふらつかせながら、後ろ向きに大きく手を振りネオンの中に消えていった。
To be continued