○近代数学と情緒
岡 仏教に光明主義というのがありますが、それは中心に如来があって自分があるというのがはじまりで、、私はそれが本当だろうと思っています。しかし全知全能なものは無知無能な者に、知においても意においても関心を持たない。情において関心を持っているのです。情が納得して、なるほどそうだとその人自身が動き出さなければ、前頭葉も働かない。
昔習った数学を思い出しました。でもこの整然とした解説は見事です。昔、このような授業を受けていれば数学に興味を持ったかもしれません。学問として数学も、数学者の感情の満足があった。感情という情が満足しなければ数学は成り立たないということでしょう。だからコンピューターに数学はできないと思います。高校で公文という先生に数学を習ったことがあります。小学生に微積分を教えていると言ってました。数学が解答を得る手段かもしれませんが、今も疑問に思います。公文先生は後に公文式を始める創始者です。
岡 仏教に光明主義というのがありますが、それは中心に如来があって自分があるというのがはじまりで、、私はそれが本当だろうと思っています。しかし全知全能なものは無知無能な者に、知においても意においても関心を持たない。情において関心を持っているのです。情が納得して、なるほどそうだとその人自身が動き出さなければ、前頭葉も働かない。
昔習った数学を思い出しました。でもこの整然とした解説は見事です。昔、このような授業を受けていれば数学に興味を持ったかもしれません。学問として数学も、数学者の感情の満足があった。感情という情が満足しなければ数学は成り立たないということでしょう。だからコンピューターに数学はできないと思います。高校で公文という先生に数学を習ったことがあります。小学生に微積分を教えていると言ってました。数学が解答を得る手段かもしれませんが、今も疑問に思います。公文先生は後に公文式を始める創始者です。
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