創作日記&作品集

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連載小説「もう一つの風景(21)」

2016-03-02 08:57:01 | 創作日記
もう一つの風景

21

 調理師が二人休んだ。朝から目の回るような忙しさだった。やっとのことで四時半のいつもの時間に配膳車につみこむことが出来た。 ほっと一息ついて上っ張りを取ろうとしたとき、
「今日、誰か二人残ってくれへんか?」
と、調理師が言った。
「職員の洗いが残ってるんや」
 誰もがそれを知っていた。言い出せばやらされると、そしらぬ顔をしていた。手当てもつかない残業を喜ぶものはいない。
「うちはあかんで、金にもならへん仕事、なんでせなあかんね」
 古参の女が言った。
「明日、先生に言うてみるがな」
「いつもそうや、あの女が残業つけてくれたことあるんかいな。まあ、つけてくれても、あのけちな院長が飯たきがなんの仕事の残業や言うたそうやさかい」
 女が文句を言っている間にもう一人の女の姿が消えている。結局、房子とUが残ってしまった。
 一時間程並んで仕事をしていると、Uが思い切ったように言い出した。
「かんにんや、子供が今朝から熱だしてるんや。悪いけど、ほんま悪いけど」
 房子に手を合わした。
「なんではよういわへんの。帰ったげ、うちがなんとかするよって。Uさん言いたいことがまんしてたらあかん。みんなあんたをええようにつこてんねんから」
「うちはあほやからしやないや」
「そんないうてたらあかん」
 房子は大きな声を出した。 
「とにかく、帰り。聞かれたら二人でやってた言うとく」
 Uが扉を締める音がして、房子の周囲が一変した。誰もいなくなった。しかし、人の気配が周りの全ての物に残っている。厨房の真ん中に位置する巨大なステンレスの台。そこで、四人の女が皿におかずを盛りつけた。鍋や釜を運んだワゴン。飯の碗、汁の碗、湯呑み。それらは同色の薄い緑のプラスチックで、重ねて横にされ、飯の碗や汁の碗の種類別に黄色い格子のプラスチックの箱に収められている。大小の碗の縁が蛇腹のように見える。調理した人間、盛り付けた人間、洗った人間、それぞれの息、それらの微かな気配までが生々しく残っている気がする。周りの物が動き始め、飯が盛られ、汁が湯気を立て始めてもなんの不思議もない。
 だが、現実には誰もいない。いや、あるのは気配であって、人ではない。それが房子には奇妙な違和感だ。明日がくる。いやでも、やってきて、人が動きだす。たった一日の出来事に重ねる事のできそうな時間が流れ出す。
 今日一日ここにいた。それは確かなことなのだが、今、こうして周りを眺めている自分とその事実の距離があやふやなものに感じられる。ひとコマひとコマの場所に自分の姿を投射しても、それは時間の影のようにそぐわない。いや、この場所が昼間の影、時間の影のようだ。人の気配をのみこみながら、実体とは無縁に存在している。俊徳道の居間、今朝通った歩道、電車のなか、それらの場所も今は、私の気配を残し、私の時間の影のように存在しているのだろうか。
 皿を洗う房子の手が流しのステンレスに薄い影を結び揺れ動いている。自分の動作を正確に映しながら、血の通わない別の房子がそこにいる。
 房子は急に不安になった。この場所が昼間の影ではなくて、私の方が影なのではないか? 私がいなくてもこの場所は生きている。
 突然大きな音がした。その音は房子の四肢から入り、身体の中を震えさせた。沈黙が突然声にならない声をあげたような気がした。業務用冷蔵庫のモーターの回る音だと気づくまで、少し間があった。自分は怖いのかもしれない。病院という非日常の場所に詰め込まれ、置き去りにされたような恐怖を感じているのかもしれない。今、息をひきとった人間も、誕生の瞬間の赤ん坊も、薬液を身体に流し込みベットに縛られている男や女も、痛みにのたうっている人間も、小さな一つの建物の中に共存している。そして、それはいくら近くに存在していても、気配でしかない。私がここでその人たちの汚した皿を洗っているように。To be continued 


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