ハードディスクの中をうろうろしていると「もう一つの風景」という小説に出会った。
140枚ほどの分量がある。何年前に書いた小説だろう。20年以上前だろう。ご丁寧に「未完」のフォルダーに入っている。
とても懐かしい。この小説は未完だが、後に書いた小説の源流になっている気がする。
いくつにも枝分かれして、いくつもの小説が出来た。それは私の人生とよく似ている。
そして、いつの間にか70才の老人になった。
人生もまた未完なものかも知れない。
最初の部分を紹介します。
もう一つの風景
季節の移ろいに年の流れが重なる。
早見庄造はぼんやりと店内を見ていた。まるでスーパーマーケットの一角を覗いている気がする。
中央の背の低いアルミの棚。壁を背にした網棚。コンクリートの通路。客は誰もいない。
三十年前の店の面影は何処にもない。あのころは店の奥の小さなカウンターに、安い酒を求めて常連が集まったものだ。
レジの机に両肘をおき、両手の甲に顎をのせ、目を細めると、彼らの愚痴や溜息や沈黙が蘇ってくる。
一升瓶を抱えてコップに盛り上がるまで酒をいれる。客は口で酒を迎えにいく。
少し啜り、コップを引きよせ、受皿に零れた酒を丁寧に戻す。
長居する客がいると妻の出番だ。
「えらいすんまへんなあ」そう言って煤けたはり紙を指差す。
そこには庄三の下手な字で、「立呑は10分以内でお願いしマス」とある。
人の気配に目を開けると、店の前に置いてある自動販売機にサラリーマン風の男が小銭を入れているのが見えた。
しゃがんで酒のカップを取り出す。馴れた手つきでアルミの蓋を外すと一気に流しこんだ。
昼間から彼のような男を見るのは稀ではない。
三十年前の人々と異質なのか、同質なのか庄三には分からない。
只、彼は、「毎度」の言葉もかけられない処にいる。
彼だけではない。庄三を取り巻く全ての人や物が、庄三から遠ざかって行くような気がする。
七十年間の歳月が掌の一握りの空気のように思える。季節が移ろうように自分は七十才の老人になった。
140枚ほどの分量がある。何年前に書いた小説だろう。20年以上前だろう。ご丁寧に「未完」のフォルダーに入っている。
とても懐かしい。この小説は未完だが、後に書いた小説の源流になっている気がする。
いくつにも枝分かれして、いくつもの小説が出来た。それは私の人生とよく似ている。
そして、いつの間にか70才の老人になった。
人生もまた未完なものかも知れない。
最初の部分を紹介します。
もう一つの風景
季節の移ろいに年の流れが重なる。
早見庄造はぼんやりと店内を見ていた。まるでスーパーマーケットの一角を覗いている気がする。
中央の背の低いアルミの棚。壁を背にした網棚。コンクリートの通路。客は誰もいない。
三十年前の店の面影は何処にもない。あのころは店の奥の小さなカウンターに、安い酒を求めて常連が集まったものだ。
レジの机に両肘をおき、両手の甲に顎をのせ、目を細めると、彼らの愚痴や溜息や沈黙が蘇ってくる。
一升瓶を抱えてコップに盛り上がるまで酒をいれる。客は口で酒を迎えにいく。
少し啜り、コップを引きよせ、受皿に零れた酒を丁寧に戻す。
長居する客がいると妻の出番だ。
「えらいすんまへんなあ」そう言って煤けたはり紙を指差す。
そこには庄三の下手な字で、「立呑は10分以内でお願いしマス」とある。
人の気配に目を開けると、店の前に置いてある自動販売機にサラリーマン風の男が小銭を入れているのが見えた。
しゃがんで酒のカップを取り出す。馴れた手つきでアルミの蓋を外すと一気に流しこんだ。
昼間から彼のような男を見るのは稀ではない。
三十年前の人々と異質なのか、同質なのか庄三には分からない。
只、彼は、「毎度」の言葉もかけられない処にいる。
彼だけではない。庄三を取り巻く全ての人や物が、庄三から遠ざかって行くような気がする。
七十年間の歳月が掌の一握りの空気のように思える。季節が移ろうように自分は七十才の老人になった。
感動しました。
共感できる箇所です。
庄造は父をイメージして書いています。
自分もその年になったのだという感慨があります。
千枝さんの文も俳句も読ませていただいてます。夫婦、親子の「思いやり」を感じます。
僕も病気になった時、妻を「観音菩薩」かなと言ってしまいました。妻はふうんと鼻で笑ってましたけれど。「思いやり」は苦しい時に強く感じるものかも知れません。それは何物にも代えられない幸せだと思います。
返信をありがとうございます。
今朝、俳句教室で退会届を拝読しました。
寂しくなります。
でも、このブログのアドレスを紹介してあったので助かります。
私も句作に悩むこの頃です。
語彙力の無さと生活範囲の狭さ(知識のなさ)に悩んでいます。